1冊も読まずに書いた三島由紀夫論

2012年4月
イギリスの正統派ファシストらしきTroy Southgate氏の依頼で執筆
友人に英訳してもらい、「Mishima Yukio and 1968」として
Southgate氏が編纂した『Mishima: Thoughts & Perspectives』に掲載

 一九六〇年代末、世界中で若者たちの反乱が起きた。西側先進国ではそれは主に新左翼と呼ばれる学生たちに担われた。もちろん日本も例外ではない。「全共闘」と呼ばれた新形態の闘争組織に参加する学生たちが、さまざまの要求を掲げて全国各地の大学をバリケード封鎖した。
 三島由紀夫は東大全共闘の新左翼学生に招かれ、彼らと長時間の討論をおこなっている。一九六九年五月十三日のことである。
 三島は、古典主義的な「美」を追求するロマン主義の作家であり、日本文化の「防衛」を訴えて、世間からは当然、右翼と目されていたが、同時に当時の新左翼学生たちの行動に明からさまなシンパシーをたびたび表明してもいた。
 討論はおおむね噛み合わず実り多きものとは云えなかったが、その中で三島が発した「諸君が一言『天皇』と云ってくれれば私は喜んで諸君と手をつなぐ」という言葉はことに有名になった。「天皇」とは云うまでもなく、「エンペラー」と誤って翻訳されることの多い日本の君主であり、三島が「防衛すべき日本文化」の源泉と見なすものである。
 もちろん学生たちが「天皇」と云ってこれに応じる展開はなく、したがって両者の共闘が実現することもなかった。この討論から約一年半の後、三島が少数の同志と共に自衛隊基地に乱入し、クーデタを呼びかける悲壮な演説が自衛官たちに聞き入れられないことを知るや、かの伝統的な「ハラキリ」の作法で壮絶な最期を遂げたことはよく知られるとおりである。
 私は一九七〇年に生まれ、八〇年代半ばに左翼活動家となったが、当初は穏健な中道左派に身を置いていたのが、徐々に先鋭化して、九〇年代初頭には「六八年」のラディカリズムに強い共感を抱く過激分子へと変貌していた。ほぼ同様の「六八年」体験を持つ他の西側先進諸国とは異なり、特殊で複雑な経緯の結果、日本のオルタナティブあるいはポストモダン左翼の活動家のほとんどは「六八年」を否定すべき愚劣なものと見なしており、したがって私はその世界で孤立を余儀なくされた。十年あまり孤独に耐えながら「六八年」型の新左翼活動家として試行錯誤を繰り返したが、二〇〇三年、私はついに「天皇」と云うことにした。日本でほとんど唯一の「六八年」の後継者として、三三年ぶりに三島の呼びかけに応じたのだと、私はかなり本気で自負している。

 三島は「日本文化の防衛」を云い、その「日本文化」の本質を「オリジナルとコピーを区別しないこと」だと云い、そのような「オリジナルとコピーを区別しない日本文化」の源泉に天皇がいると云う。
 この三島の見解を理解するには、日本史に関するいくらかの前提的知識が必要である。
 まず、諸外国のみならず日本人の多くもよく誤解しているのだが、天皇はエンペラーでもキングでもない。ヨーロッパのそれらに該当するのは日本では例えば徳川家の将軍である。いくらか事情に通じた者は、天皇はヨーロッパに当てはめれば教皇のようなものだと云うが、これも違う。古代、というよりアニミズム的な自然崇拝の感覚が社会を覆っている原始時代を想像してほしい。世界のどこであれ、そのような歴史段階においては、共同体の主宰者は政治的指導者であると同時に森羅万象に神性を見いだす多神教的な原始宗教の指導者でもあったはずだ。そしてそのような存在が、さまざまの奇跡的な偶然の結果、歴代の権力者たちによって廃絶されることなく、中世どころか近代に至っても存続していると想像してみてほしい。それが日本の天皇なのである。こんなことは世界中に他に例がなく、だから天皇というものは外国人にはなかなか理解しがたいに違いない。
