外山のファシズム転向直後のいわば“初期論文”であり、文中登場する首相は小泉純一郎、米大統領はブッシュ・ジュニアだったりするが、現在が引き続き、95年のオウム事件あるいは01年の米同時多発テロに根本的に規定された“世界内戦”の時代である以上、時に例えば菅直人政権やオバマ政権などの一見“リベラル”な政権が成立することがあろうとも、状況は根本的にまったく変わらない。

最重要論文2

まったく新しい左右対立
──イデオロギーX──

※2004年執筆


 

 右とか左とか、いまどき古臭いと言うバカがたくさんいる。
 そんなことを言う奴が、では具体的にどんな主張をするのかと耳を傾けると、現状に何の不満もないというのなら別だが、そうでなければ実はこれまでの右や左の主張とそっくり同じである場合「しか」ないから、バカだと断定してよいのである。
 現状に何の不満もない人間が、そもそも右とか左が云々なんて話をわざわざ論じたがるはずもないから、結局、奴らは単に自覚がないだけの右か左のどちらかであって、その自覚がないぶんバカだというのである。
 右と左の対立は、市民革命(ピューリタン革命や名誉革命やアメリカ独立革命やフランス革命や明治維新やその他もろもろ)を経た近代社会の成立とともに発生したもので、現在も依然その近代社会の枠組みの中にある以上、右と左の対立もまた厳然として継続しているのである。
 右と左の対立は今もあるのだという当然の事実を前提として、しかし新たな観点を提示したい。
 これまでの左右対立図式は、ひとつの直線で表示しうるものとして実感されてきた。
 左右に長い直線を引いて、真ん中に現政権を置き、右と左がそれぞれ右と左からそれを批判しつつ自らの手元にたぐり寄せようと綱引きをしているような、そんなイメージ。もちろんその綱引きの結果、その時々の政権は、右寄りになったり左寄りになったりする。
 民族主義も軍国主義も共産主義もアナキズムも、民主主義や自由主義も、あるいは封建主義やファシズムなども、みんなこの直線上のどこかに配置される。
 が、左右対立を説明するまったく新しい図式を提示しよう。
 縦軸と横軸を引く。
 すると当然、左上・右上・左下・右下の4つの領域が生まれる。
 右下を、現政権とする。
 左下を、従来言われてきた左翼とする。
 右上を、従来言われてきた右翼とする。
 左上は、とりあえずXとしておこう。
 4つの領域を形づくる縦軸と横軸とが、それぞれ何を意味しているかについては、いろいろな説明ができるのであるが、できるだけピンときやすいだろう言葉をまずはそこに置いてみよう。
 縦軸は、上が精神的価値、下が物質的価値を重視する志向を表している。
 横軸は、右が感性を、左が理性を重視する志向を表している。

