思想的いきづまりを打破するために

『見えない銃』に収録

 ここ半年ほど、いきづまっている。
 諏訪哲二の『反動的――学校、この民主主義パラダイス』(JICC)を読んで以後、自分の立場を論理化できないままズルズルときてしまっている。
 いや、正確には、毎日新聞社の「知における冒険」シリーズの方が先かもしれない。竹田青嗣『現代思想の冒険』で現象学だの構造主義だのポスト構造主義だのなんだのかんだのと次々に新しい概念を頭の中に入れようとしてなんだかわけがわからなくなった。ただこれまで自分がマルクス主義を支持しながらもどこかで感じていた違和感の根拠をあるていど認識することができたのはよかった。しかし、これまで自分の行為をうまく正当化(論理的に説明)するために利用していたマルクス主義的な価値観が自分の中で相対化され崩壊してしまうと、今度はいったい何で自分の立場を強化していいのかわからなくなってくる。そんなもんなくてもいいのかも知れないけれど、やっぱりないと不安がある。
 そういう自信のないところに、諏訪哲二の『反動的』を読んだものだから、もういったいどうしていいのかわからなくなってしまった。
 これまでとまったく違う、新しい論理をもった、堂々とした管理派教師の登場に、「これに対応できないようじゃダメだ」と直感した。が、どんな論理で対抗すればいいのか分からなかった。
 諏訪哲二については、ごく最近読んだ小浜逸郎『症状としての学校言説』(JICC)で非常に納得できる批判が展開されていたので、まあちょっとは安心したのだけれど、小浜逸郎の論も、ぼくの立場(高塚事件以後のDPの活動をぼくは間違っていたとはどうしても思えないのだ)を正当化するものでは全然ない。
 ただ、いつまでもこんな状態ではしかたがないので、とりあえず最近目にした言葉の中から、ヒントになりそうなものをいくつか挙げてみよう。
 「知における冒険」シリーズの一冊である笠井潔『ユートピアの冒険』にはそんな言葉が多い。

 抑圧からの解放を、制度的な保証にもとめてはいけない。抑圧的な構造があるように、なにか解放的な構造があるわけじゃない。解放的だと主張される構造もまた、必然的に、もうひとつの抑圧的な構造になってしまう。解放は、解放的であると理論的に想定された構造の中にではなく、構造を破壊する経験、構造から逸脱する経験、構造において構造をズラしてしまうような経験のなかにのみ、一瞬だけある。

 相対的に優れたシステムであろうとも、構造は原理的に抑圧的であらざるをえない。この点では、あたらしい構造の形成については、民衆の無意識にまかせるのが最良であるし、不可避でもあると思う。いろんな利害や立場や趣味の人間が、それぞれに、いろんなことを主張し行動する。どれも排他的な唯一絶対の真理ではないとすれば、アトランダムな希望や主張や欲求の平均値にむけて社会構成は変化していくだろう。それでいいんじゃないかな。

 美的・エロス的な経験は、それ自体が目的だとしかいえない、そのような経験としてあるはずだよ。であれば、革命がそうであって、なぜいけないんだろう。よい映画を見るように、よいセックスをするように、群衆蜂起としての革命はある。極限では革命にいたるだろう、抑圧=自己抑圧にたいする微細なアナーキズム的実践もまた、原理的にはおなじものなんだ。

 小浜逸郎の『症状としての学校言説』は、学校問題を扱った中では最先端だと思う。特に小浜逸郎の状況認識にはまったく異論がない。ただ、状況認識の次の、具体的行動については何も書かれていないに等しい。
 つまり、状況認識について、ぼく自身、見りゃ分かるけどどう言葉で説明していいのか分からない、ということをすっきり説明してくれた、という程度のことでしかないのであって、むしろ二十年以上も前に書かれた竹内静子の『反戦派高校生』でも読みかえしたほうが、実際、考えさせられるところは多い。
 小浜逸郎は、『反動的』の諏訪哲二の次のような状況認識を肯定的に引用する。

