我が国は“法治国家くずれ”である

晋遊舎『スレッド』連載「ネット右翼矯正収容所」第二回

 法治国家という言葉がある。
 だがこの言葉、多くの人が使い方を間違えている。
 何か大きな事件が起きる。警察が記者会見で、「これは法治国家に対する挑戦だ!」と叫ぶのを目にした時、諸君が違和感を持たないとしたらそれは諸君がやはり法治国家という言葉の意味を正しく理解していないのだ。
 法治国家とは何か?
 それを正しく理解するには、この「法治」という言葉の対義語を想起すればいい。
 「法治」の対義語は「徳治」(「人治」ともいう)である。
 政府の活動つまり国家権力の行使のやり方を、あらかじめ法によって定めるのが法治主義であり、そうでないのが徳治主義である。「法によって定める」のは「制限する」のと同じことだから、つまり国家権力の行使のしかたを法で制限するのが法治主義、制限しないのが徳治主義ということになる。
 徳治主義では、法ではなく、絶対に間違いを犯さない個人なり集団なりのその「絶対に間違いを犯さない優れた資質」つまり「徳」が国家権力の行使を正当化する。
 古いところでは、プラトンが理想とした「哲人政治」、真理を把握した哲学者が国を統治すべきであるという考え方は一種の徳治主義だし、孔子が唱えた儒教も、正しい政治の根本は為政者が自ら高い徳を備えることだと説く徳治主義である。とくに後者、儒教を国家公認の思想とした中国の歴代王朝は、だから徳治国家である。
 中世末期、いわゆる「絶対主義」の時代のヨーロッパの国々も、国王の権力は神から与えられた神聖なものだという「王権神授説」に基づいた一種の徳治国家である。
 近現代では共産主義の国々がそうだ。共産党という、真理を体現していると称する集団が独断で政治をおこなう。イスラム原理主義者が目指す「政教一致」の「神政政治」もやはり徳治主義だ。
 もちろん、徳治主義の国家の権力者たちが、必ずしも本当に「真理を体現」しているか、高い「徳」を備えているかという問題は、とりあえずここでは無関係である。実態がどうであるかは別として、有徳者にのみ政治をおこなう資格があり、現に為政者の座にある者は当然有徳者であるはずで、なるべくして為政者となったのだと考えるのが徳治主義である(云うまでもなく例えば儒教では、「革命」は為政者が徳を失った結果起こるものとして正当化される)。
 法治主義は、こうした徳治主義を否定する考え方だ。「絶対に間違いを犯さない為政者」なんてありえない、稀にありうるとしても、歴代すべての為政者がそうだとは限らないから、その権限の範囲はあらかじめ法で定めておくべきだというのが法治主義である。

 で、冒頭の話に戻る。
 凶悪犯罪が発生すると、「法治国家に対する挑戦だ!」と叫ぶ人がいる。
 おいおいちょっと待て、と。
 法治国家とは、国家権力の行使のしかたが法によって制限されている国家のことで、凶悪な犯罪をおこなうことはこれとまったく関係ない別次元の話である。
 云い方を換えれば、「法治国家に対する挑戦」ができるのは為政者だけだということだ。法治国家が禁じているのは、為政者が法によって認められた範囲を超えて国家権力を行使することである。「法治国家に対する挑戦」とは、だから為政者がこの禁を破ろうとすることで、そんな「挑戦」はそもそも為政者以外の一般国民には原理的に不可能だ。
 法律の専門家であるはずの法曹すらこんな簡単な論理を理解せず、凶悪な殺人犯を、「法治国家に対する挑戦」なるヘンテコなフレーズで論難するバカ丸出しの検事や裁判官が無数にいる。

