90年度高部連総会批判 91年はじめ頃執筆

『見えない銃』に収録

 感想・分析は後回しにして、とりあえず事実経過を報告する。
 高部連総会とは福岡県高等学校部落解放研究連絡協議会総会の略で、まあ簡単に云えば福岡県内各地の高校で部落研(部活だったり生徒会内組織だったり非公然グループだったりする)の活動をしている高校生たちの集会である。
 前回も説明したとおり、部落解放運動には共産党系のものと社会党・部落解放同盟系のものとがあって両者は激しく対立しているが、福岡県の場合は解放同盟系のほうが運動の主流なので、この集会も当然その運動方針に沿ったものだし、式次第を見ると、県の解放同盟のおっさんとかも来賓として挨拶する。共産党系の部落研の全国集会も同じ十二月に和歌山県で開催されたようだが、ぼくはすでに昨年の段階で別組織の(DPクラブの)人間だからというアホらしい理由で集会参加を拒否され(詳しい経過は『ハイスクール「不良品」宣言』<駒草出版、一九九O年>を)、実質的に排除されたため、その報告を合わせてできないのは非常に残念である。
 それはさておき、十二月十五日に福岡県田川郡赤池町の同和対策中央研究所大ホールで開かれた高部連総会参加の報告をしよう。
 今回参加したのはぼくの他に、東京の森野、千葉のイトケン、京都の倉田、それからスドー・ビシャス、袋恒二、福原史朗の合計七人である。
 開会から二十分ほど遅れて到着したため、ぼくらが会場に入った時には式次第の@にある「特別活動報告」がおこなわれている最中だった。ホールには、何百人かの制服姿の高校生とおそらく部落研の顧問教師や解放同盟関係者であろうと思われる大人百人くらいが(見た感じなのでちっとも正確ではないが)集まっていた。
 「特別活動報告」では二校の部落研の生徒が、部落研の活動をしていたことを理由に就職差別を受けた報告などをしていた。
 そのあと討論に入ったわけだが、高部連総会での討論の形式はちょっと変わっている。「討論」という言葉からは、いろんなやつがあちこちから意見を出して論争するというイメージがあるけれども、高部達総会の場合はおよそ「論争」なんてイメージとは程遠く、会場のいちばん前にマイクが一本たててあって、云いたいことのある人が次々に前に出て変わるがわる喋るといったものだ。各自が、前の発言者が何を喋ったかに関係なく自分の云いたいことだけを云って席に戻り、また次の人が……という繰り返しだから意見のぶつかりあいだとか発言内容の発展だとかいうことは原理的にあり得ないし、実際ぼくらが何もしなければ混乱は起こっていなかっただろう。
 「討論」に入ってから発言した高校生数人は、部落出身者であれば差別を受けた経験とその悲劇を語り、そうでない者は自分がどのような経緯で部落問題にかかわり自らの差別性を認識するに至ったかの話をした。つまり差別側と被差別側のそれぞれワンパターンずつの似通った話ばかりなのである。しかしそれにもかかわらずそれぞれの発言が終わるたびに会場からはお決まりの拍手がわき起こるのである。
 そして決まって発言者は喋っているうちに自分の悲劇性に酔って声をつまらせたり勝手に一人で盛り上がったり泣いたりして、そのたびに最前列に近いところに坐っていたぼくと森野は顔を見合わせてオゲェーというのであった。
 自己陶酔する話者とお決まりの拍手。宗教儀式のようだ。
 ぼくらはなんとかこの「部落研的日常」を破壊しようと、互いに「倉田行けよ」「外山から先に行けよ」「ぼく後でいいよ森野から行けよ」などと鉄砲玉役をなすりつけ合うのであった。なぜ「部落研的日常」を破壊する必要があるかといえば、それはもちろん「部落研的日常」に支配された会場の雰囲気がぼくらにとってものすごい抑圧的なものだったからに他ならない。
 意を決した森野がまず席を立った。
 「よし行け森野」とぼくらはエールを送った。
 前に出た森野は女性差別の話をした(知らない人があるかもしれないので書いておくと森野は女性である)。彼女は、部落差別や障害者差別にからめて、自らの体験を交えながら女性差別を語った。森野にしてみれば、それによって部落差別から差別全般、そして差別を乗り越えた関係性の実現というふうに話を発展させていきたかったのだろうが、自らの体験を語ることから始めるという「部落研式話法」を用いたのが彼女の敗因だった。森野の発言に会場は拍手で応え、次の発言者は森野の発言と何ら関係させようという意図も見せず、またもや自己陶酔の世界へ逆戻りしたのである。
 森野はしきりに悔しがっていたようだった。
 そのうちぼくも思いきって立ち上がった。
 ぼくは、この集会自体を批判するという戦法をとった。
 「前の発言者が何を云ったかにかかわらずただ自分の云いたいことを云い散らし、互いに意見をぶつけ合うこともなくてどうして部落研の運動の質を発展させられるものか」
 ぼくの発言はだいたいそんな感じだった。
 会場はシーンと静まり返った。とりあえず成功したのだ。拍手は起きなかった!
