『人民の敵』第3号(2014.12.1発行)


コンテンツ1
〈座談会〉with 山本桜子・東野大地
〈正規版“購読”検討用・抜粋〉


東野 ぼくが作ったチャートは、戦後の部分はかなりいい加減で……。
外山 「ランド・アート」ってのがどこからも線が結ばれずにいきなり出てきてるけど、突然発生した流れなの?
東野 いや、いろいろあるんですけど、ぼくの図がいい加減なだけです。
桜子 こういう世界の美術史と、日本の美術史がどう関係してるかも図解してほしい。赤瀬川の“宇宙の缶詰”も「ランド・アート」と関係してるんじゃない?
東野 あれはたぶん「ネオダダ」の文脈で、クリスト(「ランド・アート」の代表的な美術家)は意識してないと思う。
外山 クリストって、なんか地面が円柱型に掘ってくり抜いてあって、そのそばにくり抜かれたのと同じ大きさのでっかい円柱が建ってたりするやつだっけ?
東野 それは日本の「もの派」の作品。
桜子 クリストは布で建物とか橋とか、いろんなものを覆っちゃう人。
外山 あ、“梱包芸術”とか云って、とにかく大仰な……。
桜子 どんどん大掛かりになって際限がないから、そこで赤瀬川が缶詰を内側から“梱包”して“全宇宙を梱包した”ってことになるんじゃないの?
東野 赤瀬川はクリストとは別個に、独自に“梱包”をやってたんだよ。扇風機を扇風機の形のまま“梱包”したり。
桜子 あ、そっか。
東野 美術史講座で“宇宙の缶詰”の話をしたら、真壁(良輔。我々団の党員)さんが「それはおかしい」って指摘してきた。本当に“宇宙を梱包した”と云うなら、作者自身がその外側にいなきゃいけないって。つまり例えば自分がいる部屋を内側から“梱包”して……。
外山 なるほど! 同志真壁、なかなかあなどれん(笑)。
桜子 じゃあ“引きこもり”ってのは、あれは……。
外山 「ランド・アート」だ。
東野 違うと思います(笑)。


外山 この10年か20年ぐらい、とにかくどいつもこいつも「インスタレーション、インスタレーション」云ってる気がするんだけど。
東野 云ってますね(笑)。
外山 それはやっぱり、それ以前にもいくらでもあった「設置」型の作品展示を何らか差異化するようなコンセプトがあるから、わざわざ「インスタレーション」って言葉を使うんでしょ?
東野 流行ってるから(笑)。
外山 いや、だから何で流行ってるの?(笑) 「設置」された何かを含めた空間そのものを“作品”と見なして云々って話だったけど……。まあ確かに「設置」された何かそれ自体が普通は“作品”であるわけで、そういう場合はその“作品”をいろんな会場に持ち込んで展示して回れるわけだよね。だけど特定の会場にそれが「設置」されてるという空間そのものが“作品”だと云うなら、他の会場に持っていくことはできないってことかな? つまりその特定の会場との……“コラボ”?(笑)
東野 ああ、そういうニュアンスもあるのかもしれないけど、ぼくもそこらへんはあんまり詳しくはないんで。
桜子 屋外に「設置」しても「インスタレーション」なの?
東野 基本的には美術館やギャラリーの中だと思います。
桜子 それだと空間を云々するには不徹底じゃない?
東野 いや、冷戦が終わったぐらいの時期から、“芸術”と“非芸術”との境界がなくなっていることへの自覚の意識が強くなって、両者を差異化するには“美術館”という特殊な空間に依拠するしかないんじゃないかと考える人たちが出てきたんだと思います。
桜子 じゃあ美術館の中でパフォーマンスをするのは「インスタレーション」になるの?
東野 それは全然違うでしょう。
外山 パフォーマンスの場合は行為が作品であって、それはブツを「設置」するのとは違うんじゃない?
