ファック・ザ・「被差別部落民」

『見えない銃』に収録

 ゴーマンかましてよかですか?
 ぼくは「ホンモノのアウトサイダー」である。そういう前提に立って、この論は展開する。
 先日、また朝まで「朝まで生テレビ」を見てしまった。テーマは、“部落問題”であり、同番組でこのテーマを扱うのは3回目ということだった。
 ぼくはこれまで、部落問題に関連して、いくつかの論文を発表している。
 「部落差別をなくす」ための運動は、大きく共産党=全国部落解放運動連絡会(全解連)と部落解放同盟(解同)の二つに分かれ、両者は激しく対立し、相互に罵倒し合っている。
 この両者を比較すれば、全解連の言動はお話にならないくらい低レベルで、これについては『ハイスクール「不良品」宣言』収録の「『全国高校生部落問題研究集会』批判」で完全フンサイした。
 解同の言動については、同じく『ハイスクール「不良品」宣言』収録の「『福岡県高等学校部落解放研究協議会(高部連)総会』批判」で疑問点を思いつくままに提出し、それだけではまったく不充分であると思われたため、さらに『DP倶楽部』16号で特集を組んで、いくつかの本格的な批判記事を書いた。基本的には、これによって解同も思想的には徹底センメツし終えた。
 が、『DP倶楽部』16号掲載論文を執筆した91年2月末と、それから1年以上経過した現在とでは、ぼくの問題意識もかなり変化しており、また今回の「朝ナマ」を見て新たに気がついたこと、考えたことなど多々あるので、それをここに書き留めておきたい。

 まず、今回の「朝ナマ」における解同書記長の発言のどういうところが、ぼくを「ファック・ユ─ッ!」と叫ばせたか、である。
 彼は、解同から差別発言などを指摘された時、「云い訳するな」と云う。
 つまり、「差別発言」を指摘されて、つい「自分はそんなつもりで云ったんじゃない」などと弁解したくなる気持ちは分かるが、そういった、自身の体面を取り繕おうとする言動が、結果的には差別を温存してしまうのだ。自身の過ちを素直に認めて、今後同じような言動を繰り返してしまわぬよう部落問題への認識を深める努力をする、とさえ云って実行してくれれば、解同側の態度を硬化させることもなく、穏便に事は運ぶのだ、と。
 何のことはない。要するにこれでは解同は絶対に正しいことになってしまう。「ふぁーっく・ゆぅ──っ!」
 番組中の元朝日新聞ジャーナリストの、「しかし差別であるかないかの基準を決めるのは誰なんですか?」というごくごく当たり前の問題提起でさえ、この書記長サマに云わせれば、「差別を温存する云い訳」なのだそうだ。
 次に、「差別語」の問題である。
 たとえば、「めくらヘビにおじず」などの「差別語」は、違う言葉に云い換えたり、やむを得ず使用する場合も「これは差別語ですが云々」と注釈をつけるべきだという。「でーすとろ──いっ!!」
 「一人でも傷つけられた、差別されたと感じる人がいるならばその言葉は使うべきではない」などと云っていたら、何も云えなくなってしまう。後に述べるように、だいたいこの書記長の番組中の発言には、このぼくを「傷つける」ものが多くあっぞ。指摘したら彼は「素直に過ちを認め」て、脱学校論に真剣に取り組んでくれるであろうか。
 そもそも「傷つける」ことはそんなに否定されるべきことだろうか。「傷つけられる」ことは確かに辛いけれども、むしろぼくなんかは、多く傷つけられることによって、こんなにも稀に見る立派な青年に成長した。
 ぼくの知るかぎり、解同系の部落研運動にかかわる青年たちに立派な者が一人としていないのは、「傷つけられる」ことから逃避した者同士が互いにその傷をなめ合って、精神的にどんどん弱くなるためである。詳細は『DP倶楽部』16号の拙論を読んでほしいが、彼らは、せっかく他人よりもずっとヒドイ目に遭う機会を多く持っていながら、そうした経験を、ぼくのように有効に自身の成長の糧とすることができていないのは、もったいないことこの上ない。
 「差別語」の問題に話を戻せば、数少ない有効な戦略の一つは、「被差別者」自身が、自身に対する「差別語」を正しく使うことだろうとぼくは考えている。
 「差別語」には二種類ある。もともと「差別語」ではないのに、その語が指し示す人々や職業が、現在の社会では不当にさげすまれているために、結果、多くの文脈の中で「差別語」的に使用されている語と、もともとから特定の人々を差別するために作られた語の二種類である。
 「めくら」「おし」などが前者で、後者の典型が、部落差別用語である「えた・非人」や「ヨツ」などである。
 前者の場合は、問題は簡単である。差別的なニュアンスを込めず、普通の文脈の中で、「目の不自由な人」「言葉の不自由な人」などの偽善的な「云い換え」をおこなわずに使ってしまえばいいのである。それこそ、「行動するメクラの会」などと自称して活動すればいい。
 後者の場合は、もともと差別を目的として作られた語であるだけに、ちょっと難しくなる。
 しかし、「云ってはいけない言葉」を作ってしまってはいけない。禁止したところで、同種の新語で差別されるのがオチだ。それにどうせカゲでは使われる。
 そうなると、解決の道は一つである。これらホンモノの差別語を、ほんとうに差別したい人たちに向けて投げ返すのである。
 たとえば「えた」は漢字で「穢多」と書き、「けがれが多い」という意味である。また、「非人」は読んで字のごとく「人に非ず」、「ヨツ」も「四本足=ケダモノ」という意味で、つまり「非人」と同様の侮蔑語である。
 ぼくは、こうした侮蔑語で差別してやるにふさわしいのは、たとえば「大学生」などであろうと考えている。
 部落問題の一日も早い健全な解決のためにも、ぼくは下賤なる「大学生」どもに対して、これら差別語を乱発して罵倒しまくってやりたいのだが、そんなことをすると、本質的なことは何も分かっちゃいない解同のバカども──失礼。「バカ」は差別語らしいですな──アタマの不自由な方々による見当外れの糾弾に対応するのがメンドウくさいので、是非、平素からこれら差別語を不当にも投げつけられている被差別部落のバカではない人、失礼、アタマの自由な人に、まず実践していただきたい。

