ここまで書いてきたことから分かるように、政治活動というのも、要するに「表現活動」の側面を強く持っています。
では、それは他の表現活動、つまりバンドをやったり芝居をやったり小説や詩を書いたりするのと、何が違うのでしょうか。
何も違わない、とも云えます。
政治活動においては、「世の中のここがおかしい」といったような内容を何らかの形で表現する局面が多いわけですが、その「何らかの形」というのはそれこそ(本人がそれが有効だと思えば)何でもいいわけで、街頭で演説したり、主張をビラに書きつけて配布するという直接的な方法を用いてもいいし、もっと広く一般に流通させるために例えば言葉にメロディをつけて歌にして、さらにはそれをレコーディングしてバラまくなり売るなりしてもいいわけです。ナマな主張にメロディをつけるだけでは聴けたものじゃないなと思えば、云い回しを工夫して、遠回しに云ったり、比喩的に云ったり、抽象的に云ったりしてもいいわけですが、そうなるとますますその活動はごく普通の音楽活動に見た目の上では近づきます。要するに、本人はあくまで政治活動としてやっているつもりでも、ハタから見ると単なるちょっと社会派なミュージシャンじゃないか、ということもあり得るわけです。
あるいはビラの文面にしても、いくらでも比喩的な表現や抽象的な表現は可能ですから、ここでもやはり政治的文書と詩や小説の境界はどんどん曖昧になっていきます。ビラを「フリーペーパー」と称したり、機関紙類を「同人誌」と称したりすることも可能なのですから、たとえそれで収入を得ているのではなくても、多くのアマチュア詩人や小説家志願と、外見上は見分けがつかなくなります。展開によっては、本人はあくまで政治的文書のつもりであっても、熱心な「読者」を獲得して、それが収益に結び付くことも別に珍しいことではありません。そうなるとますます、ハタから見るとやはり単なる社会派な作家やフリーライターです。
同様に、まるで演劇や映画の人であるかに思われるようなこともあり得ます。
また、いわゆる前衛芸術には、何か物理的な「作品」を制作しない、いわば行動そのものが作品であるパフォーマンスのような表現形式もありますし、また具体的に、これは逆方向ですが、「それは政治活動ではないか」と云いたくなるようなパフォーマンス芸術の「作品」もたくさん存在します。
こんなふうに考えていくと、結局それが政治活動なのか芸術活動なのかは、やっている本人の「つもり」の問題でしかないということになりそうです。
しかしそれでも、政治活動と芸術活動とは全然違う、とも云えます。
例えば仮にその「演説」が、見かけ上どれほど「歌」や「演劇」に似てこようとも、政治活動においてはそれはあくまでも「手段」にすぎません。政治活動には、社会なり時代なりの状況を具体的に改変するという、別の「目的」があります。
これに対して、芸術活動においては、個々の音楽作品や演劇作品そのものが「目的」です。仮にかつてのジョン・レノンのように、音楽で世界を変えるのだ的なココロザシがあったとしても、それが音楽作品である場合には、とりあえずは個々の作品の出来不出来だけが問題です。その作品が世界を変えることに貢献してもしなくても、いいものはいい、ダメなものはダメです。
ところが政治活動では、状況を改変するという本来の「目的」に貢献するかどうかが最大の問題です。その「演説」が音楽作品や演劇作品としていかに優れていようが、状況の改変に貢献できなければ政治活動としては失敗ですし、逆に音楽作品や演劇作品としてはクズのようなものでも、貢献できれば成功です。
要するに政治活動も芸術活動も、同じ「表現活動」であるとも云えますが、その表現行為が「手段」としておこなわれるのか「目的」としておこなわれるのかが違うのです。芸術では表現行為そのものが「目的」ですが、これは云い方を変えれば、芸術は目的を持たない、ということでもあります。政治活動には目的があります。
歴史をよく勉強すれば分かることですが、多くの場合、政治と芸術、そしてさらに学問の運動は、互いに密接に結びつきながら、総体として一つの大きな運動を形成するものです。これらがバラバラに切り離されているのは日本だけで、しかも日本においても、それはたかだかここ20〜30年間ほどの非常に特殊な状況であるにすぎません(そんな特殊な状況になってしまった経緯は、歴史を勉強すれば分かります)。
現在、日本において、政治運動にも芸術運動にも学問の運動にも、見るべきものがほとんどないのは、端的に云って、これらが互いに無関係なままバラバラに存在し、緊張をはらんだ影響関係がないからです。もっとはっきり云えば、政治運動が存在しないに等しい状況だからです。
1980年以前に成人した世代に属する、アカデミズムやアート・シーンの知り合いに尋ねてみれば分かることですが、彼らが学問や芸術の世界で試行錯誤を開始した若い頃には、必ずその身近に、同世代の熱心な政治活動家がいたはずです。そして多くの場合、その政治活動家の友人知人に対して、学者や芸術家の卵であった彼らは、当時いくばくかのコンプレックスを抱いていたはずです。
というのも、人が学問や芸術の道を追求する動機も、たいていはその時代や社会に対する疑念や違和感であるからです(あるいは、単にモテたいからとか名誉欲とかが初発の動機である場合もありますが、それだけでは情熱はなかなか持続しないものです)。政治活動は、それらの疑念や違和感を直截に解決しようとするものです。だから、学問や芸術などというシチメンドくさい回りくどい方法ではなく、政治活動をやる方がいいに「決まっている」のです。にもかかわらず、彼らは「あえて」、政治活動ではなく、芸術や学問という別の道を選択したわけです。
政治活動は、できるだけ多くの諸個人をそれに参加させることを、必然的に追求します。当然、学問や芸術などという、目的のない云わば自己満足的な活動に「うつつをぬかしている」友人・知人に対して、政治活動家は、そんなものはほどほどにして君も我々の政治活動に参加しろ、と機会をとらえてはせっつくことになります。政治活動家の云っていることの方が「正しい」ことを、学者の卵や芸術家の卵たちもよく分かっています。しかしそれでも彼らは、まあたまには説得に応じて政治活動の現場に顔を出すこともあったでしょうが、基本的には自分の足場を学問や芸術の世界に置くことを「あえて」選択したのです。状況への疑念や違和感という本来のモチーフからすれば、政治活動にどっぷり浸かるのが最良の選択であることを充分に分かっていながら、「あえて」そうしなかったのですから、彼らは自分がなぜそのようなヘンテコな選択をするのか、徹底的に自問自答しなければならなかったはずです。
現在の学問や芸術が概してつまらないのは、この自問自答を欠いているからです。学問や芸術というのは本来、政治活動をやらずに「あえて」選択する道なのです。現在、学問や芸術の道に進もうという人たちにはこの「あえて」性がカケラもありません。「あえて」性のない学問や芸術に、存在意味はありません。
むしろ学問や芸術の道に心ひかれている人は、今は「あえて」政治活動を始めるべきでしょう。魅力的な政治活動家となって、学問や芸術などという自己満足にうつつを抜かしている同世代を脅かすようにならなくてはいけません。そして結局は、そのことは彼らの学問や芸術を本当に力あるものとして再生させることにもつながるのです。少なくとも自分自身に関しては、このまま緊張感のない学問や芸術の道へ進むことを、ぐっとこらえようではありませんか。学問や芸術への転身は、政治活動に「挫折」してからでも遅くはありません。
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