T作戦という名のM作戦

2012年4月13日執筆

 目の前に大量のツクシがある。こんもりと山をなしている。
 毎年つい採りすぎてしまう。採っているうちに夢中になって、気がつくとまさに乱獲している。そこらじゅうにアホみたいに生えているから、乱獲したってエコロジカルな問題は発生しない。
 驚いたことにツクシと云って分からない人も意外と多かったりする。毎年採ってるんですと云うと、十人中二、三人が、ツクシ? ツクシって何です? と訊き返してくる。そういう人もたぶん現物を見りゃ分かるだろう。春になると土手や田んぼのアゼ道とかにニョキニョキと伸びてくるあれだ。べつに田舎の田園地帯に行かずとも、土の地面さえあれば市街地にもけっこう生えている。空き地や駐車場の隅とか、道路の中央分離帯とかにまで。筆みたいな形をしていて、じっさい漢字では土筆と書く。三寒四温な雰囲気になってくると大量発生し、桜が満開になる頃にはもう枯れはじめる。
 俗にツクシはスギナの子と云い、ツクシの時季を逃すとあたり一面がスギナになっているので、私も最近までツクシが成長してやがてスギナになるものだと誤解していた。よくよく考えてみるとスギナになりかけてるツクシなど見たことがない。どういうことだと改めて調べてみて驚いた。あれは同じ地下茎からそれぞれに生えて地面に顔を出しているもので、ツクシもスギナも生長しきるとただそのまま枯れるのだという。じゃあ何なのだと云えば、要するにスギナが光合成担当、ツクシが生殖担当で、上半身と下半身みたいなものらしい。ツクシはただ胞子を飛ばす係で、飛ばしきると力尽きてただ枯れてしまうのだ。
 いやツクシがどういう生き物なのかの説明はいい。そんなものを採ってどうするのだとこれは十人中五、六人いや七、八人が訊いてくる。あれが食べられるものだとは思いのほか知れ渡っていないらしい。
 結構うまいのである。天ぷらにする人もあるらしいが、それは私も試したことがない。私はもっぱら卵とじである。食感はホウレンソウに似ている。似ているが、微妙に違う。尖端の胞子を含んだ部分が少し苦く、子供の頃に食べさせられて嫌いだったという人が、食べたことがあるという人の中には多かった。しかし私は子供の頃からこれが大好物だった。母親の調理法がよかったのだろう。甘み寄りに甘辛く煮て卵でとじるので、苦味もまったく気にならなかった。
 子供時分には季節になるとよく祖母に連れられてツクシ狩りに行った。自分でも採っていたのは中学生ぐらいまでだったろうか。母は毎年採り続けていたので、大人になってからも、たまたまその季節に実家に寄れば懐かしいツクシの卵とじが登場した。相変わらず美味くて、まさに御飯何杯でもイケることになる。が、よしまた自分でも採りにいこうという気にまでは長らくならなかった。
 それが三、四年前、ふとしたことで私のツクシ熱に火がついた。もう晩春という頃、山奥に住んでいる友人が何かの話の流れで、ついこないだまでツクシがそこらじゅうに生えていたよと口にした。下界ではとうに時季は過ぎていたが、標高の高いところは当然気温も低いので、下界とはいくぶん時差が生じるのだ。友人が住むのは鹿児島北部の高原地帯である。鹿児島なのに冬は雪に覆われる、ちょっとした豪雪地帯である。私は居ても立ってもいられなくなった。まだ間に合うかもしれない。同じぐらいの標高の、日当たりの悪そうな一帯を探せば、まだ残っているかもしれない。あの絶妙に美味いものが、久々に食えるかもしれない。
