「高校生らしい」集会

『校門を閉めたのは教師か』に収録

 七月十五日(日)、ぼくたちが第一回の高塚高校校門前ビラまきをする前日だが、この日、神戸では「門扉圧死事故を考える緊急トーク集会」なる集まりが、「神戸・子どもの健康と人権を考える会」のおばさんらの主催で開かれた。この集会で隅然出会った三人の現役男子高校生が、では自分たちも高校生を中心とした討論会を開こう、と意気投合して結成したのが、ハイスクール・コミュニケーション・ネットワーク、HCNである。
 そのHCNの集会が夏休みの八月五日(日)に開かれるという情報を、ぼくはテレビのワイドショーで知って、何人かの知人に、一緒に行かないかと呼びかけた。
 当日、会場へ行ってみると、高校生だけでも七十人くらい、大人を入れると百人くらいの人が狭い会場に集まっていた。マスコミ関係者もたくさん来ている。
 人が死ぬと違うもんだな。ぼくは複雑な気分だった。
 HCNの三人(司会者)のあいさつと、参加要請に応じた高塚高校生徒会役員三人の話、数年前に高塚高校の放送部が制作したという校則問題についてのビデオ上映、というのが前半のプログラムだった。が、退屈なものだったので、その内容の報告は省略する。
 後半、一時間半から二時間くらい、参加者によリフリーディスカッションがおこなわれた。
 学校問題は生徒だけの問題だと考えているのか、大人の発言は認めない、ということになっていた。
 「何か言いたいことがある人から手を上げて発言してください」
 ということで、最初の四、五人の高校生までは「順調」に話し合いは進んだ。彼らは学校名と学年、名前を言ってから「学校は生徒のためにあるものだ」「生徒ががんばらなくては」「最低限のルールは守ったうえで変えるべきところを変えよう」など、各自が自分の考えを言った。
 その後、会場の後ろの方で手を上げていた森野が指名された。彼女は、名乗らず意見を言い始めたので、司会者から「所属は?」とたずねられた。「所属? そんなもの別にないですけど。学校やめたんです」。森野はそう言って話を続けた。彼女は、
 「校則を守る守らないとか、遅刻するのがいいか悪いかとか、そういう問題じゃなく、学校のシステム自体を問題にするべきだ」
 と言った。「石田さんの倒れてる上を通っていった人がいるように、他人を疎外しなければいられないシステム、教師の方も、生徒を殴ったり管理したりしなければ学校にいられないシステム、といったものが私たちを拘束しているんじゃないか」
 彼女は、そう問題提起した。
 ――ここで信じがたいことが起こった。
 森野の発言が終わると、いきなり司会者であるHCNの高校生が割りこんで、
 「話が拡がりすぎてきたので、元に戻したい」
 という主旨のことを言った。森野は、
 「私は私の感じたことを言ったまでで、それに対してあなたはどう思うのか、ということをあなたが言えなければ、こんな話し合いをしても同じじゃないか」
 と、彼女の発言を「主催者として」単に整理しようとする司会者に反論した。司会者は、
 「あなたの言うようなことは、まだ時間がありますから、後でゆっくりできますので」
 と逃げた。森野に続いてマイクを握った高校生Aは、
 「会の進行を悪くしないように、ぼくたちちゃんと議長さんに従います」
 と前置きして話を始めようとしたので、すかさず前の方に座っていた倉田が、
 「そんなの学校と同じじゃないか」
 森野も、
 「学校の先生に従ってるのと同じだ」
 と叫んだ。その高校生は、
 「そんなんだったら会は進まないじゃないですか」
 「進むよ」と森野。相手は、
 「司会者がその話は後にすると言ってるんだから、後にすればいいじゃないですか」
 と言って次のようなことを発言した。「欧米と違って日本の教育は集団生活型だ。集団社会にはルールというものがあるから、そのルールを守れないとなると、社会から逸脱することになる。つまり反社会的ということだから、学校がイヤならやめればいいと思います」