桜子 人間も物質としてとらえることはできるんだから、何かパフォーマンスをやるとして、それはそういうふうに動く物質なんだということで……。
東野 そこらへんは理論次第だと思います(笑)。
外山 作者本人が「設置」されてる必要もないんだしね。作者は別にいて、誰か他人を「設置」しちゃえばいい。それこそ人をモノのように扱って(笑)。
東野 理論の立て方次第で何とでも云えるんですよ。
桜子 “ピンポンダッシュ”も「インスタレーション」かな?(笑)
東野 うまいこと理屈を立てられるかどうかと、それを実際にやって何か面白いのかってこととは別問題だから。
外山 まあ一種の「パフォーマンス・アート」と云って云い張れないこともないとは思うけど(笑)。
東野 だけど今さら芸術と称して“ピンポンダッシュ”をやったとして、それは面白くはないでしょう。
外山 史上初めて“ピンポンダッシュ”を思いついて実行した人は偉大な“パフォーマンス・アーティスト”かもしれないけどね(笑)。
桜子 今でもやればいつでもドキドキできて面白いと思うよ。
東野 イタズラとしては普遍的なものではあるけど、それをわざわざ“アート”とか云う必要があるのか(笑)。
外山 せめてやられた側に単なるイタズラとは違うと思わせる仕掛けがなきゃ。「チクショー、またしても芸術家め!」って(笑)。


桜子 我々が2年ほど前に「トランス・アーツ・トーキョー」っていう東京版のちょっと規模でかめの“地域アート”プロジェクトに茶々を入れた時に、補助金と芸大とアーティストたちの関わりについて調べて、それを図にしたのがアレなんだけど……(と指差す)。
外山 あ、ずっとココの壁にかかってる怪しげな“相関図”みたいなやつ(笑)。
桜子 まず芸大の教授がいまして……。
外山 右上にでっかく書いてある中村政人って人が、この問題を象徴する人物なの?(笑) そもそもどういう人?
桜子 東京芸大の先生。村上隆とかと同年代。
外山 実際に村上隆とも近い関係なの?
東野 若い頃は一緒にやってて、そのうちケンカ別れしたらしいんですけど、中村政人が4、5年前に「3331」(アーツ千代田3331)っていうスペースを作って……。
桜子 それも補助金で。
外山 ツッコむねえ(笑)。
東野 そのスペースを利用したい、されたいってことだったのか分からないけど、その時期に和解したみたいです。
桜子 人を取り込むのが巧いんだと思うんですよ。
外山 あのー、芸術家の方はそうやってすぐキャンバスを傾けたり横にしたりしたがりますけど、見にくいのでちゃんと縦にしてもらえます?(笑)
桜子 (“相関図”を縦置きして)とにかくこの中村政人という方が、芸大で自ら量産してしまった“迷える子羊たち”をどのようにして路頭に迷わせないようにするかってことで、いろんなプロジェクトを各地に立ち上げていくんです。
外山 全国展開してるんだ。
桜子 うん。沖縄に立ち上げ、秋田に立ち上げ、富山に立ち上げ、いろんなとこに。
外山 それは何て書いてあるの? 「コマンドN」?
桜子 そう。そういう名前の法人を立ち上げて、そこの代表になってる。
外山 で、その団体の主導で全国各地に“地域アート”みたいな美術プロジェクトを拡げてるの?
東野 “全国各地”ってほどでもないけど、まあ、東京と、地方何ヶ所か。
桜子 そのうち千代田区の後援を勝ち取って、千代田区内にいろいろギャラリーを持つようになって、“イノベーション”ってのも最近の流行りだけど(笑)、やがて廃墟になってた中学校を丸ごと委託されて“イノベーション”して貸しギャラリーとしてオープンしたのが「3331」。そこで“迷える子羊たち”も含めたいろんなアーティストに展示をやらせたり、知識人を呼んで喋らせたりしてる。知識人たちに自分のやってることを権威づけしてもらってるわけです。で、この「3331」の維持のために「くすのき会」(神田くすのき会)っていうお金持ちの団体が資金提供してて、そこのメンバーには安倍晋三夫人とかもいる。
外山 急にキナ臭くなってきたな(笑)。それは何の団体なの? 芸術のパトロンになりたいような人たちの集まり?
桜子 だと思うけど、あんまりよく知らない。とにかくこの「くすのき会」が後援してて、「千代田区」も後援してる。
外山 その「アーティスト・イニシアチブ」って書いてあるのは?
