柏陵高校校長攻撃 初期DPクラブ活動例

 DPクラブを一人で名乗り、活動を始めた直後のことである。
 駅前などで仲間募集のビラまきを始めたことはすでに書いた。
 同時に、福岡の「管理教育」の実態を調べようと、高校生たちにインタビューを始めた。ぼくもこの時点でまだ17歳だから、「高校生へのインタビュー」と云っても、要は他校に通う同年代の話を聞くのである。
 とくに、二流進学校に通う人たちの話を聞いてみたかった。筑紫丘のようなエリート校は、ぼくみたいに突出して問題を起こしさえしなければ楽しく通える程度に「自由な校風」だ。逆に、いわゆる底辺校も別の理由から校風は「自由」である。いちばん厳しいのは、エリート校に追いつけ追いこせでしゃかりきになっている二流進学校なのである。
 小学校時代の同級生たちを当たったり、中学時代の友人に、さらにその友人を紹介してもらったり、また、タウン誌の仲間募集欄に、ジョンレノン狂のオジサンが主宰する高校生主体のサークル(政治的なものではなく、単なるレクリェーション・サークルだったが)が載っていたので、そこに出入りしたりして、結局、最終的には10数人の高校生の話を聞いたと思う。
 ヒドい話はいろいろあったが、中でも福岡市南区にある県立柏陵高校の話を聞く機会が多かった。当時新設5年目ぐらいの高校で、柏陵に限らず、新設校はどこも例外なくヒドい話が多かったように覚えている。
 ぼくがインタビューした中に、この柏陵高校に通った、もしくは通っている人が3人いた。それぞれ立場が違い、まず一人目は、近所に住んでいた小学校時代の同級生で、同校の中退者。2人目は、ぼくより何歳か年上の、柏陵高校第一期生。3人目は、友人の友人である現役生。
 3人の話を総合して、「怒れ、柏陵高校生!」と題したビラを作った。

「入学式の日からびっくりした。クラス写真をとる前に髪形検査があって、校則どおり“眉より上”にしてたのに、髪の毛を引っぱられて、いきなり前髪をバッサリ切られた。前髪がなくなるぐらい切られて泣いてる子もいた」
「校長先生の話を聞く、みたいなのが月一回くらいあった。そういうときに居眠りでもしようものなら、ものも云わずに耳とか髪とか引っぱられて、そのまま悪くすると“体育教官室”かなんかにつれて行かれて、中からバキバキ、ボコボコ、すごい音が聞こえてくるんだよね」
「男女が付き合うときは、双方の親を呼んで承諾させる。まあ実際にはそんなこと承諾してもらいにいく奴なんかいなかったけどね。でも、“密告の奨励”ってのがあった。“誰と誰が付き合ってるのか云ってみろ”って。それから先生が職員室から望遠鏡で帰りの通学路を見てるの。誰と誰が一緒に帰ってるか」
「“鼓膜破られた”なんて話は数知れず、だね。何人破られたことか。校長とか、その殴った先生とかが生徒の親に謝ってもみ消しするんだけど、同じ教師が何度も鼓膜破ってて、それで問題にならないんだからおかしいよ」
「文化祭なかったもんな。“文化発表会”って云うの。平日にやる。書道部とか美術部とかが展示するだけ、みたいな。客なんか来ない。他の学校からも全然来ない。オレたち自身が見ても、面白くないんだもん」
「刈り上げはやめてほしい。普通の刈り上げじゃダメなんだよ。ドバーッと刈り上げなきゃ」
「こんなとこ(ロッテリア)でインタビュー受けてるのが見つかったら、次の日に呼び出されて、職員室前に2時間ぐらい正座させられるよ。そのあと、生徒手帳の“生徒規約”を原稿用紙に書き写させられる。長いから3、4時間かかる。一度それをやらされた時、帰るのが9時すぎになった」
「帰りに、校門のすぐ外の坂道を自転車で下る時、センターラインを越えると、上の方からマイクで“止まれ!”って。それでも止まらなかったら、バイクで追っかけてくる。一度逃げのびたら、次の日に呼び出された。何で分かったのかと思ったら、職員室にバードウォッチング用のでっかい双眼鏡があって、覗かせてもらったら自転車の番号まで見えた」
「一度“免停”くらってるからね。あ、バイクじゃなくて自転車の“免停”」

