『人民の敵』第9号(2015.6.1発行)


コンテンツ3
〈発掘インタビュー〉with 久田康弘(仮名)

〈正規版“購読”検討用・抜粋〉


久田 そもそもあの芝居(89年12月22〜24日、福岡市博多区の東領公園でおこなわれた秋好の作・演出によるテント芝居「仮面技師 弐拾壱世紀鉄仮面」。久田主演。当初は外山も出演予定だったが稽古過程で逃亡)のホン自体が面白いからね。持ってるよね? オレは最終版を持ってないんだ。
外山 ぼくも久田がまとめたやつ(秋好が94年2月初旬に死去して1ヶ月あまり後に久田が発行した遺稿集)でしか持ってないよ。
久田 あのホンはやっぱり面白いよ。よく読み返してたんだよね。最後の“悪徳主人”(むろん登場人物の1人だが、秋好がオーナーを務め、福岡のテント芝居シーンの一方の極として機能し、現在も福岡に存在する古物商の屋号が「悪徳家」)のセリフとかすごく面白かったんだ。最終稿は手書きで、それを持ってないのが残念なんだけど。どこに捨てちゃったんだろう。
外山 そうなんだ。久田がまとめたやつに載ってるのは?
久田 あれは最初の頃のバージョンだもん。とにかく“悪徳主人”の役はおいしすぎてさ。松浦君がやったんだっけ?(この時点では外山はまったく認識していないが、後のミュージシャン“とんちピクルス”こと松浦浩司氏のこと。前記のとおり外山は稽古過程で逃亡したため、入れ替わりで参加したらしい松浦氏のことを知らない。ごくごく最近、14年10月16日の外山のツイート「昨夜福岡市内の某BARでミュージシャンの「とんちビクルス」氏に遭遇、ほぼ初めて少し話し込んだ。私の師匠である故・秋好悌一が89年に福岡でテント芝居を敢行、私は出演予定だったが稽古期間中に逃亡した。その芝居になんと「とんち」氏は(私の逃亡後に加わり)出演していたと知って衝撃。」)
外山 佐賀の人だっけ?(他の人と勘違いしている可能性大)
久田 どうだったかな。会ったことある?
外山 芝居の本番には行ってるから会ったことはあるんだろうけど、正直あの芝居に関することはほとんど覚えてない(外山は途中で逃亡したため、一種の“心の傷”化している)。


外山 秋好とはそもそもいつごろ知り合ったの?
久田 18の時だね。高校生で、受験勉強の真っ最中だったんだ。いつ頃かな。夏だったような気がする、89年の。
外山 89年夏ならもう高校を卒業してるはずだよ、ぼくらの代は(……と、この間違ってはいない指摘が間違いの始まり)。
久田 じゃあ88年か。……ん? そうかな?
外山 まだ高校在学中ならそのはず。
久田 そっか。そうだ、88年だ。
外山 どういう経緯で?
久田 悪徳家。高校の友達が悪徳家を知ってて、連れて行かれて、そこにたまたま『ニッケル・オゲローン』(秋好が当時発行していたミニコミ誌)が置いてあったんだよね。読んでたら、バットさん(当時は秋好が悪徳家のオーナーで、その友人の通称“バット”氏が店長。おそらく現在はバット氏がオーナーも兼ねていると思われる)だったかリワさん(バット氏の妻)だったか、「それ書いた奴は今2階(秋好の住居で“秋好派”の拠点だった)にいるよ」って云われて、それがたぶん最初。
外山 その時のことはかなり鮮明な記憶?
