政治活動入門


   政治活動とは何か

 政治活動とは何でしょうか。
 多くの人は、政治活動と聞いてまず選挙などを思い浮かべるでしょうが、もちろん政治活動と選挙運動とはイコールではありません。
 選挙に関係すること(有権者の一人として投票することや、特定の政党や候補者への支援活動をすること、あるいは自ら立候補することなど)も政治活動の一種ではありますが、実は政治活動の中でもかなり特殊なジャンル(?)にすぎません。
 あるいは、政治活動とは、何かの主張や要求を掲げて署名を集めたり、集会を開いたり、街頭演説や、ビラまきや、デモなどをおこなうことだとイメージする人もいるでしょう。
 しかしこの答えも、選挙運動しか思い浮かべられない人よりはいくらかマシですが、まだまだ正解とは云えません。
 基本的なことから考えてみましょう。
 ほとんどすべての人は、生きていく上で、何らかの不満や苛立ち、怒りや焦りや、周囲への違和感といった、いわば「生きがたさ」のようなものを抱えてしまうものです。
 Aさんが「生きがたい」理由は、突き詰めていけば結局2つしかありません。
 Aさん個人の資質や性格に問題があるか、社会や時代の状況に問題があるかのいずれかです。
 前者である場合には、これはもうAさん自身が個人的に努力して何とかするしかありません。
 しかし、後者である場合には、Aさん一人の努力ではどうにもなりません。
 もちろん、たいていの場合、Aさんが「生きがたい」のは、百パーセントAさん自身に問題があるとか、逆に百パーセント時代や社会に問題があるということはありません。両者の混合の比率は人それぞれでしょうが、たいていは両方の要素を含んでいるものです。
 たいていの人は、何らかの「生きがたさ」を抱えており、それを何とかしたいと日々試行錯誤をしているものです。しかし、繰り返しになりますが、その「生きがたさ」をもたらしている原因のうち、その人自身に問題がある部分については、個人的な努力で何とかなりますし、またそれ以外に何とかする方法はありませんが、そうでない部分、時代や社会の状況がおかしいために抱えてしまっている「生きがたさ」は、個人の努力では絶対に解決できないのです。
 しかしすべての個人は、この同じ時代や社会の中に生きているわけですから、ある個人が抱えている「生きがたさ」のうち、時代や社会の状況に原因がある部分については、他の個人と問題意識を共有し、協力して解決の努力をすることが可能です。
 この努力が、要するに「政治活動」なのです。
 複数の個人に「生きがたさ」をもたらしている時代的要因や社会的要因を取り除くということは、結局は時代状況や社会状況を改変するということです。
 「政治活動」とは、状況を自らの「生きがたさ」を多少なりとも減らす方向で改変するために有効であるか、有効であるかもしれないと思われることを、実行に移すことです。ビラまきでも集会でもデモでも、あるいは選挙運動への関与でも、有効だと思えばやればいいし、有効でないと思えば別の方法を考えればいいのであって、そうした努力の総体が、「政治活動」です。
 また、それに先立って、自らの抱える「問題」のうち、どこからどこまでが自分に原因があり、どこからどこまでが時代や社会に原因があるのかを、深くかつ冷静に分析してみることや、あるいは時代や社会に原因があるとして、漠然と「社会が悪い」というのではなく、具体的に「社会のここが悪い」と言葉で説明できるようにすること(問題意識を他人と共有するためには、どうしても言葉が必要です)なども、広い意味では「政治活動」のうちですし、また、そうした努力自体を、自分一人でではなく誰かと共同でおこなうことも可能です。

 

 

