檜垣立哉『生と権力の哲学』

 過去の文章など整理してたら、こんなのが出てきた。
 去年の夏ごろ気まぐれに書いたんだと思う。
 ちょっと品がないかなとも思うし、スタッフには「ケンカ売りすぎでは?」と云われたが、それなりに大事なことを書いているので、公開しておこう。

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 ちくま新書から最近(06年5月)出た、檜垣立哉という人の『生と権力の哲学』という本を斜め読みした。
 表紙に「『正義』と『慈愛』に溢れた社会であればあるほど、そこでの善意の構成員は、異常者を認知し、変質者を特定し、清潔にして正常な社会を維持し防衛することで、ますます<生権力>の働きを担う者となる。……ではそこで、権力に『抵抗』することは不可能なのだろうか」とある。これはおそらく本文からの引用であろう。
 表紙をめくると、ソデにはこうある。「権力とはわれわれの外にあって、人々を押さえつけるようにだけ働くものではない。それは、『見えない』かたちで動き、われわれを『殺す』よりも『生かす』ものとして働く不気味なシステムなのだ。厳密な実証的研究を踏まえながら、権力論に新たな位相をひらいた知の巨人、フーコーの思想を中心に、その課題を現代的な場面で捉えなおすべく苦闘するドゥルーズ、アガンベン、ネグリらの問題意識とその論理を丁寧に読み解くことによって、グローバル化し、収容所化する現代世界の中で、『ポジティヴ』に戦い続ける希望を提示する」とある。こっちは編集者が書いた宣伝だろう。
 要するにまあ、昨今のインテリ左翼があちこちで云い散らかし、書き散らかしているような話を、コンパクトにまとめただけの本であることは、そもそもタイトルを目にしただけの段階で容易に想像できることだ。もちろん、入門書なのだから独創性などなくていい。
 で、こんなことが書いてあったりする。

 ……もともと明確であった公的なもの(ビオス)と私的なもの(ゾーエ)との区分が崩れ、公的であるのか私的であるのかをはっきりとは分類できない、きわめて不分明な地帯(最近の言葉でいえば「親密圏」と重なるもの)が、新たな政治の争点になっていくのである。
 ……暴力の問題が、セクシャル・ハラスメントやドメスティック・ヴァイオレンスという、公と私が入り交じった領域で典型的に見いだされること、あるいはネグリがいうように、戦争が国家間での、いわば公と公の交戦であるというよりも、むしろ内戦やテロという内密な暴力にとって代わられているということ、これらもこうした事態と関わりのあるものだろう。……

 昨今のインテリ左翼どもが、いかに混乱した認識をもって、わざとなのか単にアタマが悪いからなのか、その混乱を詐術的な論法で糊塗していくかが、はっきりと露呈している箇所である。もしこれを読んで、「なんかおかしい」と感じることすらできないないようでは、あなたもこの著者の同類、つまり昨今のダメなインテリ左翼の一人だということだ。もちろんそんな連中に、「権力に『抵抗』することは不可能」だし、「グローバル化し、収容所化する現代世界の中で、『ポジティヴ』に戦い続ける希望を提示する」ことなどできるわけがない。
 公的な領域と私的な領域が曖昧にされ(「なり」? いや「され」だ)、そこに発現する「暴力」が現在、「権力」とかそれに対する「抵抗」とかを考える時に最重要なテーマとなっていることはまったく事実である。セクハラやDV(やここには挙げられていないがストーカー)の問題がその典型的な事例であることも、まったくそのとおりである。
 だが、問題設定というか、位置づけ方がまったく間違っている。
 ここではまるで、私的な領域である民間の男女関係の中で男個人が女個人に対して行使する「暴力」が、アメリカの「反テロ戦争」に典型的な、国家間の衝突ではない形で展開している現代の戦争において行使される「暴力」と同質の問題であるかに語られている。
 違うだろう。
 いや、たしかに両者は同質の問題である。
 しかしその意味は、「反テロ戦争」的な国家権力の発動形態と、単なる民間の個人的な男女間のイザコザに警察や裁判所を介入させたり、そのための新規立法をおこなったりするという国家権力の発動形態とはまったく同じである、ということだ。
 アメリカが「テロリストの国際ネットワーク」に対して行使している「暴力」を、民間の男個人が民間の女個人に対して個人的に行使する「暴力」ではなく、国家権力が民間のセクハラ男個人やDV男個人(やストーカー男個人)に対して行使する「暴力」とこそ等置しなければ、問題の本質(「両者は同質の問題である」ということ)は見えてこない。
 そして、まるで国家権力が民間の反体制組織に対して行使する「暴力」と、民間の男個人が民間の女個人に対して個人的に行使する「暴力」とが同質であるかのような詐術的論法を用いて、あろうことか後者に対する国家権力の介入を容認(というよりもむしろ積極的に要求)するフェミニストどもは、それこそ「戦争が国家間での、いわば公と公の交戦であるというよりも、むしろ内戦やテロという内密な暴力にとって代わられている」という今日的事態を推進する勢力であり、このような悪質なフェミニズム的問題設定を空気のような自明の前提であるかにしか思考できない檜垣のような今日的インテリ左翼どもも、やはり同様に今日の「内戦」的事態の推進勢力の一部を成している(少なくとも、「反権力」の思想や運動に誤った問題意識を持ち込み、悪い影響をもたらしている)。奴らがいくら主観的には「反権力」の立場に身を置いているつもりであっても、客観的には今日的な権力に奉仕しているのである。
 何度だって繰り返してやるが、そんなふうに権力側に事実として身を置いている連中が、「権力に『抵抗』することは不可能」だし、「グローバル化し、収容所化する現代世界の中で、『ポジティヴ』に戦い続ける希望を提示する」ことなどできるわけがない。
 あるいはソデにあった「権力とはわれわれの外にあって、人々を押さえつけるようにだけ働くものではない」というのは檜垣のような今日的インテリ左翼の、無意識的自己批判(無意識だから結局は自己正当化)なのかもしれない。少なくとも私にとっては、「権力とはわれわれの外に」厳然と存在するものとして、ますますくっきりとした輪郭をもって感じられている。檜垣のような今日的インテリ左翼が「われわれ」の一員でないだけの話だ。(もちろん私はファシストであるから、現在は「われわれの外に」ある権力を、いずれ「われわれ」の側に奪取する以外に問題解決の方法はないと考えているのである)
 まさに表紙にあったとおり、「『正義』と『慈愛』に溢れた社会」で、檜垣のような「そこでの善意の構成員は」、セクハラする奴とか、奥さんを殴る奴とか、あるいはストーカーする奴などの「異常者を認知し、変質者を特定し」、セクハラやDVやストーカーのない「清潔にして正常な社会を維持し防衛することで、ますます<生権力>の働きを担う者となる」のである。
 だまされてはいけない。