久田 あいつはたしかベッドに寝そべってて、偉そうにいろいろ訊いてきただけだったような気がする。「へー、高校生なんだ」とか、「どこを受験するんだ」とか。で、……津田さん(津田三朗。当時、福岡でテント劇団「健康相談」を主宰)の芝居に出させられたんだよ。
外山 いきなりそこに飛んじゃうの?(笑)
久田 かなり短かったよ、津田さんの芝居に出るって話になるまでの期間は。いきなりホン読みに連れて行かれたのは……いつだったかな。記憶が曖昧だな。
外山 知り合ったのが高校生のうちで、おそらく88年の夏頃なんだよね? 津田さんの芝居に出るのもまだ在学中?
久田 いや、津田さんの芝居があったのは89年の夏だから、受験も終わった後だよ。だけどどうだったかな、ホン読みはいつから始まってただろう。大学(九州大学)に入ってからかもしれないな。……記憶が曖昧だ(笑)。
外山 現役で入ったんだっけ?
久田 うん、一応、偉そうに(笑)。
外山 ……民夫とか筒井とか(いずれも西南学院中時代の同級生)、覚えてるでしょ?
久田 そうそう、民夫君に悪徳家に連れて行かれたの。
外山 へー、民夫が悪徳家を知ってたんだ。
久田 うん。彼はそういう、何と云うか、“サブカルチャー”とか好きじゃん。そっちの趣味で民夫君と仲良くしてて、悪徳家に付き合わされた。……そうだ、その時の『ニッケル・オゲローン』にもうこのホンのプロットが載ってたんだよ。で、2階で“オレはこのプロットで芝居をやるつもりなんだ”って聞かされて、たぶんもうその段階で「芝居をやってみない?」っていう話になったと思う。だけどその前に津田さんって人が芝居をやるからそっちに出てみないか、っていう。
外山 (遺稿集をめくって)これのことかな?(『ニッケル・オゲローン』第3号に、「NOISY DUMB」と題された“芝居の「梗概」”が掲載され、「私達は今年の夏を目指し、1つの芝居を作っていくことにしました」とある。が、他の記事からおそらく昭和天皇死去直後に刊行されたとおぼしく、したがって久田の秋好とのファースト・コンタクトは実際には88年夏ではなく翌89年初頭と思われる。この後もこの対話は、この間違いに延々気づかないまま進行する)
久田 そう、これこれ。たったの2ページだったんだね。とにかくそれで津田さんの芝居に参加することになった。まあガキだったし、そういうのに引っかかっちゃうんだよな(笑)。


外山 当時、悪徳家の2階に結構いろんな人が出入りしてたよね。あれは秋好の教え子たちだったの?(秋好は河合塾福岡校の講師だった。そもそも九大医学部中退で、たしか中学数学の講師だったが、小論文の採点などもしていたはず)
久田 いやあ、よく分からない。ヤツの人脈は結構、謎だったからなあ。たぶんミュージシャン関係じゃないかな。秋好は深田さんとかと知り合いだったし。
外山 深田さんって?
久田 (秋好の芝居で)“鉄仮面”の役をやった人だよ。「プラナリア」かな、何だっけ、バンド名。最初は「フリーダム」とかいう恥ずかしい名前だったけど(笑)。……そうそう、「グラム」っていう散髪屋さんがあったんだよ、昔。
外山 聞いたことがある。週イチだか月イチだかでカットモデルとしてタダで切ってもらえるんだけど、髪型の指定はできなくて……。
久田 ああ、モヒカンにされちゃった奴とかいたね(笑)。そこをやってたのが深田さんじゃなかったかな。
外山 へー。
久田 で、バンドもやってたんだよ。ドラムでボーカルっていう、カッコ良かったよ。たぶんその界隈から来てた人たちじゃないのかな。ほら、ララとか(たしか外山らと同い年の、当時の外山はよく分かってなかったが今思えばおそらくデスメタル系のバンド青年。当時数回会ったきりだが、フェイスブックだかツイッターでつながってはいるはず)。
外山 あ、いたね、ララ君。
久田 あとララの彼女とか。
外山 そっちは知らない。
久田 あの辺はたぶんその辺、秋好のミュージシャン人脈の流れだよ。ララの彼女はたしかすぐ来なくなったけどね。最初の頃はララについてよく来てたけど、そのうちたぶん“こういう恐ろしい人たちとは付き合いたくない”って感じで(笑)。
外山 他にぼくが覚えてるのは、“ロリータ”がいて、あとMさんっていうやっぱり同い年ぐらいの女の子がいたな。
久田 ああ、いたけど芝居には関わってないよ。たしかすぐ……。
外山 あれ? Mさんって、久田が追っかけてた子だっけ?
