物語の共有


 ファシスト志願者は、歴史を勉強しなければなりません。
 ファシズムの肝は、我々は仲間である、という確信にあります。
 そしてこの、「仲間」である、ということは物語を共有しているということです。
 世の中には、たくさんの現象があります。
 そこには、実際には、意味なんかありません。
 単に、無数の出来事が、現れたり消えたりしているにすぎません。
 となると、諸個人の人生にも、意味などないということになります。
 起きて、食って、排泄して、生殖活動をおこない、寝る。
 個々の人間は、生まれると、そうしたことを繰り返しながら老いていき、やがて死ぬという、ただそれだけです。
 実際、人間以外の動物は、みなそのように生きて、死んでいきます。
 このことをありのままに直視し、生きることに意味など求めないというのも、それはそれで一つの立派な哲学的立場としてあり得ます。
 しかし、我々ファシストはこの立場に立ちません。
 これはおそらく、単に決意の問題です。
 我々は、この一回限りの生に、何の意味もないという残酷な真実に拝跪したくない。我々はあくまでも、我々がここにこうして生きているということに、意味を求めます。
 人間と、他の動物との間にある決定的な差は、我々人間が、観念を持っているということです。観念と意識は違います。意識は、他の動物にもあります。植物にあるかどうかは私は知らないし、アメーバとかミジンコにあるかどうかも知りませんが、犬・猫ぐらいになると当然、あるでしょう。しかし、チンパンジーといえども観念は持っていません。観念を持っているのは人間だけで、云うなれば、これがあるからこそ人間は、生きるということに何らかの意味づけが欲しくなるわけです。
 どうして人間だけが、観念という厄介な荷物を抱え込んでしまったのかについて語り始めると面倒なのでやりませんが、心理学者の岸田秀が云ったように、「人間は本能の壊れた動物である」ためだと私は思っています。人間以外のすべての動物は、生きるために必要なことがすべて本能としてインプットされており、外界から何か信号を感覚器官を通して受け取れば、まったく自動的な反射・反応の行動を起こす、ただそれだけで生きていますが、人間の場合、先祖代々継承されてきた社会的な意味の体系から隔離され、放っておかれると生殖活動すらできません。本能が壊れているために、種として生き残るためには観念を生じさせてその欠陥を補うしかなかったのです。ここではこのくらいにしておきますから、ここらあたりのことが気になる人は岸田秀の『ものぐさ精神分析』などを読んでください。
 とにかく人間は、観念を持つようになった。
 そのことの弊害なのかもしれませんが、ブッダのように究極のニヒリズムを自身の認識として獲得し、またそれを肯定する云わば「悟り」の状態に達し得ない圧倒的多数の個人は、自分の人生に何らかの意味を見いだせなければ、つらくて仕方がない。「人はパンのみにて生きるに非ず」ということでもあります。
 では諸個人の生きる意味は、どこから出てくるのか?
 要するにその源泉が物語である、ということになります。
 この世界で起きているさまざまの出来事を解釈、意味づけ、つまり物語化して理解する。その物語の登場人物の一人として自らを位置づけ、そこに参加する。それ以外に、生きる意味、人生の意味など生じようがありません。
 その際、空間軸と時間軸というものがあります。
 空間軸に沿ってさまざまの出来事を意味づけするというのは、つまり現時点で世の中のしくみがどうなっているかを解釈して体系化することです。社会観を獲得する、と表現してもいい。
 時間軸に沿ってさまざまの出来事を意味づけするというのは、つまりそれらの前後関係、影響関係を解釈し体系化するということで、これは歴史観の獲得ということになります。
 これら社会観と歴史観とを総合した云わば世界観という物語の中に、自分を一登場人物として位置づけ、そこに主体的に参加するという意識を持つことによって、個人は生きる意味を獲得します。これができなければ、その人の生は、他の動物のそれと変わらなくなります。
 家族のために生きるとか、仕事のために生きるというのも、人間特有の、物語参加形態であることはもちろんです。世界観の獲得というと大袈裟に聞こえますが、大多数の個人は、その程度の云わば「小さな物語」の中に自分を位置づけることで満足し、幸せに生きていくことが可能です。これはバカにして云うのではなく、そのような「小さな物語」で満足できる人々が、つまり「大衆」です。
 ところが稀に、それが十人に一人なのか、あるいは百人、千人に一人なのかは分かりませんが、そんな「小さな物語」では満足できない少数の個人が生じます。これは「いい・悪い」ではなく多分に資質の問題だと思いますが、要するに我々のような人間です。我々は、家族のためとか、仕事のためとか、そういった「小さな物語」では自分の生きる意味への飢餓感を満足させることができません。
 ですから我々は、この世の中全体がどうなっているのか、過去はどうであり未来はどうなるのかという、壮大な物語を構築し、その登場人物の一人に志願することによって、ようやくこの私が生きていることの意味を獲得することになります。そんな壮大な物語の登場人物のことを、一般的には「英雄」と呼びます。
 ブルーハーツに「英雄にあこがれて」という作品がありますが、我々の抱いている「気分」というのは、有り体に云ってそういうものだと思います。
 我々の結社とはつまり、英雄志願者の集まりです。
 そこで我々は、自らをその登場人物として位置づけるための「大きな物語」を共有することを目指します。世の中は現在どうなっているのか、また世の中がここへ至る経緯はどのようなものであったか。当然そこには、善悪の判断が持ち込まれます。そして、我々は世の中がどのようになることを望むのか。これらの全体が、我々の共有すべき「大きな物語」であるということになります。私自身を含め、我々の結社に加盟する諸個人は、その「大きな物語」の中に、自身の持ち場のようなものを見いだし、意味ある生を、協同して実現してゆく。我々の結社は、そのために存在します。