社会が悪い

ミニコミ『月刊外山恒一 創刊号』より
『現代思想』97年5月号 ストリート・カルチャー特集
のために書いたが、手違いでお蔵入りになった原稿

 最近、文章が書けなくて困っている。
 何か書こうとすると、どうして自分のように才能あるライターが、文筆だけで生計を立てていくことができないのか、みたいな愚痴ばかり並べてしまって、とても他人に読ませられるような内容にならない。
 しかし、どうしてもこの、客観的には自惚れ・自信過剰としか受け取られないに違いない種類の愚痴めいた苛立ちから、なかなか解放されないのだ。ここはひとつ、「都合の悪いことはすべて社会のせいにしてしまった方がいい(場合もある)」という、だめ連のペペ長谷川氏の名言を心の支えに、自分の愚痴の正当化を試みてみよう。
 いつも不思議に思うのは、小説などの文芸作品は別として、時代状況や社会システムを論じるような(「論じ」なくても、エッセイ風に書くのでもいいのだが)タイプの同世代以下のライターが、全然マス・メディアの表面には現れないことである。ぼくはちょっと早熟で、89年、18歳の時に、当時の学校状況を批判した自伝的な文章で単行本デビューしたのだが、以来、それぞれ思想的立場はいろいろあるにせよ自分のライバルになるような同い年くらいの論客が次々と現れるだろう、と常に期待しつつ文筆活動を続けてきた。しかし、それからもう7年も経つというのに、今だにそういう人は現れない。藤井良樹や鶴見済、切通理作――ぼくの把握している範囲では、彼ら30前後のライターが、ぼくを除いては一番若い論客であるというのが現状だ。感じとしては、4,5歳上の彼らは同世代というよりも、「遅れてきた『新人類』」というか、つまりぼくより10歳上の旧「新人類」世代の論客たちと近い感性や問題意識を持っているように思う。扱うテーマとかを見てて、どうもそういう印象を持ってしまう。「新人類」版の「高校全共闘」というか――たとえば浅田彰のブームなんて、ぼくは同時代経験としては持っていない(当時中学に上がるか上がらないかだった)のだが、彼らはどうもそうではないみたいだ。現在20代半ばのぼくらの世代が思想的に目覚める10代後半の時期は、ニューアカなんてのはもう影も形もなくて、たぶんブルーハーツや反原発運動、反管理教育運動なんかが、メイン・カルチャーから外れてしまった部分の求心力になっていた。当時それに積極的に関わったわけではなくとも、あるいは現在の立場がぼくとは正反対のものであってもいっこう構わないのだが、そんな空気の中で10代後半を過ごしてきたような同世代性を感じさせる論客は、ほんとに一人も出てこない。
 浅田彰の『構造と力』が出たのが、奥付によると83年ということになっている。彼は57年生まれだから、その時25歳か26歳だ。当時この本がどんな読まれ方をして大ヒットしたのかよく知らないのだが、遅ればせながら90年代に入ってからぼくがこの本を読んだかぎりでは、どうしても「運動」の本としか思えないんだけど、どうなんだろう。「運動」の本ってのは、つまり「革命運動」の本ってことなんだけど。
 で、浅田彰は唐突に独創的なひらめきによってこの本を書いたのでは決してなくて、その前提にはこれを書くことを強いるような、ぼくより10歳上くらいの人たちのさまざまなムーブメントがあった。70年代末から80年代初頭にかけて、ラジカルなサブカルチャーの運動があったと聞くし、単に言論の世界に限っても、当時20歳そこそこの「新人類」論客が次々に登場していた。浅田彰はそれら一連のムーブメントに通底する感性や志向を、フランス現代思想を使って言語化・正当化してみせただけだ
 ──まああんまり知らないことについていろいろ書いてもボロが出るだけだから、その話は置いとこう。ぼくがかなり後になって見聞した限りでは、どうもそういう時代があったらしいぞ、ということ。
 現在の話だ。
 もう90年代も後半にさしかかっているというのに、ぼくらの世代の浅田彰は出てこない。浅田彰だけでなく、中森明夫もいとうせいこうも出てこない。浅田彰的なキャラクターを生み出す基盤となる、90年代版「新人類」ライターの大群もいっこう姿を現さない。7年間ずっと周りを見渡し続けているが、やっぱり同世代の論客はぼく一人。こんな状況はちょっとオカしいんじゃないだろうか。