久田 うん、最初の頃ね。イヤなことを思い出させるね(笑)。オレのせいで彼女はいなくなったって云いたいのか?(笑)
外山 だけどそのことで秋好にいじめられなかった?
久田 うん、メチャクチャいじめられてた。“なんであんなデブがいいんだ”とか云われて(笑)。まあ、オレも若かったし。
外山 いや、秋好の“いじめ”の話もちゃんと聞いときたいんだよ。ぼくも恋愛方面ではさんざんいじめられてたからさ(笑)。
久田 アイツは……ヒドい奴だぞ(笑)。
外山 “ロリータ”ともう1人、“マルガリータ”っていうのがいたって聞いてるけど。
久田 ああ、“マルガリータ”はオレもあんまり会ったことない。だけどたしか、水族館劇場に参加してたアイツのことじゃないかな。なんか気の強そうな……鬼のように嫌われてた気がする(笑)。
外山 いろいろ思い出してきたけど、ホウシとかって女の子もいたな。あと、モトダキョウコって人もいた。
久田 あ、モトダキョウコはマジメな芝居人になってるらしいよ。ちゃんと勉強して、リッパな人になってるみたい。大阪にいるはずだよ。
外山 あのあたりも秋好の教え子?
久田 どこから来たんだろうね。モトダキョウコは津田さんの芝居にしか出てないよ。そのまま津田さんについて行くのかと思ってたら、またあの秋好がイランことを云って、例の調子で、「オマエはそれでいいのか?」みたいなさ(笑)。で、実家に戻ったと思う。
外山 たしか北九州の人だったよね。
久田 それでちゃんと学校にも行ってたはず。その後どういう経緯があるのか知らないけど、大阪で舞踏をやってるって話をどこかで見た。なんか、リッパだったよ。リッパな“アンダーグラウンド・アーティスト”みたいな感じになってた。
外山 秋好の周りに集まってた同世代ぐらいの人たちについて、ぼくは全然よく知らないんだよ。
久田 オレもあんまりよく知らない。あんまり仲も良くなかったし。……芝居が終わった2年後ぐらいにさ、大工をやってた頃だけど、たまに秋好とも会ってたんだよ。年に1回か2回ぐらい。
外山 もう7、8年前ってことかな。
久田 死ぬ前の時期とか、あんまり会ってなかった。
外山 むしろ死ぬ直前ぐらいの時期に一番会ってたのは、ぼくだと思う。
久田 え、ほんと?
外山 月イチぐらいで会ってた。
久田 そうか、外山の毒電波を受けてたんだな(笑)。オレも死にかけてた時期でね。たぶんオレももうあんまり長くないよ。
外山 じゃあ今のうちに知ってることを全部、洗いざらい喋っときなよ(笑)。
久田 そんなにたいした話はないよ、野垂れ死にしたオッサンの話なんか。死んだらそれでオシマイだからな。
外山 秋好の書いたものって、君が作ったこれしか残ってないもんな。
久田 最近の主張を書いたものなんかほとんどなかったしね。ヤツのワープロにたくさん入ってたはずなんだけどな。盗んでくればよかった(笑)。なんか新しい、こましゃくれたワープロを買ってたんだよ。たぶん芝居の後にね。あの中に相当いろいろ残ってたはずなんだ。


外山 話を戻すけど、久田が秋好と濃厚な付き合いがあったのって、実はほとんど89年の1年間だけなの?
