九州ファシスト党〈我々団〉の選挙制度改革案

2016年1月


 

 九州ファシスト党〈我々団〉は今後、これまでのように“選挙”を超越的にその外から批判するの(だけ)ではなく、内在的に(も)批判する方向へと路線転換することにした。“対案提示型”(笑)というか、以下がこれから我々の掲げていく選挙制度改革案である。
 なおこの程度(たかだか原稿用紙約10枚分)の文章が「長い!」と感じられるような文盲に選挙権を与えてはならないというのが我々の判断である。

  1.最終的要求

 我々が理想とするファシスト党独裁の革命政権が樹立される以前の段階、つまり現体制下での我々の最終要求は“学力試験による制限選挙制”である。
 本来なら憲法改正が必要だが、軍備を持てないはずの現憲法下に軍隊が存在しているぐらいだから、“投票免許”取得試験の公平中立性の保障などによって、事実上の制限選挙を“普通選挙”と強弁する詭弁はより容易であるはずである。
 候補者たちが、ごくごく基本的な政治知識さえ持ち合わせない者たちからも集票しなければならない(かつ“有権者”の大半がそのような者たちである)現行の“普通選挙制”下では、選挙で“政見”が競われるわけがない。“学力試験による制限選挙制”が実現し、候補者たちは一定の政治的素養のある者だけに支持を訴えればよいとなれば、曖昧な“イメージ”や抽象的なキャッチフレーズだけがひたすら競われる現在の無内容で無意味な選挙戦は一変するはずである。

 試験は現行の公立高校入試問題レベルの(反グローバリズム派としては「英語」は入れなくてもよいと考えるが、入れてもかまわない)、つまり義務教育で扱われる内容をおおむね理解しているかどうかを判断するものとし、8割程度の得点を免許取得要件とすればよい。約5年おきに“免許更新”も必要とすべきだろう。
 あるいはセンター試験レベルの「現代文」の試験のみとしてもよい。国数理社(英)の4(5)教科試験にすると受験者にはそれなりに本格的な“受験勉強”に割く時間が必要となるが、「現代文」だけなら“暗記科目”対策的な準備は不要だし、また現代文読解の能力が充分にあれば、その時々のさまざまな政策や社会的課題について、候補者たちからの説明によって理解できるはずだからである。
 受験資格は国籍要件のみとし、年齢制限も設けない。
 自動車免許の取得にも筆記試験があるのだから、“投票免許”取得試験制も可能なはずだが、自動車免許の筆記試験と違って毎日のように実施することは困難だろう。試験は年に1回とか半年に1回とし、受験を妨害すること(受験のための有給休暇を認めないなど)は処罰の対象となる。

 あるいは、“投票免許”制ではなく、試験の成績によって“1票の重み”に格差を設けるのでもよい。試験を受けない者にも“1票”の権利を認めた上で、試験が例えば100点満点として、0点および1点の者は1票分の、100点の者は100票分の投票権を与えられる。これなら“解釈改憲”のハードルもずっと下がるだろう。

 “学力試験による制限選挙制”の要求が実現されない間は、我々は原則として投票ボイコットの方針を継続する。

  2.その他の個別的な選挙制度改革の要求

  期日前投票の廃止、もしくは、選挙期間制の廃止
 現行の公選法では、告示前には選挙運動はできない建前になっている。ということはつまり、選挙運動は告示と共にスタートし、選挙期間を通じて候補者たちが政見を競い、それをもとに有権者は投票先を判断する、という建前になっているはずである。にも関わらず、告示されるや否や投票が可能であるような期日前投票制度は、ただ数値的に投票率を上げるためだけに設けられた、選挙制度の建前を掘り崩してしまう欺瞞である。これは廃止されなければならない。
 あるいは、“選挙期間”すなわち“告示日”の制度の方を廃止することでこの問題を解決してもよい。投票日が1日だけでは投票意思のある者もさまざまな所用で投票に行けない可能性があるから、“投票期間”を例えば1週間ほど設定すればいいだろう。その上で、各候補者はいつから“選挙運動”を開始してもよいこととする。

