その1から続く
外山恒一 活動年譜 その2
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1991年
“異端的極左活動家”時代・前期
この頃、橋爪大三郎や竹田青嗣の著作を読み遅まきながらいわゆる「現代思想」に目覚め、笠井潔の著作が決定的契機となりマルクス主義を放棄
この年の半ば頃から、それまで関心はありながら活動に忙殺されて手を出せずにいた音楽や映画など文化方面の「勉強」を始める。
7月 「自由恋愛」の実験を開始。複数の女性と同時進行で公然と付き合うというものだが、この実験は常に悲惨な結果を招いた。
8月 『注目すべき人物』執筆開始。中学高校時代からDPクラブ解散までの、外山の「反管理教育」全活動史総括。翌月完成するも、出版元がなかなか見つからず。
11月 読書会開始。高校全共闘の記録をテキストにするも、数回で破綻。
12月 「街頭ライブ」がムーブメント化。当初の「熱い想い」を喪失し、単に生活費を得るためだけに毎週末続けていた福岡市天神・親不孝通りでのギター弾き語りに、急に取り巻きの常連が増える。これが現在に至る福岡「ストリート・ミュージシャン」文化の始まりだが、革命性はあらかじめ失われていたと言えよう。
『週刊SPA!』の中森明夫監修の年末特集に<サブカルの未来の主役たち>の一人として紹介される。
1992年
この年から95年頃にかけて『週刊SPA!』の「中森文化新聞」に“反教育の革命児”として頻繁に登場、これをきっかけに他誌でもよく紹介されるようになり、一躍注目を浴びる。かに思われたが、結局たいした変化はなし。
1月 九州大学の自主ゼミに参加。テーマはフェミニズム。回を重ねるごとに嫌われる。
4月 突然、パンク・ファッションに。尾崎豊の死に衝撃を受けて(長続きせず)。以後秋頃までが福岡「街頭ライブ」ムーブメントの最盛期。
6月 個人誌『カルピス精通(そうかん)号』発行。<反学校、反教育、反民主主義、反・反差別、反フェミニズム、反ヒューマニズム、反大衆……>を掲げる「思想的オナニー」の産物。結局これ1号きり。
7月 初めて酒を飲む。
8月 ブルーハーツ・コンサート粉砕闘争。左翼市民運動グループが「ブルーハーツを福岡に呼ぶ親と子の実行委員会」と称し、「親子でROCK」と銘打って福岡サンパレスで開催した2千人規模のコンサートに3千枚の抗議ビラを手に乗り込み、2階席から散布。主催のオヤジ活動家や会場警備スタッフと格闘し、負傷。
9月 街頭ライブ中に襲撃される。上記コンサートを主催した小学校教諭が泥酔状態で親不孝通りに現れ、ビール瓶で外山に殴りかかってきたため、路上で格闘。
セックスフレンドをビラで募集。「女募集」と題したお笑いビラを福岡市中心街の電柱や女子トイレ等に貼ってまわる。最初の自覚的芸術活動。
10月 東京・三鷹に1DKのアパートを借りる。文筆業の出張拠点として。
11月 4冊目の著作『注目すべき人物』刊行。
12月 革命的オレ様戦線結成。ただし有名無実。
1993年
2月 宝島社の雑誌『バンドやろうぜ』に連載開始。「つれづれパンク日記」「がんばれROCK革命左派」「パンク強要講座」とタイトルを変えスペースを縮小されながら95年夏まで継続。
5月 5冊目の著作『さよなら、ブルーハーツ』刊行。「街頭ライブ」ムーブメント最盛期の日記。
初めてタバコを吸う。
8月 東大一高同窓会館で「退屈お手上げ会議」。91年以来の停滞を打破するため旧高校生会議系の同志たちと企画した3泊4日の合宿イベント。全国から100余名の若者が集まる。
10月 「反共左翼革命結社・日本破壊党」結成。退屈お手上げ会議への福岡からの参加者ら3名と。名称は当時ご存命だった「日本社会党」のパロディで、結局出なかったが機関紙タイトルも『破壊新報』の予定だった。わざとショボいビラを作って、福岡市周辺の高校前などで時折配布。
11月 寺山修司展粉砕闘争。福岡イムズビル内の会場で単に破壊党の仲間募集のビラを勝手に配布していただけなのだが、主催者に警察を呼ばれ、新聞報道までされる。
1994年
2月 ソウルフラワー・ユニオンとプチ論争。『バンドやろうぜ』誌上に外山が書いた批判的なインタビュー記事がきっかけ。