   「勉強」は必要である

 政治活動をおこなうためには、勉強をしなければいけません。
 なぜなら、はっきり云ってその方が「効率がいい」からです。
 政治活動とはつまるところ、自分の不満や苛立ち、周囲への違和感を形にすることです。「形にする」のかなりの部分は「言葉にする」ということですが、自分の中に漠然とした形で存在するさまざまの気分や感情を、まったくオリジナルに分析できる人などまずいません。
 「自分なりに考えてみる」ことは大事なことですが、ほとんどの場合、その結果として出てくる言葉や表現は、実はとっくの昔に別の誰かが云ったりやったりしていることにすぎません。しかもやはりほとんどの場合、その「別の誰か」の方が、自分よりもよっぽどうまい云い回しやスタイルでそれを表現できているのです。こうなると「自分なりに考えてみる」ことは、実は時間の無駄だったりします。
 むしろ、すでに他の人がそれなりの時間と能力を使って考えた結果であるさまざまの文章を、できるだけ多く読むことです。思想や哲学にしても、社会分析や時代分析にしても、何百年という積み重ねがあるわけですから、たいていのことはすでに誰かがこれ以上ないというほどのうまい云い回しでとっくの昔に書いています。「かつて誰も思いつかなかった画期的な視点」などというものは、まずめったにありません。
 しかも、ある人が、自分が漠然と感じていたことをうまく言葉にしていたとしても、さらにたいていの場合、また別の誰かが、それに対するうまい批判をすでに書いていたりして、そこには、もともと自分には欠けていた視点が含まれているものです。
 最初から「自分なりに考えてみる」よりも、まずは自分に近い立場でものを書いていそうな他の誰かの文章を読み、それに対して別の誰かが書いた批判の文章を読み、またさらにそれに対する反論の文章を読み……という勉強をする方が、ずっといいのです。その過程で、自分の中に、互いに矛盾する、しかもどちらもそれなりに筋が通っていると思える複数の立場が同居するような状態になるでしょう。実は、そうなった時に初めて、本当に「自分なりに考えてみる」ことが可能になるのです。
 もちろん、もっと単純な意味での勉強も必要です。
 これまでに起きたさまざまの事件や運動について、その内容やそれに関連する地名や人名などの固有名詞を覚えていくような勉強です。
 というのもまず、たいていの文章は、ある程度のそうした予備知識を、読む側が持っていることを前提として書かれているからです。そして、その種の文章を初めて読む人が、「難しい」と感じる理由は、たいていの場合、単に予備知識が不足しているからであって、それさえあれば、文章自体は易しかったりするものだからです。せっかく面白い視点が提示されている文章なのに、予備知識がないためにそれを充分に読みこなせないのは、やはりもったいないことです。
 また、政治活動というのは、自分以外の人と共同でおこなうものです。どんな人でも、特定の環境の中に生きていますから、あえて意識して勉強でもしないかぎりは、その人の知識は、その人が身を置いてきた特定の環境条件に制約されてしまいます。しかし、他人は必ずしも自分と同じ環境で生きてきたわけではありません。また、政治活動においては、自分とは世代の異なる他人とも、問題意識の共有や、逆に対立をしなければならない局面が多々あります。個人の制約する環境条件の最大のものの一つが「世代」ですが、ある世代にとって常識の部類であることが、違う世代にとってはまったくそうではないことは、よくあることです。また、違う世代の人が、しかもかなりの過去に書いた文章を読む必要に迫られることも多くありますが、そんな場合でも、書いている側は、わざわざ説明するまでもない常識のつもりであることが、現在それを読む、まったく別の世代の人にとってはそうではなかったりします。
 ある批評家が、異なる世代を結びつける役割を果たすものが「教養」である、と書いていますが、これは、単に今の若い人が、前の世代のことについて知らなすぎるという話ではありません。今の年配の人たちも、実は今の若い世代のことについて知らなすぎるのです。時代とか社会といった大きな対象をいくらかでも総体的に把握し、しかも改変することを目指すのが政治活動です。この世の中は、年配の人たちだけで成り立っているのでも、若い人たちだけで成り立っているのでもありません。本当に有効な政治活動を展開するためには、上であれ下であれ、自分とは異なる世代にとって常識であるようなことは、最低限、知っておく努力をしましょう。
 教養とは何かということは、ちょっと考えてみれば分かると思いますが、結局は固有名詞をたくさん知っているということです。固有名詞を、たくさん覚えてください。
 もちろん、勉強にはそれなりの時間を要します。知識は、政治活動を有効に展開するための、単なる基礎体力のようなものですから、そればかりやっていては、本来やらなければならない政治活動の実践ができません。はっきり云って、勉強はいくらやってもキリがありません。充分な予備知識を身につけるまで、実践は控えようなどという殊勝な態度でいると、結局いつまでたっても勉強しかできません。
 政治活動をおこなうのなら、実践がメインであることを忘れてはいけません。勉強は、実践の合間に、ヒマを見つけてコツコツやればいいのです。

 

 

