我々団 年譜
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前史
1980's後半 後の我々団総統・外山恒一が反管理教育運動を展開。その過程で89年3月、マルクス主義者となる。
1990's前半 ほぼ総体としてPC(ポリティカル・コレクトネス)化した左翼運動シーンで、外山は反PCの立場から異論を吐き続けたために急速に孤立。なお91年5月の段階でマルクス主義を放棄し、事実上の(自称はせず)アナキストに。
1990's後半 既成左翼運動を内部からの批判により改革する路線を断念、「真に左翼の名に値するのは自分だけだ」との確信から独自路線を模索。
マイ・マジェスティ闘争(我々団の“起源の闘争”)
1999年
3月 外山の私的な恋愛事件に、90年代を通して敵対を深めてきた既成左翼活動家らが多数介入し、外山の活動家生命を最終的に断つための陰謀が開始される。
2000年
12月 「傷害罪」で起訴される。
2001年
2月 刑事裁判が始まり、民事裁判でも告訴される。
3月 「マイ・マジェスティ」(ムリヤリ日本語に訳せば「神聖にして不可侵なオレ様」の意)闘争開始。裁判闘争を徹底的にエンタテインメント化する内容で、「フェミニストをやっつけろ!」と題した裁判レポートのサイトを開設、まるで演劇公演の告知のような傍聴勧誘ビラを大量配布するなどして傍聴席をたびたび満員にし、裁判をネタにした宴会を自宅アパート等で頻繁に開催する。
8月 刑事裁判一審「懲役10ヶ月」、執行猶予ナシの実刑判決。要するに法廷をパフォーマンス会場とされて激怒した裁判官らによる私的報復の判決である。
9月 民事裁判一審「100万円の賠償を命じる」判決。当然これも“法廷侮辱”への報復である(“自由なパフォーマンス”の障害になると考えて弁護士を雇わなかった結果でもある)。すでに思いつくことはすべてやり尽くして裁判に飽き、この後は数ヶ月後に刑務所に入ることを前提に最高裁まで形だけ争う(つもりだった)。
2002年
5月14日 「名誉毀損」容疑で突然逮捕される(「傷害」罪での実刑判決はまだ確定していない段階)。民事相手方弁護士が所属する法律事務所の代表弁護士(外山の反管理教育運動時代の敵の1人)を法廷レポートのサイト上で“誹謗”したとして。
7月 「傷害」上告棄却。一審の「懲役10ヶ月」が確定し、「名誉毀損」公判と同時並行で「受刑者」となる。
11月 「名誉毀損」一審判決。求刑どおり「懲役1年」。もちろん実刑。もちろん前年の“法廷侮辱”の“前科”をよく知る裁判官による私的な報復である。
2003年
3月 「名誉毀損」二審判決。「懲役8ヶ月」に減刑。
5月 「傷害罪」での服役終わる。「名誉毀損」での裁判が続いていたために釈放はされず。
獄中転向。ファシストとなる。とくに逮捕以来、国家権力と既成左翼総体とを同時に敵と措定する革命の理論体系を渇望していたところに、ほぼ同じ脈絡からファシズム思想を捻り出したムソリーニの経歴を知り“啓示”を受けたのである。
9月 「名誉毀損」上告棄却。二審の「懲役8ヶ月」が確定し、ふたたび「受刑者」となるが、判決を不服として刑務作業その他囚人に課せられた一切の義務の拒否を刑務所側に通告。8ヶ月間丸々を「取調べ」と「懲罰」で過ごす。
転向から出所までの約1年間、これから創出すべき自らのファシズム運動の構想を練り続ける。党名「我々団」も、その綱領全文や党旗デザイン、いくつかのスローガン、当落を度外視する選挙戦イメージ、そしてムソリーニ思想を現代日本向けにアレンジした理論体系も、すべてこの期間に完成された。
2004年
5月5日 福岡刑務所を満期出所。丸2年ぶりに自由の身となる。出所直後より、獄中で構想したファシスト党「我々団」の建設にとりかかる。
“1人党”時代
7月 熊本市内の支援者宅に居候生活を開始するも、居候の身では居所を拠点とした活動もできず、雌伏する。
