柄谷行人「自由・平等・友愛」(『<戦前>の思考』所収)

 久々にこのテキストを読み返してみて、それなりに面白い発見があった。やっぱりかつて熟読した本だから、無自覚なレベルでも強い影響を受けていたんだなあと。
 「自由・平等・友愛」ではまず、自由の理念と平等の理念とは、この近代資本主義社会においては両立しえないことが語られる。しかし友愛の理念をナショナリズムとして制度化することで、この自由と平等との両立が実現されているかに思い込ませることができる。それがファシズムである。
 私なんかもファシストとして、まさにそれに近いことを考えているわけだが、もちろん柄谷はそういった「思い込みによる解決」を批判しているのである。私は、「思い込み」だろうがなんだろうが、解決できるんならそれでいいじゃんと思っている。
 最終の第5節は「自由と平等の矛盾を乗り超えるもの」と題されている。あ、なんか別の解決が提示されるのかなと期待して読むと、肩透かしをくらう。何も提示されない。「自由と平等の矛盾」は今後いよいよ露呈していくだろう、そしてそれを「乗り超えるもの」と称してファシズムが再び登場する可能性が高いから気をつけましょう、みたいな話である。
 「このように、自由・平等・友愛という要素は、資本主義の現実的な局面において、さまざまなかたちであらわれます。むろん今後においても、それはあらわれます。なぜなら、それらの矛盾はけっして解消されないからです。私の予感では、『共産主義』への幻滅が甚だしい以上、今後の危機において出てくるのはファシズム以外にありません」
 そうそう、そのとおり(笑)。
 テキストは、次のように結ばれる。
 「もし今後にファシズムがあるとすれば、けっしてかつてのようなファシズムとして出てこないでしょう。それは『民主主義』として出てきます。さらに、そのときに抵抗しうるのは、社会民主主義者ではなくて、頑固な自由主義者だけであろうということをつけ加えておきます」
 私は現在、実践においてこの柄谷の予測を裏切ろうとしている。この最後の一文の「ファシズム」を「全体主義」に変換する。新しい全体主義は、「『民主主義』として」登場する。「スターリニズム」である。「『共産主義』への幻滅が甚だしい以上」、共産主義は、それが共産主義であるという自覚を欠いて(当然、それがスターリニズムであるという自覚をも欠いて)再登場する。もちろん「社会民主主義者」たちはこれに抵抗しえないし、それどころかむしろその主要な担い手となる。抵抗しうるのは「頑固な自由主義者だけ」、つまり我々ファシストだけなのである。