『人民の敵』第3号(2014.12.1発行)


コンテンツ3
〈インタビュー〉with 宮沢直人
〈正規版“購読”検討用・抜粋〉


宮沢 で、北高に入って、どのサークルに入ろうか、と。いろんなとこから勧誘を受けるんだけど、一番強引で下品な勧誘をやってたのが生物部だった。さっきまでココに来てた絨毯屋の店主が部長をやってて、みんな汚ない白衣を着て……。他のサークルはビラをまくぐらいなんだけど、生物部だけはアジテーションやってて、ガシッと首を掴まれて、入部するって云うまで離してくれないような(笑)。
外山 アジテーションっていうのは?
宮沢 もちろん政治的なものではなく、「我々生物部はこんな活動をしてる」っていうような。まあせいぜい「自然を保護しなければならない!」とか(笑)。それで結局、生物部に入るんだけど、バンカラに憧れを持ってるような集団で……。
外山 生物部が?
宮沢 うん。北杜夫の影響を受けてるグループだった。
外山 北杜夫がどういう人なのか、よく知らないんだけど。
宮沢 北杜夫も旧制高校時代をバンカラな雰囲気の中で過ごして、それが彼の人生においても大きな意味を持ってるわけだ。その影響で、北高生物部の連中もバンカラをやりたがってた。放歌高吟したりさ。
外山 放歌高吟って……最近あまり聞かない言葉だ(笑)。
宮沢 遠くの方から白衣を着た奴らが3、4人、肩を組んで「デカンショ節」か何か歌いながらやってくるんだ(笑)。そういう何というか、ある種の、旧制高校型の“自由主義”を追求する集団だった。
外山 北高そのものはそれほどバンカラでもないの?
宮沢 うん。
外山 生物部だけがそういう……。
宮沢 応援団でさえバンカラふうではなかった。生物部だけが、北杜夫の影響で(笑)。


外山 生徒会長になったのは2年生の時?
宮沢 2回目の2年生。高校に4年間いたわけだけど、職員会議の決定を覆したことは2回しかなかったな。1回は、学園祭の日程。北高では学園紛争の時に2度か3度、放火に遭ってて、校舎があらかた焼けてプレハブ生活をしてたんだけど、「校舎がこういう状態だし、学園祭の日程を縮めます」ってことで3日間から2日間になってたんだよ。
外山 あ、それは学園紛争当時にそうなって……。
宮沢 うん。で、ぼくらの時に新しい校舎が建った。なのに日程は2日間に縮めたままなんだ。だからそれを3日間に戻せっていう運動をして、戻した。サークルの連名で校長に要求書を出したり、いろいろやって。その校長がエエカッコしいで、ぼくらが校長室に入ろうとしたら先にお客さんがいたんだけど、「いいから入ってこい」って云われて、入って要求書を渡したら、「何だ、こんなものは受け取れない」って。どうやら先客は教育委員会の人だったらしいんだ(笑)。その運動の過程では民青・北高班の名前でビラも出して、これは評判が良かった。
外山 民青の名前を公然と出して?
宮沢 ビラ配りは北高内では違法というか禁止されてたから、大学生に頼むのね。大学生に代わりに配ってもらう。ぼくらは同じビラを各クラスの掲示板に勝手に貼って回ったりする。
外山 あ、つまり校門前で大学の民青の人たちがビラをまいて、その受け取ったビラを“誰かが勝手に”教室に貼ったってことになるんだ。
宮沢 そうそう。そのビラは支持された。だって学校側の理屈が通らないからさ。
外山 プレハブ生活の間は2日間にって話だったのに……。
宮沢 うん。それを3日間に戻させたってことが1回と、もう1回は、近くの雀荘で昼間っから授業時間中に賭けマージャンをやってて警察に挙げられた北高生たちがいたんだ(笑)。職員会議は退学処分にしたがってたんだけど、校長がヘンに民主主義派だったから「退学はどうも……」って、結論を先延ばしにしてたわけ。その時にぼくたちが署名運動を始めて、全校生徒の過半数の署名が集まったんだ。「たしかに彼らがやったことは悪い。しかし彼らも反省してるし、学校に残って反省の態度を示すこともできるはずです」という署名。それで結局、復学させることができた。その2回だな、こっちの要求を通したのは。
外山 北高の民青の中で宮沢は中心的なメンバーだったの?
宮沢 そうだね。
外山 民青系自治会の委員長みたいな?
宮沢 うん(笑)。でも当時の民青に自由な空気があったから可能だったことだと思う。
外山 ちょうど統制が緩んでた時期で……。
宮沢 うん。だからぼくは当時、生物部での文化運動と、民青での政治運動とを両輪にしてたような感じ。
外山 生物部の人たちは民青とはあんまり関係なかったの?
宮沢 友好関係はあったけど、毛色は違うから。
外山 民青はべつにバンカラではなく(笑)。
宮沢 そうだね(笑)。