7月 福岡の左翼市民運動とまた激突。たまたま通りかかった街頭演説に飛び入りし、「女性サベツ」発言と北朝鮮批判が活動家たちに問題視され強制排除されたことがきっかけ。
公安調査局事件。公安調査庁の九州支局が、日本破壊党の活動を内密に調査していたことが、マヌケな職員が外山のアパート前に機密文書をうっかり落っことしたため発覚し、大げさに新聞報道される。ド派手な扮装で九州公安調査局に押しかけ抗議行動。
8月 日本破壊党、事実上崩壊。外山の失恋というショボい事情で。3ヶ月ほど立ち直れず、活動がままならなくなるが、その間にまた『SPA!』誌上でのセックスフレンド募集など数々の奇行愚行。
12月 狂ったように執筆。「街頭ライブ」運動の5年間を総括した単行本用原稿『アスファルトばかりじゃない』(450枚)、恋愛自伝『恋と革命に生きるのさ・第1部』(300枚)、アジ文『いじめられたらチャンス』(100枚)を次々と一気に完成させる。結局いずれも単行本化されずじまいだが、これらの執筆作業が失恋の痛手からの一応の回復をもたらした。
“異端的極左活動家”時代・後期
1995年
95年から96年にかけては、なりふりかまわぬオウム弾圧を契機とする警察国家化の動きにどう対抗していいのか途方に暮れてほとんど失語症のような状態に。
1月 阪神大震災・物見遊山ツアー。ヒッチハイクで「廃墟の街」を見物に行く。ヒューマニズムへの反感が行き過ぎてすっかりグレてしまっていたのだと現在では半ば反省。後にオウムも遊びメインの廃墟見物をしていたことを知り、複雑な心境に。
2月 東京で「だめ連」と出会う。90年代後半の若い運動シーンを席巻した文化左翼ムーブメント。恥ずかしい直球スローガンを確信犯的に連発するダサカッコいいノリに強い影響を受け、新しい展望を得た気がしてこの運動を福岡へ「輸入」することを決意。
3月 破壊党を「革命結社・ユルサン」に改称。オウム弾圧への抵抗のモチーフを秘めての、「だめ連」福岡輸入の最初の試みだったが、うまくいかず、機関誌『ミトメン』を1号出しただけで自然消滅。
7月 鹿児島市にアパートを借りる。街頭ライブの出稼ぎ拠点として風呂なしワンルームを。この瞬間、全国にアパート3部屋。
8月 東京・三鷹のアパートを引き払う(「中森文化新聞」効果によるブレイクをあきらめて)。
10月 鹿児島のアパートを引き払う(改築のため立ち退き)。
11月 6冊目の著作『見えない銃』刊行。まだDPクラブを主宰していた90年頃から、街頭ライブ・ムーブメント最盛期にあたる92年頃までの雑多な文章を収録。『最低ですかーっ!』以前では最後の純粋な著作。
1996年
1月 『読売新聞』九州版にコラム連載開始。月イチで1年間続くが、オウム事件以来の“失語症”であまりよいものは書けず。
2月 スランプが頂点に達し、文筆活動も革命運動もいったん放棄、福岡県大野城市の実家でしばらく静養することを決める。これにともない丸7年間活動拠点としていた福岡市内のアパートを引き払う
5月 原付免許取得。機動力を飛躍的に高めたものの、スランプ中ゆえ有効な使い道ナシ。
8月 心機一転を図り、上京。杉並区阿佐ヶ谷にワンルームの風呂なしアパートを借りて、荷物は宅配便で送り、カラダは免許を取得したばかりの原チャリで運ぶ。東京では「だめ連」のピークが終わりつつあり、それを乗り越えんとする矢部史郎(高校生会議以来の同志)・山の手緑(退屈お手上げ会議以来の友人)の運動に接近。
10月 「ヒット曲研究会」スタート。「ヒットチャートから社会情勢を分析する」連続座談会企画。参加者には矢部史郎、山の手緑の他、まだブレイク前の酒井隆史、丸川哲史らも。
1997年
2月 わずか半年にして東京撤退。高い家賃負担に狭い部屋という東京の住宅事情と、さまざまの運動が乱立する中で独自の路線を打ち出せない状況に精神的に耐えきれず。どうせ風呂なしなら地方にはもっと安くて広い部屋がある、と福岡市内に6畳2間で3万円以下のアパートを借りる。
5月 福岡で活動再開。ムリに独自路線を打ち出すことは断念し、首都圏ではすでに過去のものとなっていた「だめ連」ムーブメントを、まだ「だめ連」以前の状況にある福岡の政治・文化運動シーンに本格的に輸入することに。主に『じゃまーる』を利用した仲間集め(「交流圏」の確立)を開始。交流誌『ザ・コーネ』(「ざこ寝」の意)発行、地獄の10時間カラオケ、5本連続耐久映画上映会、県外ゲスト歓迎会などを口実に、大小無数の交流会を開催、わずか3ヶ月ほどで当日告知でも常時10名以上の交流会動員力を実現する(「福岡版だめ連」第一の波)。