  供託金制度の廃止
 供託金制度の目的は、公共の利益に反する単に売名などを目的とした立候補を防止することだが、現状ではその目的を果たしておらず、奇特な富裕者が売名目的や自己顕示目的の立候補をおこなう例が後を絶たない一方で、真摯な志を持つ(かつ個人資産を代替する組織的背景を持たない)非富裕者の立候補をほとんど不可能にしている。
 供託金制度に代わるものとしては、“立候補同意署名”制度が考えられる。国政選や首長選においては例えば日本国籍を有する千人の“立候補同意署名”の選管への提出を立候補受理要件とする。地方議員選においては例えば“その選挙における有権者総数の「議員定数×20」分の1”の署名数とする(現行の供託金没収ラインは「有効投票数÷(議員定数×10)」票であり、これに10%台から80%台にまたがる投票率の問題も加味した案)。
 とくに国政選や大きな首長選で見られる“売名立候補”だが、そうした候補者たちが千人分の署名を集めることは難しいだろう(例えば某有名“泡沫候補”などは現時点ではこれを集められるかもしれないが、それは彼がすでに売名立候補に成功した後だからであり、もしこの制度があれば彼はそもそもその最初の立候補ができなかっただろう)。
 もちろん立候補署名を集めるに際しての金銭やサービスの授受は選挙違反となる。不正を防止するため、選管が署名簿から無作為抽出で署名者本人に本当に署名したかどうかを確認するなどの制度も必要だろう。

 以上2つの選挙改革案が実現した場合には(1点目では選挙期間制の廃止の方を採ったとする)、選挙戦の様相は以下のごとくなる。
 立候補予定者は、いつからでも自由に選挙運動を開始できる。“立候補同意”の署名集めと、無事に立候補できた場合の投票依頼は並行して進められる。選管による立候補の受理は、“投票期間”スタートの例えば1週間前などに設定される。選管は立候補を受理した者のリストをただちに公表し、やがて“投票期間”がスタートする。
 “投票期間”中の選挙運動を禁止するかどうかは別個の論点だが、禁止した場合の方がさまざまの不正がおこなわれやすいように思われる(そもそも現在なぜ投票日当日の選挙運動が禁止されているのかが意味不明である。期日前投票が可能な以上、現に今でもすでに“投票期間”中の選挙運動はおこなわれていることになる)。
 選挙ポスター掲示板は、現行制度では告示直前に選管が各所に設置し、告示とともに候補者たちが各自の責任でそれらに貼っていくが、財力や組織背景を持つ候補者は告示されるや否や全箇所に貼ることができ、それがない候補者は選挙期間をつうじて少人数でただポスターを掲示板に貼って回ることに時間を割かれる不公平をもたらしている。これを解決するのは容易で、最初から全候補者のポスターを貼った状態で掲示板を設置すればよいだけの話である。あるいはこの掲示板はそもそも必要がないかもしれない。現在の選挙公報のようなものを、各公共施設に出向けば必ず入手できるようにしておき、また投票所にも置き、選管のサイトにも掲載するようにすれば充分かもしれない。

  小選挙区制の廃止、および政令市議選における選挙区制の廃止
 小選挙区制は死票を極端に増やし、少数意見の代表者を議会政治から排除する作用をしか及ぼさないので、廃止されるべきである。
 小選挙区制以前の中選挙区制でもよいが、いっそ完全な全国区制でもよい。有権者に与えられる選択肢は中選挙区制ではせいぜい5つ6つだが、完全な全国区制ならば一気に数百数千となる。ネットでの選挙運動を完全に自由化すれば、かつてと違って全国区制にしたからといって必ずしも莫大な資金が選挙運動に必要になるとは限らない。またかなりの少数派であっても議会に代表を送ることができ、多様な意見が国政に反映されうる。
 完全な比例代表制は、無党派での立候補を不可能とするので好ましくない。また、たまに散見される“当選させたい者ではなく落選させたい者を選ぶ”方式などという素人考えには当然、反対する。そのような方式では特色のある候補者に“落選票”が集中し、無難なことを云う目立たない者だけが“安全圏”に残り、現状よりもさらに“選挙で政見を戦わせる”ことは不可能となるのが目に見えている。
 政令市議選では現在、区ごとの選出がおこなわれているが、これも廃止されるべきである。定数が少ないということは、すなわち少数派はその議会に代表を送れないということである。大きな非政令市では50人の議員が同一の枠から選ばれるが、政令市では1つの区から選出される議員数はせいぜい12、3人であり、多くは7、8人、たった「2人」である場合さえある(堺市美原区など)。我々は、醜悪な“キラキラ地名”の跋扈や、歴史的・地理的に自然な行政区分の崩壊を招いた“平成の大合併”の完全撤回も別個に要求しているが、それは多くの新政令市においてこうした選挙制度の劣悪化をも招いた。より都市化が進み、したがって多様な価値観を持つ者どうしが共存しているはずの地域でこそ、少数意見が政治に反映されえないというのは不条理としか云いようがない。政令市議選での区割りは廃止されるべきである。