 遵法精神なる言葉についても同様だ。
 例えば諸君の多くは、殺人が法律で禁じられているかに誤解しているはずだが、もちろん(?)そんなことはない。
 刑法には、「人を殺した者は、死刑または無期もしくは三年以上の懲役に処せられる」とある。つまり、「人を殺すな」とは一言も書いていないのである。
 この条文は結局、ある者が人を殺したことが判明した場合、政府はその者にどう対処しなければならないかを定めている。例えば人を殺した者に対して、裁判官は罰金刑や「懲役2年」とかの判決をくだしてはならない(検事も、そういう求刑をしてはならない)ことが定められているのである。つまり例えば私は、殺人罪について定めたこの刑法199条に違反することは原理的にできない。私は裁判官でも検事でもないからだ。
 法律というのはすべてそうで、我々民間人ではなく、政府当局による行為について定めたものだ。
 政府当局は法に基づいて行動しなければならない。殺人事件が発生したら必ず捜査して、真犯人を検挙する努力をしなければならない。刑事訴訟法や警察法にそう書いてあるからだ。被害者が例えば反政府組織のメンバーであっても、「ま、いっか」で済ますことが禁じられている。捜査が実り真犯人を検挙したら、特別な場合(明らかに正当防衛であったとか、精神病者であるため責任を問えないとか)を除いて、必ずその者を裁判にかけなければならないことも法律で定めてあるから、警察官が勝手な判断で放免したり、逆に勝手に処刑したりすることはできない。そして裁判では、裁判官がその者を有罪と判断するなら、先に述べたように決まった範囲の刑罰を科す判決しか出せない。
 このように、法律を守らなければならないのは終始一貫して政府当局(具体的には個々の公務員)であって、我々民間人ではない。
 表面的な現象として、故意に人を殺したことが発覚すれば政府当局によって懲役を科されたり死刑に処せられたりする可能性が高い(逃亡にでも成功しないかぎり)から、我々はそもそも人を殺すことを禁じられているかのように錯覚してしまうだけである。
 そういうわけだから、我々民間人はどう転んでも法律に違反することができない。
 法律によって行為の制限を受けているのは政府であり、だから「遵法精神」を持たなければならないのも政府、現実には勤務中の公務員だけで、それがつまり「法治国家である」ということであって、例えば「被告人は遵法精神を欠いている」などとしたり顔で云う検事や裁判官はこれまた無数にいるが、云うまでもなくそれもバカ丸出しなのである。

 唐突に憲法の話になる。
 解釈改憲という言葉がある。
 これがまさに、「法治国家に対する挑戦」の最たるものだ。
 憲法は、諸君も知ってのとおり「最高法規」であり、憲法の条文と矛盾する法令は制定できず、つまり憲法で認められた範囲でしか国家権力の行使をおこなえない。
 「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と憲法に定めてある以上、どう考えても「陸海空軍」以外の何物でもない自衛隊は、本来あってはならないものだ。
 誤解のないように云っておくが、私は憲法9条をろくでもないと考えている。やらなきゃしょうがない戦争というものはあるし、そのためには「陸海空軍その他の戦力」が絶対に必要だ。自衛隊の存在が違憲であることと、軍備が必要かどうかは別の問題だ。
 政府は、この本来あってはならない陸海空軍の存在を正当化するために、ヘリクツをこねて9条を死文化させる「解釈改憲」をおこなってきた。陸海空軍は持たせないという、法による国家権力の行使の制限を逸脱する努力、つまり「法治国家に対する挑戦」が公然とおこなわれてきたのだ。
 憲法といえどしょせん人間が書いたものだし、万能であるわけがなく、グレーゾーンの存在を完全には排除できない。政府のこの施策は憲法違反ではないかといった問題が時折発生すること自体はべつに不正常ではない。しかし、自衛隊はグレーゾーンではなく完全にクロの存在である。こんな堂々たる憲法違反がおこなわれる国はもはや法治国家ではない。歴代の政府による「法治国家への挑戦」はまんまと成功したのだ。
 では法治国家ではないこの国は徳治国家なのかといえばもちろんそうではない。為政者の行動を正当化する、例えば共産主義とか仏教あるいは神道でもいいが、何かそういった、人工の法を超えた真理のような公認のイデオロギーはこの国には存在していないからだ。
 日本は、つまり名ばかりの法治国家である。タテマエとして法治国家であることになっており、国家権力の行使は、違法を合法だと強弁するヘリクツによって正当化される。私は、こういう国家権力が一番タチが悪いと思う。
 自衛隊が陸海空軍ではないというほどのヘリクツがまかりとおる国では、もう何でもありになってしまう。この特大のヘリクツが許されるなら、あらゆる大中小のヘリクツが許されるから、政府はやりたい放題だ。
 私は護憲論者ではもちろんないが、改憲論者でもない。9条はろくでもないが、そもそも政府が憲法によって縛られていないこの国では、あっても何の問題もない。もちろん改憲したっていいが、憲法を遵守しない習慣を身につけた政府は、どうせ新憲法も守らないだろう。だから私には、ほんとに憲法なんてどーでもいい問題に感じられる。この国はもう、まともな法治国家にはならないだろう。

 私はファシストである。
 さっきはわざと省略したが、もちろんファシズムも徳治主義である。ファシスト党という、正しい思想を身につけた者のみで構成された集団がすべてを決めていく政治形態を私は理想としている。
 必ずしも真理や正義とは合致しない「法」(しかも民主主義の多数決原理で定められる)が支配する法治国家なんてそもそもろくでもないし、まして「法治国家くずれ」とでも呼ぶ他ないこの国の体制にはとうてい我慢ならない。
 「もはや政府転覆しかない!」のである。