長い反抗期の始まり

 「あんたは14歳の時からオカしくなった」
 と母親は云うが、反抗期の訪れとして「14歳」はごく一般的だろう。
 しかしたいていの「反抗期」は通過儀礼みたいなもので、何年かで「治る」のが普通だが、ぼくの場合は以後ずーっと今日まで反抗期なのである。

 1970年に鹿児島で生まれた。「昭和」で云うと45年、「よど号」と「三島由紀夫」の年だ。「連合赤軍事件」は2歳の時、「三菱重工爆破事件」は4歳の時である。総理大臣の名前は、気がついたら福田赳夫だった。成田空港の管制塔占拠のニュースを子供の頃に見た記憶がある(もちろん、せっかく作ったものを壊すなんて、なんてヒドいことをするんだろうと思った)。
 4歳から、父親の仕事の関係で福岡市近郊の大野城市に移り住み、以後はそこで育った。両親とも鹿児島の出身で、そんなわけだから標準語と博多弁と鹿児島弁を喋れるトリリンガルである。
 福岡に移り住むと同時にゼンソク持ちになり、中学に入る前後まで毎晩クスリを飲み、毎週病院で注射を打たれていた。いったん治まったゼンソクだが、18歳で再発し、今も吸入器を持っている。
 小児ゼンソクは人を観念的にする。発作で体を動かすのが辛い時は、物思いにふけって時間をつぶす他ないからである。ゼンソクにかぎらず、幼少時に病弱だった人は、そんなふうになりがちだ。スポーツやケンカが苦手だから、体力以外の部分で他人に勝ろうと努力することにもなる。
 小学校の6年間は学年トップの優等生として過ごした。全国に小学校はゴマンとあるから、それほど自慢にはならないのだが、両親には「期待」されていたようである。鹿児島人は「イエ」意識が強いから、両親のみならず親戚一同の期待を一身に背負わされていた気がする。そのことは別に苦痛ではなかった。

 ぼくが通った中学は少し特殊である。
 西南学院中学という、福岡のいわゆる「有名私立」だが、単なる「有名私立」なら全国に腐るほどある。「特殊」だというのはその教育内容である。
 左翼の市民運動に関わっている教師がやたらと多かったのである。
 最近何かと評判の悪い「戦後民主主義教育」というのがどんなものなのか、受けた覚えがないからよく分からないが、西南学院中学の「左翼教育」は、そんなツマラナそうなものではなかった。
 現在のぼくの立場からすれば、右であれ左であれ、イデオロギッシュな教育は否定すべきものなのだが、イデオロギッシュな教育とそうでない教育と、どちらがそれを受ける側にとって「面白い」かと云えば、やっぱりイデオロギッシュな教育の方なのである。教える側の「情熱」が違う。
 とくに「社会」の授業が良かった、否、ヒドかった。
 たとえば中学1年生の「地理」の授業。前半は世界地理、後半は日本地理なのだが、どちらも各地域の「社会問題」について、教師が自ら作成したオリジナル資料を使って、徹底的に啓蒙するのである。今でも鮮やかに覚えているが、最初の地理の授業の結論が、「国境線は不変ではない」。革命や政変によって、国境はいくらでも変動するのだ。そういう「総論」が何回か続いた後で、各国情勢に入る。南アのアパルトヘイト政策についても、毛沢東やカストロの冒険活劇についても、アメリカがいかに横暴でヒドい国であるかについても、逆にソ連や北朝鮮がいかに素晴らしい国であるかも、すべてこの中学の授業で教わった。日本地理の授業も同様で、沖縄から始まって北海道まで、全国各地の「社会問題」を詳細に啓蒙された。沖縄の基地問題には2、3時間が費やされたし、熊本と云えば水俣病、長崎と云えば原爆後遺症……、アイヌのことも三里塚のことも原発のことも、すべて教わった。中間テストではイタイイタイ病を発見し告発した医師の名前を問われた。ちなみに「荻野医師」である。覚えている。
 「レーニン」というアダ名までついていたその教師の授業を受けたのは1年生の時だけである。学年に一人ずつ社会科教師がいて、2年3年で「歴史」と「公民」を教わった社会科教師は、その3人の中では最も左翼色の薄い人だったが、それでも「基本的人権には『革命権』も含まれる」という話を覚えているぐらいである。
