『ぼくの高校退学宣言』を読んでみた

未発表原稿

 『退学宣言』が徳間書店から刊行されたのはぼくが18歳の時、1989年の1月末だから、それからもう丸11年が経過したことになる。初版8千部が、半年もしないうちに売り切れたが、以後、版元に重版の意志なく、だから丸10年以上の長きにわたって、品切れ状態の憂き目を見てきた。
 その後のぼくの別の著作を読んだ人の中からは、このデビュー作もぜひ読みたいという声も時折あったが、「図書館や古本屋で探してください」と云う他なかった。
 それをこのたび、ネット上で「自主復刊」し、公開することにした。
 『退学宣言』の原稿は(他の著作ももともとはたいていそうなのだが)、手書きで、つまりワープロではなくペンで原稿用紙に書いた。そのため、ネット上で公開できる形にするには、要するにすべて一からワープロ起こしの作業をおこなわなくてはならなかった。つまり、自分が10年以上前に書いた著作を、熟読しながら一字一句書き移させられるハメに陥ったのである。
 なにしろとくに前半部は17歳の頃、まだ高校に在学中(正確には無期停学期間中)に書いたものである。思春期特有の独りよがりな肥大した自意識が、そこここに見てとれる。恥ずかしい。尾崎豊がいま生きていて、ぶらりとコンビニに入ったところへ「15の夜」が流れてくれば尾崎もきっとこんな気持ちになる。せめて文章の拙さだけでもこの際改めたいという誘惑に何度も駆られた。
 ところがのべ数十時間もこの若書きの自著と首っぴきになっていると、当初の「恥ずかしい恥ずかしい」という感覚はだんだん麻痺してくる。それどころか主人公(ぼくなんだけど)に感情移入して、「ううむ、やっぱりこの校長許せんなあ」と怒りを燃やし、恥ずかしながら何ケ所かでは涙し、勢いあまってBGMにブルーハーツのファーストやセカンドをかけ、読み終える頃には心から感動していた。
 高校時代のおれの行動は基本的に正しかった。悪いのは、高校生から「表現の自由」「言論の自由」などの「基本的人権」を奪って恥じない学校制度や教師たちだあっ!!……なんて民主的な気分になってきた。

 去年(99年)の春、理論派の管理派教師グループ<プロ教師の会>の諏訪哲二氏と公開の場で議論する機会があった。対談ではなく鼎談のティーチ・インで、ぼくと諏訪氏の他に、反管理教育派として20歳くらいの、フリースクールに通う女の子がパネリストで呼ばれていた。もともとのぼくの目論みとしては、反管理教育派には、今や国会議員になってしまって多忙の保坂展人は無理としても、その直系の弟子筋にあたる藤井誠二か平野裕二、もしくはリベラル派の教育学者か、とにかく一定弁の立つ論客を呼んでもらって、諏訪氏と激突させ、反管理教育界の異端児であるぼくが、あっちについたりこっちについたり、コウモリみたいになって議論を撹乱する、という作戦だった。ところが当日行ってみると、前述のとおり反管理教育派は、年端もいかぬ女の子である。諏訪氏と対等に議論できるはずもなく、ぼくも諏訪氏の主張の大半には充分理解を寄せているから、フタを開けてみれば諏訪氏の独演にぼくが時折相槌を打つという、ショボいイベントになってしまった。
 「『退学宣言』を、前日読み直していけばよかった」
 と今、思う。絶対、負けなかったと思う。
 まあ、済んだことは仕方がない。次にはそうすればいい話だ。

 『退学宣言』を読み返しながら、思い出したことをいくつか。
 加治木高校時代、生徒会の連中とよく衝突していた。ぼくが2年に上がった時の生徒会副会長で、同学年だったM君ともよく議論した。話はいつもかみ合わず、急進派のぼくと穏健派のM君との議論はいつも物別れに終わった。
 そのM君、ぼくが2年生の夏休みに福岡の筑紫丘高校に転校した後しばらくして登校拒否になり、まもなく中退した。
 ぼくが高校中退後に組織した「反管理教育中高生ネットワーク・DPクラブ」の事務所に、M君が一度訪ねてきたことがある。
 話を聞いて、びっくりした。