桜子 よく知らないけど、「コマンドN」のアタマによく付いてるフレーズ。
外山 「一般法人非営利団体」……。
桜子 「コマンドN」の正式名称。「一般社団法人非営利芸術活動団体コマンドN」。で、どうにも反対しにくいプロジェクトをいっぱいやってる。障害者のアートを紹介する、子供のアートを紹介する、アジア、外国人のアートを紹介する……。
外山 そういうさまざまなキレイゴトを……(笑)。
桜子 あと“震災復興”!(笑) あくまで私の解釈で、誹謗中傷になっちゃうかもしれないんだけど、そもそも芸術家なんて何の役にも立たない、愚にもつかない存在じゃないですか。そういうどうにも使えないものを使える場所を作ってそこに送り込んで……。
外山 ん? 使えないものを使える場所? ……あ、“人”のことね。本来は何の使い道もないゴミ芸術家どもを雇ってくれるとこ。
桜子 うん(笑)。そういう施設やプロジェクトをあちこちに立ち上げて人を送り込んで、しかも「君たちは最先端のアートを担ってるんだ」って動機づけまでして。
外山 知識人たちにそういうこと云わせて正当化してもらう、と。
桜子 そういうシステムの全体を中村政人って人が作り上げていて、かつ「創造過程を見せる」というのが彼の“アート”のスローガンなんだけど……。
東野 そうなのか。でもいかにも云いそうだ(笑)。


外山 芸術が“地域”や“社会”のために“役に立つ”ものでなければならないかのような言説への批判だって出てこなきゃオカしいでしょ。あるいは、そういう言説でもって行政や企業とタイアップすることで美術シーンが維持されてるような状況について、具体的な企業名は出さずとも、批判は出てくるはずじゃない?
桜子 そういう批判的意識を持ってる人は、とくに何の役にも立たず、どこからもお金を出してもらえないようなものを淡々と作ってる。
東野 真っ向から批判するような人はあまりいない。
外山 じゃあ君たちが率先してそういう運動を始めればいいんじゃないの?それは何も具体的に“街おこしアート”の作品群を破壊して回ったりせずとも、そのテのシンポジウムなんかに行って会場から批判的な質問を浴びせまくって論争を吹っかけるとか(笑)。
桜子 こないだ東野さんが何かのシンポでやってなかった?
東野 シンポってほど大きな場ではないけど。
外山 “集会粉砕”路線はかなりこの問題に合ってる気はする。美術シーンのそういう現状に対して批判的であるような個人はおそらくいっぱいいるはずでしょ。そういう人たちをどんどん扇動して、各地で“街おこしアート”のシンポジウムを粉砕していく。
桜子 批判の論理を何か1コ作って、あちこちで使い回せばいいのかな。
東野 マトモな批判をしても通じる人たちじゃないからなあ。
外山 さっきのみたいに半分乗っかってもいいじゃん。趣旨そのものには賛同してるフリをして、「しかしこの企画は本当に“街おこし”に貢献することになるんでしょうか?」とかネチネチ追及するイヤガラセ(笑)。
桜子 取り込まれてしまう危険性もある。向こうもそれなりに“懐の広さ”みたいなものを持ってるから、我々のようなのが出てきても、「そういう問題提起をする“元気のある”人たちも必要だ」とかって。
外山 それはこっちのラジカル度によるよ。本質的な批判なら絶対に取り込まれない。ただしあくまでも紳士的に批判的な質問を浴びせまくる方向でやり続けて、にも関わらず“出入り禁止”にせざるを得ないぐらいの状況に追い込む。で、「排除されたー」って騒ぐ(笑)。いずれにせよ、やっぱり問題にした方がいいよ、こういう状況は。


外山 行政とかが補助金を出して美術や演劇やその他を保護していくってことに関して、そもそも『メインストリーム』の両先生はいかがお考えですか? それこそ明治の時代なら、欧米列強に伍していける“近代国家”を実現するためには“近代国家”にふさわしい芸術・文化を興していかなければいけないっていう、それで実際に政府がカネを出して、むしろ政府が率先する形で“近代芸術”を育成していったわけでしょ。そのことが批判的に検証されたりもしてるけど、明治ならともかく、この現代においてまだそんなことする必要があるのか。