 政治色の強い授業は社会科だけだったが、例えば数学や国語の授業もユニークだった。数学では、実は大学レベルだという「無限集合論」をやった。別に「詰め込み教育」ではなく、実に好奇心を刺激する教え方だった。国語の授業でやっていたのが、実はソシュール言語学だったということも、だいぶ後になって分かった。
 3人の社会科教師のうち、露骨に左翼な2人の教師がそれぞれ顧問を務めている「社会研究部」と「歴史研究部」というのがあった。前者はもちろん、原発問題など、現在進行形の社会問題を研究する部活だが、後者も別に「郷土史研究」とかではなく、近現代史専門である。社会研究部の部員たちは、市民運動の集会で研究発表の機会を持ったりしてたし、歴史研究部の部員たちもかつての侵略戦争なんかを勉強していた。歴史研究部の部員だった生徒と隣の席になったことがあって、何かのことで議論になった時に、彼が「シビリアン・コントロールがどうこう」なんて話を持ち出したことにびっくりした覚えがある。ちなみに「軍人を軍隊の最高責任者に据えない」という軍事政策のことである。もちろん当時のぼくはそんな言葉、聞いたこともなかった。「明治維新はブルジョア革命か否か」が歴史研究部のテーマだった年もある。
 そんな教育を受けたことが、以後のぼくの活動や生き方に影響を与えていないと云えば嘘になる。現在ぼくが持っている社会問題についての知識など、この中学で教わったことにさらに細かい注釈を加えた以上のものではないし、「ソ連や北朝鮮は素晴らしい」以外の部分は、そう間違った内容ではなかった。
 卒業後何年かたって、1年生の時の担任でもあった「レーニン」を訪ねていったことがある。自分の授業が一人の「革命家」を生んでしまったことを、彼はひどく反省していたようである。「外山くんにはヘンな影響を与えてしまって申し訳ない。理想の教育とは、生徒に何も影響を与えない教育だと今では思っている」という言葉を聞いて、彼はやっぱり尊敬に価する立派な人間だと思った。
 ただ、この中学に通っている間、ぼくは政治的には目覚めなかった。社会科の授業を受けて、さまざまの社会の矛盾に腹を立てもしたが、それ以上ではなかった。むしろ周囲に「政治的」な、社会研究部や歴史研究部の部員たちが大勢いたので、そのテのことはそいつらに任せておけば安心、という気持ちだった。
 「左翼教育」を受けてはいても、ぼくの14歳の「反抗」は、そういう政治的なものではなかった。
 今から考えると、それまで優等生で過ごしてきた自分が、やっぱり各出身小学校ではトップレベルの優等生だった生徒たちばかりの環境に置かれて、成績の点では周囲と大差ない凡庸な存在と化さざるをえないという、一種アイデンティティの危機に陥ったのだと思う。
 教師の方は、前述のように熱心な左翼教育をやっても、そもそも生徒たちはそんなことを期待してこの中学に入ったのではない。いい高校、いい大学、いい会社に進むためのステップとして、西南中という「有名私立」に入ったのである。ぼくは、そんな周囲の同級生たちの価値観を否定することに、自らの存在価値を求めた。
 学年が上がるにつれて、着々と高校受験に向けた態勢作りに入っていく同級生たちに背を向けて、独学のピアノや推理小説の創作という、「趣味」の世界を徹底的に追求することが、中学時代のぼくの「反抗」だった。
 当然成績は落ちるし、クラスメートとも話がかみ合わなくなるし、「勉強、勉強」とうるさいごく当たり前の両親とも険悪なムードになる。
 そんなわけで高校受験に失敗し、さりとてそのまま就職とか、中学浪人なんて覚悟もなかったぼくは、その年に新設された私立高校へ二次募集で入学した。

 福岡市西区にある中村学園三陽高校というのが、ぼくが通った最初の高校である。「最初の」というのは、結局ぼくはこの三陽高校を含め計4校もの高校を転々とするからである。
 入学式で、もう参った。
 入学式本番前に、入学式の練習をするバカバカしさ!