左右図解

 図の見方はおのずと明らかだろう。
 右下の現政権は、まあ近代資本主義の価値を代表するものと考えてさしつかえない。
 従来の右翼は、それが民族固有の精神文化を破壊するとして批判してきた。近代資本主義は、伝統的な共同体を破壊する。右翼はこれを、物質主義などと言う。ただし右翼には理屈がない。理屈めいたものはあるが、理屈を徹底的に突き詰めることはない。それをやってしまえば、右翼は右翼でなくなる。「民族固有の精神文化」の最たるものである宗教を想起すればその理由は詳述するまでもない。宗教は理屈ではないからだ。理屈がない点では、右翼は時の政権と共通している。政権の目的はいつでも現状維持であって、現状に甘んじる人々はそもそも理屈を必要としない。
 従来の左翼は、市民革命の過程で見いだされた近代的価値──端的に言えば民主主義──が、まだ充分に実現していないとして現政権を批判してきた。左翼は、市民革命そのものを決して否定しない。左翼の市民革命批判は、それが不徹底なものであった点にのみ向けられる。市民革命はほとんど行き当たりばったりの成り行き任せであった側面が大きいのだが、左翼はそこから一定の価値を抽出し、理念化する。そしてその理念体系に基づいて、現実を変革しようとする。左翼思想のチャンピオンであるマルクス主義が、「科学的」社会主義を自称し、また「唯物論」を掲げることを想起しても、この4象限図において従来の左翼が左下に配置されることになるのは自然だろう。
 ではXとは何なのか?
 図に照らせば、Xは従来の左翼が持つ物質主義的な側面を批判し、同時に右翼の理屈のなさを批判する立場ということになる。精神主義的な左翼と言ってもいいし、理屈のある右翼と言ってもいい。近代資本主義社会の政権に対しては、もはや何の価値も共有せず、おそらく互いにまったく相いれない敵として認識しあう他ないような立場のように想像される。
 仮にXをアナキズムと呼んでみる。
 六〇年代に世界中いたるところでスチューデント・パワーの爆発的高揚が起きたが、その基盤となった「新」左翼運動とは実はマルクス主義を偽装したアナキズム運動であったことは、多くの論者が指摘しているとおりである。
 彼らは旧来のマルクス主義を批判したが、それは多くの場合、実存論的な観点からなされた。マルクス主義において個々の人間は、プロレタリア革命という「歴史的必然」の中で使い捨てられる駒のようなものとして把握されざるを得ない。少なくともマルクス主義の体系に、「この私はいかに生きるべきか」などという議論が入り込む余地はない。なぜなら「この私」の意志や願望と無関係に、プロレタリア革命は「必然的に」起きるのであるから。マルクス主義はまさに「唯物論」であって、諸個人の意志や主体性すなわち「精神」は、事実上無視される。上部構造(精神)は下部構造(物質)に決定されるのである。マルクス主義はあまりにも完璧な思想体系であり、それを批判する「新」左翼の活動家たちも半ばそれに説得されていたから、あくまで自身もマルクス主義者であると自称しマルクス主義の用語をちりばめる涙ぐましい努力を重ねながら、実際のところはアナキズムの主張をおこなった。
 また、アナキズムと右翼思想とはどこか響き合うところがあるようだ。柄谷行人や福田和也といった論者は、そもそもアナキズムは右翼思想なのだとまで言っている。柄谷は左翼だから(もしかしたら)悪口として、福田は右翼だから肯定的に、そのように言うのである。だがもちろん、右翼思想とアナキズムとは別のものである。マルクス主義者から見れば、それはまるで右翼思想のように見えるだろう。我々の提示する図式の上では、アナキズムをXという独立した領域に配置することができるのだが、従来の一本の直線イメージでは、ここという位置を定め得ず、マルクス主義者は自分たちよりも右に、アナキスト自身はマルクス主義者たちよりも左に、アナキズムを配置したがるからである。
 右翼にとって、アナキストは不可解な存在だろう。三島由紀夫は、全共闘の学生たちに熱いラブコールを送ったがそれは片思いに終わった。鈴木邦男は『がんばれ新左翼』という本を第3弾まで書き、現在ではほとんど左翼に取り込まれて、いいように利用されてしまっているように思える。戦前も、左翼にあって一人、アナキスト大杉栄は右翼からも愛された。右翼にとってアナキストは、たぶん敵なんだろうがしかし何か自分たちと一脈通じるところもありそうで完全に否定しきれない、という感じの、謎の勢力なのだ。しかしこれも、4象限図ではなく一本の直線で図式を頭に描いているからこそ生じる「謎」なのである。
 ではかく言う我々はアナキストなのか?
 そう言ってしまってもよい。
 ただし、留保がある。
 確かに我々はXの領域に身を置いていることを公然と宣言する。
 だが、それは「我々はアナキストである」という宣言とイコールなのか?
 4象限図を描くために、我々は縦軸と横軸を用いた。
 しかし我々が考えるに、この縦軸と横軸とは、同じ太さで引かれてはいない。
 結論から言えば冷戦の時代、縦軸の方が太く引かれていた(後註.縦軸が壁として高く聳え立って、左右を完全に分断していた)。右翼の諸君にはよくよく自省してほしいことだが、冷戦下で、右翼は政府が左翼を弾圧する時にその尖兵として利用されてしまう場面が数多くあった。また、Xの領域に身を置くアナキストたちも、左下のマルクス主義者たちと共闘するという過ちをおかした。「新」左翼内部の武力抗争のみならず、「旧」左翼vs「新」左翼の武力抗争も、「内」ゲバと呼ばれた。「内」ゲバを批判する者の多くは、それが「真の敵」を利することになると言った。「真の敵」とはむろん、縦軸を挟んだ「向こう側」の意味である。