12月 自身の全活動史を総覧し、巻頭に入獄の経緯、巻末にファシズム転向宣言を付した通算8冊目の著作『最低ですかーっ!』を刊行。
2005年
1月 我々団のサイト開設(当初は「外山恒一のホームページ」の1コーナーとして)。
8月 鹿児島県姶良郡隼人町の実家に移住。
11月 獄中で構想した同志発掘を目的とする選挙戦術の実験として、霧島市議会議員選挙(隼人選挙区)に出馬。「政府転覆の是非」を争点に投票者中150人に1人の支持を得るも、供託金30万円を没収される(返還ラインは120人に1人相当の得票)。同志発掘には必ずしも成功しなかったが、その可能性は確信する。
2006年
年頭
我々団のサイトを見て、若いノンセクト左翼運動の再建を模索中の小野俊彦氏(当時は九州大学の院生)と、見沢知廉のファン・サイトを主宰しながら新右翼系の運動に参加していた本山貴春氏(当時は福岡大学の学生)から、もちろんそれぞれ別個にほぼ時期を同じくして連絡があり、現在に至る交友が始まる。
夏ごろ 九州ファシスト党の建設が思うように進まない状況を打破するため、翌年の熊本市議選に出馬することを考える。が、どうせなら東京都知事選にでも出た方が注目は集まるかもと思い始める。
9月 上京し、高円寺の「素人の乱」の諸君と交流しつつ、都知事選出馬が現実的に可能かを1ヶ月ほどかけてリサーチ。思うように支持は集まらなかったものの、ますます都知事選に賭けてみたい気持ちに駆られる。
11月 熊本市議選と東京都知事選の両方に出馬することを決意し、とにかく本当に出られるかどうかも分からない都知事選の準備に力を入れることに。
2007年
3月 ほんとに都知事選に出馬し、限りなく反則技の政見放送でガゼン注目を集める。1万5千票を獲得し、全14候補中8位。供託金300万円は没収される。
4月 熊本市議選に出馬。当然落選するも3回目の選挙にして初めて供託金30万円を取り戻す。
一連の選挙戦(とくに都知事選)によってある程度の知名度を獲得し、共に活動したい旨のコンタクトが増える。
草創期
6月 外山が1年以上前の原付でのショボい交通違反事件でいきなり逮捕され、翌月まで丸々1ヶ月の獄中生活。救援のため埼玉から九州入りした山本桜子が、そのまま九州にとどまり徐々に我々団の主力活動家の1人となる。他にこの時期に2名の女性が活動に参加するため遠方から九州に移住するが、いずれもやがて活動を離れる。
2008年
2月 福岡市南区に新拠点となる一軒家を借りる。
熊本で“ニート・デモ”に参加したことを皮切りに、小野俊彦氏の主導で始まった九州(福岡と熊本)の左派系フリーター労働運動に“右派”を称して時々登場し始める。
4月 外山が鹿児島市議選に立候補。540票を獲得し、熊本市議選に引き続いて供託金を取り戻す。この選挙戦を手伝いに、後に主力活動家となる東野大地が初めて九州入り。
7月 洞爺湖サミットへの反対行動に外山と山本が参加。世界中から反グローバリズムの左翼活動家が結集する中、「エコ反対」のプラカード1枚で存在感を誇示。
本山貴春氏を中心的活動家とする「維新政党新風」の“20代の会”が福岡で開催した討論会にゲスト参加。
9月 革命家養成塾・黒色クートベ、第一期スタート。塾生は当初5名だったが、1ヶ月ほどで3名が脱落。
2009年
2月
当サイトを全面的にリニューアル
結局2名が最後まで残った革命家養成塾の第一期が終了するも、第二期の入塾希望者が少なく、また5名中3名が短期に脱落する第一期の失敗に懲りて、以後の革命家養成塾はほぼ“開店休業”状態に。代わりに塾舎で毎週日曜(のち毎週火曜)夜に「定期交流会」を開始(9月まで)、第一期の2名の卒塾生の他、主に福岡在住の左右の活動家、元活動家、前衛芸術家などが参加し、“我々団交流圏”が形成され始める。
5月 群馬県から入塾1名。第一期とは違い、総統自ら塾生の学習を付きっきりで指導する方式は非効率として放棄し、総統指定の大量の“独習指定文献”を淡々と読破してもらう“放任教育”方式だったが、約1ヶ月で塾生失踪。