 一斉に「起立」「着席」をする「練習」である。ちょっとタイミングがズレると、教師が大声で怒鳴る。キチッとそろうようになってから、「本番」だ。
 日の丸と君が代にも違和感があった。この違和感そのものは、ああいう左翼の中学だから、3年間それらに無縁だったという事情もある。しかし無縁だっただけで、反感を持っていたわけではない。ぼくにとって日の丸・君が代は、「国旗・国歌」というよりも、この三陽高校の教育方針・校風の象徴として経験された。実際、三陽高校ではことあるごとに日の丸・君が代が持ち出されたし、第一期でまだ「校歌」ができてなかったために、君が代がその代用にいつも使われていたのである。
 入学式の1週間後には、「集団訓練」というのがあった。学校に2泊3日で泊まりこむというので、勉強でもさせられるのかと思ったら、違った。朝から晩まで、体育館に集められて行進の練習、挨拶の練習である。自衛隊経験もあるという体育教師が、「自衛隊はこんなものじゃないぞ!」などとバカなことを云いながら、ステージで行進を指揮する。
 この「集団訓練」で、ぼくは最初の「抵抗」をやった。サボリとかではなく、実に正攻法な「抵抗」である。単身、職員室へ抗議に乗り込んだのである。2人の教師を論破し、3人目の教師に論破されて、ふたたび「集団訓練」に参加したが、その時点でもう「転校」を決意していた。

 三陽高校にいたのはわずか3ケ月で、2学期から鹿児島の県立加治木高校へ転入した。父親の転勤の話をデッチ上げて、実はぼく一人だけ祖母宅に引っ越したのである。
 三陽高校があまりにヒドかったから、転入した当初は、加治木高校がまるで天国のように感じられた。西南中学も三陽高校も男子校で、実に3年半ぶりの男女共学だったということもある。
 しかし、この加治木高校でも、わずか1ケ月でつまづくことになる。
 「補習」というやつである。「朝課外」などとも云う。
 これはどうやら九州独特のものらしいのだが、沖縄を除く九州全県の9割方の高校には、早朝の課外授業がある。「0時限目」などとも云って、要は普通の始業時間よりさらに前に、1時限あるのである。そのため生徒は、朝7時半ぐらいにはもう登校してなければならないことになる。教育指導要領かなんかで定められた授業数を明らかにオーバーするので、本来は出席を強要できず、名目は「課外」とか「補習」などとなっているが、実質的には強制参加である。夏・冬の休みも盆と正月の前後だけで、あとは午前中この「補習」がある。九州では当たり前のようにおこなわれているこの「補習」、九州以外の人に話すとびっくりされる。関門海峡を越えると、こんなことはおこなわれていない。高校生も、夏と冬には長期の休みが保障されているのである。
 加治木高校に転入して1ケ月ほどたったある日、一枚のプリントが配られた。「補習」に参加するか否かを問う内容だった。こんなものを配るまでもなく当たり前のように「補習」参加を強要する高校も多いらしいが、どういうわけだか加治木高校では一応、形式的にあらかじめ生徒の同意を得ようとしたのである。あくまでも「形式的」なものにすぎないのだが、「補習」のシステムをよく知らなかったぼくは、そんな朝早くから登校するのはイヤだなあ、と思って、「不参加」に丸をつけて返した。
 するとそれが大問題になったのである。
 最初から「これは全員強制参加です」と云われていれば、ぼくも釈然としないまま参加していたと思う。しかし、「参加しますか? しませんか?」などと訊いておいて、「参加しない」に丸をつけたら怒るというのは、どう考えても理不尽である。ついついムキになって態度を硬化させ、「絶対参加しない」という方針を貫徹したのは正しかったと今でも思う。
 しかし、恥ずかしい記憶もある。