   芸術について

 ここまで書いてきたことから分かるように、政治活動というのも、要するに「表現活動」の側面を強く持っています。
 では、それは他の表現活動、つまりバンドをやったり芝居をやったり小説や詩を書いたりするのと、何が違うのでしょうか。
 何も違わない、とも云えます。
 政治活動においては、「世の中のここがおかしい」といったような内容を何らかの形で表現する局面が多いわけですが、その「何らかの形」というのはそれこそ(本人がそれが有効だと思えば)何でもいいわけで、街頭で演説したり、主張をビラに書きつけて配布するという直接的な方法を用いてもいいし、もっと広く一般に流通させるために例えば言葉にメロディをつけて歌にして、さらにはそれをレコーディングしてバラまくなり売るなりしてもいいわけです。ナマな主張にメロディをつけるだけでは聴けたものじゃないなと思えば、云い回しを工夫して、遠回しに云ったり、比喩的に云ったり、抽象的に云ったりしてもいいわけですが、そうなるとますますその活動はごく普通の音楽活動に見た目の上では近づきます。要するに、本人はあくまで政治活動としてやっているつもりでも、ハタから見ると単なるちょっと社会派なミュージシャンじゃないか、ということもあり得るわけです。
 あるいはビラの文面にしても、いくらでも比喩的な表現や抽象的な表現は可能ですから、ここでもやはり政治的文書と詩や小説の境界はどんどん曖昧になっていきます。ビラを「フリーペーパー」と称したり、機関紙類を「同人誌」と称したりすることも可能なのですから、たとえそれで収入を得ているのではなくても、多くのアマチュア詩人や小説家志願と、外見上は見分けがつかなくなります。展開によっては、本人はあくまで政治的文書のつもりであっても、熱心な「読者」を獲得して、それが収益に結び付くことも別に珍しいことではありません。そうなるとますます、ハタから見るとやはり単なる社会派な作家やフリーライターです。
 同様に、まるで演劇や映画の人であるかに思われるようなこともあり得ます。
 また、いわゆる前衛芸術には、何か物理的な「作品」を制作しない、いわば行動そのものが作品であるパフォーマンスのような表現形式もありますし、また具体的に、これは逆方向ですが、「それは政治活動ではないか」と云いたくなるようなパフォーマンス芸術の「作品」もたくさん存在します。
 こんなふうに考えていくと、結局それが政治活動なのか芸術活動なのかは、やっている本人の「つもり」の問題でしかないということになりそうです。
 しかしそれでも、政治活動と芸術活動とは全然違う、とも云えます。
 例えば仮にその「演説」が、見かけ上どれほど「歌」や「演劇」に似てこようとも、政治活動においてはそれはあくまでも「手段」にすぎません。政治活動には、社会なり時代なりの状況を具体的に改変するという、別の「目的」があります。
 これに対して、芸術活動においては、個々の音楽作品や演劇作品そのものが「目的」です。仮にかつてのジョン・レノンのように、音楽で世界を変えるのだ的なココロザシがあったとしても、それが音楽作品である場合には、とりあえずは個々の作品の出来不出来だけが問題です。その作品が世界を変えることに貢献してもしなくても、いいものはいい、ダメなものはダメです。
 ところが政治活動では、状況を改変するという本来の「目的」に貢献するかどうかが最大の問題です。その「演説」が音楽作品や演劇作品としていかに優れていようが、状況の改変に貢献できなければ政治活動としては失敗ですし、逆に音楽作品や演劇作品としてはクズのようなものでも、貢献できれば成功です。
 要するに政治活動も芸術活動も、同じ「表現活動」であるとも云えますが、その表現行為が「手段」としておこなわれるのか「目的」としておこなわれるのかが違うのです。芸術では表現行為そのものが「目的」ですが、これは云い方を変えれば、芸術は目的を持たない、ということでもあります。政治活動には目的があります。