東野 ぼくがカネを出す政府の側の人間なら話は別だけど、今の政府が支援するような“芸術”はすべてくだらない。大衆民主主義だからロクなところにカネが使われないのは当然で、ファシスト党の独裁政権ならもっとカネにならないような、ナチスが作った戦争映画を翻訳して上映するような文化事業とかを支援したいけど……。ナチス云々はともかくとしても、本来はそもそもカネにならないような文化をこそ政治が支援しなきゃいけない。
外山 つまり世間一般の人々が求めてないような、だからカネになるわけないんだけど重要な文化というものがあって……。
東野 だけどその重要さを理解できない人たちの声が大きいのが民主主義社会なんですよ。
外山 “アートによる社会貢献”みたいなフレーズに何の疑問も抱かないような人たちがカネを出したり受け取ったりすることになる。
東野 補助金申請が通るような書類を作らなきゃいけないし。
外山 そういうシステムのもとで実際に支援されるような“芸術”は、まずたいていゴミだよね。ということは、そんな補助金システムなんか、ない方がいい。で、芸術に対する行政の支援をやめさせる運動それ自体を芸術運動として展開することも可能なんじゃないの? 我々団的にも『メインストリーム』的にも“反芸術”運動の系譜を意識してるんだし、「前衛芸術を徹底的に弾圧するという最も前衛的な前衛芸術」というコンセプトを持ってるんだから。表面的には単に“税金の無駄遣い”を糾弾する散文的な“市民運動”であっても、それ自体を前衛芸術的なパフォーマンスだと云い張ることはできるはず。
桜子 できるんだけど、それでいいのかなあ。
東野 ちょっとダサい気がする。
外山 ダサいどうかはやり方による。批判のロジックの出来不出来にもよるし、もっと表層的にビラのデザインをはじめプロパガンダのスタイルによる。とにかく行政に芸術に対する支援をやめさせる、という行為そのものを現代美術のパフォーマンスとして展開することは、理論的には可能でしょ。
桜子 それは可能。
外山 これは我ながらすごいコンセプトだという気がしてきた。つまり芸術に理解のない方々を味方にする(笑)。芸術から最も遠い人々を扇動し、動員して、最も前衛的な芸術パフォーマンスを敢行するってことなんだから。
桜子 うん(笑)。
外山 “クール・ジャパン戦略”みたいなものへの批判ともリンクさせられる。シニシズムのオタク文化なんか諸外国に広めてほしくないし(笑)。いずれにせよ君たちを不快にさせてるような“地域アート”的なもののキーマンたちを不快にさせることはできるよ。……東野先生はちょっと及び腰?(笑)
東野 うーん……。
外山 芸術にまったく理解のない人々を“物量”として超前衛的な芸術パフォーマンスの“材料”みたいに利用しちゃうってのは、つくづく画期的だ。「あんなくだらないものに税金をつぎ込んでていいんですか!」って、自民党のゴリゴリの保守派のオッサンとかを巻き込んでさ(笑)。


桜子 中村政人さんはこの利権構造自体を芸術作品であると捉えてるわけだから、彼の芸術論を批判する意味も含めて、そんなものは芸術ではないと否定してもいいんじゃないか。
外山 とにかく要は芸術論争にはなるでしょ。芸術論争そのものを芸術行為と呼べるのかどうかって問題はまた別にありうるけど、少なくとも「補助金で支えられる芸術状況は是か非か」というのも芸術論争ではあるじゃん。現在のくだらない芸術状況を支えてるのはこういう“下部構造”であって、そこに手をつけない限りは“あるべき芸術状況”も現出しないんだとしたら、起ち上がって打倒せよ! と云わざるをえない。しかも桜子ちゃんが云ったように、彼らの側はそういうシステムを形成すること自体が芸術だと云い張ってるんなら、逆にそれを破壊することを芸術だと云い張ることも、あえて新しい理屈を編み出すまでもなく可能だよ。
東野 もちろん理屈はどうにでもなる。
