“ファシスト”が切る民主主義

2017年12月『上智大学新聞』?に寄稿

 政治的にまったく目覚めていない純無関心層は選挙に行かないし、政治的に完全に覚醒して左右の極北たるアナキズムorファシズムにまで行き着いた者も選挙には行かないので、選挙に行くのは政治的に寝ても覚めてもいない寝ぼけた連中だけ、ということになる。もちろん私も選挙になど行かない。
 選挙制度は民主主義の根幹だが、民主主義もまた政治的イデオロギーの1つにすぎず、他の政治的イデオロギーに依拠して、民主主義ひいては選挙制度を相対化し、疑うことは可能である。もっとも民主主義の信奉者どもの顕著な特徴は、自らのイデオロギー性にまったく無自覚なところで、民主主義以外の正義もありうるという端的な事実に彼らは気づきさえしない。
 冷静に考えれば「1票」になど何の価値もないはずだ。自民党と共産党の違いもよく分かってないそこらへんの無学文盲のサルどもに「参政権」など与えて一体どうなるというのか。「有権者」の大半はそうしたサルどもだし、彼らは選挙のたびにマスメディアが恣意的に設定するナントカ劇場とかの政治的スペクタクルにまんまと眩惑され、誘導されたとおりの投票行動をする。マスメディアにはとくに政治的定見はなく、与党をディスったほうが視聴率や部数が伸びると判断すればそうするし、野党をディスったほうがオイシイと思えばそうするだけである。選挙結果は毎回そんなふうに決まってるにすぎず、ごくごく少数のマジメな人々が一所懸命に勉強して、例えばどこかの有名大学の政治学教授とかにまで立身出世したとしても、彼が手にしうるのは圧倒的大多数のサルどもとまったく同じ「1票」でしかない。
 政治的にシャキッと目覚めて、自らが正しいと思う方向に社会を変えようと本気で考えるなら、しょせんサルどもの気まぐれ投票に拝跪するしかない民主主義という愚劣な政治体制を根本から疑い、選挙以外の方法で社会を変革する方途を模索するしかないのだし、そのヒントは、民主主義と対立した古今のさまざまな政治思想の中にいくらでもある。そもそも本当に世の中が変わる時というのは、明治維新だって1945年の大転換だって、選挙でそうなったわけじゃないんだし。