 ぼくの中退後の反管理教育運動は、保坂展人のグループ・青生舎の強い影響下に開始されたものだったのだが、実はM君、生徒会時代にすでに青生舎の本を愛読しており、青生舎路線を実践するつもりで生徒会役員に立候補したのだという。全然知らなかった。というか、高校時代、ぼくは保坂展人も青生舎も知らなかった。M君がもし、あの時ぼくに『元気印大作戦』かなんかを勧めておいてくれれば、その後のぼくの展開は、大きく違っていただろうと思うと悔やまれる。いや、悔やまれない。いや、どうだか分からない。青生舎を知って活動していれば、「政党結成計画」をはじめとするぼくの高校時代の、どう正当化しようとやっぱり大恥と云わざるを得ないいくつかの言動は回避できていただろう。少なくとも『退学宣言』を読み返すたびに赤面するようなハメには陥っていなかったに違いない。しかし、完全自己流の手探りで一歩一歩、学校と戦う方途を模索してきたのがぼくのぼくたる所以というか、恥ずかしいことを繰り返す中で次第にソフィスティケイトされた結果として今のぼくがある。だからこれでよかったのだ。が、M君との出会いがもうちょっと別の形だったら、どんな展開してたんだろう、とやっぱり考えてしまうなあ。
 加治木高校時代のことをもう一つ。
 ぼくとつるんで、「漫才研究部」設立を画策したT君。彼は、政治にも詳しい男だった。ぼくとつるんでいた時期に、すでに立花隆の『日本共産党の研究』や『中核vs革マル』を愛読しており、ぼくに「おまえは勉強が足りない」と口を酸っぱくして云っていた。「漫研」ではつるんでいたが、政治的なことではつるまなかった、というよりそっち方面では彼はぼくのことを小バカにしていたフシがある。彼はその後、鹿児島大学に進んだ。鹿児島大学時代には、たしか一度だけ会った覚えがある。たしか、落語研究部にいて、学園祭を訪ねて行ったのだ。さらにその後、法務省に入ったと人づてに聞いた。なななななんと公安調査庁である。「将来は社会党から立候補するつもりだ」という話はどうなった? 現在、もちろん直接の付き合いはない。人民の利益のために、旧友を裏切るのも心苦しいが、彼の本名だけは公開しておく。田中朗(たなか・あきら)。95年時点では、宮崎で反革命の活動に就いていた。
 筑紫丘時代。
 『退学宣言』で「Iのバカ」として何度か出てくるI君は、西南学院中時代の同級生でもあった。筑紫丘時代には敵対関係にあり、それで「Iのバカ」となるわけだが、出版後、彼から抗議の電話が何度か入った。「何が『Iのバカ』や、貴様!」とかなり激怒しており、ぼくも勢いに押されて謝罪の手紙を出した。「重版の時には書き換える」と約束した。
 今回の「自主復刊」で、そこは改められていない。やっぱり少なくとも当時のI君は「バカ」だったからだ。バカはバカと呼ばれても仕方がない。抗議の電話をかけてきた時、I君は、「ぶん殴ってやる」だの何だのと息巻いていたが、ぼくは当時と比べて少なくとも精神的には強くなった。殴られたら殴り返すまでである。
 これも筑紫丘時代の話ではあるがやはり西南学院中時代の同級生だったS君の話。セーラー服マニアの「党員」として登場するS君だが、今考えるとあれは、森伸之の『東京女子高制服図鑑』だったのだ。赤瀬川原平の「路上観察学」周辺の一実践である。セーラー服マニアの側面だけ強調して書いてしまったが、思い返せば、S君は、路上観察学周辺の他のことも(マンホールのフタだとか)よく口にしていた。なんだそうだったのか、と今さら合点がいっている。
 これに近い話は実は他にもあって、例えば加治木高校時代のOさんという同級生の女の子。学校当局との衝突の日々を送るぼくに、一定シンパシーを感じていたらしい彼女は、ぼくに吉本隆明の本を何冊か勧めてくれた。今では、今時若者にしては珍しい吉本主義者のぼくであるが、当時は何が書いてあるのかサッパリ分からなかった。吉本の本だけでなく、糸井重里や栗本慎一郎の本も勧められた。たしか村上龍と坂本龍一の対談本も。今考えると、あれが「ニューアカ少女」だったのだ!