 歴史をよく勉強すれば分かることですが、多くの場合、政治と芸術、そしてさらに学問の運動は、互いに密接に結びつきながら、総体として一つの大きな運動を形成するものです。これらがバラバラに切り離されているのは日本だけで、しかも日本においても、それはたかだかここ20〜30年間ほどの非常に特殊な状況であるにすぎません(そんな特殊な状況になってしまった経緯は、歴史を勉強すれば分かります)。
 現在、日本において、政治運動にも芸術運動にも学問の運動にも、見るべきものがほとんどないのは、端的に云って、これらが互いに無関係なままバラバラに存在し、緊張をはらんだ影響関係がないからです。もっとはっきり云えば、政治運動が存在しないに等しい状況だからです。
 1980年以前に成人した世代に属する、アカデミズムやアート・シーンの知り合いに尋ねてみれば分かることですが、彼らが学問や芸術の世界で試行錯誤を開始した若い頃には、必ずその身近に、同世代の熱心な政治活動家がいたはずです。そして多くの場合、その政治活動家の友人知人に対して、学者や芸術家の卵であった彼らは、当時いくばくかのコンプレックスを抱いていたはずです。
 というのも、人が学問や芸術の道を追求する動機も、たいていはその時代や社会に対する疑念や違和感であるからです(あるいは、単にモテたいからとか名誉欲とかが初発の動機である場合もありますが、それだけでは情熱はなかなか持続しないものです)。政治活動は、それらの疑念や違和感を直截に解決しようとするものです。だから、学問や芸術などというシチメンドくさい回りくどい方法ではなく、政治活動をやる方がいいに「決まっている」のです。にもかかわらず、彼らは「あえて」、政治活動ではなく、芸術や学問という別の道を選択したわけです。
 政治活動は、できるだけ多くの諸個人をそれに参加させることを、必然的に追求します。当然、学問や芸術などという、目的のない云わば自己満足的な活動に「うつつをぬかしている」友人・知人に対して、政治活動家は、そんなものはほどほどにして君も我々の政治活動に参加しろ、と機会をとらえてはせっつくことになります。政治活動家の云っていることの方が「正しい」ことを、学者の卵や芸術家の卵たちもよく分かっています。しかしそれでも彼らは、まあたまには説得に応じて政治活動の現場に顔を出すこともあったでしょうが、基本的には自分の足場を学問や芸術の世界に置くことを「あえて」選択したのです。状況への疑念や違和感という本来のモチーフからすれば、政治活動にどっぷり浸かるのが最良の選択であることを充分に分かっていながら、「あえて」そうしなかったのですから、彼らは自分がなぜそのようなヘンテコな選択をするのか、徹底的に自問自答しなければならなかったはずです。
 現在の学問や芸術が概してつまらないのは、この自問自答を欠いているからです。学問や芸術というのは本来、政治活動をやらずに「あえて」選択する道なのです。現在、学問や芸術の道に進もうという人たちにはこの「あえて」性がカケラもありません。「あえて」性のない学問や芸術に、存在意味はありません。
 むしろ学問や芸術の道に心ひかれている人は、今は「あえて」政治活動を始めるべきでしょう。魅力的な政治活動家となって、学問や芸術などという自己満足にうつつを抜かしている同世代を脅かすようにならなくてはいけません。そして結局は、そのことは彼らの学問や芸術を本当に力あるものとして再生させることにもつながるのです。少なくとも自分自身に関しては、このまま緊張感のない学問や芸術の道へ進むことを、ぐっとこらえようではありませんか。学問や芸術への転身は、政治活動に「挫折」してからでも遅くはありません。

 

 

   右翼や左翼について

 右翼とか左翼とかの言葉に対して、アレルギーを示す人はたくさんいます。
 中には、状況を改変するための具体的な活動(つまり政治活動)に参加しながら、「自分は右翼でも左翼でもない」と云う人すら珍しくありません。いや、むしろ自分は右翼だ左翼だという自覚を持っている人の方が珍しいくらいです。
 しかし、これは非常に嘆かわしいことです。
 というのも、これは「なぜ勉強が必要か」を説明したくだりとも似てくる話ですが、「社会に物申す」的な活動をしながら、右翼でも左翼でもないという立場にあることは、実は非常に難しいのです。ほとんどの場合は、単に自覚がないだけで、云ってる内容ややってる内容は、実質的にはまったく右翼か左翼かのどちらかでしかありません。
 よっぽど特殊であるか天才的であるかしないかぎり、たいてい、現在の状況のどこがどう間違っている(改変すべきである)のだろうかと考えていった時に、出てくる結論は右翼的なものか左翼的なものかのどちらかしかありません。主張や行動がまるっきり右翼なのに、自分は右翼ではないとか、あるいは逆にまるっきり左翼なのに、自分は左翼ではないとか云うのは、単に自らの無知・不勉強をさらけ出しているばかりで、ちゃんちゃらおかしいし、恥ずかしいことこの上ありません。
 右翼でも左翼でもない立場というのは、「現状維持」以外にまずないと考えておいた方がよいでしょう。政治活動というのは、現状の改変を目指すのですから、結局は右翼か左翼かの選択をする以外に道はほとんどないのです。もちろんその選択は、自分の「生きがたさ」の原因を、どちらがよくうまく説明し得るように感じられるかによって各自おこなえばよいのです。
 ただし、現実に同時代に存在している右翼運動や左翼運動のほとんどすべてが腐敗しており、魅力がないというのは残念ながら事実です。しかしだからと云って、よほどの人でないかぎりは、右翼でも左翼でもない現状打破の思想というのは見いだせないはずです。もちろん歴史的に見れば、魅力的な右翼運動や左翼運動は過去に無数に存在しますから、同時代にそうしたものがないのであれば、歴史上の右翼や左翼を参考に、魅力的な右翼運動や左翼運動を自分たちで形成していくしかありません。
 少なくとも、まだ大した研究や実践の経験も積まないうちから、右翼でも左翼でもない斬新なオリジナルのビジョンを提示できると考えるのは、とんでもない思い上がりです。まずは自分の目指す方向が、右翼的なものなのか左翼的なものなのかを、よく自覚すべきです。もちろん右翼になることはイコール既成の右翼運動に参加することではないし、左翼になることはイコール既成の左翼運動に参加することでもありません。さきほど述べたように、現在それらにはロクなものがありません。右翼を選択するにせよ左翼を選択するにせよ、実際の運動は、そうしたものとは距離をおいて、独自に開始するしかないのです。

