私は“右傾化する若者たち”の味方である

晋遊舎『スレッド』連載「ネット右翼矯正収容所」第一回

 読者諸君! 私が外山恒一である。
 このような新雑誌をついつい手にとってしまう諸君がよもや私を知らないなんてことはあるまいが、念のために第1回目の今回は軽く自己紹介でもしておこう。「ネットで検索してくれ」の一言で済ますこともできるのだが、私はそもそもネットが嫌いだし、むしろネットと疎遠な諸君にこそ私の言葉を届けたいとも思うからだ。
 おそらく先日の東京都知事選で初めて私のことを知ったという諸君が大半だろう。しかし私はもうかれこれ20年近い活動歴を持つ歴戦の革命家だ。
 私は現在36歳で、1970年の生まれだからつまり自分の10代と1980年代とがピッタリと重なっている。私がこの世界にデビューしたのはその80年代の後半、つまり10代の後半のことだ。
 若い諸君はどうも誤解している場合が多いようで、私もよくそうした諸君と話していて戸惑うのだが、80年代はまだ「冷戦」の真っ最中で、世界はソ連を中心とする東側諸国と、アメリカを中心とする西側諸国とにはっきりと色分けされ、相争っていた。正確を期するとややこしくなるので特に今回は割愛するが、東側諸国が左翼勢力、西側諸国が右翼勢力である。日本は云うまでもなく西側諸国の一員であり、つまりその歴代の自民党政権は当然、右翼政権であったということになる。
 若い諸君がよく誤解しているらしく感じられるのはこのあたりで、どうもかなりの諸君が、戦後の日本がずっと左翼勢力の支配下にあったと思い込んでいるようなのだ。諸君の中にもしそう思い込んでいる向きがあれば、それは単に間違いなので認識を改めるように。日本の体制が左傾したのは冷戦終結後のことで、そこらへんは次回以降おいおい説明する。
 若いのに少なくとも気分レベルでも反体制な方向へ行かないような連中はこれはもうどうしようもないわけで、だから現在のような左翼体制下で若い諸君が右傾化するのは圧倒的に正しい。私もまた正しい青春時代を送ったので、当時の右翼体制下にあって当然ながら左傾化した。
 といってもそんなに大げさな話ではなくて、高校生であった私は、学校当局による理不尽な生徒管理に強く反発したのだ。私は基本的にマジメな優等生であったから、その反発の表現も、盗んだバイクで走りだしたり、夜の校舎窓ガラァス壊してまわあぁったりするような方向ではなく(こういう尾崎豊ネタって今の若い諸君にも通用するんだろうか)、人権思想について勉強し、それをタテに生徒指導部の教師に論戦を挑んだり、放課後の空き教室に仲間を集めて管理体制打破の陰謀をめぐらせたりするようなものであった。
 80年代の後半、私のような存在はもちろん圧倒的少数派だ。
 ただし、全共闘の敗北(1970年前後)以降、いわゆる学生運動がかれこれ30年以上、影も形も存在していないかのようなイメージは、これは完全にマスコミが作り上げた嘘であるから注意が必要だ。もちろん縮小再生産をくりかえしながらではあるが、それでも80年代の前半までは、そうした従来型の学生運動もそれなりの存在感をもって持続していた。それがいよいよ風前の灯、ほぼ絶滅に近い状態になるのが80年代半ばで、つまり私が政治的に物心ついたのはそのさらに少し後だ。だから圧倒的少数派として出発せざるを得なかったのだ。
 しかしこれまたマスコミの情報操作によって、今でもそんなことはなかったことにされたままであるのだが、80年代の後半は、従来からのそれとは隔絶した、若者たちによる新しい政治運動の高揚期でもあった。
 今のようにネットなんて便利なものはまだ存在しないから、私のような圧倒的少数派は、孤立感にさいなまれながら細々と活動を開始した。しかしそもそも「管理教育」は当時、単に私の通う高校に特有の問題ではなく全国的な現象で、当然のことながら私のような若く孤独な活動家は、互いに知り合う機会がないだけで、それこそ全国的に散在していたのである。そうした若者たちに熱狂的に支持されたのがブルーハーツで、私たちはブルーハーツの曲に背中を押されるようにして、互いに“まだ見ぬ仲間”を求めていっそう精力的に動きまわる。すると案の定、探せば探すほど仲間は見つかるもので、互いに発掘したりされたりしながら、わずか2、3年後には、闘う若者たちの全国的なネットワークが形成されていた。
 当時、社会派チックな若者の多くは、私のように反管理教育をテーマとしているか、あるいは反原発運動に取り組んでいた。
 私は18歳の時に、高校時代の闘争経験をまとめて『ぼくの高校退学宣言』(徳間書店)という本を出したためもあって、次第に当時の反管理教育運動の主要な指導者の1人と見なされるようになった。
