高校生会議情宣ツアー 初めてのヒッチハイク

 東京で、89年春の高校生新聞編集者全国会議実行委員会のミーティングが始まっていた。年齢制限から、ぼくが参加できる最後の新聞編集者会議だった。ぼくは福岡にいたから、このミーティングには出席できなかったが、DPクラブに連絡をとってくる中高生をたくさん誘って、春の会議に参加しようと考えていた。
 ところが、どうも様子がおかしかった。
 実行委員会内で、モリノ派と反モリノ派の対立が顕在化しているのだった。反モリノ派が主流だったが、かつては一人で孤立していたモリノにも、この年の春と夏の会議で同調者が増えていた。ぼくも、どちらかと云えばモリノ派だった。
 主流の反モリノ派は、会議から政治色、反体制色を抜こうとしていた。会議を、各参加校が自分たちの新聞を持ちよって、互いの新聞制作技術の向上を目指すような場にしようと考えていた。これに対してモリノ派は、学校新聞を、抑圧的な環境におかれている高校生たちが起ち上がるために手にする武器のひとつにすぎないと考えていた。
 実行委員会は分裂した。
 ぼくは、モリノの云い分には賛成したが、分裂には反対だった。しかし、遠く福岡から東京の実行委員たちに何を云ってもムダだった。春の会議は、主流派とモリノ派とに分かれての分裂開催に決定した。
 東京ではモリノ派は、モリノの他にやはり高校中退者の橋本くんと、笘米地だけだった。全国に広げても、あとは沢村とぼくだけだ。
 主としてこの5人で、新しい「会議」を一から作り上げざるを得なくなった。5人の他に、両方の会議の実行委に名を連ねるという者も何人かあった。
 モリノ派の「会議」の名称は、「全国高校生会議」と決まり、ぼくもその実行委員となった。
 ぼくらは大急ぎでパンフを作った。新聞編集者会議が、それまでの通例どおり全国の高校新聞部宛にパンフを発送したのに対し、ぼくらは全国数千校の高校生徒会宛にパンフを送った。それに加えて、沢村の中学以来の全国的な市民運動とのコネクションが役に立った。反原発だの平和運動だのの活動家に片っ端から電話して、運動周辺の高校生を紹介してくれと頼んでまわった。ぼくの単行本デビュー作『ぼくの高校退学宣言』も1月には出版される予定だったから、その「あとがき」に高校生会議の紹介をして、会議開催の3月末までに連絡をとってきた中高生を勧誘することにした。
 パンフの制作・発送や、会場手配などの実務は、東京の実行委員に任せるしかなかった。
 12月に入って、沢村から提案があった。沢村の高校が冬休みに入ったらすぐ、二人で各地を旅して、じっさいに各地の高校生に会って参加者を募って回らないか、という話だった。ぼくは乗った。
 冬休みに入るとすぐ、沢村は福岡へ来た。それに合わせて、それまでにビラなどを見てぼくのところへ連絡をとってきていた人々を集めてDPクラブのミーティングをおこない、福岡の面々と沢村との顔合わせをした。
 それから二人で長崎へ行った。当時毎年のように新聞編集者会議に参加していた工業高校の新聞部員たちと会うためだった。
 最初はキセル――すなわちJRの不正乗車で各地を回る予定だった。しかしそれではあまりにもリスクが大きいということで、この長崎行きの時ヒッチハイクに挑戦した。
 どうすればいいのか分からず、とりあえずぼくの実家(当時まだぼくは親元で生活していた)に近い太宰府インター・チェンジへ行って、料金所で「長崎」と大書した紙を持って立ってみた。30分ほどボーッと突っ立っていると、運よく1台の乗用車が停まってくれた。長崎行きではなかったが、方向は合っていて、佐賀県の何とかというサービス・エリアまで乗せてくれた。
 そこで今度は、そのサービス・エリアでトイレやレストランから出てくる人に、長崎まで乗せてくれないかと手当たり次第に声をかけた。これがうまくいって、ぼくらはぼくら流のヒッチハイク術を確立した。
 行き先を書いた紙を持って道端に立つのではなく、最初から高速道路のサービス・エリア(もしくはパーキング・エリア)に行って、そこで休憩している運転手たちに、「さらに先のサービス・エリアまで乗せてください」と頼む。そうやって乗り継いで、目的地まで行けばよい。高速道路のない地域では、赤信号で停まっている車に声をかける。要は、走っている車を停めるのではなく、最初から停まっている車をねらうヒッチハイク法である。これが実にうまくいく。
 長崎から今度は北上した。
 山口の下関に、十数人で共同生活をしているという反原発の高校生グループがあるとの情報を沢村が入手し、長崎の次はそこを訪ねた。
 件の高校生グループは「ストップ・ザ・原発 ティーンエイジャー・ネットワーク」という名前だった。「十数人で共同生活」って、一体どういうことだろうとぼくは不思議に思っていたが、よくよく話を聞くと、彼らは60年代に結成された何やら怪しげな政治結社メンバーの二世たちで、沢村の方はそういう裏事情をもともと把握していたようだ。
 ちゃんと説明すると、「怪しげな政治結社」とは「日本共産党(左派)」のことである。60年代にソ連と中国の関係が激しく悪化し、日本共産党内部で、さてどちらについたものかという論争が始まった。大半はソ連側についたのだが、中国側につく党員もかなりいた。中国派は党を除名され、その一部は「日本共産党(左派)」を新たに結成した。とくに山口県では中国派党員が多く、旧共産党組織が丸ごと新しい「左派」に移行して、その全国本部的な役割を果たすようになったのである。