 そもそも、20代の論客がほとんどいない、なんて状況がこれまで日本にあっただろうか。戦前のことはよく分からないが、戦後に限って云うと、やっぱりなかったと思う。吉本隆明だって「マチウ書試論」は20代の時だというし、60年代にも70年代にも20代の論客はいっぱいいただろう。おそらく10代の論客だって時おり登場していたに違いない(高校全共闘の資料とか読むと、少なくとも無名の論客はいっぱいいる)。
 60年安保や全共闘やサブカルチャーに匹敵するようなムーブメントが、80年代半ば以降はなかったからだと考える人もいるだろうが、それは歴史認識の誤りである。88年から90年にかけての反原発運動や反管理教育運動は、同時代に「東」や「南」の国々で爆発した大衆的な民主化運動と類比的な高揚を見せていた。それらは現在でも不当に過小評価されているが、当時のメディアはそれらの運動の高揚に敏感に反応できなかった。メディアが取り上げなければ、実際に起きたことも「なかった」と同じことにされてしまう。 
 うーむ。やっぱりそもそもの原因は、この時にメディアが鈍感だったことにあるのかなあ。たとえば今回特集で取り上げられているさまざまな個人や団体も、たいていそのルーツを辿ればこの80年代末の高揚に行き着くはずだ。あの高揚以降、ぼくも含めて、今回取り上げられた人たちはさまざまに試行錯誤を繰り返しており、その過程ではむちゃくちゃ刺激的な試みやその記録、文書も大量に(もちろんミニコミ・レベルで)提出されたのに、それらを個別にではなく、こうして総合的に特集した企画は今回のこれがおそらく初めてだ。本来ならこういう企画は『現代思想』なんかではなく、それこそ『SPA!』や『クイック・ジャパン』みたいなサブカル雑誌が最初にやるべきなのだが、そういう気配さえ今だにないからなあ。困ったことだ。(「メディアがとりあげてくれない」などと嘆けば、上の世代の人たちからは、「カウンター・メディアを創り得ない自らの力量不足を反省しろ」みたいな批判も予想されるが、もしも彼らが若かった時代のマス・メディアがまったく許しがたいほど鈍感で、彼らがどんなイベントや事件を手掛けようと、どんな独自のメディアを発行しようとすべて無視されるという、これまで、そして今もぼくらが受け続けているのと同じような仕打ちのもとでサブカルチャー運動をやっていたら、その運動も現在ではやはり「なかったこと」にされていたに違いないし、今のぼくらの運動ほども持続できていたかどうか怪しいものだ)。
 たとえばぼくはこれまで数冊の著書を出したが、これらはほぼすべて、出版社の方から頼まれて書いたものではなく、すでに完成した原稿を10社も20社も持ちこんでまわって、書き上げてから最低1年以上、ひどい時には2年も経ってからようやく刊行される、という経緯をたどっている。ぼくはそれでも何とかしつこく持ち込みを続けるエネルギーだけはある(自分でも感心する)から著作も出るのだが、もしそういうエネルギーがぼくに欠けていたら、要するに現在、70年代生まれの論客は日本にただの一人も存在していなかったことになる。今だに、ぼくに執筆を以来してくるメディアはほとんど皆無だ。「若い書き手がいない」というのはメディア関係者からよく聞く言葉だが、探しもしないのに見つかるわけがない。少なくともぼくの周囲に限っても、論客として通用するだろう、文章も書ける70年代生まれの「若者」は20人ぐらいいる。
 いったいどうしてこんな嘆かわしい状況になったのだろうか。たとえば最近「何か面白い雑誌ありますか?」と知り合いの編集者などから訊かれた時は、今回も取り上げられているミニコミ『カラカラ』の名を挙げている。もし誰かパトロンがついて『カラカラ』が正規の流通ルートに乗れば、そのへんのサブカル雑誌よりはずっと熱狂的に受け入れられるだろう。
 現在メディア──ぼくらが本来取り扱われるべき、カウンター・カルチャー的な志向を持ったメディアの中核を担っているのは、左翼系かサブカルチャー系の出版社である。これまでぼくがあちこちに原稿を持ち込んで、断られまくった感触から云うと、まずサブカルチャー系の出版社は、ぼくらの運動の、まさにその「運動」的な文脈を嫌う。彼らの世代のムーブメントが発生してきた経緯を考えれば、それは理解不能なことではない。彼らはそのさらに上の全共闘世代への反発を根強く持っている。サブカルチャーの運動も、ぼくは一種の左翼運動だったと思うが、戦後の左翼ラジカリズムは、それぞれの一つ上の世代の運動を「スタ(スターリニズム)」だと批判することで世代交代を続けてきた。