6月
法政大学入学相談闘争。
ウェブ上の機関紙『人民の敵』第1号を公開
7月
静岡から入塾1名。引き続き“放任教育”方針。この前後、第一期の卒塾生でいずれも我々団メンバーとなっていた2名のうち1名が失踪。
ウェブ上の機関紙『人民の敵』第2号を公開
8月 革命家養成塾で、10日間かけてスガ秀実氏の大著『革命的な、あまりに革命的な』を熟読する「夏期講習」開催。正規塾生の他に東京の学生2名と、地元滋賀でフリーター生活を続けていた東野大地が参加。
衆院選に合わせ「選挙反対キャンペーン」。
革命家養成塾舎にスガ秀実氏を招き交流会。
11月 「劇団どくんご」が福岡で初公演。2001年以来、同劇団の熱烈な支持者である外山も福岡現地スタッフの1人として奔走。
2010年
2月 中川文人氏を招き、熊本と福岡で交流イベント開催。
4月 眞壁良輔が首都圏での演劇活動に見切りをつけて入塾。前後して入党希望者として嶋明が福岡に移住。
5月 維新政党新風福岡支部のためにプロモーション動画を制作。
ペペ長谷川氏を招き、熊本と福岡で交流イベント開催。
6月 阿佐ヶ谷ロフトで反体制右翼マガジン『デルクイ』創刊予告イベント。
7月 外山がtwitter開始。
8月 革命家養成塾舎に鈴木邦男氏を招き交流会。
千坂恭二氏を招き、熊本と福岡で交流イベント開催。福岡でのイベントは8月15日、「今こそ若者たちに語り継ぎたいあの戦争」と題して、「あの戦争」つまり1968年の世界革命戦争について語り倒してもらう内容。
革命家養成塾舎に佐藤悟志氏を招き交流会。
10月 東野大地が入塾。引き続き“放任教育”方針。
11月 維新政党新風・福岡の活動家アキノリ氏が塾舎に居候開始(翌年3月まで)。客人として遇する。
外山が「劇団どくんご」熊本初公演(正確には約20年ぶりの公演)のために春以来、会場確保などで奔走し、熊本大学構内での公演が実現。
12月 静岡からの入塾者が約半年のカリキュラムを終え無事卒塾するも、まもなく失踪。
2011年
2月 外山が企画・編集した反体制右翼マガジン『デルクイ』創刊号刊行。
眞壁良輔が卒塾。
3月 フリーター労組で知り合った友人と共に福岡市早良区西新に「BARラジカル」をオープン。うまくいかない革命家養成塾に代わる同志の発掘・育成のための拠点と位置づけ、以後ほぼ毎晩バーテンとして自ら接客。
第一期の卒塾生2名のうち残っていた1名が脱党。
4月 福岡市議選に立候補した本山貴春氏の選挙戦に眞壁らが従事。
5月 注目・期待の活動家を絶賛するための「外山恒一賞」を創設し、排害社代表の金友隆幸氏に第1回授与通告。
東野大地が卒塾。
6月 福岡での反原発デモに「反原発右派」として参加。数名の我々団公然党員およびシンパにより「核の平和利用反対」「国賊東電に天誅を」「節電しません勝つまでは」「原発推進派に破防法を」などのプラカードが掲げられ、左派主体のデモなので圧倒的少数派であるにもかかわらず圧倒的存在感を示す。
BARラジカルに宮沢直人氏を招いて交流イベント。
7月 原発推進派への皮肉をこめた替え歌メドレー『原発推進組曲』を外山がYouTubeで公開。
東京でおこなわれた「右から考える脱原発」の集会&デモに山本桜子を派遣。
9月 福岡での反原発デモ参加の際に掲げていた我々団旗(黒地に赤い日の丸=アナキズムとナショナリズムの統合というファシズムの理念を表現)がデモ隊を罵倒するために沿道にいた在特会や、在特会がネットに上げた報告写真を見たネトウヨどもの非難の的に。
年始以来の群馬からの塾生が諸事情により退塾。
10月 山本と東野が芸術弾圧を掲げる芸術批評誌(正確には「芸術誌系弾圧機構」)『メイン・ストリーム』を創刊。
11月 「劇団どくんご」福岡公演(3年目)。この年から我々団とBARラジカルが「劇団どくんご福岡公演」の事実上の実行委員会となる。
2012年
1月 群馬から1名入塾。