久田 うん。芝居をやってたあの時期だけ……って、そう云われてみるとそうだな(笑)。だって芝居が終わった後は、さっきも云ったように年に1回とか2回とかだもん。あ、でも、その次の年かな。また夢一が福岡に来ることになって、それを秋好が受けるのか受けないのかっていう……。
外山 「ハードコア」の時?
久田 いや、その次の年。で、結局は受けなかったんだけど。「ハードコア」は受けたんだよ、だって89年だもん。
外山 あ、そうか。たしか88年が「世紀末三文オペラ」のはずだもんね。
久田 そうだね。オレは観てないけど。当時はまだとても純情な高校生だったから。
外山 あれ? 秋好と知り合うのは「三文オペラ」より後なの?(と久田の“ファースト・コンタクト”の時期の間違いに引き続き気づいてない。いい加減そろそろ気づけ)
久田 そうそう。
外山 民夫や筒井は秋好のことをメチャクチャ嫌ってたけど、あれはどうしてなの?(あーまた違う方向へ……)
久田 偉そーなオヤジだったからじゃない?(笑) だけどそれは知らなかった。嫌ってたの? というか、民夫君たちと付き合いがあったの?
外山 今はないけど、当時は彼ら、DPクラブ(外山が当時主宰していた“反管理教育”グループ)に入り浸ってたから。久田がすでに筒井や民夫に嫌われていて……。
久田 そうだったのか(笑)。
外山 うん(笑)。で、彼らが当時云ってたのは、「久田は昔はスゲェいい奴だったのに、こんなクズになってしまったのは秋好のせいだ」って。
久田 おーっ、オレも大した奴だ!(笑) “クズ”と呼ばれてたのか。久しぶりにいいことがあった気がする(笑)。今日はそれを聞けただけで収穫だよ。へー、そうだったんだ。
外山 正確にそういうふうに云ってた(笑)。で、ぼくは一方で久田とも秋好とも付き合いがあったわけだし、久田が別に“クズ”になってるとは思ってなかったし、秋好のことも、そりゃしばらく経ってからだいぶいじめられるけど(笑)、当時はまだ活動家の面白い先輩ぐらいのイメージでしかなかったし、もちろん後から考えても民夫や筒井がぼくや久田が受けたような“いじめ”を秋好から受けてたとも思えないし、とにかく何でそんなに悪く云うのか不思議でしょうがなかったんだよ。
久田 だけどそれはオレの“女グセ”の話だったのかもしれないよ。
外山 どういうこと?
久田 だってオレ、ムチャクチャだったじゃん、秋好に感化された後は。“女はヤリ捨ててもいいんだ”っていう恐ろしい教えを受けていたので(笑)。


外山 秋好と知り合った頃って、受験生だったわけでしょ。
久田 すごいよね(笑)。でも受験したよ、ちゃんと。共通一次の前の夜は、麻雀で大騒ぎしてたけど(笑)。
外山 それも秋好の部屋なんだ。受験シーズンもずっと入り浸ってたの?
久田 そうだよな。よく考えたら、そうなんだよ。ヤツは九大の医学部を中退してるって聞いてたし、オレには当時まだわりと九大に対する幻想があったんだ。高校でも、わりと尊敬してたというか、すごく影響を受けた先生が九大の生物学科だったんだよね。だから自分もそこを受けた。……“マルコク”っていうのがあったんだよ、九大に。“食品・薬品公害を告発する会”っていう。そこにすごくお近づきになりたかったというのがある。もっとも、あれだけ憧れて、実際に生物学科に受かっておきながら、結局そこに行ったことはないんだ(笑)。
外山 えーと、89年って津田さんの芝居、夢一族の「ハードコア」、秋好の芝居っていう流れだっけ?