 あらゆる意味における市民的権利は、学校では奪われているのである。学校というところは、基本的にそのようなところなのだ。逆に、現在奪われている児童・生徒たちの市民的権利がすべて保障された状態を想定してみれば、学校は学校でなくなるし、だいいち生徒が学校に来ることもなくなるであろう。学校というところは、本質的にダーティなところなのだ。ただしそれは、人類史がそうしからしむるところのダーティさなのであり、決して自民党や文部省が支配しているからダーティなのではない。

 「こんな当たり前のことを、わざわざ声高に主張しなくてはならない」と小浜逸郎も嘆いているくらい当たり前のことで、ぼくもそのくらいのことは他人に指摘されるまでもなく分かっている。
 しかしこれは単なる状況認識であるから、こういう状況にどう対応するかという問題は別に出てくる。ぼくが、そういう状況を教師として守りぬこうとする諏訪哲二よりも、状況が見えているいないにかかわちず抑圧的な構造をぶち壊そうとする「たたかう中高生」の方に共感を覚えるのは、ぼく自身が在学中そうであったことからも当然である。先に笠井潔を引用したように、この場合、この中高生が何らかの展望や制度改革案をもっているかどうかは問題ではない。ただどうしようもなく反抗しているだけであっても充分である。
 しかし、現に学校に通っているわけでもないぼくが、なぜ彼らに共感するだけにとどまらず、「共闘」を夢想したりするのか。
 今度はイリイチの「脱学校の社会」を引用する。

 彼らを学校に入れるのは、彼らに目的を実現する過程と目的とを混同させるためである。過程と目的の区別があいまいになると、新しい論理がとられる。手をかければかけるほど、よい結果が得られるとか、段階的に増やしていけばいつか成功するとかいった論理である。このような論理で「学校化」されると、生徒は教授されることと学習することを混同するようになり、おなじように、進級することはそれだけ教育を受けたこと、免状をもらえばそれだけ能力があること、よどみなく話せれば何か新しいことを言う能力があることだと取り違えるようになる。彼の想像力も「学校化」されて、価値の代わりに制度によるサービスを受け入れるようになる。医者から治療を受けさえすれば健康に注意しているかのように誤解し、同じようにして、社会福祉事業が社会生活の改善であるかのように、警察の保護が安全であるかのように、武力の均衡が国の安全であるかのように、あくせく働くこと自体が生産活動であるかのように誤解してしまう。健康、学習、威厳、独立、創造といった価値は、これらの価値の実現に奉仕すると主張する制度の活動とほとんど同じことのように誤解されてしまう。

 要するにイリイチは、学校なんか通っていると、自分の頭でモノもろくに考えることができないようなパッパラパーになりてしまうといっているのである。常日頃、高校生や大学生の言動を観察していて、これはまことに的を射た意見であると感心する。
 そういうバカと一緒に、「美的・エロス的な経験」としての革命はやれない。
 学校というのが、そのような場所であるということを見抜き、またかくいう自己も、それまでの学校教育によって「想像力が学校化」されていることに気付き、そこから自己変革していくという方向性を持った人とでなければ、一緒に「やりたくない」。
 だから、ぼくが「たたかう中高生」と云う時、その「たたかい」とは、学校制度とは、学校化とは何かということを悟る契機としての質をそなえたものである。実際にどれだけ校則を変えることができたか、体罰をやめさせることができたか、というのは、実はどうでもいい二次的な要素であるとまで云い得る。福原史郎やスドー・ビシャスの「たたかい」はそのような質をそなえたものであったからこそぼくは断固支持し、高く評価したし、よくよく考えてみれば、この三年間のぼくの「DPクラブ」という「たたかい」も実はそのような質をそなえていた。ARCや青生舎(反管理教育運動の主流)の評価する「10代の会」や「HCN」(当ホームページの「迷走する反管理教育運動」参照)や、どっかの女生徒の「ブルマ闘争」などといった「たたかい」は、じつはどうでもいい「たたかい」なのである。
 そいつ自身が「脱学校化」しはじめるような「たたかい」をやる中高生を支援し、将来そいつと一緒に革命を楽しむことを、ぼくは夢想するのである。