2月 統一戦線義勇軍の針谷大輔氏が主催した東京・ロフトプラスワンでの“反原発右派”のイベント「男たちの国防論 脱原発運動の新たな局面を考える」に外山が出演。
福岡での反原発twitterデモに一切のパフォーマンスなしで地味に参加。
この月いっぱいで前年3月のオープン以来丸10ヶ月間の原則毎晩カウンターで接客するBARラジカルの「外山恒一常駐」体制終了。以後、同店は本来のオーナーが継続。
福岡での反原発twitterデモに前月に引き続き一切のパフォーマンスなしで地味に参加。
3月 引き続き福岡での左派系の反原発デモには“反原発右派”として、twitterデモには一切のパフォーマンスなしで地味に参加。
山本と東野が『メイン・ストリーム』第2号を刊行。
4月 福岡の反原発twitterデモの中心メンバーらによる九州電力本社前での抗議行動に参加。(以後たびたび参加)
ロンドンの(現地ではそこそこ有名らしい)ファシストらしき活動家の依頼に応えて、同氏の編集・刊行になる三島由紀夫論集に、外山が三島など一冊も読んだことないくせに三島論をデッチ上げて寄稿。
5月 やがて名誉ある第2回外山恒一賞を、熊本市で活動する「劇団第七インターチェンジ」主宰の亀井純太郎氏に授与通告。
2月の山本太郎講演会の打ち上げ交流会で知り合った右翼青年の仲介で、元々はその青年が所有していたというワゴン車タイプの街宣車を、熊本の右翼団体から格安で譲ってもらい、「日教組を撃滅しましょう」などと書かれていたイカニモ右翼なそれを早速「反原発右派」街宣車に改変する。
6月 全国13ヶ所(鳥取・岡山・大阪・京都・群馬・富山・新潟・仙台・札幌・松本・水戸・静岡・名古屋)で「外山恒一を囲んで飲む会」を開催してまわる“全国ツアー”を翌7月にかけて敢行。入手したばかりの「反原発右派」街宣車での外山の一人旅。
首相官邸前での反原発行動の参加者が万単位になり始めたタイミングで、外山はたまたま「劇団どくんご東京公演」を全ステ観るために東京滞在中だったので、抗議行動の時間に合わせて官邸周辺をピストルズとブルーハーツを大音量で流しながら街宣車ドライブし、人民の喝采を浴びる。
7月 山本・東野が福岡市主催の公募展「まちなかアートギャラリー」に介入した顛末をまとめた『メインストリーム』別冊『l'art pour l'art』を刊行。
8月 全国ツアーの次は全九州ツアーを、全国ツアーとは違いきちんと会場を設定した上で敢行しようと、まず会場探し、続いて事前情宣のために、本番と設定した10月半ばまで、九州各地のサブカル的・アングラ的な飲み屋や喫茶店を、外山自身が九州じゅうを何周もしながら訪ね歩く。
10月 動画中継「我々団TV」をまずは試験的に月1回、第一月曜の夜にニコニコ生中継で開始。
「外山恒一トークライブin九州8都市」敢行。
11月 前年に引き続き我々団とBARラジカルを事実上の現地実行委員会として「劇団どくんご」福岡公演。
鹿児島大学の憲法学の授業に外山がゲスト出演。
12月 衆院選にて原発推進派候補の選挙カーを街宣車で追い回す、一種の落選運動「原発推進派懲罰遠征」を外山・山本・東野の3名で敢行。
東京・高円寺「素人の乱12号店」にて「原発推進派懲罰遠征・凱旋トークライブ」。
2013年
1月 反原発活動家のざらすとろ氏が熊本県宇城市長選への出馬を画策するも告示日当日に断念、出てないのに選挙期間中に選挙カー状の街宣車を使用し選挙運動ふうの振る舞いに及ぶことに。街宣車を貸し出し、東野が運転手として協力。
関西大学の政治思想ゼミの合宿に外山がゲスト参加。
2月 Ustreamにて毎週月曜夜「我々団TV」を放送開始。
4月 『デルクイ』のライバル誌?『イチゼロ』第3号刊行記念トーク・イベントが京都で開催され、同誌編集長・早見慶子氏、統一戦線義勇軍・議長で東京での「右からの脱原発デモ」主催でもある針谷大輔氏と共に外山も壇上に。併せて開催された「右からの脱原発デモin京都」にも参加。