 さっそく探索に出た。苦労したが、あるところにはあるにはあった。ほとんど四半世紀ぶりぐらいのツクシ狩りであったから正確な判断はつかなかったが、しかしどうも旬を過ぎているような気がした。たいていはもう胞子を飛ばしきって、いわゆる開いた状態になっている。生えてきたばかりのツクシの尖端の要するに生殖の可能性の中心な部分は固く締まっているが、やがて模様に沿って隙間が生じ、緑色の胞子がそこから飛び散り始める。隙間は次第に拡大し、摘んだ拍子にそこからフワッと胞子がこぼれ落ちて手の甲に冷たい感触が走るようなものが食べごろの、良いツクシであるような気がする。ところがさすがに晩春ともなればいくら高原のツクシといえどもみなすっかり胞子を飛ばしきって、多くはもう枯れてしおれてしまっており、少数がかろうじてしおれないまでも見失われた可能性が薄茶色に乾いている。
 その少数の方をかきあつめて袋につめ、専門家のもとへ持参し鑑定を依頼した。専門家は、大丈夫です充分まだ食べられますと問題のツクシを一目見るや断言して私を安堵させた。専門家が云うには、ツクシというのは実際にはあの胞子を含んだこれ見よがしなアイデンティティ部分ではなく、主に茎の部分を食べているものだ。私は目からウロコの落ちる思いでその話を聞いた。たしかにそう云われてみれば私は茎を食べていた。特徴的な御筆先部分はいわばアクセント程度のものだった。ああ先達はあらまほしきものなり、専門家すなわち私の母である。
 しかし一方で母が云うには、そりゃあたしかに枯れて開いたツクシよりも、開きかけの青年ツクシの方が美味いことは美味い。来年はもっと早く採りにいくことだと常識的な母は常識的な助言を私に与えた。非常識な私はもちろん違うことを考えた。九州にはもっと標高が高く、寒いところがある。熊本と大分の県境付近の高地へ行けば、ひょっとするとまだ可能性充填装備の青々としたツクシが生えているのではあるまいか。
 行ってみると、あった。大量にあった。
 鑑定のついでに、専門家はツクシの保存法についても私に新知識を授けていた。一度熱湯に通した上で冷凍庫に入れておけば、ツクシは半年だって一年だってもつらしい。おかげで私はその年、秋まで時々ツクシを食べることができた。
 以来のツクシ熱である。
 去年などは、革命の同志たちの協力を得て、一人では食べきれないほどのツクシを採り、リサイクルショップで専用の冷凍庫まで購入してそれを満杯にした。ちょうどツクシの時季にオープンした、私がカウンターに立って接客する革命の拠点BAR「ラジカル」で、ちょっとした話題作りも兼ねてツキダシにツクシの卵とじを一年じゅう出すことを思いつき、実行に移したのである。
 と、ここまでは長い前置きである。
 問題は今年のこの大量のツクシだ。目の前に現れたこの、山。
 BARラジカルはもちろんまだ続いちゃいるが、私が人寄せパンダとして常時カウンターで接客するのは開店当初の半年か一年とオーナーとの間で話がついており、結局十ヶ月いて今はもう役目を退いている。ツキダシのツクシは私の存在とセットのようなもので、今年も出したっていいのだが私のウンチク抜きでは客に出す意味が減じる。どうせつい採りすぎるのだからと逆転の発想で去年はいっそわざと採りまくって開店したBARの面白アイテムとして活用したのだが、今年はただ意味もなく採りすぎている。
 どうすんだ、これ。
 売るほどあるとはまさにこのことだな、と思って誰もいない部屋で苦笑してしまった次の瞬間、ひらめいた。
 売ればいいのだ。

 ツクシはただ採ってくればそのまま食えるわけではない。ハカマ取りという過程が採ると食うとの中間にある。節というか、平均的なものでは二、三センチおきにギザギザの衣が茎をとり巻いてる部分があり、ハカマと呼ばれるここは食べられないのでその一つ一つを手作業でむしり取っていかなくてはならない。これが結構時間を要する。土や、飛び散った胞子もハカマに付着しているので、長時間むしり続けていると指先が真っ黒になり、どうかすると染みて痛くなってさえくる。去年はこれがとくに同志たちに不評で、不満の声が噴出して危うく私の革命結社は解体してしまいそうになったほどだ。チマチマした作業が好きな私にはあまり苦にならないのだが、たかがツクシで偉大な革命の事業を頓挫させるわけにはいかない。今年は同志たちの協力を請わず、一人黙々とハカマを取り続けるしかない。
