我々団 年譜
前史
(詳細は「外山恒一 活動年譜」参照)
1980's後半 のちの我々団総統・外山恒一が反管理教育運動を展開。その過程で89年3月、マルクス主義者となる。
1990's前半 ほぼ総体としてPC(ポリティカル・コレクトネス)化した左翼運動シーンで、外山は反PCの立場から異論を吐き続けたために急速に孤立。なお91年5月の段階でマルクス主義を放棄し、事実上の(自称はせず)アナキストに。
1990's後半 既成左翼運動を内部からの批判により改革する路線を断念、「真に左翼の名に値するのは自分だけだ」との確信から独自路線を模索。
マイ・マジェスティ闘争
(我々団の“起源の闘争”)
1999年
3月 外山の私的な恋愛事件に、90年代を通して敵対を深めてきた既成左翼活動家らが多数介入し、外山の活動家生命を最終的に断つための陰謀が開始される。
2000年
12月 「傷害罪」で起訴される。
2001年
2月 刑事裁判が始まり、民事裁判でも告訴される。
3月 「マイ・マジェスティ」(ムリヤリ日本語に訳せば「神聖にして不可侵なオレ様」の意)闘争開始。裁判闘争を徹底的にエンタテインメント化する内容で、「フェミニストをやっつけろ!」と題した裁判レポートのサイトを開設、まるで演劇公演の告知のような傍聴勧誘ビラを大量配布するなどして傍聴席をたびたび満員にし、裁判をネタにした宴会を自宅アパート等で頻繁に開催する。
8月 刑事裁判一審「懲役10ヶ月」、執行猶予ナシの実刑判決。要するに法廷をパフォーマンス会場とされて激怒した裁判官らによる私的報復の判決である。
9月 民事裁判一審「100万円の賠償を命じる」判決。当然これも“法廷侮辱”への報復である(“自由なパフォーマンス”の障害になると考えて弁護士を雇わなかった結果でもある)。すでに思いつくことはすべてやり尽くして裁判に飽き、この後は数ヶ月後に刑務所に入ることを前提に最高裁まで形だけ争う(つもりだった)。
2002年
5月14日 「名誉毀損」容疑で突然逮捕される(「傷害」罪での実刑判決はまだ確定していない段階)。民事相手方弁護士が所属する法律事務所の代表弁護士(外山の反管理教育運動時代の敵の1人)を法廷レポートのサイト上で“誹謗”したとして。
7月 「傷害」上告棄却。一審の「懲役10ヶ月」が確定し、「名誉毀損」公判と同時並行で「受刑者」となる。
11月 「名誉毀損」一審判決。求刑どおり「懲役1年」。もちろん実刑。もちろん前年の“法廷侮辱”の“前科”をよく知る裁判官による私的な報復である。
2003年
3月 「名誉毀損」二審判決。「懲役8ヶ月」に減刑。
5月 「傷害罪」での服役終わる。「名誉毀損」での裁判が続いていたために釈放はされず。
獄中転向。ファシストとなる。とくに逮捕以来、国家権力と既成左翼総体とを同時に敵と措定する革命の理論体系を渇望していたところに、ほぼ同じ脈絡からファシズム思想を捻り出したムソリーニの経歴を知り“啓示”を受けたのである。
9月 「名誉毀損」上告棄却。二審の「懲役8ヶ月」が確定し、ふたたび「受刑者」となるが、判決を不服として刑務作業その他囚人に課せられた一切の義務の拒否を刑務所側に通告。8ヶ月間丸々を「取調べ」と「懲罰」で過ごす。
転向から出所までの約1年間、これから創出すべき自らのファシズム運動の構想を練り続ける。党名「我々団」も、その綱領全文や党旗デザイン、いくつかのスローガン、当落を度外視する選挙戦イメージ、そしてムソリーニ思想を現代日本向けにアレンジした理論体系も、すべてこの期間に完成された。
2004年
5月5日 福岡刑務所を満期出所。丸2年ぶりに自由の身となる。出所直後より、獄中で構想したファシスト党「我々団」の建設にとりかかる。入獄前の福岡市内のアパートは当然とっくに引き払われていたため、行き場がなく、しばらく鹿児島県隼人町の実家で過ごす。
外山恒一の“1人党”時代
7月 熊本市内の支援者宅に居候生活を開始するも、居候の身では居所を拠点とした活動もできず、雌伏する。また同時に、ファシストたるもの弁舌を鍛えねばならぬと、熊本市内の某若者劇団に偽名で参加する。在籍は数ヶ月だが、その劇団の稽古は想像していたようなものとは違っていて、当初の目的は果たせず。その期間とくに公演もなく、役者はやらずじまい。