久田 そうだね。
外山 だけど津田さんの芝居が89年の夏なんでしょ? 秋好と出会ったのが88年の夏で、そこからすぐ入り浸るようになるんなら、まだだいぶ津田さんの芝居までの間にいろいろありそうなんだけど……(だから間違ってるんだって!)。
久田 だよね。実は最初が夏じゃなかったってことになったりして(笑)。たしかにはっきり覚えてるわけじゃないんだ。……あ、『ニッケル・オゲローン』の日付を見りゃいいんじゃん、これが最初なんだから(そうそう!)。
外山 ん? 明らかにすでに天皇が死んでるよ(キターッ!!)。
久田 あれ? おかしいね。
外山 昭和天皇が死んだのは89年1月7日だからね。
久田 じゃあ全然違うじゃん、オレが云ってるの大嘘じゃん(正解!)。88年じゃなかったんだ。89年に入ってからなんだ。だってこれ、死んだ後だよね、どう見ても。
外山 編集後記にも“くたばった”って書いてあるね。“後”だよ。
久田 そうだったのか。あれ? じゃあもっと短い期間だったんだ。
外山 うん、どうもそうみたいだよ(笑)。
久田 だけど共通一次の前の夜に秋好のとこで麻雀をやってたのはよく覚えてる。共通一次は1月の末ぐらいだったか、とにかく1月何日かだよね。
外山 ぼくは大学受験してないからよく知らないけど、たしか1月中(21日・22日)。
久田 えーっ、何だそりゃ!?(笑)
外山 このミニコミが初めての遭遇だってことは、どう考えても天皇が死んだ後だよね。その頃、ぼくらはすでに付き合いが復活してたっけ?
久田 あんまりなかったんじゃないかな。
外山 DPクラブの拠点アパートを開設したのが、天皇が死んだ直後なんだよ(89年1月末。したがって仮にその開設直後から久田が出入りし始めていたとしてもすでに久田と秋好の“ファースト・コンタクト”以降ということになるが、DPクラブの活動そのものは前年春から始まっており、久田との交友がどの時点で復活したのかは外山の記憶でも曖昧)。
久田 じゃあ行ってたのかな。……いや、あそこに行き始めたのはだいぶ後だと思う。それもたぶん民夫君に連れて行かれたんだよ。たぶん、ね。よく覚えてないけど。
外山 ぼくもなんで久田が出入りし始めたのか、記憶にないんだよ。
久田 あそこは女の子が結構いっぱい来てたでしょ。コマしてやろうってのはあったんじゃないかな(笑)。
外山 津田さんの芝居の時期は合ってる?(笑)
久田 夏だったことは確か。7月か、8月か。それにしてもすごい短い期間だな。感覚がだいぶ変質させられてる。ほんとにたった1年の間の出来事だったのか。恐ろしいな。
外山 つまり89年の初めに天皇が死んだ直後ぐらいにこれを読んで秋好と知り合って、そこから津田さんの芝居、夢一族、年末に秋好の芝居があって89年が終わる。で、それ以降は秋好との付き合いはあまりなくなる……。
久田 だからさっき云いかけた、90年にまた夢一族が来るのを受けるかどうかって話とか、あと秋好の芝居の後始末とかも結構長引いたし、そういうことはある。そうそう、借金を返してたんだ、ずーっとアルバイトをして。借金を返してる間はわりとよく会ってた。
外山 秋好に返してたってこと?
久田 うん。というか、芝居で百二、三十万の赤字になったから、それを秋好とキミヒコとオレで分けようってことになって、だからオレ負担分も40万ぐらい。
外山 それをどれぐらいの期間で?
久田 コンビニのバイトで返してたからね、1年ぐらいかかったんじゃないかな。いや、8ヶ月ぐらいだな。……あれ? そうだ、オレはその後、東京に3ヶ月ぐらいいたんだよ。ムチャクチャだなあ、オレの記憶!(笑)
外山 いろいろ突き合わせていかないとほんとの時系列が分からないね。
久田 だけどこれはオレの話じゃなくて秋好の話を記録に残したいんだろ? オレのあの1年間の歴史を正確に掘り下げても、あんまり意味ないんじゃない?
