『人民の敵』創刊号(2014.10.1発行)


コンテンツ4
〈対談〉with 千坂恭二
〈正規版“購読”検討用・抜粋〉


外山 例えば『中核vs革マル』を一人で読んだとしたら、まずたいてい中核派の側に感情移入すると思うんですよ。ところがぼくの解説つきの読書会では、そりゃ人情としては中核派の方が好感が持てるけれども、マルクス・レーニン主義としては革マル派の方が正しい、ということを理解してもらうことになる。これだからマルクス主義はイカンのだ、と(笑)。
千坂 昔、講談で『天保水滸伝』というのがあって、飯岡助五郎と笹川繁蔵がケンカをしとる。あれの新左翼版やな。平手造酒がどっちかにつくんやけど、そっちが中核派みたいな感じで、聴いとる方はみな、そっちにシンパシーを持つ。
外山 敵側は冷静で非情な感じで……。
千坂 そうそう、策略に長けていてね。もう一方の側はどっか抜けてるとこがあって、そっちにシンパシーを持つんやな。
外山 人情としてはそうなりますよね。
千坂 中核派にはどこか抜けたとこがあって、革マルは、なんか策略ばっかり練って、抜け目なしに卑劣にやってるという、いやらしいイメージがある。だけど政治党派である以上は革マル派のようでなくてはいかんわけやんか。
外山 そうなんですよ(笑)。
千坂 政治党派にとっては、現場の運動より組織の温存の方が大事や。現場の運動なんかどうだっていい(笑)。中核派は現場の運動での玉砕主義やからな。
外山 だけどその中核派も含めてそもそもは革共同で、ブントに対して「あれは玉砕主義だからダメだ」と批判してたはずなのに……。
千坂 ブントは完全に「現場の運動」主義で、中核派は要するに革マル派とブントの中間なんやな。
外山 批判はしつつもブントに一定のシンパシーも持ってたような部分が中核派になる。
千坂 そうやな。


外山 千坂さんと笠井潔ぐらいですよね、今は“在野の思想家”は。呉智英もいるか。
千坂 在野の思想家が出てこないような状況では、思想が教科書的になって、整理されて、面白いものが出てこれへん。今、在野でやろうと思うたら私塾を作って由井正雪になるしかない。
マスター 数学とかでは在野の研究者が最近増えてるんですよ。
外山 いや、理系なら評価基準もはっきりしてるから、在野でも可能ですよ。人文系では、在野の研究者なんかウサン臭いだけだから(笑)。
千坂 うん。思想系だと特に、まず在野は胡散臭いわけや。むしろそこを活かすべきやと思う。というのも思想から胡散臭さがなくなったら面白くない。「すごい思想」というのは、今は権威ある過去の思想でも、よう考えたらどっか胡散臭いもんなんや。
外山 ニーチェとかすごい胡散臭いですよね(笑)。
千坂 学会追放されとるんやから(笑)。そんなんばっかりやで、昔は。それが今はないから、思想から、いい意味での胡散臭さとスゴさがなくなってきた。思想というもの自身がネオリベ化して、管理されている。そのことを今ふうに云うたら「パイオ・ポリティクス」「生政治」いうことになるんとちゃうの?
外山 さらにはそういう、本来は時代状況を批判する思想であったはずのものまでが、すべて大学のカリキュラムに取り込まれていく。
千坂 そうそう、そうなんや。


千坂 前から云うてるように、そもそも3つしかないわけやんか、構造改革主義と、ボルシェビキかスターリン主義かはともかく共産主義と、ファシズムの3つしかない。だからスターリン主義とファシズムを批判するなら構造改革主義、構造改革主義とファシズムを批判してるなら全部スターリン主義者、スターリン主義と構造改革主義を批判してるならファシスト。ただファシズムとスターリン主義とは手を結ばないかんと思う。その連携は成り立つと思うんや。だってスガ秀実はスターリン主義者やもん。
外山 うん、そうですね。
千坂 だから外山君とスガ秀実が仲良うしてるのが、つまりナショナル・ボルシェビズムやんか。こんなふうに云うたらスガ秀実はイヤがるかもしれんけど(笑)。
外山 スガさんは名乗ってないだけで、まあ……スターリン主義者ですよね(笑)。
千坂 そうや(笑)。僕はスガにこう云うたんや。「トロツキーのスターリン主義」だ、と。「スターリンのスターリン主義」ではなくて「トロツキーのスターリン主義」が大事なんだ、と。そしたらスガがニタッと笑うて、「“初期ボルシェビズム”って云ってよぉ」って(笑)。でも考えたらジジェクだってそうで、彼はスターリン主義者。ネグリとジジェクの違いはどこかと云うたら、ネグリはしょせん構造改革主義で、ジジェクはスターリン主義。そしてそこで重要なのは、スターリン主義を発動させるファシズム。スターリン主義者は「外」にいてるから、そのままでは使いようがないんや。ファシストは資本主義の中にいて、中からそれを突破しようとしてる。だからこそ“1968年”の闘争にも接続できるわけや。もしファシズムを名乗らず、構造改革主義との切断を図らないのであれば、結局は今の文化左翼みたいなものに絡めとられる。外山君は80年代の反管理教育闘争が出発点だけど、あれは社民左翼やろ。
外山 そうです。
千坂 その社民左翼をどこかで突破せないかんと外山君は思ったと思う。“1968年”なんかとも接続して、さらにその先を志向せないかんと。社民左翼的な反管理教育闘争を、ファシストを名乗ることによって突破しようとしてるんだと、僕は勝手に解釈してる。
外山 経歴的にはぼくは80年代後半の“土井たか子路線”の最左派をずっとやってきたわけですが、ファシズムを名乗ることでそれと切断を図るということなんですよね。松本哉も「だめ連」も、みんな社民最左派として登場して脚光を浴びるんだけど、ぼく以外はみんなそこに留まっちゃう。
千坂 そしてズルズル行くわけだ。
外山 社民最左派の位置に留まってしまうんですよね。雨宮処凛だって、せっかく“ミニスカ右翼”として社民から切断された場所から登場したのに、すぐ社民にくっついて取り込まれてしまう。“右翼パンクバンド”でもう少し踏ん張ればよかったのに。まあそうすると取り込んでもらえないけど(笑)。