12月 我々団のサイト開設(当初は「外山恒一のホームページ」の1コーナーとして)。
自身の全活動史を総覧し、巻頭に入獄の経緯、巻末にファシズム転向宣言を付した通算8冊目の著作『最低ですかーっ!』を刊行。
2005年
5月 出所以来、初めて上京し、入獄直前にメールでのやりとりは始まっていたスガ秀実氏と初めて会う。また結成直後の高円寺「素人の乱」も訪ねる(松本哉氏とは98年頃から交流があった)。
8月 鹿児島県姶良郡隼人町の実家に移住。
10月 現在のサイト(http://www.warewaredan.com)を「ファシズムへの誘惑」として開設。
11月 獄中で構想した同志発掘を目的とする選挙戦術の実験として、霧島市議会議員選挙(隼人選挙区)に出馬。「政府転覆の是非」を争点に投票者中150人に1人の支持を得るも、供託金30万円を没収される(返還ラインは120人に1人相当の得票)。同志発掘には必ずしも成功しなかったが、その可能性は確信する。
2006年
1月 我々団のサイトを見た、福岡で若いノンセクト左翼運動の再建を模索中の小野俊彦氏(当時は九州大学の院生)からコンタクトがあり(ブログにコメントがあり外山が返信した?)、交流が始まる。小野氏はこの06年中に数名の仲間と共に「フリーター・ユニオン福岡」を結成、その中心的活動家として全国の若い左派シーンに名を轟かす存在となる。同ユニオンを2010年頃に脱退し、13年頃にほとんど誰も連絡が取れない隠遁状態に入るまで、福岡の“外山界隈・我々団界隈”に左右のさまざまな人士が入り乱れる中で左派陣営を代表していた。
2月 我々団のサイトを見て、見沢知廉のファン・サイトを主宰しながら新右翼系の運動に参加していた本山貴春氏(当時は福岡大学の学生)からコンタクトがあり(ブログにコメントがあり外山が返信した?)、現在に至る交友が始まる。本山氏はこの後まもなく、ほぼ20代の若者たちで担われた「維新政党新風」の福岡支部(2011年頃、新風本体から脱退して解散)の中心的活動家として活躍するようになる。
5月 福岡でドキュメンタリー映画『LEFT ALONE』上映会。主演俳優(?)のスガ秀実氏が実行委員会に「ぜひ外山も招待してほしい」と伝えたことから、実行委員長の西南学院大・某教授(外山とは一面識もなく、福岡の左翼シーンの噂で外山を毛嫌いしていた)がパニックに陥り、「外山に知らせてはならない。告知も最小限に」と策動、スガ氏にまで箝口令を敷いたが、実行委員会に加わっていた小野俊彦氏からこっそり知らされた外山は参加した上に、鉄の心臓で付いて行った打ち上げの場で同席となった何人かに自己紹介がてら“外山排除”の策動について少し話したら、我がことのように怒り出してくれた文芸批評家・鎌田哲哉氏との交流も始まる。
夏ごろ 九州ファシスト党の建設が思うように進まない状況を打破するため、翌年の熊本市議選に出馬することを考える。が、どうせなら東京都知事選にでも出た方が注目は集まるかもと思い始める。
9月 上京し、高円寺の「素人の乱」の諸君と交流しつつ、都知事選出馬が現実的に可能かを1ヶ月ほどかけてリサーチ。思うように支持は集まらなかったものの、ますます都知事選に賭けてみたい気持ちに駆られる。
11月 熊本市議選と東京都知事選の両方に出馬することを決意し、とにかく本当に出られるかどうかも分からない都知事選の準備に力を入れることに。
12月 塩見孝也氏主催の忘年会に行ったら「ファシストは呼んでないぞ、帰れ」と塩見氏に追い出されそうになり、「ファシストの何が悪いんや。オレだってファシストや。だいたい右翼の鈴木邦男は呼んどいてファシストは帰れじゃスジが通らんやろ」と謎のオジサンに救われると同時に、自分以外のファシストに初めて出会う。忘年会お開きの後、謎のオジサン=川嶋康裕氏の自宅に招かれ、川嶋氏の若い頃からの盟友だという大阪の千坂恭二氏とスカイプとやらで初めて話す。かつてそういう“異端的アナキスト”がいたとして、千坂氏の名前だけは知っていた。
2007年
3月 ほんとに都知事選に出馬し、限りなく反則技の政見放送でガゼン注目を集める。1万5千票を獲得し、全14候補中8位。供託金300万円は没収される。