外山 問題は、システムを破壊する過程そのものを芸術だと云い張ることは可能でも、その過程を現代美術の受容者たちを面白がらせられるかどうか。ただ単に保守的な人民を扇動して、自民党議員みたいなのに陳情するだけでは面白くもなんともない。例えば要所要所で発表する声明とかが、ちゃんといろいろ考えてる美術家の人たちにとっていちいち痛快だったり、あるいはそれなりの水準だと感じさせる芸術論であったりしなきゃいけない。そういう意味でも、こっち側も“過程を見せることが重要”になる(笑)。その面白さは運動に参加してる保守層に伝わる必要はなく、美術シーンの現状に苛立ってる“中の人”たちに伝わればいい。……街宣車で市役所の周りを走ってもいいんじゃない? ものっすごい前衛音楽を爆音でかけながら「芸術にカネを出すなーっ!」って(笑)。「私たちは芸術家です、私たちにカネを出さないでください」って演説する(笑)。面白くできるかどうかはそういう、ここぞという場面でのレトリックの問題。やっぱり街宣車のBGMはできるだけ前衛的な方がいいね。そこには何ら矛盾はない。芸術を税金で保護してることに抗議してるだけであって、芸術に反対してるわけじゃないんだから。あと、“過程を見せる”もそうだけど、できるだけ敵側の理屈を横領した方がいい。ルーティンな政治運動にならざるをえない場面もあるだろうし、そういう“芸術外行為”としか普通はイメージされないような要素に関しても、芸術論で運動全体を貫くことによって、“芸術行為”と“芸術外行為”とを“トランス”させてんだと云い張る(笑)。そもそもそうやって敵側の論理をそっくりそのまま活用すること自体を“盗用美術”の実践だと云い張れないこともない(笑)。話題になってインタビューされて、「影響を受けたアーティストは?」って訊かれたら「もちろん中村政人さんです」と答える(笑)。“街おこしアート”や“アートによる社会貢献”みたいな言説が跋扈する状況に反感を持ってるアーティストは実際にはいくらでもいると思うけど、彼らがしょせん無力であるのは、社会運動・政治運動に踏み出せないからじゃん。その点、ぼくら九州ファシスト党は、政治運動であり芸術運動であると公言して、最初からその境界線を取っ払ってある。現代アートに対する具体的な弾圧の策謀は、ナチスみたいでいいんじゃない?(笑)
桜子 誰かを食い詰めさせてのっぴきならない状況に追い込むのもネチャーエフっぽい(笑)。
外山 亀井君が食い詰めるのは可哀想だが……。右翼色を全開にするとアレだけど、小出しにして愛国企業から献金をもらって、“民主芸術”の側にいると食い詰めるけど我々の陣営に身を投じれば食えるようにしといて、この際だから亀井君にも覚悟を決めてもらおう。
桜子 ますますネチャーエフだ(笑)。
外山 「メセナ反対」ってスローガンはいいかもね。矢部史郎が銭湯保護の運動をやってた時に「防災反対」って云ってたみたいに、誰も反対できないような一見“良いこと”に真正面から「反対!」を叫んで唖然とさせるっていう(笑)。
桜子 それは防災計画の過程で銭湯が取り壊されたりするからってこと?
外山 うん。再開発反対ってこと。再開発はたいてい“防災”を口実にするから。だけどそこで「再開発反対」と云っちゃうと面白くもなんともないし注目されないから、まず「防災反対」って云って「え? どういうこと!?」という反応を引き出す。単なるショック療法としても、美術シーンで「メセナ反対」の旗を掲げることで存在感は得られるような気はするけどね。大半の人たちに「えぇーっ!?」と思われると同時に、メセナ的な環境に依存することで美術シーンがつまらなくなってると感じてる人もいるだろうし、うすうす感じてるだけじゃなくて明確に意識してる人もいるだろうけど、そんなこと云い出したら自分や少なくとも自分の知ってる人たちの首を絞めることになるから云えないわけでしょ。我々はべつに党外の人間をいくら敵に回したってかまわないんだから、云えるんです。それに口先だけでもいいと思いますよ(笑)。「アナキズム研究会」だって、とりあえず実体はないけどツイッターにアカウントを立ち上げてみたら反応がきて、なかったはずの実体が後からついてきたりしてるでしょ。「反メセナ芸術戦線」とかテキトーに名乗りを上げて、美術シーンの人たちの視界に入るところでギャーギャー騒いでたら絶対に寄ってくる奴はいる。一般の人たちが意識的にせよ無意識的にせよ言語化できずにいることを言語化してみせるのが、あらゆる運動の出発点なんだから。メセナ的なものがある種の退廃を招いてることは、ちょっと考えるアタマがあれば分かるはずだから、やっぱり分かってても立場的に云えない人がかなりいるんだろう。“原子力ムラ”を批判してる場合じゃないだろ、と(笑)。さっき安倍夫人の話が出てきたけど、リベラルどもが「安倍やめろ!」とか陳腐な大合唱をしてる中、我々は「安倍夫人打倒」を掲げればいいんじゃない?(笑)