なぜ学校をやめたのか?

未発表原稿

 17歳で高校を中退したが、なぜやめたのかと訊かれて上手く答えられたためしがない。
 厳しい校則や体罰はなかったが、ゆるやかな管理は当然あったし、一定以上の強靭な自我を持った人間に対しては「ゆるやかな」仮面を脱ぎ捨ててそれは権力となってひどく抑圧的にはたらく。ぼくというキャラクターに対してもそうで、それがイヤだったと、云えば云える。
 また、何やかんやで教師とぶつかって議論になった時に、少なくとも彼らを、生徒である自分たちよりもモノを知っている存在だと漠然と思っていたのが、まったく幻想にすぎず、単純な理屈をマトモに追うことすらできないという教師たちの正体を知って、そんな連中の下でモノを習っているのがバカバカしかったというのもある。
 そんなバカ教師どもの云うことに黙って従っている周囲の生徒らに愛想が尽きたというのもあるし、教師には頭を下げて日々やりすごしている彼らが、ちょっと集団から外れて目立っている少数派の生徒に対しては、「いじめ」やからかいや無視、敬遠をして、ますます孤立感を強くさせられる構図も醜悪だった。
 教師たちはモノを知らない上に話下手で、だから授業はたいていつまらないものばかりだったし、そのくせいつも勉強しろ、テスト、受験とうるさかった。
 毎日朝早くから夕方まで学校にいなければいけないから、生活はどうしても学校中心になって、やりたいことをとことんやれないのはもどかしかった。なんだか大事な時間をムダにしているような気がして、いつもイライラしていた。
 ──とまあ、学校にいてイヤだったことはいろいろあるのだが、こうしてそれをズラズラ並べていっても、「だから学校をやめました」とストレートに自分の中でつながっていかない。しっくりこない。
 結局、当時自覚していたことも自覚していなかったことも全部含めていろんな要素があり、半分「成りゆき」でやめてしまったということだろう。「成りゆき」だったといっても、あのまま自分が無事に高校を卒業していく姿はリアルに想像できないし、やめるべくしてやめた、自然の「成りゆき」でやめたような気がする。
 ただ唯一今にして思うことは、学校にいる限り、漠然とした「将来」の目標のために、「今」の自分を犠牲にしなければならなかった、ということだ。試験のため、卒業証書のため、進学のため、就職のため、常に「今」の欲求や不満を犠牲にすることを強いられてきたし、それはきっとあのまま卒業していたとしても、結婚、家族設計、出世、老後……と延々続いていくものだったと思うし、ぼくはそうした「将来」のために「今」を犠牲にする生き方を拒否したのだ、ということだ。