 愚直な毛沢東路線で、人民公社を真似たのだろう、山口市と下関市にそれぞれ集団生活を営む拠点を設けた。活動事務所、食堂、宿舎、機関紙の印刷所などを狭い区画に集中して建て、メンバーはみんなそこで生活している。やがて二世が次々と誕生し、その多くが88年当時、高校生になっていた。彼らは最初から政治教育を受けて育っている。親の期待どおり、革命戦士の道を歩んでいるわけだ。
 事情を知るにつれて、「そういうのって何か違うのでは?」と思うようになったが、初対面のこの日は、何だかちょっと様子がヘンだがそんなことより高校生の全国ネットワークだと情熱を燃やして一生懸命交流した。
 音楽好き(?)の連中で、何かと云えばギターを持ち出して合唱を始めるのだが、彼らの歌うものときたら「ロシアの大地がどーしたこーした」「人民の旗が云々」、ごくごく一部の特殊な人々しか知らないようなダサダサの“革命歌”ばかり。そこでぼくが、もっとちゃんとした音楽を教えてあげようと、彼らのギターを借りて、深夜ラジオで覚えたばかりの、当時まだレコード化されていなかったブルーハーツの「青空」を歌った。人前で歌ったりするのはほとんど小学校以来で、思いっきり緊張したが、歌い終わると沢村に、「外山って歌うまいんだな。驚いたよ」と云われて、うすうす感じてはいたがやっぱりぼくにはロックシンガーとしての素質があると再認識したのだった。沢村はこのとき初めて「青空」を知ったようだが、一回しか歌ってないのに、この後ヒッチハイク旅行中ずっと「青空」を口ずさみ続けて、その記憶力の良さにはこっちも驚かされた。北島マヤかと思った。
 翌日は、大阪の「余里径倶楽部」を訪ねた。やはり青生舎の影響で結成された、登校拒否児のサークルだった。だが、中心になって動いているのは当の登校拒否児ではなく、管理教育に反対する大人の市民運動家が「子供たちの居場所」を提供してあげているという印象が強かった。その種の運動に対して、後のぼくは徹底批判をおこなうことになるのだが、当時はまだそこまで問題意識を先鋭化させていたわけでもなく、毎日のように新しい「仲間」と知り合えることに単純に興奮していた。
 京都には、反原発の高校生グループがあった。数人のグループだったが、ここは下関や大阪で訪ねたグループとは違い、高校生たちが自主的に結成したものだった。88年当時、広瀬隆の『危険な話』が大ベストセラーになったこともあって、反原発運動は全国的に高揚した。RCサクセションやブルーハーツといった人気バンドが反原発を歌い、運動に参加する10代もどんどん増えていた。
 同時に反管理教育運動も高揚した。運動の総本山・青生舎はすでに一時の勢いを失っていたが、青生舎が遺したたくさんの「反管理教育本」に感化された中高生が、次々と各地で自分たちのグループを結成しはじめた。青生舎の高揚期にその影響を強く受けた中高生には、そのまま「青生舎入り」してしまうパターンが多かった。それによって青生舎は優秀な活動家を多く育て、抱えることにもなったのだが、むしろ運動がピークを過ぎて求心力を失った後に、遺されたテキストを通じて全国各地にたくさんの中高生活動家や運動体を誕生させたことの方が、青生舎の功績として重要だとぼくは考えている。
 例えば京都の次にぼくらが訪ねた名古屋の「高校生活動研究会」も、そんなグループの一つである。「高活研」は、名古屋地区の有志による非公然生徒会連合だった。結局たいした活動はおこなわれなかったようだが、そのリーダー・渡辺洋一は、後にぼくら高校生会議系の中心人物の一人となり、現在も「矢部史郎」の変名で首都圏青年運動のキーパーソンとして活躍している。
 同じ愛知県岡崎市にも中高生の反管理教育グループが存在し、ぼくらは「高活研」の次にそこを訪ねたのだが、そちらは共産党の青年組織・民青の高校生メンバーを中心としたものだった。メンバーの一人は、父親が左翼の大学教授で、強力な支援を受けていた。「高活研」と比較してあまり自立した高校生運動とは云えないが、堅実な運動でそこそこの成果を勝ち取ってもいた。
 さらに静岡の浜松に女子高生バンドのメンバーを訪ねた。これも沢村情報で、静岡の反原発集会で演奏したバンドらしかった。熱心な活動家高校生というわけでもなかったのだが、沢村はどんな些細な情報ももらさずフォローした。
 福岡→長崎→下関→大阪→京都→名古屋→岡崎→浜松そして東京、とすべてヒッチハイクだった。このぼくと沢村の「情宣行脚」以後、高校生会議の関係者は、盛んに全国をヒッチハイクで行き来するようになる。金のない若者が全国的なネットワークを作り上げていくために、ヒッチハイクは何よりの武器になった。
 それにしてもこの頃の沢村のエネルギーはものすごかった。会議に向けて議論の叩き台にすると云って、『ごった煮』というミニコミを創刊し、本番までの3ヶ月間に3号出した。全国各地の中高生からの投稿をとりとめもなく並べて綴じただけのものだったが、一つの投稿に次の号で批判や賛同が寄せられ、それがさらに反響を呼ぶという形で、紙面は賑やかになっていった。ヒッチハイク旅行の時には訪ねて行けなかった地域の中高生にも、『ごった煮』を送りつけることでネットワークを拡げた。
 当時、『ごった煮』は3百部出ていた。