千坂 ファシズムを云々すれば必ず過去の話を持ち出される。例えばイタリアがどうこう、ヒトラーがどうこう、その上でファシズムに可能性があるとかないとかって話になる。そんなもの、どうだっていい(笑)。ヒトラーもムソリーニも、その他、過去のことなんか。
外山 構造改革派には与しない、という決意表明なんだから(笑)。
千坂 決意表明であると同時に担保。つまり全面否定されていることを肯定することにおいて、もう逃げ道がなくなるわけで、逃げ道がないということが担保になる。担保のない言説はすべて口先だけの言葉になる。借金するにも担保は出さないかん。思想だってそれが単に口先だけのものではなくて現実性を持つためには担保がいるんよ。その担保が、全面否定されてるものを肯定するということで、つまり踏み絵や。君もファシストになるんか、さあ踏め、や(笑)。そこらへんを丹念に分析していったら、これまでのものとは違うファシズム、ヒトラーがどうムソリーニがどうという話ではない、過去ではなくこの現在においてファシズムがどういう意味を持ちうるのかというところでのファシズム論が書けると思う。そっちの方が大事なんと違うか。極端な話、過去なんかどうでもいいじゃん、という話になる。知ったことか云うて(笑)。「そらいろいろあったでしょ、良いことも悪いことも」で終わりだからな(笑)。例えばフランスの現代思想について、おれは普段コキおろしてるけれども、あれだって好意的に解釈すれば、現代のフランス思想ってのは何を思想しているのか、と考えていくことができる。例えばドゥルーズでもデリダでもフーコーでも誰でもいいけど、あえて云えばニーチェとハイデガーの解釈をしてるだけではないか。
外山 そうですね。
千坂 じゃあニーチェとハイデガーは何をしたのか。どっちもファシズムに関係してくるわけやんか。つまり現代のフランス思想が思索してるのは何かと云うたら、ファシズムの可能性なわけよ。それはドイツ人にはできない、当事者やったから。ドイツ人がやれば「反省してへん」ということになるから。フランス人は「ぼくたちは被害者です」ということで、後ろ指をさされない。20世紀の思想の中で今もなお本当に考えるに値するものはファシズムしかないわけよ。あとは全部、文化左翼的な、資本主義の延長みたいな思想になってしまう、結局は。本当に思想的に考えるネタというのはファシズムしかないんやと思う。ホロコーストだってものすごく極端に考えたら、人間を皆殺しにすれば資本主義もなくなるぞ、ということでもある。人間がおるから資本主義なんかが蔓延るんだと。しかもユダヤ人というたら当時は金貸しのシンボルやんか。つまりあのホロコーストというのは、資本家を殺すんや、反資本主義闘争なんやというダンゴ理屈もつけられる。ところがそんな云い方をすると差し障りがあるから、もうちょっと思想的なオブラートをかぶせたような云い方をしてるんと違うかな。ミシェル・フーコーなんかも……。
外山 「人間の終焉」と(笑)。
千坂 そうそう。
外山 それはホロコーストとどこが違うのかと(笑)。


外山 こないだ笠井潔が千坂さんの神武革命論について、「最初の王権というのは日本に限らず世界中どこでも“外部”からやって来るものでしょう」と云ってましたけど。つまり日本だけでなくどこだって“建国以来の革命国家である”ということになってしまうじゃないか、と(笑)。
千坂 でも、その“最初の王権”が子孫を通じて現存しているのは日本だけで、日本以外は、建国は革命かもしれないけれど、建国の革命は絶えている。ただ天皇は“現人神”でないといかん。西欧でいう皇帝か国王かはともかく、君主にしてはいけない。その点で、僕の話を聞いた右翼の人間は、最初とまどうらしい。彼らは、天皇は現人神であり君主なんだという発想だから。
外山 君主なんてものは世俗的なものですからね。
千坂 君主は人間のやることであって、神のやることと違う。
外山 右翼よりずっと右翼だ(笑)。
千坂 そうだと思う(笑)。明治体制の間違いは天皇を君主にしたことだろう。
外山 うん、そうですね。
千坂 現人神でいい。そうツイッターに書いたら、スガが「いいぞ」と云うてたけれども、絶対そうだと思う。天皇を君主にしたら駄目。現人神であれば精神的な、それこそ例えば柄谷行人の云う「統制的理念」になる。
外山 君主なんかにしちゃうと打倒される可能性も出てきますからね。
千坂 そうそう。まして天皇親政にしといて失政が起きたらどうするのか。天皇が責任をとらなければならなくなる。天皇にそんな俗世間のしょーもないことで責任をとらせたらいかん。陛下にそんな汚い、汚れた“政治”なんかをさせちゃいかん。陛下は現人神で、殿上にいて和歌を詠んでいらして、国民のために毎日祈ってると。それでいい。おいしいもん食べていただいて。大御心とか詮索してはいけない。大御心が間違っていた場合、大変なことなる(笑)。だから極端にいえば、天皇は猫でもいい(笑)。そこに座っているだけでいい。
外山 みんなが“それ”を天皇だと思うことが重要。
千坂 そう、それが大事なんよ。“神”というものは本質的にそんなものだと思う。