 古代には天皇が政治的権力をも有している時期もあったが、いつの時代にも一貫している天皇の役割は、人民の生活の平穏を神々に祈ることと、詩を詠むことであり、これは現在も同じである。祈ることはともかく、詩を詠むことを中心的な仕事の一つとしている君主など、日本以外に存在しないのではないか。
 日本のナショナリズムにとって「詩」は重要な位置を占める。江戸時代後期に本居宣長が創始した「国学」は日本の近代的ナショナリズムの源泉となったが、本居が重視したのが「詩」である。当時、儒教の一派である朱子学が幕府公認の云わば「国教」である。朱子学は十二世紀の中国で生まれた思想であり、もちろん儒教そのものが古代に中国から輸入されたものである。本居は、そのような「漢意」に汚染される以前の、日本の本来の精神の形を探った。その手がかりとしたのが、日本最古の文献の一つである詩集「万葉集」だ。そこには天皇から国境警備の下級兵士まで、古代のあらゆる階層の日本人の詩が収録されており、儒教や、やはり中国経由でもたらされた仏教などの「漢意」が蔓延する以前の日本の精神の形をうかがい知ることができる。儒教・仏教はいずれもそれぞれの形で善悪を説くが、そうした人工的な善悪の観念それ自体が「漢意」であると本居は見なした。「万葉集」を虚心に読み、「漢意」以前の、善悪の価値判断なしに、ただ喜んだり悲しんだり泣いたり笑ったりしていた日本人の姿を見いだせというのである。
 これはヨーロッパ人にとってもそれほど理解困難なものではなかろう。ルネサンス期、古代ギリシャの芸術が再発見され、やがてニーチェがとりわけギリシャ悲劇に着目して、アラブ世界から持ち込まれたキリスト教道徳が蔓延する以前のヨーロッパ本来の姿を思い起こそうとしたことに似ている。その結果ニーチェがたどり着いたのも、要するに「善悪の彼岸」である。
 日本語の特殊性についても説明する必要がある。日本語の最大の特徴は、書き言葉において三種類の文字を併用するところにある。漢字と平仮名と片仮名である。一つの語句を、(書こうと思えば)三通りに書き表すことができるのである。普通はそれぞれに用途が決まっていて、漢字は中国からの輸入概念を、片仮名は西洋からの輸入概念を、平仮名は元から日本にある概念を書き表す時に使う(もちろん近代以前の片仮名の役割は違う)。その結果、何が起きるか。外国から輸入された概念は、そのことの痕跡をいつまでも明白にとどめるのである。日本語の普通の文章は漢字と片仮名と平仮名とを織り交ぜて表記されるが、漢字や片仮名で表記される概念は、外向きの、格式張った非日常語の感触をいつまでも失わず、日本人の自然な感覚に違和を生じさせる。このことは逆に、日本人は何でも輸入して平気だということでもある。普通、後進国が先進国から何かを輸入することは、その何かを含む先進国の価値体系の総合的な侵入の道を開くことでもある。先端文化の輸入は必ず伝統文化破壊の第一歩であり、したがって常に守旧派の抵抗に遭う。ところが日本ではそうならない。先進国である中国からの輸入文化の体系に属する概念はいつまでも漢字で書き表し、平仮名で書き表す伝統的な日本文化の体系とは決して完全には混ざり合わない。つまり先進国から何を輸入しても、固有の伝統文化が完全に破壊されてしまうことがない。そのような訓練を、日本は二千年をかけて積み上げてきたのである。近代になって欧米からさまざまな文化を輸入することになると、今度は西洋文化の体系に属することは片仮名で書き表すことを思いついた。なぜ日本だけがアジアで急速な近代化に成功したのかという秘密の鍵も実はここにある。
 日本語の書き言葉の特殊性によって、日本では本来なら互いに相容れない複数の価値体系が併存することができる。さまざまのことが日本では決して一つの価値体系に収斂しない。日本は原理原則を持たない国であり、むしろ原理原則がないということが日本の原理原則であると云った方がいい。このことと、三島の云う「日本文化の本質はオリジナルとコピーを区別しないこと」というのが、実はほぼ同じであることに気づかれただろうか。