 黙々とハカマを取りながら構想を練った。
 ちょうどツクシの時季が終わるあたりで今度は花見の時季になる。そこで売ればいいのではないか。桜の名所に行って、花見の席を一つ一つ回りながら、ツクシいかがっすかー、ツクシいかがっすかー。
 実はここ数年、花見でいわゆる流しの仕事をしていた。もともと普段の生業はいわゆるストリート・ミュージシャンである。夜の飲み屋街で、ギターケースを広げて好きでもない往年のフォーク・ニューミュージックのスタンダード・ナンバーを好きであるかのように弾き語って、音楽の趣味が悪いとしか云いようのないオヤジどもから投げ銭を巻き上げて日々の糧を得ている。意外と稼ぎになるのだが、花見ではもっと効率よく稼ぐことができる。一つ一つ席を回って、一曲いかがっすかー、一曲いかがっすかー。お、いいね兄ちゃん、長渕やってくれ。あれを今年はツクシでやればいいのだ。流しでは大量の譜面など仕事道具一式が重くて大変なのだが、ツクシならそこらへんラクそうだ。長渕なんぞを熱唱する必要もない。
 すでに調理したものを小さなパックにして一個五百円で売って歩こう。もちろん卵とじだ。花見でツクシの卵とじ。なかなか風流ではないか。これはきっと売れるに違いない。それに極左から今では極右のファシズム革命派に転じている私が日本の伝統食を行商して回るの図、というのも我ながらとっても良い。ツクシがほんとに日本の伝統食なのかどうかはよく知らんけど。
 一パック五百円か、と目の前のツクシ山を見てちょっと考え込む。一パックのサイズにもよるが、ざっとこの山は五十パックぐらいかな。二万五千円。花見客のあの大盛況ぶりを思えば、五十パックぐらいすぐに売れてしまいそうだ。昼間と夜では花見客は入れ替わっているし、二、三ヶ所の公園をハシゴして一日じゅう売って回れば、一日百個、いや頑張れば二百個はいけそうな気がする。百個なら五万円、二百個なら十万円だ。えっ、日収十万? ボロ儲けじゃないか。原価はタダだし、卵を一パックあたり一個使うと計算しても、えーと卵は十個で百五十円とかだから百個で千五百円、二百個なら三千円。おー要するに日収九万七千円ということになる。
 想像以上にボロい商売だとよく考えたらまだ想像の段階で興奮した。
 しかし問題は採ったツクシの量だ。採りすぎたというのは自分が食う分にはということで、売って儲けるということになれば話は違ってくる。
 花見はもう来週あたり始まりそうだ。十日間か、ぎりぎり二週間ぐらいは花見の時季は続くだろう。ひるがえって目の前の末端価格二万五千円也のツクシでは、一日分にもなりゃしない。ああどうしてもっと早くこれを思いつかなかったか。来年はもっと早くから採りまくろう。生活拠点の福岡でツクシが生えまくるのは三月の半ばあたりだが、糸島とか、熊本の天草とか、局地的に暖かい一部エリアでは二月からもう生え始めると聞く。来年は二月三月とひたすらツクシを採りまくって、例の専用冷凍庫をギュウ詰めの満杯にし、いやもうさらに二つ三つ冷凍庫を入手して六ヶ所村なみの大規模貯蔵施設を建設しよう。となると今度は二週間で売りさばけなくなるかもしれないが、なに誰か人を雇えばいいのだ。去年はぶーぶー文句を云いやがって脱党しそうな勢いだった堪え性のない心身虚弱なファシスト党員どもも、日収十万となれば目の色を変えるだろう。本来ならば活動資金調達のアイデアひとつろくに出さんくせして日給千円でこき使って充分なところ特別に日給一万円にしてやると温情を示して売り子にし、一人あたりえーと計算すると八万七千円を搾取してやろう。