 こうなると自然に、私自身も当時の左翼運動総体の一部分として組みこまれていく。教育問題に取り組む大人の活動家との付き合いも始まるし、原発をはじめ他の社会問題に取り組む同世代の活動家をとおして、結局さまざまの運動に顔を出すようになるからだ。
 しかしこうして既成の左翼シーンとの関係が深くなるにつれて、それらの運動に対する違和感や疑問が、私の中で大きくふくれあがっていく。そしてそのことを実際に彼らの前で口に出して云うようになり、次第に煙たがられ、やがてシーンの和を乱す“運動の破壊者”として非難の集中砲火を浴び、排除・追放の憂き目を見る。
 ここらへんの詳しい経緯は『注目すべき人物』(ジャパンマシニスト社)という本に書いたので、興味のある向きは買うか、少し値の張る本なので図書館ででも探して読んでほしい。
 従来の左翼運動シーンに自らの居場所を失った時、私は20歳になっていた。
 90年代つまり私の20代は、従来のそれとは違う新しい左翼運動の潮流を生み出すための試行錯誤の連続であり、結論から云えば失敗の連続だった。
 10代の終わりに知り合った全国各地の同世代の同志の中にも、やはり私と同じように従来の左翼運動に疑問を持ち、そこからの脱却をめざしてもがき苦しんでいる者がいくらか存在したから、時に彼らと共闘したり、あるいは芝居や音楽など文化シーンに身を置く同世代と交流する方向も追求した。
 その過程で、私の運動はもはや左翼運動の枠に収まっているのかどうかも不明な奇妙なものとなり(私自身はそれを“異端的極左活動”、つまりは異端的ではあるがあくまで左翼運動の枠内であると少なくとも当時は認識していた)、また文化シーンとの交流の中でさまざまの芸というか余技というか、エンタテインメント的な表現手法を身につけもした。いずれも先日の都知事選に活かされていることは特にその政見放送を見た諸君にはお分かりいただけようが、つまりああいう誰にでもできそうな“コロンブスの卵”的なことも、こうした十数年の地道な活動の積み重ねなしにはあり得ないのだ。
 異端的とはいえ左翼の圏内にいると自認していた私だが、そんな私にもついに転向の瞬間が訪れる。今から約4年前、32歳の時だ。
 90年代のさまざまの実践を通して、従来型の左翼活動家たちからますます敵視されるようになっていた私は、2002年春、突如逮捕される。ややこしい事件なので詳細は省くが(関心ある向きは『最低ですかーっ!』(不知火書房)という私の著作を買って読むべし)、要は私をもとより敵視していた九州の左翼活動家たちが、私がプライベートに起こしたショボい痴話喧嘩をまるで重大な女性サベツ事件であるかのように騒ぎたて、反権力の左翼のくせに警察をそそのかして介入させたものである。
 さらにややこしい経緯があって(これも前掲『最低ですかーっ!』参照)、私の獄中生活は丸2年もの長きに及び、その過程で従来型の左翼運動に対する私の憤りも頂点に達し、またもとより私は現政府権力を敵視する立場であるから、それら左翼勢力と現政府権力との双方を同時に敵としながら最終的には勝利する道がいかに有り得るかと、狭い独房でギリギリの思考を積み重ね、ついに「ファシズム」という、戦後、左翼はもちろん右翼からもほぼ封印され省みられることのなかった、忘れられた革命思想と出会うのである。つまり03年春、私は獄中で“ファシズムに転向”したのである。
 ファシストとして獄中で生まれ変わった私の、事実上最初の実践となったのが、先日の東京都知事選であった。
 もとより当選を目的としていた石原慎太郎氏と、今後本格的なファシズム運動を展開するにあたって必要な知名度を獲得することだけが目的であった私、つまり新旧2人のファシストだけが目的を完全に果たし勝利した素晴らしい選挙結果だった。
 こうして私はこのような雑誌連載の枠を十数年ぶりに提供されるに至ったわけだが、かの『マンガ嫌韓流』の版元が創刊した“若者向け論壇誌”で、私は、“ネット右翼”とか“ぷちナショナリズム”などの云い回しで表現されることの多い“右傾化する若者たち”を主要な読者層に想定し、諸君をビシバシ啓蒙してゆくことにする。
 むろん心配は無用だ。つまり私は諸君を悔い改めさせ、左翼思想を注入しようというのではない。逆だ。左翼は諸君がナメてかかれるほど非力ではない。この国を奴ら左翼の支配から真に解放するためには、諸君は古いナショナリズムの殻を脱ぎ捨て、ファシストとして再生しなければならない。
 私は“右傾化する若者たち”の味方だ。