 ──それから、番組の中で解同書記長が、現在の部落差別の例として挙げた自殺事件についてである。
 部落出身であることを理由に結婚を断られた人が自殺したのだそうである。
 はあ、そうですか。それがどうしたというのですか? というのがぼくの正直な感想だ。
 結婚制度に、自殺するほどまでに内面的に取り込まれた大バカ野郎がどうなろうと知ったことではない。その背景としてある部落差別を問題にするにしても、現代の抑圧制度である結婚制度そのものの問題を棚上げして論じるわけにはいかない。
 解同の人々は、結婚制度や学校制度を始めとする近代的抑圧諸制度を疑うということを知らない。
 いやむしろ、就学や就職や結婚の場面で「不利」に扱われる反動で、それらの制度の支配下に部落外の一般の人々と同じように取り込まれるよう、みずから進んで身を投げ出すような運動に狂奔する。
 部落差別という、前近代的な抑圧制度からの解放を求めて、彼らは学校制度や結婚制度などの近代的抑圧諸制度の完成に力を貸す。
 みんなが同じように「平等」に進学や結婚をすることが良いことであるかのように云う解同書記長、アンタの言葉は学校化社会のアウトサイダーであるぼくを傷つける。
 「さのばびぃ──っち!!」

 さて、ここまでは実は「長い前置き」である。本当にぼくが云いたいのはここからである。
 「部落問題」は今すぐにでも解決できる。
 その方法は、部落出身であるアナタが、アウトサイダーになることによって「故郷を失う」ことである。
 「部落を解放する」のではなく、「部落から解放される」ことである。
 もちろんこれは、被差別部落が日本全国からなくなることを意味しない。そんなもの、あってもなくても、どーでもいいことなのだ。システムを問題にしても仕方がない。どんなシステムであろうと、アナタはどうにかして生きていくしかない。どんな生き方をするかが、主要な問題なのだ。システムとしての被差別部落問題など、どうなろうと知ったことではない。
 アウトサイダーは、不可避的に「故郷」を追われるものだ。彼は、どこにも帰属しない。学校にも、国家にも、性にも。もちろん、部落にも、だ。彼は、彼でしかない。(あるいは、「彼」ですらないかもしれぬ)。
 ぼくは、「被差別階級」に帰属意識を抱いている「被差別者」を信用しない。「われわれ被差別部落民は──」「われわれ女は──」etc. そんな語り方ができる者は、社会構造に内面的に捉えられ、アウトサイダーであるぼくを抑圧する敵である。(アウトサイダーは「共同体」や「階級」ではない)。
 「部落民」であるアナタが「部落」から解放されることで、先に提案した部落差別用語の使用も初めて可能になるだろう。
 アウトサイダーになってしまえば、部落差別よりもまず、直面するたくさんの問題に頭を抱えることになる。
 アウトサイダーはシステムに取り込まれた大多数の人間から嫌われ、さまざまなひどい仕打ちを受ける。なぜならアウトサイダーは、変であるし、云うことをきかないし、人に迷惑をかけるし、「云ってはいけないこと」を云ってしまうし、共同体の公然もしくは暗黙のルールを守らないし、とにかく嫌われて当然の存在なのだ。
 部落差別は「云われなき差別」だが、アウトサイダーに対するひどい仕打ちには「云われ」があるのだ。「云われなき差別」に対してなら、とりあえずタテマエとしては誰でもがなくすべきだと云ってくれるが、アウトサイダーに対する「云われあるひどい仕打ち」には、解同でさえ加担する。
 ぼくのようなアウトサイダーが生涯にわたって受けるであろう傷は、たかだか一介の「被差別部落民」ごときとは比較にならないくらいに深い。
 アウトサイダーとなった部落出身のアナタが受ける「仕打ち」は、もはや「部落出身だから」ではない。アナタはアナタの何らかの「属性」によってではなく、ただアナタとして、「これなら部落差別の方がまだラクだった」と思えるほどの抑圧を受けるのだ。
 だがしかし、そこでのアナタは「被差別部落民」などという、ただミジメなだけの被抑圧者ではない。アウトサイダーという、誇り高き被抑圧者なのである。
 考え得るさまざまな可能性の中からその都度自分で道を選んだことの結果としてのアウトサイダーとなったアナタは、確固とした誇りと自信を身につけているだろう。「云われなき」、自分で選んでそうなったわけでもない「被差別部落民」としての自分に、誇りなど持てようか。
 「被差別部落民」は死ね! アウトサイダーとして生きよ!

 付記.今回のような論は、アウトサイダーであるぼくが展開するからこそ許されるのであって、社会からはみ出してもいない一般ピープルがマネをすると単なる「差別のバラまき」にしかなりませんので御注意ください。