5月 いつかきっと名誉ある第3回外山恒一賞を、数年来“向かうところ敵なし”の破竹の快進撃を続けてきた在特会に初めてまともに対峙しえた東京の「レイシストをしばき隊」に授与通告。
6月 福岡での音楽イベントに飛び入り出演して不義理を働いたネットパンク小僧を、完全に部外者なのに唐突に怒りを燃やした外山が徹底弾圧し、“芸術弾圧機構”を標榜する党員の山本・東野に党首として模範を示す。
前年に引き続き“外山恒一・全国ツアー”を敢行。まずは“夏の部”として翌月にかけて京都・群馬・松本・富山・新潟・仙台・札幌・青森の8ヶ所を前年同様、街宣車での一人旅で回る。合間をぬって前年8月以来九州各地で展開している「サブカル的・アングラ的な飲み屋や喫茶店の開拓」を全国規模に拡大実践。
外山が重要文書「学生運動入門」を発表。
山本・東野が福岡で開催された文学フリマ「ポエイチ」に参加。
マック赤坂氏を主人公とし、外山も脇役出演しているドキュメンタリー映画『立候補』が公開されるが、この作品をまったく評価していない外山は、やがてプロデューサー氏の熱心な勧誘に屈して仕方なく観るまでの約1年間にわたって完全黙殺。
7月 関西大学の政治学の授業に外山がゲスト出演。
全国ツアーの途中で参院選が始まったため、外山もツアーの合間をぬって、前年末の「原発推進派懲罰遠征」とはまた角度を変えた“異端的反原発運動”の実践として、「こんな国はもう原発で滅ぼしましょう。自民党の皆さん、原発推進これからも頑張ってください」と勝手に応援街宣して回る「自民党ほめご…いや大絶賛キャンペーン」を、ツアー行程の北陸から東北・北海道にかけて展開。『朝日新聞』がこれを面白がり、7/29付朝刊のオピニオン欄で紙面の上半分をさいて外山インタビューを掲載した。
9月 翌月にかけて“外山恒一・全国ツアー”の“秋の部”を敢行。東京・松本・宇都宮・甲府・静岡・浜松・長野・名古屋・奈良・大阪・神戸・岡山・松江・広島の14ヶ所。
法政大学で外山恒一講演会を開催。
長野県松本市で開催された野外フェス「りんご音楽祭」に外山が2曲の弾き語りとトークで出演。それなりに大規模なイベントで、「UAと共演」と強弁できなくもない。
外山が自身のtwitterフォロワーの学生たちに「実体の有無に関わらず『○○大学アナキズム研究会』のアカウントを立ち上げ、全国各地のたくさんの大学に“アナ研”が存在してる(かのような)状況を作り出して革命ムードを醸成せよ」と呼びかけたところ、本当に数十もの大学でアナキズム研究会が結成された(かのようである)。
10月 Facebook内に、左右の学生活動家の交流を図るグループ「両極学生戦線」と、外山恒一の存在と主張を“布教”するための全国ネットワーク「我々少数派」とを立ち上げる。
11月 外山・山本・東野ら我々団メンバーを現地実行委員会の主力とする3回目の(我々団が主力でなかった初回から数えると5回目)の「劇団どくんご」福岡公演。
前年に引き続き鹿児島大学の憲法学の授業に外山がゲスト出演。
外山が事実上の編集長を務める反体制右翼マガジン『デルクイ』の第2号が、左右混淆反体制マガジンと副題?を変え、創刊号から2年半ぶりに刊行。
山本が福岡憂国忌(三島由紀夫忌)に参加。
12月 九州8都市(各県庁所在地+小倉)で、スガ秀実氏の時評エッセイを外山の解説つきで講読する学習会を開催。
東京で『デルクイ02』刊行記念イベント。外山の司会で、第1部の“座右そしてファシズムの未来を担う若手活動家たち”鼎談には東野、第2部の『デルクイ』執筆陣大放談会には山本も登壇。
東京で毎月おこなわれている「右からの脱原発」デモに外山・山本・東野が参加。
2014年
1月 北九州大学の政治学の授業に外山がゲスト出演。
翌月にかけての東京都知事選で、外山と山本が、前年の参院選に引き続き、原発推進派候補である舛添要一氏と田母神俊雄氏を対象とした「ほめご…いや大絶賛キャンペーン」を展開。一般からも街宣車に乗り込んで「ほめご…」を“体験学習”したい者を募った結果、連日数名の若者たちが代わる代わる参戦しては“大喜利大会”を繰り広げた。