 高校生たちの反論が始まった。
 「あなたの発言は他人に対する評価じゃないか。ここでは自分を語ることによって信頼関係を作り上げようとしているのだから、他人の批判ではなくあなたも自分の想いを語ってほしい」
 ということだ。ぼくらはさっそく反論しようとしたのだが、その少年は、ちょっと侍って、と制止した。何かと思ったら、あろうことか少年は自分の過去を切々と語り始めたのである。自分はどういう経験をして運動にかかわるようになったのか、という苦労話だ。
 少年の反論を受けてぼくは答えた。苦労話については無視した。
 「ぼくは他人事としてこの集会を批判しているのではなく、この集会の雰囲気自体がぼくを苦しめるものとなっているから云っているんだ」
 と実に簡潔明瞭なことを云ったんだが、部落研の人から見るとこういうのは「自分を語った」ことにはならないようだ。
 また少年が出てきて自分を語れと要求しては少年自身の過去を語り始める。
 そういうことが一度や二度ならまだしも三度四度と続くとこちらも真面目に苦労話に付き合っているのがイヤになって森野と苦笑いしたりしていると、少年や、会場の部落研の人々は「バカにしている」と云って怒り始めた。
 こっちも「おかしいものを笑ってなぜ悪い」と応戦するので会場は怒号と罵声でいっぱいになる。しまいには壇上でえらそーにしている「役員」の高校生(その中にはあの渡辺つむぎちゃんもいたのだが)も何人か司会用のマイクでドーカツをかけてくるので、森野が「なんであんたら司会者だけが専門のマイク使って権力的に割り込んでくるのよ」、司会者「なんてやコラ」などと大混乱に陥った。
 こういう状況になれば、過去のHCNの時と同様、森野の得意とするところなので、彼女を非難の矢面に立ててぼくなんかは彼女の後ろから適当に援護射撃をする役目を果たした。
 そのうちどっかの教師が割り込んで来て事態の収拾をつけようとする。教師が出てくれば高校生たちは静かになる。
 福岡の部落研の運動なんてこの程度のものだ。千人近くの集会が、ぼくらわずか七人の力(それも「暴力」ではなく相手の集会の方式にのこった「言論の力」)でワヤクチャになる。そして何百人もの怒号うずまく混乱も、わずか一人の教師の権威の前に収拾がつけられるのである。
 では実際になぜ福岡の部落研の運動がこんなに「ダメ」なのかという分析についてはこの同じ
(DPクラブ機関誌の)16号に収録してあるぼくの文章でおこなったのでそちらも合わせて読んでほしい(このサイトにも収めてある「部落研運動の差別性に断固抗議する」)。また、集会六日後に東京でぼくと森野がおこなった「筆談」の模様も収めてある(このサイトには収めてない。第6著書『見えない銃』に収録)のでそちらも参考にしてほしい。