 日本人の日常的で自然な感覚と齟齬のない「平仮名」言葉は、格式張った輸入概念を受け入れる基盤でもあり、「オリジナルとコピーの区別をしない日本文化」を根っこのところで支えている。その「平仮名」言葉を主に使用する「詩」を詠むことを、天皇は古来から連綿と中心的な仕事の一つとしているのである。
 天皇のもう一つの重要な仕事である「国民の生活の平穏を祈ること」も奇妙な結果をもたらす。古来の一時期はともかく、日本史の大半の時期において、天皇はただそのように祈っているだけで、現実の政治にはほとんどタッチしない。形の上では天皇の「臣下」ということになっており、実際には軍事的実力で権力を手中にしているその時々の実力者に、政治の領域は任されっぱなしなのである。するとどうなるか。ひどい政治がおこなわれ、「国民生活の平穏」が脅かされている場合には、それをおこなっている権力者を批判したり、場合によっては打倒したってよいということになる。日本の本来の君主であるということになっている天皇はただ国民生活の平穏を望んでいるのに、それを実現しない臣下は失格者の烙印を捺されても仕方がないからである。天皇はただ祈るだけで、具体的にどうすべきだとは決して云わないところがミソである。具体的なことを考えるのは臣下の仕事だからである。ある臣下が政治に失敗したら別の臣下がそれに成り代わればよく、原理的には誰もが「我こそは天皇の意思に沿う者」として名乗りを上げてよいことになる。「言論の自由」ということである。もともと「原理原則のない国」だから、どのような政治方針を掲げることも許される。天皇は、結果として権力闘争に勝ち抜いた者に「ではその方針でやってみよ」と云うだけである。三島は、「言論の自由」こそが天皇制の本質であるとも云い、天皇一家処刑の場面を含む深沢七郎のスラプスティックな革命小説「風流夢譚」を絶賛し発表の便宜を図ることまでしている(この小説はやがて掲載雑誌の版元関係者が殺されるテロを招き、現在も単行本として公刊されないままとなっており、また三島自身も一時偏狭な右翼テロリストに狙われたともいうが)。「言論の自由」の謳歌が必然的に孕むアナーキー状態の現出の可能性を、天皇制は原理的に肯定しうるのである。

 三島のナショナリズムは、アナキズムに親和的である。まさに三島自身が東大の新左翼学生たちに示唆したとおり、「天皇」と一言云うかどうかだけの違いである。天皇を担保にしたアナキズム、天皇によって正当化されるアナキズムとまで云ってもよい。
 少し先走って、少なくとも日本ではその大半が、欧米でも半ばはあくまで「マルクス主義」を掲げていた「六八年」の新左翼学生たちを「アナキスト」と呼んでしまった。が、今日では、当時その当事者たちがどう自称していようが、西側先進国の「六八年」の「新左翼」運動が実態としてアナキズムの運動であったことは常識に属することだろう。
 ここで「六八年」に関する現在の私の見解を述べておきたい。
 「二〇世紀」(二〇世紀らしい二十世紀)は一九一四年に始まり一九八九年に終わる「総力戦の時代」だった。
 一九一四年に勃発した第一次大戦は、人類が初めて経験した「総力戦」である。近代ヨーロッパの伝統的な「国民国家」は総力戦に耐えうる国家システムではなく、総力戦によって疲弊したヨーロッパの東西に、総力戦の時代に対応した新興国家が急速に台頭した。ソ連とアメリカである。いずれも、それまでのヨーロッパ諸国とは異なり、各国の個別利害ではなく「全人類」に共通する「普遍的」な正義を掲げるイデオロギー国家であるところに著しい特徴があった。