花見の名所なんて九州じゅうにいくらでもあるし、五人雇ってやればこっちは日収四十ウン万円ではないか。二週間続けたら六百万ぐらいになる。十人雇えば一千万を超える。なんということだ。二ヶ月ほどがむしゃらにツクシを採りハカマを取りあとはそれを売りさばけば年収一千万。資本主義とはなるほどそういう仕組みであったか。一千万もあれば残り九ヶ月以上は革命運動に専念できる。活動資金も今とは段違いでもっと派手に活動できるようになる。ファシスト版M作戦。赤軍派もなぜツクシを売ることを思いつかなかったか、悔やまれる。
 仕方がない。今年は実験だ。花見が始まるまでのあと一週間のうちに、他のすべての予定をキャンセルして、とにかく採れるだけ採る。どこでも売れるとは思うが、とりあえず今年は鹿児島に売りに行くとしよう。一番の花見の名所が、福岡や熊本と違って平地で歩き回るのに苦労が少なそうだからだ。そして目論見どおり売れるようなら、来年からもっと大規模に、ファシスト党の虚弱児どもを鍛えて男にするの機能も兼ね、販路拡大して大儲けしよう。

 同居人でもあるファシスト党員のS嬢には協力してもらうことになった。「巨万の富を築くぞ」と云うと、「また始まったよ」と憐れむような表情を一瞬以上示したが、ぶーぶー文句を云う以外は黙って私に従ってくれた。すなわち数日間、私とS嬢は方々にツクシ狩りへ出かけ、帰宅するとひたすらハカマを剥く作業に専念する生活を続けた。ハカマを取り終わったツクシはバケツの水につけて泥やホコリやもしかしたら犬の小便などを洗い落とし、さらにいったん茹でて袋に詰め冷凍庫に放り込んだ。さすがに二人で数日分のツクシでは、冷凍庫も一杯にはならなかった。
 採りながら、剥きながら、茹でながら、詰めながら、放り込みながら、S嬢は「こんなもん売れるわけない」と愚痴りとおした。ふん、今に掌を返してこの革命の首領様の偉大な知恵を称え始めるに違いないのだと私は聞こえないふりをとおした。
 ツクシ狩りの行き帰りにちらほらと花見客の姿を目にするようになり、いよいよ私はS嬢と共にやがて書かれるだろう立志伝の起点となる鹿児島へ向かった。郊外の加治木町というところに例のツクシの専門家が暮らしており、その台所が今回の試験営業の出撃拠点となった。私よりもS嬢の方がはるかに調理がうまいので、調理はS嬢に任せ、私はその横でまだ残っていたハカマ取りを続けた。
 ツクシの総量が少ないので、ニンジンの千切りを混ぜて煮て量を水増しすることにした。色合い的にもそっちの方がいい。
 プラスチックのケースにパック入りのツクシの卵とじを並べ、一段八個、四段で三二個をまずは用意した。鹿児島入りが遅れ、初日は夜だけ売ろうということになり、鹿児島最大の花見会場に到着した時にはじっさい十九時を回っていた。鹿児島市中心部を流れる甲突川沿いの歩道は、一キロほどにわたって公園状になっており、花見客はそれこそわんさとそこらじゅうを埋めつくしていた。金曜の夜で、まさに今夜からが本格的な花見の開始というタイミングである。
 私は急遽自作した「ツクシの卵とじ 500円」と大書したプラカードを掲げ、S嬢がその後ろを商品搭載のプラスチック・ケースを抱えて、とりあえず川沿いの公園状部分を端から順に行商して歩こうということになった。
 ツクシいかがっすかー、ツクシいかがっすかー。
 歩き出すやいなや、すぐそばの宴席から手が挙がった。面白か商売ばしちょるでごわすなあと、言葉はいい加減な再現だが、とりあえず二個売れた。十メートルも歩かないうちにさらに二個、三個と売れて、「こんなもの売れるわけがない」と数日間愚痴り続けていたS嬢の態度もあっというまに豹変した。