60年安保世代は共産党の唯一前衛党神話を批判して、それに代わる前衛党をいっぱい作ったのだし、全共闘は「そもそも前衛党自体いらない」というわけで「ノンセクト・ラジカル」とか云い出したのだし、サブカルチャー運動はおそらく「何か大義を掲げて運動することそのもの」を否定するという、実に危うい運動だったのだ。そしておそらく、このサブカルチャー運動で、戦後の左翼ラジカリズムの運動は、いったんそのサイクルを終えた。サブカルチャー運動の、望んだものとはおそらく微妙に違う形での勝利の結果、「運動」はもう古い、ダサいものになってしまった。反原発運動や反管理教育などの80年代末の「新しい運動」も、彼らから見ればやはり古くてダサいものなのだ。たとえば『SPA!』でぼくが登場する時も、その個人的なキャラクターが面白主義的に取り上げられるだけで、そのキャラクターの背後にある「運動」の文脈は見事に切り捨てられてしまう(こんな人たちがいるんだけど、とぼくが紹介したミニコミやグループは、ついに一度も取り上げられていない)。藤井良樹や鶴見済は、サブカル世代が面白がるようなテーマを、やはり面白がるような論客(それ自体が悪いわけではないし、ぼくも彼らの書くものは面白いとは思うから別にいいんだが)だから、サブカル世代のメディアで活躍できるに違いない。
 サブカル系はどうもダメだということで、仕方なく左翼系の出版社に原稿を持ち込んで断られる時の感触は、まず彼ら自身が「運動」的な本を出すことにだんだん自信を失ってきて、サブカル系の出版物に対して妙にコンプレックスを抱き、そっちにスリ寄った企画をやっては見事にハズしまくってるような傾向もあるのだが、そうではなく断固として「運動」本を出し続けているような出版社も、ぼくやぼくの周辺の運動については、どうもピンと来ないようなのだ。何よりもその第一の原因は、ぼくの周辺にある運動が、ことごとく「学生運動」ではないところにあるような気がする。サブカルチャー以前の左翼世代の感覚からすると、若者の運動はイコール「学生運動」なのだ。だからおそらく、左翼雑誌が今でも時々若者の運動を取り上げようという時は、もはや全国に数校しか存在しない、ノンセクトの学生運動が残っているような大学の、その当事者をかき集めては座談会をやらせたり、なんてことになるのだろう。だが、現在の若い世代の運動の中心は、決して学生運動ではない。
 その兆候はサブカルチャー運動の頃から見られたにせよ、完全に大学が若者文化の発信基地でなくなったのは、80年代末以降である。この80年代末に何があったかと云えば、高校中退率のそれ以前と比べての圧倒的な増加である。要するに、カウンター的な若者文化の発信者になり得るような、多少とも個性的なキャラクターは、この時期大学にほとんど進学しなかったのだ。なぜなら中退してしまうことが、この時期の高校生にとってもっともカウンター的な行為だったからである。高揚したり退潮したりを繰り返しながら、それまで一貫して継承されてきた、若者文化の発信基地としての大学の重要な役割が、80年代末から90年代初頭にかけての数年間、その肝心の継承者の供給が途切れたことによって失われてしまったのだ。その後90年代に入って、高校を中退することに状況へのカウンター的な意味が徐々になくなってきたことで、継承者となり得る新入生もまた増加しただろうが、すでにそこには何も継承されていなかった。現在の大学に見るべきところがなく、専門学校の類と何ら変わりのない、ただ学生がいっぱいいるだけの場所になってしまったのは、そういうわけだから仕方がない。若者文化の発信基地としての大学は、少なくとも今後かなり長いこと、再生することはないだろう。
 というわけで、実は80年代末に本格的に始動し、現在まで持続されているカウンター的な若者文化の前線である学生運動ではない若者の運動は、「運動」であるがゆえに、あるいは「学生運動」ではないがゆえに、サブカル系および左翼系メディアのアンテナに引っ掛かることがなかった。そこではたくさんの若い論客が活動しているにもかかわらず、彼らがメディアに登場する機会はほとんどなかった。ぼくはその運動を形成する一人にすぎないのに、その文脈から常に切り離される形でしかメディアに登場できないために、単なるキワモノとして軽んじられてきた。うん。やっぱり悪いのは世の中の方、メディア状況の方である。