高校生新聞編集者関東会議 1988年夏

 高校を中退し、「反管理教育中高生ネットワーク・DPクラブ」を結成したのと同じ88年の夏、「高校生新聞編集者関東会議」という集会に参加したのだが、これがその後のぼくの活動にとって重要な出来事となる。
 その集会にぼくを誘ったのは、筑紫丘高校在学中に知り合った広島の早熟な政治少年・沢村だった。沢村はぼくの一つ年下で、もちろん当時まだ現役の高校生だった。
 沢村から久しぶりに連絡があったのは、たしか7月だったと思う。
 東京で、「高校生新聞編集者関東会議」というのが開かれるらしく、来ないかという誘いだった。なんでも、発行する新聞の事前検閲をはじめとする学校側のさまざまな圧力と闘うために、何十校もの高校の新聞部員たちが集まって、2泊3日で語り合うのだという。まったく高校生が自力で企画・運営していて、顧問の教師なんかも一切関与していないらしい。もう10数年前から毎年開催されていて、1,2歳年上のOBが何人か宿泊責任者として参加するが、彼らも現役高校生による自主運営に口出しはしない。新聞部員でなくとも、あるいは高校中退者であっても、学校に行ってれば高校生という年齢の者なら参加できるから、君も来ないかと云うのだ。ぼくもこの時点で、中退していなければ高校3年生だ。
 二つ返事でOKした。
 この会議は年2回開催されていて、夏に関東会議という首都圏中心のもの、春に全国会議という北海道から九州までの規模のものをやっているらしい。この時期の全国会議には、九州では長崎の何とかという県立工業高校と、鹿児島のラサール高校から毎年参加があったようだ。後で聞いたところでは、沢村はぼくと知り合った直後の、88年春の全国会議にぼくを誘おうかと考えたらしいが、ぼくが学校当局に「屈服」したことに幻滅して、結局誘わなかったということだ。沢村は、その春の会議に参加したのが初めてだった。とにかく面白いから来いと云う。関東会議といっても、単に参加呼びかけの宣伝範囲を首都圏の高校に限るというだけで、広島や福岡から参加しても構わないのだということだ。

 初めての東京だった。
 会議は、ぼくにとって衝撃的な経験となった。
 40人ほどの高校生が集まっていた。大半は首都圏の高校生だったが、北海道、福島、新潟などからも何人か来ていた。中学生も一人いた。高校中退者も、ぼくの他に二人いた。
 昼間は、この年の会議運営の中心となっている私立高校の新聞部が学校側と交渉して、その校舎を会場として提供していた。いくつかの小グループに分かれ、それぞれが教室を一つずつ使用できた。それぞれの新聞部の活動状況や顧問・学校当局による検閲への対応などを語り合う「分散会」や、興味あるテーマごとに分かれて話し合う「分科会」(例えば校則問題、差別問題、原発問題とか)、全員が一同に会しての「全体討論」などが行われた。夜は宿舎(キリスト教団体が運営する「早稲田奉仕園」という施設)で、特にプログラムもなく、消灯時間もなく、エネルギーさえあればそれこそ一晩中でも興味のあるテーマで語り明かすことができた。
 大半は、ちょっと「問題意識」とやらを抱えたフツーの高校生にすぎなかったが、中には筋金入りの「活動家」高校生もいた。彼らと知り合ったことは、何カ月か前に沢村と知り合った時以上の衝撃だった。
 いわゆる「過激派」の最大の闘争現場である成田空港――三里塚へと何度も足を運んでいる高校生、70年代の連続企業爆破テロ事件の被告たちへの支援運動と絡んだ「反日文化祭」なるイベントにかかわっている高校中退者、80年代の反管理教育運動の中心グループ「青生舎」に出入りしながら急進的な学校改革運動を展開している一つ年下の高校生徒会会長……。探し求めていた「同志」たちについにめぐり会えたのだ! いや、「同志」と呼ばせてもらうには、あまりに彼我の差は大きい。ぼくよりも一歩も二歩も先を行っているように見える沢村よりも、さらに先を行っていそうな同世代たち!
