I CAN FLY

『週刊SPA!』に掲載
『見えない銃』に収録

 “I CAN FLY”
 のちにオウム真理教・諜報省大臣となる井上嘉浩は、高校の卒業アルバムに、そんな言葉を残していた。
 八八年の春、卒業とともに井上は出家し、ぼくは高校を自主退学した。
 “おれは飛ぶことができる”
 今思えば、やはりそれは錯覚だったのだろう。だが少なくとも、飛べそうな気がしていた。
 八八年は、そんな年だった。
 ブルーハーツ、RCサクセション(『カバーズ』)、タイマーズ、反原発、反管理教育……。何か、決定的な変化が起きる。そして他ならぬ自分自身が、その変化に際して重要な役割を担うことができる。八八年、嗅覚のある若者は、多かれ少なかれそんな予感に胸を躍らせたはずだ。
 現実に井上が、ブルーハーツや反原発運動に熱狂したかどうかはあまり問題ではない。だが、「おれは飛ぶことができる」という井上の言葉は、それらのムーブメントを中心とした時代的な高揚感、あるいは高揚の予感と決して無縁のものではない気がするのである。
 高揚が持続したのは九十年までだった。八八年に始まった「九十年安保」は、九十年秋にピークまで上りつめ、その後、停滞が始まった。
 九一年以降は、あの高揚感を共有した、そしてなおそれに拘わりつづけようという「九十年安保」派残党にとって、この後退期をどう乗り切るか、が唯一の課題だった。
 以前、ぼくは新右翼・一水会の鈴木邦男の前で、「スターリニズム」という言葉を大真面目に口にして「何を古くさいことを」と苦笑されたことがある。だがぼくの理解では、スターリニズムとは、解放的なベクトルを持つ運動が、後退局面に入った時に必ず現れる、もしくは陥りやすいある独特の心情や発想、運動論のことであり、古い新しいなんてレベルでは絶対に語れない間題なのだ。
 スターリニズムは、九州の片田舎でぼくが率いていたわずか数名規模の弱少グループにすら現れた。さまざまの事情で運動を離れていく者を、ぼくはどうしても「裏切り者」「脱落分子」としか捉えられなかったし、彼らを激しく憎悪・軽蔑もした。「九十年安保」全体の規模がもう少し大きければ、「内ゲバ」も起こり得たし、実際、「九十年安保」の中心部分だった東京の別のグループ(反天皇制全国個人共闘〈秋の嵐〉)では、九十年暮れにそれに近い事態が起きてしまった。
 オウム真理教が八八年以後いつピークに達した(解放運動として)のか知らないが、八九年秋にはすでに例の坂本弁護士事件を引き起こし、スターリニズムの罠にハマっていたのが分かる(ちなみにあの「歌と踊りのパフォーマンス」は八八年の反原発運動の作風にインパクトを受けているとぼくは見る。やはりオウムは「九十年安保」派だ)。
 「オタク世代の犯罪」なんてのはそれこそ「八十年安保」(八十年前後のラジカルなサブカルチャー運動)世代のオタク的妄想にすぎない。オウム真理教事件は「九十年安保」版連合赤軍事件なのだ。だからスターリニズム批判的な視点を含まない一切のオウム批判は意味をなさないし、完全にトンチンカンである。
 ぼくは、自らのスターリニズムに恐怖し、たぶんどこかの地点で引き返してきたのである。オウム真理教は、そして井上は、その「どこか」で引き返すことをしなかった。ぼくは確かに井上より賢明であった。それは同時に、ぼくが井上より臆病だったということでもある。
 “I CAN FLY”
 それぞれの「八八年」、ぼくらはそう思った。そしてぼくは今でも飛ぶことができる、いや、何度でも飛ぶことに挑戦していいのだと考えている。しかし井上は、もう二度と飛ぶことができなくなるほどに高く、飛びすぎてしまった。