前年に引き続き関西大学の政治思想ゼミの合宿に外山がゲスト参加。
2月 都知事選での「ほめご…」街宣の合間に、『美術手帖』誌と『ユリイカ』誌の編集部が入っているビルの前で、「現代日本を代表する前衛美術家・外山恒一を特集せよ!」と“独りシュプレヒコール”をやる「現代美術懲罰遠征」街宣(別名“威力営業”)を試験的に敢行。
ダンス批評家で群馬女子大教員の武藤大祐氏が主催した福岡でのアート・イベント?「野良」に外山が出演し、敢行したばかりの都知事選での「ほめご…」キャンペーンについて報告トーク。
『デルクイ』執筆陣の1人でもあるファシスト“東の総統”佐藤悟志氏が我々団本部を訪れ、佐藤氏を囲む交流会を開催。
3月 前々年来の、九州各地のサブカル的・アングラ的なBARを探訪して回る活動の過程で知り合った宮崎在住の無名の天才ボーカリスト・水永康貴氏の存在を少しでも広めようと、外山が福岡でのライブを企画主催。
九州電力本社前で反原発行動を日々展開している右派グループの数名と外山が謀議した結果、「川内原発再稼働を阻止するための恐ろしいインボー」が生まれる。
4月 山本太郎氏が立ち上げた反原発政党「新党ひとりひとり」から衆院・鹿児島2区補選に立候補した有川美子候補の選挙運動に外山・山本が献身。むろん「選挙全否定」の立場を放棄したのではなく、「川内原発再稼働阻止の恐ろしいインボー」の同志発掘のための行動である。
外山が会場交渉を担当し、水永康貴氏の鹿児島でのライブ開催。
5月 引き続き外山が頻繁に鹿児島入りし、「川内原発再稼働を阻止するための恐ろしいインボー」を推進。
そのうちグラミー賞より権威ある予定の第4回外山恒一賞を、グラミー賞受賞予定の宮崎の無名の天才ボーカリスト・水永康貴氏に授与通告。
山本・東野が朝日新聞の“右傾化する若者たち”特集に関連して取材を受けるが、紙面登場には至らず。
前月から外山が会場確保と宣伝に奔走し、「劇団どくんご」の大分市での初公演が実現。
6月 我々団本部にて“3昼夜ぶっ通し交流会”開催。のべ30数名が参加。
東野が、真壁らが運営する福岡市内のシェアハウス「BUMBO福岡」にて、「現代美術入門講座」を開催。
外山・山本と、西南大アナキズム研究会主宰の学生の計3名で、原発立地自治体である鹿児島県川内市にて「原発は覚醒剤と一緒です。生活が苦しいから早く原発を動かしてほしいというのは典型的なシャブ中の禁断症状です」という“説教街宣”、および周辺市町の田園地帯にて「川内原発で何かあれば、鹿児島の野菜は食うな、米は食うなと云いふらして回るつもりです」という“恫喝街宣”を敢行。
引き続き「川内原発再稼働阻止のための恐ろしいインボー」のために奔走しているため前々年・前年から大幅に規模縮小して「外山恒一・全国ツアー2014」を翌月はじめにかけて敢行。大阪・群馬・東京・京都の4ヶ所で“トークライブ”や“飲み会”を開催。
東京・美學校が外山をゲストに迎えてトーク・イベントを開催。「ヨーゼフ・ボイス ナイト」と題して、現代美術の文脈で外山の活動に光を当てる、ありそうで全然なかったイベント。
7月 京都・同志社大学にて「外山恒一トークライブ」。アナキズム研究会の学生らが宣伝に奔走し、約170名の来場。
外山、4月以来の「川内原発再稼働を阻止するための恐ろしいインボー」から、“笛吹けど踊らず”で“空回り気味”だと敗北宣言して事実上の撤退。
千坂恭二氏が大阪で毎月開催している学習会、および近畿大学での千坂氏とスガ秀実氏の対談イベントに、外山・東野が参加。
8月 東野が福岡市内のシェアハウス「BUMBO福岡」にて、第2回の「現代美術入門講座」を開催。
翌月からロンドンへ居を移す水永康貴氏の“最後のライブ・ツアー”を外山がセッティングし、熊本・福岡・鹿児島の3都市4会場でライブ開催。