 そして今や、我々は横軸の方が太く引かれている(後註.横軸が壁として高く聳え立って、上下を完全に分断している)と考える。
 横軸を挟んだ二つの勢力の対立──それが「まったく新しい戦争」の正体である。
 この対立図式の中で、アフガンやイラクでの「戦争」に関する右下の「参戦派」と左下の「反戦派」の対立は、いわば「内ゲバ」にすぎない。本当の戦争は、右下と左下が結託して、横軸を挟んだ「向こう側」にいる敵──すなわち我々──に対して仕掛けられている。
 八〇年代後半から九〇年代前半の約十年間をかけて、主要な対立軸の縦軸から横軸への書き換えがゆっくりとしかし不可逆的に進行した。それが要するに「冷戦崩壊」と呼ばれる現象の本質であった。
 現在もはや、右上の右翼領域に身を置く人々は、時の政権から見限られていると考えるべきである。
 政権はそれが持続するために、常に何らかの「正義」のようなものを必要とする。しかし正義は右下の領域からは出てこない。右下の領域に身を置く人々が抱いているのは単なる自堕落な現状肯定の意識にすぎないからである。そこで冷戦下の(もちろん「西側」の)政権は、右上の右翼と手を握ることで、政権を正当化するために必要な「正義」を備給した。分かりやすい例を挙げれば、「愛国心」の強調とかである。
 もちろん現在もその残滓はある。政権内部に、右翼チックな言動を見せる人々は、小泉首相自身を含めてまだある程度残っている。しかし大勢は、決定的に変化している。これまた分かりやすい例を挙げれば「アジアの国々」へのいわゆる「謝罪外交」は、もはや規定路線として(我々の革命が実現しないかぎり)覆されることはないだろう。
 政権は、「正義」の新しい備給先として、すでに左下の左翼と手を握っている。そのことの必然的帰結として、「男女共同参画社会」や、「バリアフリー」や、「犯罪被害者の人権」や、「地球にやさしい」さまざまの施策や、喫煙者への迫害や、……その他もろもろの「まったく新しい戦争」政策が進められている。「自己決定」や「自己責任」も、元はと言えば、左翼のスローガンだったではないか。
 左下の左翼の掲げる正義とは、端的に「PC」と呼ばれる種類のものである。Politically Correct(政治的に正しい)の略語で、八〇年代後半あたりから、「インディアン」を「ネイティブ・アメリカン」とするような言葉・用語の言い換えを出発点として、アメリカの大学を中心に拡がり始めた、日本風に言えば「言葉狩り」の運動である。「青少年に悪い影響を与える」「過激なラップ」の歌詞を取り締まる運動などもこの流れだし、「児童ポルノ」を刑事罰の対象とする動きなども(その是非はともかくとして)そうである。「青少年保護条例」の類も、現在では性道徳の堅持といった右翼的な根拠からではなく、「子ども(とくに少女)の人権」擁護といった左翼的な根拠から正当化される。タバコや酒の自販機を深夜使えないようにするのも、使えるゴミ袋を透明な指定袋に限定してちゃんと分別してるか監視を可能にするのも、DVやストーカーなどの以前なら「痴情のもつれ」の諸形態のひとつでしかなく「犬も食わな」かったはずの揉め事に警察を積極的に介入させていく動きも、先に挙げた「男女共同参画社会」や「バリアフリー」など一連の施策ももちろんそうである。冷戦下に利用した右翼の正義と違って、左翼の正義には理屈があるから、それは政権を支える「正義」としてはいっそう強力で、簡単には反対しにくいものとなる。
 もうひとつ忘れてはならないのは、もはや国家権力は、諸個人を監視・管理するためのさまざまのハイテクを手中にしているという現実である。詳しくは大澤真幸の『文明の内なる衝突』に譲るが、このハイテクを駆使したセキュリティ水準上昇の施策は、PC的な左翼の正義と矛盾しないばかりか、実はむしろ大いに合致する。簡単に言えばPCに配慮してセキュリティの水準を上昇させようと思えば、ハイテクの力を借りるしかないのである。
 我々は、社会のPC化を推進する左翼勢力と、諸個人を監視・管理するハイテクを獲得した国家権力との結託による、まったく新しいスターリニズム体制の実現に抵抗し、これを阻止・粉砕する闘争に決起しなければならない。
 スターリニズムとは、左翼的正義と国家権力とが結びついた体制と理解してよい。彼らが「まったく新しい戦争」に勝利することによって実現しようとしているのは、いわば「まったく新しいスターリニズム体制」なのである。それは『一九八四年』でジョージ・オーウェルが予見した暗黒の未来社会のイメージを、さらに洗練させたものに他ならない。
 現状を鑑みるに、「まったく新しい戦争」は、右下・左下連合軍の圧倒的優勢のもとに推移している。我々は、現在のところ一方的にやられっぱなしである。
 それは第一に、今回我々が提示するまでこの戦争における真の対立図式が可視化されなかったからであり、第二に、その当然の帰結として敵の攻撃に効果的に反撃するために必要な右上・左上連合軍の形成がまったくおこなわれていないからである。
 そう、我々左上の領域に身を置く勢力は、右上の右翼勢力との連帯を模索しなければならない。そして、そのことは不可能ではない。
 我々がなぜ、先に自らを「アナキスト」と規定することに留保をつけたのか、もはやおぼろげながら想像がつくのではなかろうか?
 我々はあの4象限図で、左上領域に身を置くXである。
 縦軸が太く引かれ、左下の左翼勢力と連帯している時、Xは「アナキズム」と呼ばれる。
 横軸が太く引かれ、右上の右翼勢力との連帯が必然的に追求される現在のような時代には、Xはおそらく「ファシズム」と呼ばれるのである。