 ソ連とアメリカを発信源とする二つの普遍主義の双方に対峙する反普遍主義の機運が、当然ヨーロッパに高まる。ファシズムである。ファシズムは、ナショナリズムと親和性が高いが、単なるナショナリズムとは異なり、先行的に成立した普遍主義にあくまで事後的に対抗するモチーフに裏付けられた、少なくとも「高次化されたナショナリズム」であり、なんらかの普遍的なイデオロギーを掲げなければ生き残れない「総力戦の時代」に、云うなれば「反普遍主義」をもう一つの普遍的イデオロギーとして仮構するアクロバットな政治的立場である。
 普遍主義は、自らが「唯一」絶対的に正しいと信憑するからこそ普遍主義なのであり、複数の普遍主義が並び立つことを原理的に許容しない。ボルシェヴィズムとアメリカニズムとファシズムとは互いに相容れず、いずれか一つが他の二つを完全に粉砕して勝利するまで、この三つ巴の抗争は決して終わらない。第一次大戦は文字通り総力戦の「第一回戦」に過ぎなかったのである。
 「第二回戦」は、云うまでもなく「第二次大戦」として一九三九年から一九四五年にかけておこなわれた。
 現実の第二次大戦は、アメリカニズムとボルシェヴィズムとが手を結び、まずはファシズムを総力戦のリング外へ叩き出すという展開となったが、もちろんこの組み合わせには何の「歴史的必然性」もない。アメリカニズムとファシズムとが手を結び、まずはボルシェヴィズムを粉砕するという展開も、ファシズムとボルシェヴィズムとが手を結び、まずはアメリカニズムを粉砕するという展開も、同程度の確率であり得たはずである。たまたまそうならず、まず一九四五年、ファシズムが三つ巴の総力戦から脱落し、残る二者による「第三回戦」つまり事実上の最終決戦が引き続き展開されることになる。
 しかし、第三次大戦で決着をつけるべき二大陣営の双方が、いざ開戦に踏み込む前に核武装を実現し、核武装国どうしが「総力戦」をおこなえば共倒れになることが目に見えていたために、臨戦態勢のままただ対峙して睨み合うという、もどかしい「歴史の宙づり」状態が長期にわたって現出することになった。「東西冷戦」である。冷戦は、「起こらないままに起きた第三次大戦」だったと云うこともできるし、あるいは第三次大戦は長期にわたる持久戦・消耗戦として「起きた」と云うこともできる。
 いずれにせよ冷戦は、周知のとおり一九八九年の「東欧革命」をもって終結した。それは持久戦・消耗戦に耐えきれなくなった東側諸国の自壊であり、マルタにおける米ソ首脳の冷戦終結宣言は、事実上、ボルシェヴィズム側の降伏宣言であり、アメリカニズム側の勝利宣言であった。一九一四年以来の「総力戦の時代」は、アメリカニズムをその最終的な勝者として終わったのである。
 が、三つ巴の総力戦を戦い抜いて勝利した者が以後の世界を永続的に支配することになるという見通しは、わずか十年あまりでもろくも崩れた。その決定的な契機は二〇〇一年のいわゆる「九・一一テロ」である。「世界大戦」の二〇世紀とは異質な「世界内戦」の二一世紀がここから始まったと分析する者もあるようだ。
 ところで、「六八年」とはこの総力戦の時代たる二十世紀の歴史において、どのような意義を持つのだろうか。
 西側諸国の「新左翼」運動を含む「六八年」の諸運動は、乱暴にまとめてしまえば、第二次大戦後の冷戦構造を構成した米ソ二大陣営の双方を否定し、それらを乗り越える「第三の道」を求める試行錯誤だった。そしてそれ自体が強固な冷戦構造に規定されたものにすぎず、ということはつまり、それらがほとんどファシズム運動であったということでもある。冷戦体制とは、本来は三つ巴である二〇世紀の総力戦体制を、あたかも二元対立であるかに偽装した体制であり、その枠内で見いだされる「第三の道」は何らかの未知のものではなくファシズムである以外にない。
