自虐史観とか云うな

晋遊舎『スレッド』連載「ネット右翼矯正収容所」第三回

 60年代後半から70年代前半にかけてが、全共闘運動の時代である。ただしそのピークは60年代の末で、70年以後は後退と崩壊の過程だ。
 全共闘の主役はノンセクトラジカルと呼ばれた学生たちである。ノンセクトとは党派(セクト)に属していないということ、ラジカルとは過激だということだ。
 戦後の左翼運動は、日本共産党の指導の下に始まる。当然、学生運動を指導していたのも共産党である。
 ところが50年代半ばから、学生をはじめとする若い左翼活動家の間に、共産党から離反する動きが急速に広がっていく。56年にソ連で「スターリン批判」、つまりその後継者であるフルシチョフによって、スターリン時代の恐怖政治の実態が(一部)暴かれた世界史上の大事件とも深く関係している。
 ソ連(や中国や北朝鮮)や共産党(や社会党)を否定する「新左翼」の誕生である。
 「60年安保闘争」をその中心で担ったのが、誕生したばかりのこの新左翼だ。
 当時の新左翼は、共産党を否定したが、革命運動を成就させるためには、それを正しく指導する組織(「前衛党」という)が必要であるという考え方は否定していなかった。ただ共産党はすでに堕落し、革命を放棄した「ニセの前衛党」であると見なされたのだ。したがって、共産党に代わる「真の前衛党」の建設が目指された。
 50年代のうちにまず2つの組織が「我こそは真の前衛党なり」と名乗りをあげた。うち片方が、60年安保闘争をリードした。
 しかし60年安保闘争の敗北後、60年代前半の後退の過程で、そのいずれもが分裂し、また新たに名乗りをあげて「真の前衛党」レースに参入してくる党派も後をたたず、60年代半ばを過ぎる頃には大きなものだけでも10コ近い「前衛党」が乱立していた。
 そんな状況を背景に、全共闘運動が台頭してくる。
 全共闘は、全国あちこちの大学に、それぞれ勝手に結成されていった。きっかけもさまざまで、学費値上げ問題だったり、学生会館などの建て替え問題だったり、あるいはもっとややこしい問題だったりしたが、それまで学生運動の中心だった「自治会」を無視して、闘いたい者だけで勝手に闘うための組織を、自治会とは別に結成したのである。自治会はすでに「真の前衛党」志願の諸党派による主導権争いの場と化しており、目の前の問題に臨機応変に対応できなかったのだ。自治会に代わるこの新しい組織が「全学共闘会議」、略称・全共闘である。
 全共闘は個人加盟の組織、というより加盟したり脱退したりするための手続きもなく、その闘争の現場にいて、自分は全共闘だと思っていれば全共闘であるような、組織の体をなさない組織だった。
 「全共闘では闘争は、だれかが提起し、その呼びかけに答えて個人個人が自発的に参加することによって成立する。ある行動に参加するかしないかは自発的な判断でしかない。責任はあくまで個人にある。ある行動のための行動委員会などにおける役割分担があるだけだった。(略)。全共闘の出現によって党派の活動に参加せずに運動を続けてきた人びと、すなわちノンセクトラジカルが運動の前面に躍り出たのである」(小阪修平『思想としての全共闘世代』)
 党派の活動家を革命運動の専門家とすれば、全共闘はいわば「素人の乱」である。玄人は、自らの属する組織が自らに割り当てた任務を果たせばよいのだが、素人は、自分が何をすべきか、何をしたいのか、そもそも何のために闘争に参加するのかを、最初から最後まで、その都度その都度、自らに問わなければならない。
 フツーの若者が、日常生活を送る中での素朴な疑問から出発して、自問自答しながら闘争を担っていく過程は、後づけのゴマカシを抜きにした率直な回想記であれば(これがまた少ないんだ。引用した小阪氏のものが一番いい)、時代が違うのでつい右傾化してしまった(現状ではそれが正解なんだが)諸君も読めば共感できると思う。