 「補習」がおこなわれている時間、ぼくはよく音楽室でピアノを弾いていた。理不尽な「補習」参加強制に、何の疑問も抱かずに従わされている他の生徒たちに向けて、「おまえらと違ってオレはこうして好きなことをやっているんだぞ」というメッセージを暗に発していたのである。建物の配置から考えて、ぼくのピアノは、「補習」を受ける全校生徒の耳に聞こえていたはずだ。こう書くとカッコいいが、問題はその弾いていた曲の中身である。さだまさしとかリチャード・クレイダーマンとか、当時のぼくの音楽的センスは、地獄のようにダサかった。せめて坂本龍一とかを知っていればよかったと、思い出すたびに夜も眠れない。
 ――さて「補習」に参加しない生徒は、教師から差別的待遇を受ける。授業中イヤミを云われたり、中にはぼくの存在をあからさまに無視する教師もいる。絶対にぼくを指名しないのである。楽でいいじゃないかと思われるかもしれないが、席順に指名していって、ぼくだけ飛ばしたり、ぼくの前の席まで来て突然あらぬ方向へ転進したりという、露骨な無視はやはり屈辱的である。
 この「補習」の件をきっかけとして、ぼくは学校当局とさまざまな場面で衝突することになった。「漫才研究部」設立呼びかけのビラを貼れば体育教官室に呼び出され、生徒総会での正規の手続きを経た校則改正提案すら「問題行動」とされた。
 ちょうどニュース番組など見るようになって社会問題に目覚め、放課後に空いた教室を使って自主的な勉強会をひらいたら発覚して潰された。
 目立つから案の定、ヤンキー連中に目をつけられ、「いじめ」の標的にされた。ぼくだけならまだしも、単にぼくと仲良くしてるだけで同じ連中からの「いじめ」を受ける例も出てきて、そのことを告発するビラを作って教師たちに直訴したら、「いじめ」の加害者たちではなく、被害者であるぼくの方が、「校内で勝手にビラをまいた」として危うく退学処分を受けそうになった。
 この加治木高校というのは、それほど「管理の厳しい」高校ではない。むしろ「比較的自由な」高校である。「補習」の件はヒドいが、これは九州ではごく普通におこなわれていることで、加治木高校だけが特別なわけではない。普通に高校生活を送るぶんには、たぶんそれほど不自由を感じないだろうと思われる。しかし、突出して何かをやろうとする生徒にとっては、ちっとも「自由」ではない。「補習」参加を拒否すること、生徒総会で校則改正を提案すること、放課後に自主的に集まって社会問題に関する勉強会をやること、「いじめ」を告発すること……どれをとっても実に正しいことだ。その「正しいこと」を「あえて」やってみることによって、「自由な校風」がまるっきり嘘であることが初めて分かる。

 加治木高校には丸1年在籍した。これまでに書いてきたような事情で居心地の悪さが極限に達し、ぼくはふたたび福岡の県立筑紫丘高校に転入する。
 実家から通える範囲では、「もっとも自由な校風」だと聞いてそこを選んだのである。
 だが、もちろんそれは「嘘の自由」だった。加治木高校と同様、「特別なことをしなければ」という条件つきの「自由」だったのである。
 転入して数日で、そのことに気づいた。特に何かきっかけがあったというわけではないのだが、たぶん加治木高校で「嘘の自由」に敏感になっていたのである。ここも加治木高校と同じだと、肌で感じとったとしか云いようがない。
 さっきチラッと書いたように、ぼくは加治木高校在学中に、ニュース番組や新聞を熱心にチェックするようになり、急速に社会問題への関心を強めた。ちょうど中曽根政権時代で、世の中の「右傾化」に歯止めをかけるために、ぼくも何か行動を起こさなければという焦りが高じて、「高校生による政治団体の結成」を思い立つ。
 目立つことを校内でやればすぐ潰されるに決まっている、と加治木高校時代の経験から学んでいたぼくは、新しい転入先である筑紫丘高校の中にではなく、外に仲間を求めることにした。
 だが、校内だろうが校外だろうがカンケーない。生徒の全生活に干渉してくるのが日本の学校だ。そんな重大な問題をすっかり忘れていたのだから、やっぱりぼくは間抜けだったのかもしれない。