4月 熊本市議選に出馬。当然落選するも3回目の選挙にして初めて供託金30万円を取り戻す。
一連の選挙戦(とくに都知事選)によってある程度の知名度を獲得し、共に活動したい旨のコンタクトが増える。
草創期
6月 外山が1年以上前の原付でのショボい交通違反事件でいきなり逮捕され、翌月まで丸々1ヶ月の獄中生活。救援のため埼玉から山本桜子が九州入りし、そのまま九州にとどまって徐々に我々団の主力活動家の1人となる。他にこの時期に2名の女性が活動に参加するため遠方から九州に移住するが、いずれもやがて活動を離れる。
12月 外山が大阪に千坂恭二氏を訪ね、初めてじかに会う。前年末以来、メールなどでのやりとりは始まっていた。
2008年
2月 福岡市南区に新拠点となる一軒家を借りる。
熊本で“ニート・デモ”に参加したことを皮切りに、小野俊彦氏の主導で始まった九州(福岡と熊本)の左派系フリーター労働運動に“右派”を称して時々登場し始める。
4月 外山が鹿児島市議選に立候補。540票を獲得し、熊本市議選に引き続いて供託金を取り戻す。この選挙戦を手伝いに、後に主力活動家となる東野大地が初めて九州入り。
7月 洞爺湖サミットへの反対行動に外山と山本が参加。世界中から反グローバリズムの左翼活動家が結集する中、「エコ反対」のプラカード1枚で存在感を誇示。
8月 本山貴春氏を中心的活動家とする「維新政党新風」の“20代の会”が福岡で開催した討論会にゲスト参加。
9月 革命家養成塾・黒色クートベ、第一期スタート。塾生は当初5名だったが、1ヶ月ほどで3名が脱落。
2009年
2月 当サイトを全面的にリニューアル(サイト名も「ファシズムへの誘惑」から現在の「外山恒一と我々団」に。“内山田洋とクールファイブ”とか“森田公一とトップギャラン”とかのイメージ)。
結局2名が最後まで残った革命家養成塾の第一期が終了するも、第二期の入塾希望者が少なく、また5名中3名が短期に脱落する第一期の失敗に懲りて、以後の革命家養成塾はほぼ“開店休業”状態に。代わりに塾舎で毎週日曜(のち毎週火曜)夜に「定期交流会」を開始(9月まで)、第一期の2名の卒塾生の他、主に福岡在住の左右の活動家、元活動家、前衛芸術家などが参加し、“我々団交流圏”が形成され始める。
5月 群馬県から入塾1名。第一期とは違い、総統自ら塾生の学習を付きっきりで指導する方式は非効率として放棄し、総統指定の大量の“独習指定文献”を淡々と読破してもらう“放任教育”方式だったが、約1ヶ月で塾生失踪。
6月 法政大学入学相談闘争
ウェブ上の機関紙『人民の敵』第1号を公開。
7月 静岡から入塾1名。引き続き“放任教育”方針。この前後、第一期の卒塾生でいずれも我々団メンバーとなっていた2名のうち1名が失踪。
ウェブ上の機関紙『人民の敵』第2号を公開。
8月 革命家養成塾で、10日間かけてスガ秀実氏の大著『革命的な、あまりに革命的な』を熟読する「夏期講習」開催。正規塾生の他に東京の学生2名と、地元滋賀でフリーター生活を続けていた東野大地が参加。
衆院選に合わせ「選挙反対キャンペーン」。
革命家養成塾舎にスガ秀実氏を招き交流会。
10月 東野大地が入塾。引き続き“放任教育”方針。
11月 「劇団どくんご」が福岡で初公演。2001年以来、同劇団の熱烈な支持者である外山も福岡現地スタッフの1人として奔走。
2010年
2月 中川文人氏を招き、熊本と福岡で交流イベント開催。
4月 眞壁良輔が首都圏での演劇活動に見切りをつけて入塾。前後して入党希望者として嶋明が福岡に移住。
5月 維新政党新風福岡支部のためにプロモーション動画を制作。
ペペ長谷川氏を招き、熊本と福岡で交流イベント開催。
6月 阿佐ヶ谷ロフトで反体制右翼マガジン『デルクイ』創刊予告イベント。
東野大地が卒塾。
7月 外山がtwitter開始。
8月 革命家養成塾舎に鈴木邦男氏を招き交流会。
千坂恭二氏を招き、熊本と福岡で交流イベント開催。福岡でのイベントは8月15日、「今こそ若者たちに語り継ぎたいあの戦争」と題して、「あの戦争」つまり1968年の世界革命戦争について語り倒してもらう内容。