外山 いやいや、ぼくがそもそも誰に秋好の話を聞けばいいのか分からないんだもん。ぼくは芝居とか、そっち関係の秋好とのつながりは希薄で、かなり個人的な指導-被指導の関係だったから、周りの人たちのこともよく知らないし。まずは可能な範囲でコツコツ年表的な事実関係を組み立てていきたい。
久田 記録家だなあ。やっぱりそうでないと文章書いてメシは食えないんだな。
外山 食えてないけどね(笑)。でもたしかに少なくとも自分の活動歴についてはほぼ正確に、何年何月って云えるよ(笑)。


外山 秋好と知り合ってから、共通一次の前夜に麻雀してたってとこまで、せいぜい2週間ぐらいの展開じゃない?
久田 オレ、半年ぐらいあると思ってた(笑)。受験生だった時期に、秋好にものすごくいろいろ云われた印象があるんだよ。要は短い期間にさんざん云われたんだね(笑)。「九大なんか受けるな」とか、「大学に行ってどうするつもりなんだ」とか。秋好は中退じゃん。とにかく最初に会った日からもう、いきなり連日のように入り浸ってたんだな(笑)。人間の時間の感覚ってメチャクチャだ。89年の1年間ってものすごく長く感じる。その後は今に至るまで一瞬のようだよ(笑)。89年とか、昨日のことのようだもん(笑)。90年以降は、完全に“ない”んだな。
外山 で、当然4月に大学に入るわけでしょ。
久田 そうそう、やっぱり入学直後ぐらいに津田さんの芝居の稽古に入る。4月か5月ぐらいじゃないかな。最初、ホン読みで“ネコヤ”に行ったんだ。台本はもう書き上がってた。津田さんはそのへん、用意周到な人だし。舞台を作るのはムチャクチャだったけど(笑)。津田さんの芝居が7月だったか8月だったか、チラシがどっかに残ってるはずだけど、それが終わったら今度は“夢一の舞台を作って来い”って云われて、東京に派遣されたんだよ。それは1ヶ月ぐらいだったかな。
外山 ん? それは?
久田 舞台の作り方とか、足場の組み方とかを覚えて来いって、夢一の舞台稽古のところに。あの経緯は何だったんだろう。オレもよく脈絡が分かってない。9月から10月とかじゃないかな、1ヶ月間ぐらい。で、そこから戻って来て、Hさん(女性関係が乱れまくっていた秋好の、長らく“正妻”的立場だった女性だと聞く)の家の裏庭とか、ウチの叔母さんの家の庭とかで、コツコツと大道具を作ったんだよ。あの時どうしてマジ(京都のテント芝居関係者のはずだが外山は正確に認識できておらず。この99年に外山が受けた魚人帝国のツアーにも参加していた)がいたんだろう。マジとか、シュウ(この当時は夢一族に所属していたはずだが、やはり後の魚人帝国の中心的なメンバー)がいたんだよな。
外山 マジさんって人をぼくはちゃんと認識してないんだ。名前はよく聞くけど。
久田 そうなのか。ヒョロッとした、わりといい男だよ。オレとはあんまり合わなかったんだけど、それはたぶんタイプが似てたからだね。ムチャクチャで、後先考えてない感じで。あいつも京大に入って、たしか途中で辞めたとかって話だったな。
外山 津田さんの芝居の稽古をやってる期間もずっと秋好とは頻繁に会ってるの?