6月 『ぺりかんだもの』発表。「相田みつを」をコケにしたパロディ作品。後に何度かミニコミ化。
8月 初めてのホームページ「恋と革命に生きるのさ」開設。なんかこの時期オザケンにハマっていたのでそんなタイトル。
11月 商業タウン誌『ムーブメント』創刊計画。外山を編集長として計画始動するも、のちポシャる。
1998年
2月 前年以来の福岡のネットワーク分裂。外山のアパートをたまり場とする総勢30名ほどの「福岡版だめ連」が形成されていたが、オシャレでマニアックなアート趣味の一派が外山を見限って去り、「交流圏」の規模は一気に縮小、方針の再検討をせまられる。もともとその連中には内心イラついていたため、分裂自体は「歴史的必然」と総括するも、自分で作ったネットワークで孤立してしまうパターンからなかなか抜け出せず。
3月 福岡の出版社が出す『テレクラな日常』なるワケのわからない企画本に原稿を書くことになり、テレクラには興味がないのでムリヤリ革命を論じる。
4月 7冊目の著作『ヒット曲を聴いてみた』刊行。純粋な著作(単独著作)ではなく、東京でのヒット曲研究会をバカバカしい脱線まで忠実にテープ起こしした、「外山恒一・編」の単行本。
「自由民権運動・ラジカル九州」結成。「福岡版だめ連」再始動の試み。先の失敗を総括し、最初から政治色を強く打ち出す。
「オフィスVAD」のビラを発見。深夜のビラ貼り途中、「万国の労働者&ダメ人間、団結せよ」と大書した怪しいビラが福岡大学周辺に先に貼ってあった。これまでいつもビラをまいて連絡を乞う側、たまには他人のビラを読んで連絡する側に回りたいという悲願が、福岡で運動を始めて苦節10年、初めてかなえられた記念すべき大事件。しかも文面から外山と同じく東京の「だめ連」に影響された連中であることは明らかだった。しかし、その正体はその後数ヶ月不明のまま。
鹿児島の「社会問題研究会」に参加。96年の鹿児島進出以来の友人・野口英一郎が主宰。わずかひと月のうちのこれら一連の動きに、「すわ、ついに九州にも<政治の季節>到来か」と勢い込む。
8月 オフィスVADと接触。4月にビラを偶然発見して以来、謎のままだった組織の正体がついに判明。東京だめ連のペペ長谷川の、だめ連結成以前の仲間の一人が、転勤で福岡へ来て始めたもので、今後の熱い連帯を相互に誓い合う。
熊本県水俣市で交流キャンプ。福岡の「ラジカル九州」、鹿児島の「社会問題研究会」、東京の矢部・山の手グループ、総勢10名で。
9月 ミニコミ『自由民権』発行。「自由民権運動・ラジカル九州」機関誌として。
替え歌メドレー「青年は仕事をやめる」発表。「無職青年社・社長」を名乗り、社歌として。
読書会「柄谷行人研究会」スタート。知的な若者に人気のある思想家・柄谷行人の名前で参加者を募り、実は吉本隆明の思想を注入するという陰謀企画。
11月 「メンズリブ福岡」結成に参加。その他さまざまの大小のグループが次々に登場し、自身の「自由民権運動・ラジカル九州」を含め、これらの運動体をヨコにつないだのが、「福岡版だめ連」第二の波で、99年3月ごろには総勢100名ほどの巨大な交流圏が形成されていた。
1999年
2月 「だめ連・福岡」正式結成。
3月 ミニコミ『自慰MEN'99』刊行。参加者が自身のオナニー体験について赤裸々に語る座談会の記録。メンズリブ運動の外山流の実践。
痴話喧嘩が高じて交際相手を殴り、鼓膜が破れるケガを負わせる。まさかこれがこの後数年におよぶ絶望的な闘争の始まりになるとは。
4月 福岡県知事選に“無届け立候補”し、「投票率ダウン・キャンペーン」を展開。
5月 「ストーカー」闘争。上記殴打事件を機に交流圏のフェミニストたちや矢部史郎グループらが外山の恋愛問題に政治的に介入し、ムリヤリ離縁させるなどの暴挙に出たことへのやむを得ざる反撃戦。人間関係がズタズタとなり、「ラジカル九州」崩壊。
7月 精神病院に通いはじめる。