 (付記1)縦軸・横軸は、文中提示した「精神的価値─物質的価値、感性─理性」以外にも、いろいろ言い換えることができる。思いつくままに挙げれば、「実存論─唯物論、保守主義─進歩主義」、「共同体─群衆、大衆─知識人」、「『意』志─欲望、感『情』─『知』性」、「善─快、美─真」など。横軸を他と同じように「感性─理性」や「保守主義─進歩主義」としたまま縦軸を「自由主義─民主主義」とか「文学─科学」とする手もあるし、これは半ば冗談だが「男─女、大人─子供」とする手もあって、これによれば左翼は「オンナコドモ」、現状維持勢力である「ババア(ワイドショー政治というコトバを想起せよ)」、右翼は「オヤジ(よく言えば侠と書いてオトコ?)」、そして我々はつまり「ガキ、青二才(よく言えば青年)」ということになる。
 
 (付記2)左上に位置する我々には、右翼と違ってもちろん理屈がある。左下の「マルクス」に対応するものは、我々にとってはおそらく「ニーチェ」であろう。「ハイデガー」かもしれない。

 (付記3)一緒くたにされているがムソリーニのファシズム思想とヒトラーのナチズム思想には大変な開きがある。第一にムソリーニのファシズムには反ユダヤ主義はない。第二に、ムソリーニは最も自分に影響を与えた思想家としてニーチェとともにアナキストのクロポトキンを挙げている。そもそもムソリーニは少なくともファシスト党(正確には「党」ではなく「戦闘団」)を結成した時点では、自身のことを左翼と考えていたフシがある。ムソリーニは元々イタリア社会党最左派のリーダーだったのだから、まあ当然とも言える。我々がファシストを自称する時、それはもちろんヒトラーではなくムソリーニを念頭に置いてのことである。もっともヒトラーがとんでもない悪魔的人物であるというのも要するにくだらない「戦勝国史観」にすぎないのだが。万歩譲って、「ニーチェ─ムソリーニ─ヒトラー」の系譜は「マルクス─レーニン─スターリン」に対応するとでも言っておくか。我々としてはレーニンふぜいとムソリーニとを同列視したくはないし、ヒトラーがいくらろくでもないと言ってもスターリンよりマシだろうと思うのだが……。

 (付記4)大杉栄は密航先のフランスで、バクーニン対マルクスの論争を研究し、帰国したらかつて中途半端に終わったままの「アナボル論争(アナキストvsマルクス主義者の論争)」を蒸し返して、今度こそ徹底的にマルクス主義者をやっつけてやろうと考えていたらしい。結局、帰国後まもなく関東大震災のどさくさで虐殺されてしまったのは周知の通りだが、もし大杉が生き延びていれば、間違いなくファシズムに「転向」していたはずだと我々は確信している。