 いやはや久々に読み返してみたが、すごい学校だ。
 しかしもちろん柏陵高校だけが特別に厳しい校風というわけではない。同じ地区で云うと、太宰府高校、武蔵台高校といった新設校には似たような話をよく聞いた。伝統校と比較すればこれらの新設校は確かに「厳しい」のだが、最エリート校でも最底辺校でもない大部分の高校では、この柏陵高校の3分の2ぐらいの厳しさで「普通」だった。結局、生徒と知り合えなかったので話を聞けなかったのだが、「もっと厳しい」と噂される高校も他にいくつかあった。
 今はどうなっているかよく知らない。しかし88年当時、高校生は一般的にこのような圧倒的な「管理教育」下に置かれていたのである。
 ――さて実際に柏陵高校まで一人、出かけて行ってこのビラを登校する生徒たちに配布したのだが、反応が2件あった。
 一つは教師からのものである。ビラまきへの抗議ではなく、その逆で、「よくやってくれた」という電話である。高教組(日教組左派系)の教師だった。生徒がこれだけビシビシやられてるところでは、当然のことながら労働組合運動への弾圧もヒドい。学校当局と教育委員会がツーカーで、組合教師をどんどん左遷、ほんの数人ずつを各校に孤立させて残す。管理的方針を、少数派の組合教師の力で改めさせることなど不可能なのだという。実は筑紫丘高校にも数人の組合教師がいて、彼らは裏でぼくの味方をしてくれたのだが、もちろん管理派教師たちの暴走を食い止めることはできなかった。ちなみに大半の組合教師がまとめて左遷される先が底辺校で、底辺校の生徒管理がゆるいのには、そんな事情もある。電話をくれた教師から、集会に誘われた。これがきっかけになって、以後半年ほど、日教組系の教師たちによる反管理教育運動と親しくする。
 もう一つは生徒からの匿名の手紙である。

・ほんとうに柏陵は狂っている。ちまたでは「柏陵は学校ではなく軍隊だ」と言われている。だいたい先公からして頭にくる。それと2年の新生徒会長も立ち会い演説会の時には「校則を見直し、文化展示発表会を文化祭にするように努力します」とかなんとか生徒の気をひくようなことを言って、そんなことは全くしない。結局、先公のいいなりだ。何のための生徒会だ。全くあいつらは先公の部下だ。
・頭髪検査では「自然な状態でまゆにかからない」なのに、いつもくしを持ってきておさえつけ「かかっている、不合格だ」と言い、横や後ろの髪までもってきて「これも前髪なんだ。長い。不合格だ」と決めつける。「ちがいます」と言ったら「口答えする気か」と言ってなぐられた。あげくのはてにはかわいい子、自分の教え子はいつも合格!
・病院通いの人が朝しか予約がとれなくて遅刻してきたら、「そんなことで遅刻とは何事だ、ふざけとる」と言ってたたかれたそうだ。「朝しか予約させてくれなかった」と言うと、「その医者を今すぐここにつれて来い。そうしたら認めてやる」と言ってどなられ、結局正座だ。気分が悪くて遅刻してきても正座させられる。ふつうなら「大丈夫か、よく来たな、えらいぞ」とほめるのが教師というものだ。

 こういう不満や怒りを箇条書きにいくつも書き連ねた手紙だった。
 ぼくはこの手紙をそのままビラにして、また柏陵高校へ出かけた。
 こうして88年の6月から7月にかけて計2回、柏陵高校の管理教育を批判するビラまきをおこなったわけだが、2ケ月後、最初のビラを作るためにインタビューした現役生から電話がかかってきた。
 2学期の始業式で、校長がこのビラまきに言及したというタレコミである。
 彼の再現によると、校長の話というのは以下の如きものである。

 このごろ、ある青年がバス停付近でビラを配っていることは、みなさん御承知のとおりですが、このビラは学校のイメージダウンを狙ったもので、柏陵高校にとってマイナスになることはあっても、プラスになることはございません。三年生は特に、みなさんの進学や就職にとっても、マイナスにこそなれ、プラスにはなりません。もし君たちがビラ配りをしている場面に出会っても、決して受け取らないように。ましてや決して同調することのないように。以上。

 ぼくが喜んでこの話をネタに反論のビラを書き、またもや柏陵高校に出かけて行ったことは云うまでもない。
 「あの時期は本当に大変だった……」
 と翌89年、筑豊の県立鞍手高校に異動した校長は述懐したと云う。
 なぜそんなことまでぼくが知っているかというと、校長がそう話した相手が福原史郎だったからである。福原史郎は89年に鞍手高校へ入学、校内でビラをまくわ、貼るわ、高校生のくせにアパートを借りて筑豊版のフリースペースを主宰するわ、反管理派の生徒会長に就任するわの八面六臂の活躍をした。もちろん、DPクラブのメンバー、それも最も行動的な現役高校生メンバーだった。先の発言は、そんな福原史郎を校長室に呼び出してのものである。
 後のぼくの主張の一つに、「90年安保説」というのがある。88年から90年にかけて、60年安保、70年前後の全共闘、80年前後のサブカルチャー運動に匹敵する、ラジカルな青年運動のピークがあったとする説である。なかなか信用してもらえないのだが、件の校長だけは「そうそう、確かに」と云ってくれるに違いない。
 それぐらい運の悪い校長だ。