ここまでのおさらい

一人戦後史

『見えない銃』に収録

 一人で、戦後史をなぞってきた。自分の思想の変遷をふりかえって、そう思う。

 政治的に目覚めたのは、高校時代だった。
 当時、推理作家をめざしていて、へタクソな創作活動にうちこんでいた。森村誠一や小松左京の本を読んで、やっぱり作家たるもの、政治や社会のこと、よく知らなければいけないんだな、と思って「ニュース・ステーション」を毎晩欠かさず見るようになった。国会中継を録画予約して、学校から戻ると見るような、考えてみればヘンな高校生だった。
 当時、売上税や防衛費の対GNP比一%枠突破問題がさかんに論議されている頃で、ある日、日本共産党のビラと出会った。それで共産党の支持者になって、何度か地元の共産党議員事務所を訪ねていった。民青に誘われたこともあるが、「過激派」かもしれないと誤解して断わった。
 それから学校内でいろいろと政治的発言をくりかえすようになった。ホーム・ルーム委員だったぼくは、その時間をまるまる一時間つかって、クラスメートたちに社会問題の解説をしたり、新聞部に所属して政治的なテーマでコラムを書いて学校当局の手先である生徒会の連中に潰されたり、休み時間に数人の生徒と自衛隊の問題などで議論したりした。
 共産党シンパだったから、当然、思想的にはノーテンキな戦後民主主義だった。自衛隊は違憲だからよくなく、また学校当局がぼくの政治的発言を封じ込めようとするのも憲法で保障された「表現の自由」の侵害だからよくないのだった。つまらない授業中には、『負けるな日本国憲法』なんてダサい本を読んでいた。
 共産党シンパだったといっても、共産主義には関心がなかった。たんに反戦平和、基本的人権の尊重、管理主義教育反対、そのていどの政治認識で動いていた。
 高校を二年で中退し、反「管理教育」の運動を始めた。高校をやめる経緯を、『ぼくの高校退学宣言』という手記にまとめて出版し、それを読んで集まってきた中高生と一緒にグループを結成した。印税で、グループの事務所も借りた。それが八九年一月のことだ。グループの名前を、「反管理教育中高生ネットワーク・DPクラプ」という。この時期はよく、本多勝一の文章を読んでいた。
 ほぼ同じ時期に、現代書館から出ている『フォー・ビギナーズ マルクス』を読んでようやく共産主義に目覚めた。こんなに体系的に整理された反体制思想に出会ったのは初めてだったから、ものすごい衝撃だった。
 ぼくはその日から、原則的で古典的なマルクス主義者になった。
 続けて『フォー・ビギナーズ 毛沢東』を読んで感動し、マオイストになった。
 この二冊で、ぼくはマルクス主義、毛沢東主義を完全に理解した。一を聞いて百を知る、天才的な現代文読解能力を持つぼくには、それで充分だった。
 公的には、反「管理教育」以上の主張はあまりやらなかったが、内心、自分のやっていることは共産主義運動であると自覚していた。世界革命のためには先進国である日本革命の必要があり、日本革命のためには従順な労働者を生み出す現在の学校制度を革命する必要があった。自分の反「管理教育」運動は、そういう気の遠くなるような長い革命スケジユールの第一歩だった。
 ただ、中国の天安門事件の時には、原則的な毛沢東主義の立場から、中国政府を批判する文章を書いて、グループの機関誌に載せたことがある。
 古典的なマルクス主義理解を徐々に薄めていったのは、小田実の『世直しの倫理と論理』や、なだいなだの『権威と権力』などの本との出会いによってである。それらの本によって、無党派市民運動的な感性を獲得した。
 一大転機が訪れたのは、DPクラブの活動を本格的に始めてから約半年後、八九年の十月である。
 DPクラブに集まっていた若者のほとんどが、ぼくの元を去った。彼らは、ぼくや、一握りの行動的なメンパーに実際の活動のほとんどを任せっきりにして、自分たちは一切何もやらなかった。ただ、事務所に毎日のように入りびたって、学校や恋愛の悩みを打ち明け合い、それで満足しているのだった。いわばグループの存在が、「管理教育」に対する彼らの怒りや不満のガス抜き装置になっていたのだ。そのことにぼくは終始イラ立っていて、結局モメにモメたあげくの組織分裂となったのである。
 残った一握りのメンバーで、活動の急進化を図った。その時期に、六十年代末の高校生運動を描いた、竹内静子の『反戦派高校生』という本に出会った。
 後期のDPクラブは、いわば全共闘的な運動論で、反学校闘争を展開した。学校と戦うことが、これまで平穏無事に生きてきた自分の存在のあり方自体を変革することにつながらなければならなかった。つまり、「自己否定」ということだ。