外山 “福島大の夜間短大”っていうのは、学部?
宮沢 学部だね。福島大学短期大学部。今はもうないけど。とにかくそこを受けたら合格したんで、そこの党組織や民青組織と連絡をとるんだけど、なにせどう動いていいのかまったく分からなかったのさ。ぼくは福島に行く前までは、少なくとも日本全国どこに行ってどこの職場であれどこの学校であれ、必ずや組織を作れるという自信があったんだよ。しかし短大に行ってみると、これが上手くいかないんだ。
外山 その自信はどこから来てたの?
宮沢 高校時代をとおしてかな。実際には中学浪人や留年で同級生とはどんどん年齢も離れていくし、生物部からもだんだんバンカラの気風はなくなっていくし、民青の北高班でのぼくのカリスマ性も低下していったんだけど、それでも“正しい方針”と“献身的な努力”をもってすればどこでも通用するんだっていう妙な自信があってね(笑)。それが福島では見事なまでに上手くいかなかった。
外山 年齢的にも、中学浪人があって1年留年して、大学に入る時にも1年浪人してるから、入学時点で21歳ってことになるのかな?
宮沢 そのへんは夜間短大だから年とった人もいるんだ。それよりも、つまり共同体性の強い社会で生きてきた人たちをオルグするってことが、それまでぼくがやってきたこととまったく別次元なんだって強く感じさせられた。
外山 札幌はそういう共同体が弱いんだ。
KZ そうですね。
宮沢 例えば自分より年下の女の子が「私は長男の人とは結婚できないわ」なんて云うのを聞くと、ぼくなんか愕然とするわけだよ。そうか、“イエ”のことを考えながら恋愛をするのかって。
外山 何時代なんだ、と(笑)。
宮沢 一定の訓練を受けた活動家連中を前にすればそりゃあそれなりにぼくも偉そうなことは云えたけど、一般大衆に対してはそんなの全然通用しないわけだ。決定的だったのは、短期大学部を廃止して四年制大学に改編するって話になって、それは大きな目で見ると夜学生への待遇も良くなるってことで良しとすべきなのかもしれないけど、廃止に向けて短期大学生も人数的に減っていくわけで、じゃあその人たちの要求とか、サークルはどうなっていくのか、どこにアイデンティティを持てばいいのかってことに関して、何の答えもなかった。ぼくは当時、共産党の夜学支部の支部長だったんだけど、無謀にも、大学の教授会の中の支部と会って話したいって要求したんだ。その時に地区委員会が「それはダメです」って回答してくれればまだ誠実だったと思う。実際にはのらりくらりと「今は会わせられない」とか……。
外山 やっぱり共産党では同じ福島大でも、教授たちの組織と学生たちの組織とでは、お互いに誰がメンバーなのか分からないようになってるんだ。
宮沢 うん。そりゃあ考えてみれば夜間短大の学生の支部と、虎の子のインテリゲンチャの教授たちの支部とは、共産党の中で同等ではないわけよ。政治ってものが分かってればそういう判断になるだろうけど、ぼくはアスペルガーだからさ(笑)。とにかくなかなか会わせてもらえない。結局は会えないまま、「党支部がヘゲモニーを持ってる教授会を信頼して夜学改革に賛成する」って線でぼくは自分の支部を指導した。福島大は、生協、労組、経済学部教授会、教育学部教授会、経済短期大学教授会、すべて共産党系で、一大拠点だったんだ。しかし夜学解体に賛成してしまうと、その後の方針が一切出なくなるんだよ。何をどうすれば革命に貢献できるのか分からなくなる。最後の頃はもう『赤旗』の拡大をやるしかないって思いつめて、頑張ってたんだけど、そのうち10日間ぐらいソニー・ロリンズの『イージー・リヴィング』を聴いて決断するんだ。党を辞めるって。当時のぼくにとって党を辞めるってことは革命を放棄するってことだからさ(笑)。
外山 “唯一の前衛党”だしね(笑)。