福岡のアングラ・アーティストのネットワーク「大耳レーベル」、故・土方巽の流れを汲む正統派の「舞踏青龍會」、あるいは元DPクラブ・メンバーで“腐れ縁”的友人のバンド「らくだ」…といったグループや人々の周辺で企画されるさまざまの音楽や演劇その他のイベントに頻繁に通い、時にはスタッフも務めるという交流三昧の日々を満喫、年頭以来の苦境から徐々に脱却を図る。
8月 初のライブハウス単独ライブ。「ストリート・ミュージシャン」生活10年目にして。オリジナル、替え歌、モノマネと多彩な芸を披露。
9月 テント芝居の制作に関わる。広島の「風狂フーガ」、京都の「魚人帝国」の福岡公演に現地スタッフとなるが、外山執筆の宣伝ビラが激怒(主に前者劇団員)と絶賛(主に後者劇団員)の対象に。
10月 「九州電力を叱り励ます会」結成。東海村の臨界事故を契機に反原発運動を開始。するつもりで作ったビラはウケたが実質活動せず。
2000年
2月 ミニコミ『ネオダダ短歌』発表。五七五七七をそれぞれ別の人間がランダムに作り、偶然出来上がった意味ナシ「短歌」を強引に解釈して批評するという文章芸。
3月 山の手緑へのテロ敢行。前年来の恋愛問題への政治的介入に対する報復。杉並区高円寺の矢部・山の手グループ事務所に宅配便業者を装って侵入し、一方的に殴る蹴るなどして撤収。経緯を手記にまとめパンフにして配布。
4月 鹿児島市議選に友人・野口英一郎が立候補したため、スタッフとして選挙カーから大音量でピストルズを流すなど「節度あるやりたい放題」のサブカル選挙運動を牽引。野口は50人中49位で当選。
10月 マルコム・マクラレン計画に着手。それまで何度もバンド結成計画を立てては挫折してきた経緯を総括し、自分でボーカルやギターを担当するのではなく、コンセプトを設計して、それに合う人材を発掘してバンドとして組織し、方針を押しつけるという策謀。ちなみにマルコム・マクラレンはセックス・ピストルズのマネージャー。
11月 街頭ライブにアンプ導入。かつて投げ銭で食っていく方法を伝授した大阪の「弟子」が、マイクとエレアコ・ギターをアンプにつなぐ大がかりなやり方を開発していたので今度は逆に伝授してもらい、食うためにイヤイヤ続けていた街頭ライブがちょっと楽しくなる。
12月 「傷害罪」で起訴される。詳細は「獄中手記」参照。
2001年
1月 内省と傷心の旅。すでに2年前の話になろうかという過去の恋愛事件にいつまでも束縛されることに疲れ果て、一人になって静かに考えようと丸1ヶ月の鹿児島滞在。最終的にはヒラメイテしまったためにいよいよマズい展開に。
2月 刑事裁判が始まる。民事裁判の訴状が届く。
3月 「マイ・マジェスティ」闘争開始。ムリヤリ日本語に訳せば「神聖にして不可侵なオレ様」の意。裁判闘争を徹底的にエンタテインメント化する決意を固め、精神的にも完全復活。「フェミニストをやっつけろ!」と題した裁判レポートのサイトを開設、まるで演劇公演の告知のような傍聴勧誘ビラを大量配布するなどして傍聴席をたびたび満員にし、裁判をネタにした宴会を自宅アパート等で頻繁に開催、「福岡版だめ連」第三の波を創出する。
8月 刑事裁判一審「懲役10ヶ月」の判決。執行猶予ナシの実刑。「法廷侮辱」への報復判決である。
9月 民事裁判一審「100万円の賠償を命じる」判決。この頃には思いつくことはすべてやり尽くして、裁判に飽き始めていた。数ヶ月後に刑務所に入ることを前提に最高裁まで形だけ争い、それまでのモラトリアムを、前年着想した「マルコム・マクラレン計画」実現に費やすことにして、バンドメンバー募集に本腰を入れる。
2002年
九州大学構内に貼ったビラを見て連絡を取ってきた哲学専攻の女子学生をボーカルに採用、街頭の仲間等でバックを固めた社会派ビートパンクバンド「ハーメルン」をまたたく間に結成。外山は「黒幕」という謎のパートを担当し、他にDPクラブ以来の相棒が「相談役」というこれまた謎のパートで加入。
4月 ハーメルン第1回ライブ「ハーメルンの笛」。ハーメルンの主催で、友人知人のバンド数組も出演。予想外に充分な観客動員があって大成功。外山はライブ本番中、舞台には上がるものの演奏を尻目に難しげな本をひたすら黙って読んでいるだけ。
2002年5月14日 死去
(私は左翼に虐殺されたのだと認識している)
5月14日 「名誉毀損」容疑で突然逮捕される。「民事相手方弁護士の同僚を誹謗した」として。接見禁止措置のため外部と一切連絡取れず。
その3へ続く