 

 

   政治活動の動機

 右翼の一部にも左翼の一部にも熱烈なファンを持つ、日本の政治運動史上最大のヒーローと云ってもよい、大杉栄という大正時代のアナキスト(無政府主義者)がいますが、この人の言葉に、「思想に自由あれ、行動に自由あれ、そしてまた動機にも自由あれ」というのがあります。
 しかし結局のところ、人が政治活動にたずさわる動機には、突き詰めると2つしかありません。
 正義感か、被害者意識かです。
 被害者意識などというと聞こえは悪いかもしれませんが、これらは次のようにも云い換えることができます。つまり、他人事としてか、当事者としてか。
 この世の中に、不当なことがたくさん存在すること自体は、否定できないでしょう。政治活動とは、結局はそうした不当なことをやめさせることですから、政治活動にたずさわる動機としては、自分がその不当な目に遭っているまさに当事者であるという被害者意識か、いや自分が直接そういう目に遭っているわけではないが、そういう目に遭っている人がいるという事実を黙って見過ごすことはできないという正義感か、どちらかということになるわけです。
 これまでの文脈から、ここでは、正義感から発する政治活動ではなく、被害者意識から発する政治活動の方が、本来望ましいのだと云わんとしていることはすぐに分かるでしょう。
 冒頭に、諸個人が抱えている「生きがたさ」の原因のうち、時代や社会の状況に由来すると考えられる部分について、複数の個人が協力して解決を目指すのがすなわち政治運動だと説明したのですから、要するに諸個人はほとんどの場合、誰しも状況のせいで「不当な目」に遭っている当事者であり、それを自覚するのが政治活動の出発点なのだということを云いたいわけです。当事者意識がなく、単に正義感で政治活動にたずさわる人は、要するに自分や社会についての考察がまだまだ不足しているのです。
 しかしこれまた現実には、当事者意識つまり被害者意識からではなく、正義感から発する政治活動がたくさん存在します。むしろ、そっちの方が圧倒的に多いと云った方がいいかもしれません。現実がそうであるからこそ、政治活動というものが、なにか一部の、特殊に「熱い人」たちの趣味みたいなもので、多くの人にとってはカンケーのない話であるかのようなイメージが拡がってしまってもいるのです。
 本当は、よくよく考えてみるならば、その人の資質や性格が熱かろうがどうだろうが、そんなこととは無関係に、ほとんどの人は程度の差はあれ状況によって「不当な目」に遭わされているのです。
 政治活動に、正義感のようなものは一切必要ありません。そんなものは、魅力的な政治活動を形成するに際してはむしろ有害です。
 政治活動にたずさわるに際して最初に必要なものは、被害者意識だけです。もちろん事後的には、先に述べたとおり勉強が必要ですが、それは実は、自らの被害者意識を研ぎ澄まし、「洗練」させるために必要なのです。洗練されていない被害者意識は俗に「被害者ヅラ」と呼ばれる、見苦しいものです。

 政治活動の「入り口」にたどり着いた、なかなか見どころのあるみなさんに、最初に云っておきたいことは大体以上です。
 不明な点、よく分からない点などあれば、いつでもお答えするつもりはありますが、むしろみなさんが政治活動の実践をすすめる過程で、ご自身であれこれ考えてみるのが一番だとは思います。