 ニューアカといえば筑紫丘時代の数学担当の教師で、クラシック・ギター部の顧問でもあったS先生。
 高校時代、面白かったのは数学の授業だけだった。数学が一番の苦手教科だったのに、妙な話だ。それというのも、このS先生が魅力的だったからである。筑紫丘の教師の大半はぼくを弾圧する側、別学年のごく少数の教師たちが、陰でぼくを支援(退学処分にさせないように)していたが、このS先生だけは、どちら側でもない、ぼくにとっては不可解な存在だった。ぼくを嫌ってはいないことだけは何となく分かった。
 授業内容も実に分かりやすかった(この人は本当に数学が好きなんだなあ、というのがよく伝わってきた)が、よく脱線もした。いきなりキルケゴールの『死に至る病』について滔々と語ったかと思うと、「ま、今の君らには理解できんかもしれんけどね」と云ってまた数学の話に戻った。
 当時、ブルーハーツは時代的な現象で、体制側の一般バカ生徒の間でも、ブルーハーツは大人気だったようだ。S先生は、「ブルーハーツ? あんなもん好かん」と一蹴した。自分はシーナ&ザ・ロケッツのギタリスト・鮎川誠の友人だとよく自慢した。シナロケと云えば、傍流とはいえYMOファミリーである。S先生も、ニューアカ世代だったのだ。
 ただ、ひとつイヤな思い出もある。退学してしばらく後のことだったか、筑紫丘時代、ぼくの唯一の居場所だったクラシック・ギター部の部室に、時々遊びに行っていた。何度目かに、顧問のS先生が部室にやってきて、ぼくに云った。
 「おまえの気持ちも分からんではない。ここに遊びに来たい気持ちもよく分かる。だけどおれは、筑紫丘の教師の立場上、それを黙認するわけにはいかないんだよ。帰れ、と云うしかない。文化祭の時にでも顔を出してくれ」
 ニューアカ、もしくは「80年安保」の思想的脆弱性を露呈する言葉だったと今思う。もちろん、ぼくは今でもS先生を慕っている。
 そういえば何年か前、中洲でストリート・ミュージシャンの仕事中に、S先生が通りかかってぼくに声をかけてくれたことがある。「もしかして外山か?」。先の別れ以来、6、7年ぶりの再会だ。「どうしとった、おれは心配でならんかったよ、元気そうで何よりだ」と、S先生は本当に嬉しそうだった。
 悪い教師のことも書いておこう。
 『退学宣言』中では「佐々木」と仮名になっているが、当時、右翼反動校長の先兵としてぼくを弾圧する先頭にたった生徒指導主任だ。その後、順調に出世して、98年時点で福岡県立春日高校の校長か教頭になっていたようだから、実名を挙げてもいいだろう。本名を隈元という。
 いっそここで反動教師は全員、実名を挙げつらっておく。どうせ順調に出世してるだろうからだ。フルネームは分からないが、学年主任は仁田原、担任は古賀といった。教頭の名前は忘れた。もっとも、教頭はそんなに悪い教師ではなかった。その後まもなく、県立玄洋高校の校長に出世したと聞くが、それから先のことは知らない。何より極悪人の「Y校長」こと横手三呂(よこて・さぶろう)。こいつは、ぼくを弾圧した年を最後に定年退職し、その後、北九州の私立共立学園高校の校長に天下り(?)した。今もそこで校長を続けているかまでは分からない。こいつだけは、再会することがあればぶん殴ってやろうと思っている。老人虐待と云われようがどうしようが、絶対殴る。
 隈元の話だった。
 こいつと一昨年(98年)、再会した。春日高校の校門前で、当時主宰していた「自由民権運動・ラジカル九州」のビラをまいた時、それをやめさせようと弾圧しに反動教師が数人、出てきた。そいつらを統率していたのが隈元で、「外山さんじゃね」と訊いてきた。「久しぶりですね、隈元さん」とぼくも応じた。「こういうことをやってもらったら困る」と隈元。「そんなことを云われてもやめません」と答えると、隈元は、他の教師たちに向かって、「おい、カメラを持ってこい」と指示を出した。撮影して、警察に届けようというわけだ。
 隈元は時折生徒に、「受け取らんでいいぞ」と云いながら、淡々とビラまきの監視と、撮影の監督をするだけで、それ以上の衝突はなかった。
 だがぼくは正直、この時感動した。
 隈元が妙に馴れ馴れしく思い出話など始めなかったことに対してだ。もちろんぼくの方も、腐れヤンキーにありがちな、「センセーにはよく殴られたけど、今となってはいい思い出っスよ」みたいな気持ちは微塵もない。隈元はぼくに対しても終始「外山さん」などと他人行儀で、「かつての教え子」対応をしなかった。『退学宣言』に描かれたようなぼくの「闘争」は、今も、隈元の心の中に回収されないまま突き刺さっているのだ。
 筑紫丘でぼくは負けた。
 と、思っていた。たしかにぼくは負けたのだ。しかし、よくよく考えてみれば、隈元をはじめとする管理派教師たちも「負けた」のではなかったか? ぼくを「改心」させられなかったことはもちろん、「無事卒業」させることもできなかった。しかもあろうことか、ぼくと同学年の連中がまだ卒業もしないうちに、『退学宣言』なんて反撃文書が、天下の徳間書店から大々的に刊行されてしまったのだ。ぼくは負けたが、連中も「完全敗北」したと云っていい。さぞ悔しかったに違いない。
 『退学宣言』は、ぼくの「勝利宣言」でもあった。
 『退学宣言』刊行後の、80年代末の反管理教育運動、90年代初頭の街頭ライブ運動、90年代半ばの日本破壊党、90年代後半の「だめ連」福岡輸入の試み……すべて失敗、ぼくの運動は敗北の連鎖・連続だ。だが、ぼくは実は負けながら勝ち続けているのかもしれない。そしてこれからも。
 『退学宣言』を数年ぶりに読み返して、元気が出てきた。
 ぼくはこれからも負け続けるだろう。そして、負けながら、勝ち続けてやる。