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ミニコミ『外山恒一BEST』(1999年7月)より
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前史 外山恒一はこうして革命家になった(1999年執筆)
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| 長い反抗期の始まり | |
| ほんとの自民党顛末記 | |
| 青生舎との出会い DPクラブ結成 | |
| 柏陵高校校長攻撃 初期DPクラブ活動例 | |
| 高校生新聞編集者関東会議 | |
| 高校生会議情宣ツアー 初めてのヒッチハイク | |
| 初めての山谷体験 | |
| フリースペースの開設 | |
| 第一回全国高校生会議 | |
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本編 |
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| 1989年 (19歳) |
DPクラブの分裂 |
| 「学校」は抑圧装置だ | |
| 何が死の校門を押させたか | |
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| 1990年 (20歳) |
「高校生らしい」集会 |
| 部落研運動の差別性に断固抗議する |
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| (関連文書 89年度高部連総会批判 90年度高部連総会批判) | |
| 「子どもの権利条約」の批准に反対する | |
| 子ども自身による反「管理教育」運動なるものは、ほとんどゲロゲロである | |
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| 1991年 (21歳) |
なぜDPクラブをやめるのか |
| 思想的いきづまりを打破するために | |
| ファック・ザ・「被差別部落民」 | |
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| 1992年 (22歳) |
ブルーハーツ・コンサート爆砕報告 |
| 朝生「教育」論議を斬る | |
| 革命的オレ様戦線、まさに結成 | |
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| 1993年 (23歳) |
なぜ学校をやめたのか |
| 革命って一体何だーい? | |
| 寺山修司展粉砕闘争 | |
| スターリン主義者はせめて厚化粧せよ! | |
| 公安調査局事件顛末記 | |
| ヒッチハイク・マニュアル | |
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| 1994年 (24歳) |
いじめられたらチャンス |
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| 1995年 (25歳) |
I CAN FLY |
| いいやアンタは「大人になれ派」だ | |
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| 一人戦後史(ここまでのおさらい) | |
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| 1996年 (26歳) |
「終わりなき日常」に未練なし |
| 社会が悪い | |
| 断片集 | |
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| 1997年 (27歳) |
テレクラ、じゃまーる、ミスターチルドレン |
| 戦後偏向教育を糺す!! | |
| ハードボイルド・フェミニズム | |
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| 1998年 (28歳) |
オフィスVADの秘密 |
| 世紀末のブルーハーツは未だ登場せず | |
| 私はこうして福岡県知事になった | |
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1999年以降の主な文章
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| 1999年 (29歳) |
ドラゴン・アッシュ論 |
| テント芝居がやってくる! | |
| 2000年 (30歳) |
『ぼくの高校退学宣言』を読んでみた |
| なぜ山の手緑をテロったのか | |
| 21世紀に残したくない曲 | |
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発掘!!
09.03.01のサイトリニューアル後に新たに発掘し、 収録する過去原稿はここに並べていきます。 |
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| 同時代人としての尾崎豊(吉岡忍『放熱の行方』書評) | 『VIEWS』1993年11月24日号 |
| ソウルフラワーユニオン・インタビュー | 『バンドやろうぜ』1994年たぶん2月号 |
| 西部邁氏との対談 | 『週刊SPA!』1993年3月3日号 |
| みんなビラを配れ! | 『シティロード・九州版』1994年4・5月号 |
| 仁義なき戦い・原子力戦争 | 1999年執筆 |
| 「傍観」することに慣れた、ぼくたちの世代 | 1991年執筆 進研ゼミのテキスト『高2小論文』に何年か続けて掲載 |