外山 そもそも何年入学になるのかな?
宮沢 76年かな。1年、2年と民青にいて、インターに加盟してたのは大学の後半のほう。結局7年間行くからね。ぼくにとっては、第四インターは面白い体験だった。というのも、共産党以外の共産主義理論は初めてだったし。インターの人たちは、わりと真面目な共産主義者だから、話を聞いてても面白かった。そうこうしてるうちに、インターの拠点は「歴史学研究会」っていうサークルで、4年生のメンバーはもともとぼくらと一緒に始めたノンセクトの人たちなんだけど、2年生の部長が実は中核派のメンバーだってことが判明する。というのも、ぼくや経済学部のノンセクトの何人かで「歴史学研究会」に入れてくれって云いに行ったら、「あなたたちを入れると中核派からも入れてくれって云い始めるだろうから」とか云うんで、「そんなことないから入れてよ」って話をしてるうちにだんだん、そいつ自身が中核派なんだってことが分かるわけ(笑)。それだけであれば叩き出す理由にはならないんだけど、その判明した時のやりとりの場で“暴力事件”があったとかデッチ上げたり、その場にいなかった奴の名前まで挙げ始めたりしたんで、除名した。
外山 除名っていうのは、歴史学研究会から?
宮沢 うん。中核派の諸君がビラ配りか何かしてるところにばったり出くわしたことがあって、取り囲まれて小突かれたんだけど、「何すんだ」って云ったら「おまえらの胸に手を当ててよく考えてみろ」とか云われて、「分からねえよ」って(笑)。だけどまあ、全面勝利だったな。中核派がまた素直なんだよ。例えばぼくらがヘルメットかぶって福島大に登場すると、民青が出てきて「帰れ、帰れ」ってやられて、それにひるまず最後までやり切ってから撤退するんだけど、しばらくしたら中核派もヘルメットで登場するようになって何かやり始めたり(笑)、ぼくらがタテカンにキューバか何かの運動の写真で見たプラカードの絵とか真似て描いたりしてたら、そのうち中核派もタテカンに絵を描き始めて(笑)。そこらへんが可愛いんだ。ぼくらのことを一番高く評価してくれてたのは中核派の諸君なんじゃないかな(笑)。
外山 じゃあ対立してたといっても、かなり牧歌的な対立で……?
宮沢 そうだね。
外山 お互い「負けてなるものか」って張り合ってる感じなんだ。
宮沢 うん(笑)。ぼくと他に3人の経済学部生が卒業したのを機に、福島大の第四インター系ノンセクトは姿を消したはずだな、たぶん。
外山 後輩に後継者的な人は作れなかったんだ。
宮沢 と思う。
外山 宮沢たちの代に3、4人いたのが、まあ“第四インター系”とはいえノンセクトの最後、と。
宮沢 中核派はその後も残ったはず。
外山 中核派は何人ぐらいいたの? 勢力的には宮沢たちと同じぐらい?
宮沢 いや、中核派の方が多かったと思う。時期によってはこっちの方が多い時もあったけど。中核派はなんだかんだで10人ぐらいいたんじゃないかな。
外山 民青はもっと多いんでしょ?
宮沢 民青は百人レベルだろう。圧倒的だよ。民青にも取り囲まれて「帰れ、帰れ」って云われるんだけど、「君たちはその拳を権力に向けて振り上げたことがあるのか!」って云い返したら黙り込んじゃった(笑)。
外山 民青の人たちもやっぱり福島大では素朴なんだ(笑)。