 ぼくは興奮した。
 だが、なかなか最初はうまく溶け込めないでいた。昼間は、少人数での討論が多いから、かなり積極的に自分の云いたいことを吐き出せたが、夜の宿舎となると、いったい誰に何を話しかければいいものやら見当がつかない。どうやって話しかければいいかも分からない。大半の人は、春の全国会議でとうに顔見知りらしく、それぞれ輪をつくって真剣に議論したり、バカ話で盛り上がったりしているが、こういう時に引っ込み思案のぼくは、一人取り残されて、20畳ほどもある広い宿舎の隅にポツンといることになる。
 声をかけてくれたのはモリノだった。
 同い年の女性で、彼女も高校中退者だった。後で知った話、彼女はこの会議の中心メンバーの一人だったのだが、同時に中心メンバー内で長いこと一人で孤立してもいた。初参加のぼくには分からないことだったが、会議は年々形骸化して、単に新聞部員たちのサロン的な年中行事に堕し、学校当局との対決姿勢も徐々にうすれてきているのだった。高校中退で、やはり今の学校制度を何とか切り崩さなければと考えるモリノは、中心メンバー内で一人その傾向に抗って、ケムたがられているらしかった。
 激しやすいタイプだったが、能弁で、またよく笑い、時にはこの日のぼくのように一人ポツネンと淋しそうにしている参加者に気を遣って話を聞いてくれる、打ち解けやすい相手だった。これまでやってきたこと、今やっているグループのこと、これからやろうと考えていることなどを、ぼくは夢中で彼女に話した。彼女も、自分のやってきたことを話してくれた。
 あちこちに話の輪ができていて、宿舎内は騒がしかった。
 「ここ、うるさいね」
 モリノが云った。
 ぼくらは二人で押し入れの中に閉じこもって話を続けた。時々、他の参加者がガラリと戸を開けて、「そんなとこに二人きりで何してんだよ」とからかい、ぼくは照れたが、モリノは「うるさいわね、あっち行ってなよ」と一蹴した。もちろん、ぼくらはずっと語り合っていただけだ。
 これをきっかけに、ぼくもだんだん会議に打ちとけていけるようになった。
 最終日の前夜、ある参加者と、原発の話になった。彼は、それなりに理論武装した原発推進論者で、ぼくの方は原発反対だったが、彼と対等に議論できるほどの知識も理屈も持っていなかった。彼は、ぼくの原発反対論の弱さをどんどん突いてきて、ぼくは答えに窮して困ってしまった。そこへ横からやってきて、彼を云い負かしてしまったのが、一つ年下の笘米地真理だった。
 彼の出入りしている東京の反管理教育グループ「青生舎」は、いくつかの学校批判本を出版していて、ぼくもそれらを愛読していた。彼はもう3年間もそこで活動していた。学校問題以外でも、平和問題、原発問題、差別問題、労働組合運動など、さまざまな活動に関わっていた。彼の高校には「中国語コース」というのがあって、中国留学の経験があり、毛沢東思想に傾倒していた。生徒会長として、日々、学校当局と対決しているらしかった。
 ――この日、ぼくは数年ぶりにゼンソクの発作を起こした。宿舎がホコリっぽかった上に、蚊が入るからと窓を閉め切った中で大人数で盛んに議論していたから、空気がひどく悪かったのだろう。しだいに発作が激しくなって、部屋にはいられないほどだった。モリノや数名のOBが、大丈夫か、救急車を呼ぼうかと心配してくれたが、「しばらく外にいれば治まると思う」と云って外に出た。
 大丈夫だから、と一人で外に出てボーッと座っていた。発作は徐々に治まった。 笘米地が出てきてぼくの隣りに座った。
 結局、明け方までそこで笘米地と語り合った。中国留学の時の話や、生徒会の活動のことをいろいろ聞かせてくれた。かなり高度な政治手腕で、学校側の妨害の先手を打っては、着実に学校改革の成果を得ている彼の生徒会活動の話はとても面白かった。
 「やっぱ、もっともっと多くの高校生が、学校の枠を超えて結集しなきゃいけないよね」
 「全国的なネットワークを作ってさあ」
 そんな話をしていると二人とも高揚してきて、以来、何かあるごとにぼくと笘米地は「全国的なネットワーク」と呪文のように繰り返した。
 全国的なネットワーク……!
 そうだ。これからぼくたちが、それを作りあげるのだ!
 あちこち動き回らなければいけない。そして、各地の「同志」を結びつけて、一大ムーブメントを引き起こすのだ!
 高揚した気分で福岡へ帰った。
 以後、ぼくは会議で知り合った何人かの「同志」たちと連絡を取り合いながら、福岡でDPクラブのメンバー拡大を進めていくことになった。