フリースペースの開設

 高校を中退した直後のぼくの活動は主に3つの軸を持っていた。1つ目はDPクラブの結成、2つ目が「会議」へのコミット、そして3つ目が、高校を中退するに至った自分の学校体験を手記にまとめることだった。
 まだ中退しないうちに、「まもなく中退するから」と企画書を書いていくつかの東京の大手出版社に送り、うち徳間書店から、やっぱりまだ中退しないうちにすぐ出版OKの返事が来た。それで、書き上げさえすればすぐ本になることになってはいたのだが、DPクラブの立ち上げやら「会議」をめぐるゴタゴタやらで執筆も途切れ途切れのノロノロペースになり、結果的には89年1月の刊行となった。これが単行本デビュー作『ぼくの高校退学宣言』である。
 印税を前借りして、刊行直前に福岡市南区に1DKの「DPクラブ事務所兼たまり場」を設けた。「事務所兼たまり場」では云いにくいので単に「フリースペース」と呼ぶことが多かった。「フリースペース」は固有名詞ではなく、80年代に全国各地の10代20代の社会運動でよく採用された活動形態の総称である。アパートや一軒家を借りて出入り自由とし、さまざまなムーブメントの拠点とする。そういう形態を総称して「フリースペース運動」と呼び、80年代半ばには全国いたるところに「フリースペース」が存在した。『ぼくの高校退学宣言』の巻末にはDPクラブの連絡先を入れたので、「反管理教育」の呼びかけに賛同する手紙がたくさん届く。ぼくらのフリースペースは、一挙に賑やかになり、毎号40ページほどの機関誌を、月1ペースで出し始めた。
 フリースペースを開設するとすぐに、30人ほどが入れかわり立ちかわり、常連的に出入りするようになった。現役の中高生が半分ぐらい、残り半分は浪人生、大学生、フリーター、社会人など雑多な顔ぶれだった。平均して毎日10人ぐらいが顔を出し、特に学校が終わった夕刻は賑やかだった。
 もっとも頻繁に顔を出していたのは高校を中退してまもなく知り合った自宅浪人のタクローで、浪人とはいえ予備校に通っているわけでもなく、要は一番ヒマだったのだ。ぼくも、出入りするメンバーの中ではタクローと一番ウマが合い、よくダベり合った。フリースペースには落書帳が常備してあり、ぼくが所用で外出して、一人で留守番などするハメになった時、タクローはよくそれに書きモノをして時間を潰していたが、イタズラ書きともグチともエッセイとも論文ともつかぬタクローの膨大な落書の数々は、ほとんど芸術作品の域にも達していて、いつか何らかの形で世に出したいと思っている。
 最初のうちこそ毎日実家から通っていたが、まもなくぼくはそこで生活するようになる。DPクラブは約2年後、91年春に解散するが、その後も96年春まで丸7年間アパートは維持され、ぼくの活動拠点として機能した。