中島みゆき「永遠の嘘をついてくれ」の正しい解釈

15年7月執筆

 

 吉田拓郎の、というより中島みゆきの「永遠の嘘をついてくれ」は、佳曲と名曲と名曲中の名曲しかない中島みゆきの、90年代の大傑作で、吉田拓郎に提供することを前提に作られた“いかにも拓郎っぽい”歌詞とメロディでありながら、それでいて中島みゆきの曲以外の何物でもないという、“神”に不可能はないことを改めて思い知らされる作品だが、拓郎・みゆき、どちらもアルバム収録曲でシングル・カットはされていないにも関わらず、かなり広く知られているようで、ストリート・ミュージシャン稼業でたまにやってると立ち止まる人も多い。
 が、とくに私と同世代ぐらいとか、それ以下の世代だと、この曲をすごく好きな人であっても、歌詞の意味をちゃんと理解していない場合がほとんどなんだろうなと以前から思っている。「永遠の嘘をついてくれ」は、簡単に云えば「まつりばやし」とか「誰のせいでもない雨が」などの系列の、要するに明白に“学生運動ソング”で、聴く人が聴けばもう反射的にそのことに気づくのだが……そんなこと分かってるよ、という人もあるかもしれないが、試しに「永遠の嘘をついてくれ」で検索すると上位にアホみたいな誤読解説も出てきたことだし(「自分の許を去った男に向かっての未練」の歌なんだってさ!)、無粋を承知で解説したい。