 ツクシいかがっすかー、ツクシいかがっすかー。
 S嬢も小さな声を張り上げ始める。加治木で採れたツクシでーす。
 産地偽装まで始めやがった。そりゃあどこのツクシだって同じだし、ブランドがあるわけじゃないから偽装しても何ら問題はないけれども。
 じっさい、産地偽装した方が反応がいいことも分かって、私も同調することにした。ツクシー、ツクシーとやっていると、一瞬きょとんとした顔をされる。そこへ「ちなみに加治木産」と添えればどっとウケたりする。もちろん加治木だから面白いのではなく、鹿児島人に身近でちょっと郊外の地名ならどこでもいいのである。「一部霧島産」などと嘘を上塗りすればさらにウケる。
 結局、一時間半で用意した三二個が全部売れた。当然甲突川沿いの花見地帯をすべて踏破するまでもなく、半分も歩かずに店じまいになった。三二個だから売上げ一万六千円也。一時間半だから時給換算で一万円。二人でやったから時給五千円だが、五千円でもすごいし、本当はべつに二人でやる必要はなく一人ででも売り歩けるのだから、私はもう鼻高々である。どうだ見直したかと強要するまでもなくS嬢は私を褒め称える。総統の誇大妄想が現実化することもごくごく稀にはあるんだなどと最大級の賛辞を寄せる。
 加治木の拠点に戻る車中でも壮大な夢を語り合う。もうイッパシの資本家だ。ベンチャービジネスでウハウハのエグゼクティブだ。昨今ハヤリの意識の高い人だ。よーしジャンジャン人を雇おう。いやもう第三世界に工場を作って貧しい人民に日当五十円でハカマを取らせよう。東南アジアの広大な山村を丸ごと社有地にして原住民どもからツクシ採取権を奪いエヴィアンなみに非難されよう。人民から搾取したカネで財を成し、革命運動につぎ込んで人民に恩返ししよう。資本主義って素晴らしいなあ。革命で潰すのはもったいない気がしてきた。
 翌日も五十個ほど売れた。
 フライパンが小さいので一気に大量に作れず調理にやたら時間がかかってしまうのと、調理場と販売所が離れているので往復に時間がかかるのとがネックで、丸一日ぶっ通しで売ればもっと売れるはずなんだが、そこらへんは来年からいくらでも改良できる。今回は試験営業にすぎないのだ。来年からが本番だ。十年もすれば革命も成る。

 目の前にちょっとしたツクシの山がある。
 中サイズのコンビニ袋に満杯の、これからハカマを取らなきゃいけない最後のひと山だ。ふと不安がよぎって、そのまま秤に載せてみた。約五百グラムあった。
 ツクシを売り始めて三日目の朝である。
 この五百グラムは、思い出してみると、一人でちょうど一時間ほどで採ったものだ。
 時計を見た。
 新聞紙の上に中身をどさっとぶちまけた。胞子がブワッと舞う。四日ほど前に採ったもので、袋の中でも少し生長が続くから、採った時点では開きかけだったツクシも七分ばかりに開き具合が進み、袋の中で胞子が飛び散って、全体的に緑の粉をまぶしたような状態になっている。むろん食用にはまだ何の問題もない。
 意識して、できるだけ急いでハカマを取り始めた。
 時計をちらちら見ながら作業を続け、終えてみると約八十分経過。
 ハカマを取ったツクシをかき集めてまた元の袋に詰め直した。
 秤に載せる。三百六十グラム。
 スピード優先で、一つ一つハカマを剥がすよりも、我がツクシ専門家が近年確立した新技術、すなわちハカマのところでブチブチちぎるという野蛮な方法を採用したので、その方が早い代わりに結果として捨ててしまうことになる量も増える。もちろんそれは大した問題ではない。採るよりハカマ除去にかかる時間の方が長いから、量を増やそうと思ったらハカマを丁寧に剥くよりそもそも採る本数を増やした方がいい。だからそれはいい。