久田 だってオレ、秋好に連れて行かれてたんだもん、ずっと(笑)。ガキんちょだったからさ。だけど本格的に稽古が始まってからは、あんまり会ってなかったかもしれない。たまに秋好が稽古を見にきてたけど。で、いろいろ云ってたよ。津田さんのやり方について、コソコソと偉そうにいろいろ解説してた(笑)。あれはこういう意味なんだ、とか。津田さんは“演出家”だから、役者を動かすためにいろいろ芝居を打つんだよ。「やってらんねえ」とか云って帰っちゃったりする(笑)。そういうのを知らないと、やっぱりビビっちゃうじゃん。何だ、何が悪かったんだろうって。だけどそういうふうに考えさせたいんだよね、演出家としては役者に。練習しすぎると逆にむしろ芝居がダレてきちゃったりして、つまんなくなったりするから、いったんわざと崩す。演出家がよく使う手段らしいんだけど、それを秋好が解説してたりね。解説しちゃったら意味ねーだろ、って話なんだけど(笑)。ああいうところが嫌われてたんじゃないのか?(笑)
外山 だけどまあ、秋好をほんとに嫌ってた人たちって……。
久田 マジメな運動家で、いろんなことをちゃんと“積み上げていく”ような人たちが秋好を嫌ってたと思うけどね。せっかく積み上げていったところで、ダメとか云うじゃん、アイツは(笑)。やっぱりマジメな人たちは、オマエは何も成果を出してないくせに、どうしてそんなことを云うんだ、って思うよね。偉そうなことばかり云いやがって、って。


外山 秋好によく怒られた記憶はあるんだけど、いくつかを除いては、1つ1つの具体的なことに関してはあんまりよく覚えてないんだ(笑)。久田にもそういう体験はいっぱいあるでしょ?
久田 怒られたというより……。
外山 “詰められる”っていうか。
久田 バカにされて、「それでいいの?」って感じが多かったんじゃないかな。「それこそプラグマティズムじゃん」とかいう云い方でバカにしてくるから……。「そんなの知ったことか」って恥ずかしいから云い返せなくて、こっちはウーンと唸ってるだけ、みたいな。はっきり覚えてるのは、この(遺稿集の)最後に(編集後記的に久田が)書いてる話だよね。
外山 「他人に褒められるために生きてちゃダメだよな」っていうやつ?
久田 うん。実はそれはオレに云ったんじゃなかったんだよ。だけどオレが云われたような気がしたんだよね。たぶんK君(“秋好派”と対立してした旅団受け入れチームのメンバーで、活動家)のことを云ってたんだと思うんだけど、だけどオレもそうじゃん、と思って。その場でオレは何も云わなかったけど、オレが云われたような気がしたんだよね。その後どうやって帰ったんだか覚えてないぐらいだもん。オレはダメだなと思って、だけどそうやって生きてることを変えようもないというか、変える勇気もないってふうに思えて、それは結構こたえたな。だからひょっとしたら根本的にオレと秋好は違うってことなのかもしれない。影響はされたかもしれないけど、生き方の根本的な部分とか、生き方を規定してる価値観とかが違うんだろう。好きなものもだいぶ違うし、単純にオレが秋好の不条理な側面に憧れてただけと云ってしまうとそれまでなんだけど。……だけど秋好自身がそういうものに憧れてたのかもしれない。ヤツは“不条理”という言葉は使わないような気がするけど、つまり“創って壊す”の繰り返しみたいなものを、秋好自身が追っかけてたフシはある。だけどたしか死ぬ直前ぐらいの時期は、坊さんの本を読んでたな。誰だっけ、“念仏唱えかし”だったか……。
外山 親鸞かな。
久田 そうだっけ?
外山 だけどぼくも秋好が親鸞をあれこれ云ってた記憶はあるよ。
久田 じゃあやっぱりそうなのかな。だけどオレはそれに対して、かつて自分が云われたような調子で「ふーん!」ってバカにしてやって(笑)。オレにはよく分からなかったな。やっぱり死にそうになると……。
外山 死んだのが94年2月だから……。
久田 さすが覚えてるね(笑)。オレは“2月”ってことしか覚えてない。もう5年になるんだ。