外山 原発問題はいつから?
宮沢 だいぶ後だけど、原発に反対する意識はすでに大学の頃にはあって、車で福島第一か第二のそばまで行った覚えがある。それはとくに何かの運動ではなくて、単に見に行った。
外山 80年代初頭の当時はすでに福島にも反原発運動はあるの?
宮沢 ある。ただぼくらはそれを課題として担ってはいなかったけど。ともかく83年に札幌に戻ってから2、3年のうちに10人ぐらいのグループを形成できてた。猪俣とか、インター系の青年たちとか、集まってワイワイやってる感じ。具体的に何をやってたのか、あんまり覚えてないけど、何やかんや、温泉に行ったり(笑)。
外山 猪俣さんとかはまだ10代?
宮沢 うん。高校生だもん。一緒に活動するようになった頃はもう卒業してたかな。猪俣が高校生の頃はまだ、ちょっとスレ違ったぐらいの感じだな。彼らは北海道ブントと共闘してて、そこと別れてからぼくらと仲良くなった。で、まあ泊原発の運転開始が焦点化し始めて、燃料棒の搬入も近づいてくるってことで、ぼくらは87年の11月だか12月だか、反原発のデモに参加した。その時はぼくらのグループの他に、北大の「恵迪寮生有志」と、「幌延問題を考える北大生の会」っていうのがあって、じゃあこの3グループで“青年デモ”をやろうということで、共闘組織を成立させた。これが後の「ほっけの会」になる。その3者共闘が成立して会議をやるんだけど、毎回困るのは革マルのメンバーたちのことで、会議の場で彼らの理論を延々と喋るんだ。それはもう好きに喋らせておいて、じゃあ次に具体的に何をやるか話し合おうって、彼らの理論とはまったく関係ない方針を決定する(笑)。そんなことが続いてるうちに、革マルは来なくなったな。あんまり関わっても仕方がないと思ったみたい。
外山 とりあえず話は聞いてくれるんだけど、と(笑)。
宮沢 話したいことがあるならもう、いくらでも云ってくれって(笑)。1時間でも2時間でも、もし彼らが話そうとするんなら、好きにさせてたと思うよ。


外山 「ほっけの会」は“青年オバラ派”を名乗り始めるんだよね?(註.88年の反原発運動高揚の突破口を開いた大分県の主婦・小原良子に由来)
宮沢 ぼくは名乗った覚えはないんだけどなあ。どこかで名乗ったのかな(笑)。それは都市伝説なんじゃないのか(笑)。
外山 小原派にインスパイアされたってところはあったんでしょ?
宮沢 基本的に“小原支持”だったの、断乎として。つまり彼女の云う“反原発オールドウェーブ”への批判は当たっている、と。だけどぼくらは、それぞれのグループが持っている戦術に対して、別の戦術を押しつけるようなことはしないって作風だったから、そこは小原派とは違った。
外山 小原派も建前としてはそういうことを云ってたよね。ハネたい人はハネていいし、引こうと思う人は引いていい、それぞれ“自己責任”だっていう。それがいつのまにか“小原流儀”に従わせるような方向に収斂されていったってことかな。
宮沢 野間(易通)さんの最近の運動と、小原さんの当時の運動とは似てるところがあると思うんだ。それは良くも悪くも。そもそも反原発運動の特徴は、“オレ様主義”で傲慢。なぜかと云えば、それは放射能の問題には誰もに当事者性があるから。要するに“現地”もクソもないんだ。その傲慢さをどう表現するかというのが反原発運動。ぼくらの場合は、「おれたちは“子供”なんだから好きなようにやらせてくれよ」って形で表現してた。親を泣かせることになろうがどうしようが、小学生でも突入させるんだって。だから断乎として小原支持だった。“オールドウェーブvsニューウェーブ”論争についてはぼくらは関知しない。“オールドウェーブ”批判は正しいけれども、それ以上には関与するつもりはないって感じだったね。