 今回、二日目からはコスト管理をきっちりやるべしということで、一パックにツクシは六十グラム使用と設定してそのとおりにした。これに卵一つと、ニンジンを三分の一本ぶんで、見た目なんとか五百円で売って悪どくなさげな案配になる。
 一時間で五百グラムのツクシを採ることができ、それを一時間かけてハカマを……いやいや、最初の五百グラムは関係ないのか。えーいどうも計算は苦手だ。
 とにかく最終的に三百六十グラムの実質食べる部分のツクシを用意するのに採るの六十分、剥くの八十分で計百四十分かかる。えーとそれからどうすればいいんだっけ? もっと簡単な計算の方法もあるような気がするが、その方法を考えるのにさらに時間を食いそうなのでこのまま続けよう。
 そうそう。一万円分のツクシだ。一万円分のツクシは一パック六十グラムかけるところの二十個分で千二百グラムである。この千二百グラムのツクシを生産するのに、えーと百四十分で三百六十グラムなんだから千二百わる三百六十で、えーと電卓電卓、三・三三三三……。ということは百四十分を三・三三三三……倍して、いややっぱり何かもっと簡単な計算法が、いやそれを考えるのが面倒だからもうこれでいくと決めたんだった、百四十分の三・三三三三倍は、えーと、四百六十六・六六六六……、およそ八時間。
 え? 八時間?
 一万円分のツクシをただ純粋に食材として用意するのに八時間?
 売るのにだいたい平均一時間だったから、九時間。調理する時間はもっと大きなフライパンを用意していくらか短縮できるにしても、採ってきてハカマを取ってそのまま調理するわけじゃないから、茹でて冷凍庫に入れるまでの時間もあるし、何よりもそもそもツクシを採ってる時間、今のはあくまでももう現場にいて、はいスタートで採り始めてから一時間で最終的に三百六十グラムになるツクシを採ることができるという話で、しかも四日前のあの場所はかつてない群生地、ツクシのパラダイスみたいなところを発見して、それはもうひたすら夢中で採り続けた結果の三百六十グラムである。場所も家から車で一時間はかかるし、それにいくらパラダイスとはいえ無尽蔵に生えているわけではない。S嬢と二人なら三時間もあれば採りつくしてしまう。どっちにしろ、たいていは田舎の田園地帯に到着してから、しばらくツクシの群生地を求めてさまよい歩き、実際に採ってる時間とたださまよい歩いている時間とを比べたら後者の方がずっと長いくらいだ。
 えーと、計算計算。さっきよりは簡単だな。千二百グラムのツクシを採るのにかかる時間は千二百わる三百六十で、あ、そうかこれさっきもやった、三・三三三三……だ。三時間ちょっと。ツクシを、採るんじゃなくて探してる時間。ほんとはたぶんもっと長いけど、甘く見積もって、採ってるのと探してるのが仮に同じぐらいの時間だとしても、これをさっきの九時間に足さなきゃいけない。十二時間ちょっと。ああもうこの瞬間に時給千円を割った。保存と調理にどれくらいかかるのか分からないけど、どう考えてもツクシの卵とじを売って一万円を得るまでには少なくとも十三時間はかかっている。これは、どんなに売れても、変わらない数字だ。百万円売り上げようが一億円売り上げようが、一万円分のツクシに含まれている労働時間は十数時間。最短でも十三時間だとして、時給七百六十九円也。
 フツーのバイトじゃん。つーかフツーよりちょっと安いぐらいじゃん。

 私はとっとと帰ることに決めた。
 ネックはやはりツクシを採る時間、そして何よりハカマを取る時間だ。第三世界に生産拠点を置くか、遺伝子を組み換えてハカマのないツクシでも開発すれば解決しそうな気はするが、そこまでの体制を確立する資金はツクシを売る以外の方法で作るほうが賢明である。
 難しい計算によって明らかとなった残酷な真実を、どうして帰るのともしかしたら何かを察してニヤニヤしているS嬢にいつ打ち明けよう。