 たぶんもう何十年も会っていない古い友人、語り手の人生にとってかなり重要な存在であるらしい友人が、どうやら遠い異国で病で死にかけている、という状況が歌われる。友人は「俺」と云ってるし男だろうが、語り手もおそらく男である(そもそも吉田拓郎に歌わせるのが前提でもあるし)。前記の誤読解説者が云うような恋愛方面の歌ではなく、ある種の“男の友情”的な歌である。
 相手が死にかけている場所は「ニューヨーク」なのか「上海」なのか分からない。たぶんニューヨークだろう。「上海の裏町で病んでいる」という「見知らぬ誰かの下手な代筆文字」の手紙が突然舞い込んだわけだが、手紙は「探しには来るなと結」ばれていたわけだし、相手は自分の本当の居場所を伝えてきたわけではない可能性が高い。語り手の側が、独自に手をつくして探した結果、実はニューヨークにいることが判明したので、冒頭で語り手は急遽ニューヨークへ飛ぶかどうかと迷っているわけだろう。
 これが“学生運動がらみ”の歌だと分かるのは、2番の冒頭のフレーズからである。「この国を見限ってやるのは俺のほうだと追われながらほざいた友」と云っている。これだけでもうピンとこなければならない。
 この友人は要するに学生運動上がりの“国際テロリスト”か何かである。たぶん70年代初頭に国内での何らかのテロ事件の容疑者として指名手配されるかして(したがってこの時点ではまだ“国際”テロリストではない)、国外逃亡したのである。そして間違いなく友人は国外へ渡った後も革命運動に少なくともしばらくは挺身している。そのことを語り手はずっとニュースで知ることができていただろう。ところがどこかの時点で友人は一切消息不明となる。生きてるいるのか死んでいるのかも分からない、という長い期間があり、最近になって突然、死にかけているという手紙が本人から届いた、というわけである。「見知らぬ誰かの下手な代筆文字」なのは、日本の公安当局の監視を警戒してのことであるに決まっている。
 語り手の側は、若い頃、おそらく学生時代に新左翼運動に関わった時期があり、しかし短期間で運動を離れて、フツーに就職して、そうした運動体験は過去のものとして、“平凡な一市民”としての人生を送ってきた人間である。もちろん死にかけている友人との関係は、“同志”的なものか、それに近いものだったろう。印象としては、党派の同志というよりも、“何々大学全共闘”とかの同志で、闘争が後退する過程で友人はテロ路線に走って地下に潜り、語り手は運動を離れた、という雰囲気である。史実にムリヤリ当てはめると、例えば友人は赤軍派に加盟し、弾圧され追いつめられてアラブへ渡ったとか、東アジア反日武装戦線の爆弾闘争に身を投じて逮捕されたが、日本赤軍のハイジャック闘争によって“超法規的措置”で獄中から奪還され国外へ出た、みたいなことだろう。もちろん歌詞の内容はあくまでフィクションなわけで、“おおよそそんな感じのこと”という意味で私は解説しているまでである。
 要するに語り手は“日和って”運動から脱落したわけだが、今も世界のどこかで闘っているはずの友人の存在が、いつでも語り手の人生において影のようなものとして意識され、負い目の対象であったり、挫折した自分の代わりに“志”を貫いてくれている救いであったりしたのだろう。もちろん、いつしか消息が途絶えて以降は、友人が引き続き革命を目指して闘い続けているのかどうか、そもそもその生死すらも分からない状況となっていた。語り手は、今も闘い続けていてほしいと願ってきたが、一方で、彼が今もどこかで生きてはいるとしても、すでに革命への希望を失って、自分の闘いはすべてムダだったと、敗残者として抜け殻のような“余生”を送っているのかもしれないという不安も常に抱いていた。
 そこへ突然の手紙である。現時点では、まだ生きていたということだけが分かり、消息が途絶えて以降の友人がどのような人生を歩んだのかは不明である。闘い続けていたのか、すでに負け犬と化していたのか、まだ分からない。語り手は、答えを知るのが怖いという気持ちを持っている。たぶん友人もどこかの時点でとうに挫折していたのではないかと薄々思っている。
 「永遠の嘘をついてくれ」というのは、「ずっと闘っていたし、今でも闘っている」と云ってくれ、の意である。「まだ旅の途中だ」と云ってくれというのは、「我々の革命はまだ途上である」つまり「まだ革命をあきらめてはいない」と云ってくれ、の意である。「嘘をついてくれ」と云っているのだから、そのように「強がってみせてくれ」ということである。「永遠のさよならの代わりに」、つまり友人はもう死ぬわけだが、最後までその「嘘」をつきとおしてくれ、と。
 「やりきれない事実」というのは、友人もとうの昔に挫折して異国でただ無意味な“余生”をいつしか送るようになっていたという事実である。友人もそのような姿を語り手にさらすことを恥じ、ずっと闘っていたし今も闘っているという「永遠の嘘をつきたくて」、「探しには来るな」と書き添えたのである。
 世間の連中はこういう、大それた夢を描いてどこぞへ飛び出していったような連中の“悲惨な末路”を見たいのである。「オレが間違っていた。革命なんて幻想だった」と云わせて安心したいのである。「みな」が「望む答え」とはそういう答えであり、語り手は、そのような答えを引き出そうとつきまとってくる連中を「風のようにあざやかに振り払え」と云っている。
 「一度は夢を見せてくれた君」が見せてくれた「夢」とは、テルアビブ空港事件とか、三菱重工爆破とか、そのテの何かであるはずだ。「出会わなければよかった人」というのは、塩見孝也とか太田竜とか、とにかく友人をそのような道へと誘い込んだ誰かだろうが、「出会わなければよかった人などないと笑ってくれ」というのはもちろん、「自分の人生は結果としてこのような形になったが、決して後悔などしていない」と云ってくれ、ということである。
 私はべつに自分が読みたいように勝手な読み方をしているわけではない。この曲の歌詞はおおよそこのようにしか解釈のしようがないものである。
 嘘だと思うならこの歌詞を書いた本人に訊いてみなさい、と云いたいところだが「神は何も語らない」のがセオリーなので、私のように神の言葉をちゃんと聞くことのできる「預言者」の声に、迷える子羊の諸君は耳を傾けるしかないのである。


 付記.なお90年代の中島みゆきの名曲中の名曲中の名曲である「二艘の舟」もおおよそ似たようなテーマの、もっと抽象化された歌である。男女の恋愛の歌にも聞こえるようにわざと作ってあるが、絶対に違うと預言者として請け合う。