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 ところで全共闘のノンセクトラジカルたちは「戦後民主主義批判」をおこなった。諸君、敵の研究を怠ってはいけない。戦後民主主義批判はもともと60年代に「極左」の全共闘が云いだしたことだ。
 彼らの戦後民主主義批判は、何よりもまず当時の「進歩的知識人」たちの醜悪な振る舞いへの批判としておこなわれた。口先では物わかりのよさを装いながら、いざ全共闘によって大学(「進歩的知識人」たちの職場)の機能がマヒさせられ、安全圏からの物云いが難しくなると、手のひらを返して学生を非難し、機動隊の導入を求めたりする。こうした欺瞞や言動の不一致は、全共闘に参加した若者たちが最も忌み嫌うものだった。
 さらに、最近では右から同じような批判がされているが、戦後民主主義とは「一国平和主義」にすぎないではないかという批判もされた。ただし文脈は違う。むしろ逆かもしれない。当時はベトナム反戦運動が世界的に高揚し、全共闘の学生たちも日本でこれを担った。共産党や社会党が主導してきたそれまでの平和運動は、いわば被害者意識による運動だった。兵隊にとられ、空襲に逃げまどい、原爆を落とされた。あんな悲惨な戦争はもうイヤだという運動だ。
 「それにたいしてベトナム反戦運動は、アメリカのベトナム戦争に日本も加担している、日本はベトナム戦争の後方支援基地となっている、日本で『平和』に暮らしているあなたもベトナムに落とされている爆弾と無関係ではないどころか積極的に加担しているのだ、という『加担』の論理をつきつけたのであった」(小阪、同書)
 戦後民主主義批判と並んで、全共闘運動を特徴づけたのが「自己否定」というスローガンだ。
 「当初はあくまで、学問の中立や研究という美名で自己を肯定するのではなく、学問が社会関係のなかで特権的・加害者的な役割をはたしているのではないか、そういった研究者エゴを自己否定せよ、という内容だった。多くの『一般学生』にとっては、いままであまり自覚的ではなかった、東大生であることの特権的立場を見直すという意味合いをもっていたのである」(同)
 東大全共闘が云いだした「自己否定」は、やがて全共闘運動全体に広く流通するようになった。
 機動隊や共産党との物理的衝突は日常茶飯事であり、逮捕されたり、場合によっては命を落とすかもしれない闘争に、ともすれば臆しそうになる自分を奮いたたせるためにも使われただろう。素人は、逃げ出そうと思えば逃げ出せるからだ。さまざまの問題から目をそむけ、安穏とした市民生活に自足してしまいそうな自己を否定しなければと。「玄人」が大多数であった年長世代の活動家は、「全共闘は人生論で政治運動をやっている」としばしば非難したという。
 冒頭に述べたように、全共闘運動は70年を境に後退過程に入る。機動隊との衝突に象徴される国家権力との正面戦で勝利を収めることの困難さが日々実感され、無力感と焦燥感が広がる中、それでも運動を持続しようとする活動家の多くは、公害問題や空港建設反対などの個別テーマに分散していった。とくに差別問題への取り組みが広がり、これが先の「自己否定」のスローガンと結びつく。ベトナム反戦の過程で顕在化した「加担の論理」もこれに接続された。差別はいけないと考えている自らも、実は知らず知らず差別意識にとらわれ、加害者として存在してしまっているのではないか。潔癖なまでの自己切開を、自身にも他者にも求めた。『われらの内なる差別』という本がよく読まれた。

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 私は諸君がよく口にする「自虐史観」という言葉に強い違和感を持っている。その言葉で批判される歴史観を間違ったものだと考える点では、私も諸君と同じだ。
 しかし批判は有効でなければならない。諸君が自虐史観と呼んでいるものは実は「自己否定史観」であり、全共闘の後退期に芽生えた問題意識がその出発点となっている。「自己否定」のスローガンは、それが云われ始めた当初、それほど奇異なものではない。しかしその延長線上に、今日の左翼が持つ奇異な歴史観がある。どこかで何かがおかしくなっているのだ。単に結果だけを見て、「自虐史観」のレッテルを貼って済ませるのは簡単だが、不毛だ。たしかに結果はおかしいのだが、そこに至る過程(今回、細かくは書いていない)にはそれなりの必然性がある。
 60年代後半の全共闘は、おそらく諸君にも理解や共感が不可能な運動ではない。それがなぜこうなるのか。敵を真に粉砕するためには、敵の研究を怠ってはならない。