  戸別訪問や公開討論会などの自由化
 現行制度では、選挙期間中に候補者たちが有権者を戸別訪問したり、第三者が候補者たちに参加を呼びかけて公開討論会を開催したりすることが禁じられている(公開討論会などというものは、第三者が呼びかけない限り候補者どうしがわざわざお互いに調整して自主的におこなうわけがないので、実際まずありえない)。
 選挙カーの騒音に苦言を呈し、禁止してしまえと息巻く者は多いが、戸別訪問が禁じられているのだから、候補者たちは公道で大音量でアナウンスする以外にないのである。選挙期間中の戸別訪問が合法化されれば、選挙カーではなくそちらを選ぶ候補者も多いはずである。
 もちろん選挙カーが禁じられることなどあってはならない。政治的・非政治的の別を問わず、さまざまの街宣車や広報車の存在は言論の自由として保障されなければならない。が、多くの候補者たちは現在の選挙カーの運用方法が多くの有権者の不評を買っていることを充分に承知している。効果的な街宣によって一方での不評を相殺するだけの支持を取りつけられると考える候補者は引き続き選挙カーを出すだろうが、戸別訪問が可能なら不評を買うことも多い選挙カーは出さずともよいと考える候補者も相当数いるだろうから、少なくとも選挙カーの総数はかなり減るはずである。

  選挙権年齢について
 何歳から選挙権が与えられるべきかについて、我々はとくにこだわらず、二十歳でも十八歳でも、あるいは二十五歳でも十二歳でもかまわないと考えている。
 ただし、この問題に関する我々の唯一の要求は、選挙権が付与される年齢は、刑事罰が科されうる年齢と一致させなければならない、ということである。
 民主主義においては、国民は選挙権の行使をつうじて立法(議会)に参画できるという建前になっている。立法の内容(議員構成)に自らの意見を反映させる権利があるからこそ、立法府が定めた法律に基づいて処罰される可能性を甘受させられることも正当化されうる。
 現在の日本では十四歳から刑事罰が科されうる。ということは選挙権年齢も十四歳にまで引き下げられなければならない。一人前の責任主体と見なされるからこそ刑事罰が科されるのであって、ならば選挙権を与えてはならない理由はないはずである。逆に選挙権を与えるわけにいかない未熟な主体と見なすのであれば、通常の刑事罰の対象としてはならないはずである。
 日本におけるこれまでの多くの(おそらくすべての)選挙権年齢の引き下げをめぐる議論は、ただ気分的な、嘆かわしい水準にある。こうした問題は、原理原則から出発して考えられなければならない。
 もちろん冒頭に掲げた我々の最終要求、“学力による制限選挙制”案では最初から選挙権年齢を問題にしていないので、それが実現する場合にはこの議論は意味を失う(試験は何歳でも受けられるのだから、何歳から刑事罰の対象としてもよい)。

 以上、選挙制度の改変に関する我々の要求はすべて“少数派の利害”に基づくものである。
 少数派を徹底的に排除している(もともとそうだったのに近年ますますそのような方向での“改革”が進められた)現行の選挙制度下においては、我々は引き続き、(我々自身が候補者を立てる場合と、我々の他に「学力による制限選挙制」を掲げ、かつ選挙制度改革以外の論点でも我々のそれと決定的な齟齬のない政党や候補者が登場した場合を除いて)断乎として投票ボイコットを呼びかけ、自らも当然そうする。