革命家養成塾舎に佐藤悟志氏を招き交流会。
11月 維新政党新風・福岡の活動家アキノリ氏が塾舎に居候開始(翌年3月まで)。客人として遇する。
外山が「劇団どくんご」熊本初公演(正確には約20年ぶりの公演)のために春以来、会場確保などで奔走し(この過程で「劇団第七インターチェンジ」主宰の亀井純太郎氏と知り合う)、熊本大学構内での公演が実現。福岡公演でも外山が現地実行委員会のメインの立場に半ば移行する。
12月 静岡からの入塾者が約半年のカリキュラムを終え無事卒塾するも、まもなく失踪。
2011年
2月 外山が企画・編集した反体制右翼マガジン『デルクイ』創刊号刊行。
眞壁良輔が卒塾。
3月 フリーター労組で知り合った友人と共に福岡市早良区西新に「BARラジカル」をオープン。うまくいかない革命家養成塾に代わる同志の発掘・育成のための拠点と位置づけ、以後ほぼ毎晩バーテンとして自ら接客。
第一期の卒塾生2名のうち残っていた1名が脱党。
4月 福岡市議選に立候補した本山貴春氏の選挙戦に眞壁らが従事。
5月 注目・期待の活動家を絶賛するための「外山恒一賞」を創設し、排害社代表の金友隆幸氏に第1回授与通告。
6月 福岡での反原発デモに「反原発右派」として参加。数名の我々団公然党員およびシンパにより「核の平和利用反対」「国賊東電に天誅を」「節電しません勝つまでは」「原発推進派に破防法を」などのプラカードが掲げられ、左派主体のデモなので圧倒的少数派であるにもかかわらず圧倒的存在感を示す。
BARラジカルに宮沢直人氏を招いて交流イベント。
7月 原発推進派への皮肉をこめた替え歌メドレー『原発推進組曲』を外山がYouTubeで公開。
東京でおこなわれた「右から考える脱原発」の集会&デモに山本桜子を派遣。
9月 福岡での反原発デモ参加の際に掲げていた我々団旗(黒地に赤い日の丸=アナキズムとナショナリズムの統合というファシズムの理念を表現)がデモ隊を罵倒するために沿道にいた在特会や、在特会がネットに上げた報告写真を見たネトウヨどもの非難の的に。
年始以来の群馬からの塾生が諸事情により退塾。
外山が20歳以来、一方的に絶大な影響を受け続けてきた笠井潔氏と初めて会う。故・松平耕一君の仲介による。
山本と東野が芸術弾圧を掲げる芸術批評誌(正確には「芸術誌系弾圧機構」)『メイン・ストリーム』を創刊。
11月 「劇団どくんご」福岡公演(3年目)。この年から我々団とBARラジカルが「劇団どくんご福岡公演」の事実上の実行委員会となる。
2012年
1月 群馬から1名入塾。
1月25日 統一戦線義勇軍の針谷大輔氏が主催した東京・ロフトプラスワンでの“反原発右派”のイベント「男たちの国防論 脱原発運動の新たな局面を考える」に外山が出演。
1月29日 「TwitNoNukes九州」主催の福岡での反原発デモに一切のパフォーマンスなしで地味に参加。
2月10日 熊本市で、反原発運動の新しいリーダーとして頭角を現していた俳優・山本太郎氏の講演会。90年代半ば以来の熊本市の外山支援者が企画し、外山らもスタッフ参加。
2月26日 前月に引き続き「TwitNoNukes九州」主催の福岡での反原発デモに一切のパフォーマンスなしで地味に参加。
2月29日 前年3月のオープン以来、丸10ヶ月間の原則毎晩カウンターで接客するBARラジカルの「外山恒一常駐」体制終了。以後、同店は本来のオーナーが2014年4月まで継続して、閉店へ。
3月 引き続き福岡での左派系の反原発デモには“反原発右派”を強調して、「TwitNoNukes九州」主催のデモには一切のパフォーマンスなしで地味に参加。
山本と東野が『メイン・ストリーム』第2号を刊行。
4月 「TwitNoNukes九州」主催の反原発デモの中心メンバーらによる九州電力本社前での抗議行動に参加。(以後たびたび参加)
ロンドンの(現地ではそこそこ有名らしい)ファシストらしき活動家の依頼に応えて、同氏の編集・刊行になる三島由紀夫論集に、外山が三島など一冊も読んだことないくせに三島論をデッチ上げて寄稿。
5月5日 やがて名誉ある第2回外山恒一賞を、熊本市で活動する「劇団第七インターチェンジ」主宰の亀井純太郎氏に授与通告。

年譜(その2)へ続く