 もちろん、ボルシェヴィズムとアメリカニズムの二大国が構築した強固な冷戦構造は、それに対する抵抗勢力をも呪縛して、つまり自らがまさか実はファシズムを志向しているなどとは夢にも思わせなかった。冷戦体制下でアメリカニズム陣営すなわち西側陣営の反体制派は、現実的にはまずはボルシェヴィズム陣営と結びつくところから出発する以外にない。したがって、やがてボルシェヴィズム陣営と手を切り、米ソ双方の打倒を目指す新しい反体制派は、西側諸国においてはボルシェヴィズム陣営からの離反者によって形成され、自らを「新左翼」であると認識することになる。
 東側諸国においては、反体制派は徹底的に弾圧され、「六八年」のプラハや北京などを含む時折の短期的で痙攣的な爆発がある以外には、ほとんど存在すら許されなかった。しかし仮に東側諸国にも西側と同程度の「言論の自由」が保障され、反体制運動が段階的に自然成長していく環境があったとすれば、それはまずアメリカニズムと結びついた「右翼」運動として出発し、やがてそれと手を切る「新右翼」運動が登場したことだろう。そして西側の「新左翼」運動と東側の「新右翼」運動とが結びつき、場合によっては自らが実は本来ならファシズム運動と称すべき存在であるという認識にまで到達したかもしれない。事実、一次大戦後のファシズム運動は、ほとんどそのようにして誕生したのだから。
 ファシズムを掲げることに対するタブーが欧米ほど強固でない日本では(ちなみに戦前の日本の体制はファシズムではない。ムソリーニやヒトラーに該当する日本のファシズム革命勢力は一九三六年の「二・二六事件」で敗北し、その後成立するのは何ら理念を持たない凡庸な軍事政権にすぎないからだ。日本でファシズムが「反省されていない」のは当然である)、今私が述べたような「六八年」解釈は、もちろん主流ではないが、まったく私一人だけのものでもない。
 例えば日本の「六八年」の質を最もよく体現した活動家であった牧田吉明は、八〇年代に「ファシズム転向」を表明しているし、また運動の末期に最年少にして最過激の論客として一時的な脚光を浴びた千坂恭二は、近年、約三〇年の沈黙を破ってファシズムの論客として復活した。千坂はおよそ次のように云う。一口に「六八年」と云っても、実際にその運動を担ったのは下は十代後半から上は三〇歳近くまでの幅を持つ世代であり、年長世代が社会主義・ボルシェヴィズムの傾向をさらに上の世代から引き継いでいたのに対して、年少世代には虚無主義的な傾向が見られた。そしてその虚無主義は、当時はアナキズムと認識されまた時に自称されもしたが、その実ずばり「プレ・ファシズム」であった。千坂のこの説は、千坂と同じく「六八年」を年少世代として体験し、今も「非転向」を貫いている、日本では村上春樹と双璧をなす重要な作家と見なされている村上龍が、架空のファシズム革命を肯定的に描いた作品をいくつも書いていることでも補強されよう。また、近年「六八年」をテーマとした評論を精力的に執筆し続けている「六八年」世代の批評家・スガ秀実も、自らは「新左翼」の立場を堅持しながら、一九五〇年代に始まる日本の新左翼運動の形成期に、戦前の日本版ファシズム文化運動たる「日本浪漫派」の再評価と導入がおこなわれていたことに着目し、「実存的ロマンティシズム」に彩られた日本の新左翼運動が少なくともファシズムすれすれの運動であったことに自覚的であるように見える。
 が、これらの論者はみな、あくまで事後的に「六八年」とファシズムの親近性に気づいたものである。そしてもちろん、多くの「六八年」の体験者とその研究者は、今でもそのことに気づいてさえいない。まして「六八年」の渦中においてこのことを薄々にでも察知しえていたのは、アメリカニズム陣営に属する自国政府と結託した当時の日本の既成右翼勢力とは一線を画し、むしろアナキズムとニヒリズムの感性を共有する新左翼学生に露骨なシンパシーを示して、学生たちが一言「天皇」と云ってくれればとまで口走った三島由紀夫をおいて他にいなかったのである。