 学校を批判すると同時に、管理に慣らされた生徒自身をも問題化する。それが、後期DPクラブの路線だった。
 これが反「管理教育」運動業界でDPクラブの孤立化を招いた。この業界では「生徒」はいわば聖域で、決して批判対象にはしえないものだったのだ。
 ある程度の活動の高揚はあったものの、運動内部でのDPクラブの孤立化はどんどん進み、各地の集会で異端として排除されつづけ、ついに活動停滞に陥って九一年に入りまもなく解散した。
 活動自体のいきづまりと共に、思想的ないきづまりもあった。九十年末、ぼくは七十年代に爆弾闘争をやった東アジア反日武装戦線〈狼〉部隊の発行した地下出版物『腹腹時計』を偶然読んだ。ぼくは彼らの主張を「全面的に正しい」と感じた。同時に、彼らのような闘争はぼくにはできない、と思った。ぼくには爆弾闘争をやる勇気はまったくなかった。ぼくは、自分の弱さを恥ずかしく思った。
 DPクラブ解散前後にぼくは二人の思想家の本に新しく出会った。笠井潔と浅羽通明である。この二人の著作を通して、ぼくは「現代思想」と呼ばれる一群の思想、つまり構造主義やポスト構造主義をまたその並み外れた現代文読解能力によって完全に理解した。
 それに先だって、その種の思想については二冊の入門書を読んでいた。講談社現代新書から出ている橋爪大三郎の『はじめての構造主義』と、毎日新聞社から出ている竹田青嗣の『現代思想の冒険』である。前者については面白く読むには読んだが、つまり構造主義の何たるかはおぼろげにしか想像できなかった。後者でやっとデカルト、カントから始まる近代哲学がどのように発展して構造主義やポスト構造主義へとつながっていくのか、なんとなく理解できたが、はたしてそれらの思想が、このぼくに一体どんな役にたつのかはさっぱり分からないままだった。
 そういうところへ、笠井潔の『ユートピアの冒険』が登場した。最初の方は、マルクス主義の悪口がえんえん書かれていて、その時点ではやはりまだ頑強なマルクス主義者であったぼくは不快な気持ちになったが、読み進んでいくうちに、マルクス主義がいがに革命運勤の歴史に害毒を流しつづけてきたか、「現代思想」がどのようにそうしたマルクス主義を批判しているかがよく分かってきて、読み終わった時には頑強な反共主義者になっていた。
 『テロルの現象学』もショックだった。
 ぼくはDPクラブ後半、活動の急進化についてこれない「同志」たちを問い詰めたことが何度かあった。その問い詰め方、問い詰める際に使う論理が、かつてソ連のスターリン政府や、内ゲバ殺人の連合赤軍が元「同志」たちを「反革命」と決めつけた時の論理とまったく同じだったということを、『テロルの現象学』はぼくに教えた。
 浅羽通明の『ニセ学生マニュアル』や『天使の王国』といった著作にも影響された。彼は、ぼくが後期DPクラブの活動の中で敵に回した戦後民主主義的な「反体制」運動を、「反学校」論の文脈で批判していた。
 ぼくは、笠井潔の本を読んで反共主義者になり、浅羽通明の本を読んでいわゆる「新保守主義」者になった。九一年半ばのことである。
 だが、次第にこの二人の思想家の間にある矛盾、距離に気付くようになった。
 笠井潔は「反共」ではあるけれども革命主義者だった。マルクス主義、共産主義ではない革命思想を模索しているのだ。それに対して浅羽通明は単なる反革命だった。ぼくは、笠井潔の側について、浅羽通明を捨てた。九二年のことだ。
 現在のぼくは、熱烈な笠井潔主義者である。笠井潔の著作はほとんど全部読んで、もはや彼の体系でしかモノを考えられなくなってしまっている。オリジナリティ・ゼロだなあと自己嫌悪しつつ、思想家としてのキャリアがそもそも違うのだから仕方がないとも思う。まあ笠井潔は今のところ単に著作活動をしているだけで、現実の革命運動実践からは身を引いているのだから、その実践の部分をぼくが模索すればいいやと思っている。
 以上が、ぼくのこれまでの思想遍歴である。
 日本共産党的な戦後民主主義から出発し、古典的なマルクス主義者・毛沢東主義者となり、さらに市民派マルクス主義者の時期を経てラジカルな新左翼的・全共闘的マルクス主義者となり、さらには遅ればせながら「連赤ショック」まで経験してポストモダンに目覚めた。新保守主義的な短い期間があり、現在はさらにそこから脱却して笠井潔的革命主義者に転じているのだが、我ながらこの若さにしてものすごい思想遍歴だと思う。笠井潔は別にしても、一人で戦後思想史そのものを追体験してきたのだ。
 天才としか言いようがない。