 高校生Bが、こういう発言もした。
 「校則というのは、先生と生徒の民主的な話し合いによって変えていくべきで、そういう民主的な流れに入っていけない人は、そこから飛び出て当然だ。自由な私学などもあるんだから、そういう人は、そういうところへ行けばいい。社会に入りたいのなら、その社会のルールに従うのは当然のことです。カナダへ移住したいなら、カナダの法律に従わなければならないのと同じことだ」
 イトケンや倉田が反論する。
 「学校がイヤなら違うところへ行けばいい、とかいっていては何も解決しない。自分のいる場で変えていけばいいじゃないか。」
 するとB君は、
 「ぼくが言ってるのは、民主的な方法で変えていくべきだということで、その民主的なやり方に入っていける人はその学校でやればいいんです」
 これに森野が割り込んで反論する。
 「民主的な流れ、って言うけど、学校という場で、そういうしくみが確立されているかという問題もあるし、自由な私学っていっても、ほんとに自由かってなると……」
 ここでまた司会者が登場する。
 「ぼくらがさっき言ったのは、遅刻について意見はありませんかと提案しただけで」
 と、また話を元に戻そうとした。
 「そんなのどうでもいいじゃん。話はどんどん進んでるんだから」
 森野は言った。「あんた自身が、そうやって話に参加しようとしないんじゃ意味ないよ」
 「ぼくらがケンカに参加してどうするの」
 「ケンカじゃないよ」
 「ぼくら司会者は冷静に話し合い全体を見なければいけないんです」
 参加していた高校生が、司会者を擁護しはじめる。
 「この話し合いが、自分たちの欲求不満のハケ口になってはいけないと思う」
 この発言をした高校生の目には、森野や倉田の言ってることが、そう映るらしい。
 「欲求不満じゃないよ」
 「あなたはそういうつもりじゃなくても、周りから見ればそうとれることもある。大切なのは、ここで今話し合われていることに対してきちんと意見を述べることであって、自分の思いのままにブチまけたんじゃ、この会は失敗すると思うよ」
 「自分の思いをぶつけることによって返ってくる言葉で、これからどうするかということを決めようとしているんだけど」
 「そういうことは後だと司会も言ってるじゃないですか」
 「後だとかじゃなくて、実際に、あなたたちのそういう発言自体が私を疎外するものとなっている以上、私は言わざるを得ない。ルールを守れなければ社会がらはみ出て当然だ、という発言がたくさん出ているんだから、私みたいな人間はそれに対して発言せずにはいられない」
 「ルールを守れなきゃ、というのも一つの意見なんだから」
 「だから私もそれに対して意見で対応している」
 「でも他人の意見を尊重することも必要だ。ヤジみたいになってはいけない」
 「ヤジじゃないよ」
 ――ちょっといいですか、とまた司会者が割り込む。
 「だいぶ話が混乱してきたようですので……」
 高塚高校で起こった事件について、具体的にどう思ったかということを発言してほしいと言う。
 「私は、どう思うか、について言ったつもりだけど」と森野。
 「それと校則の話とは別だと思うんですが」と司会者。
 「つながってる問題だと思うよ」と森野。
 「急に飛躍するからいけないんですよ」と司会者。
 森野に対して、勝手だ、という声が、会場のあちこちから上がる。森野非難を支持する拍手も起こって、森野は一人浮き上がった感じになる。
 「勝手じゃないよ。こういう言い方をしなければ、学校なんかでも誰も意見を聞いてくれないよ」という森野の言葉に、ヤジが連発される。
 高校生Cが、マイクを持って発言する。
 「ここでひとつルールを提案したいと思います。これは、みんなにとって決して悪いルールではないと思います。一つは、発言者は必ず一人ずつ、マイクを持っている人に限る、ということにしたらどうでしょうか」
 この暴言に、なんと大きな拍手が起こる。森野や倉田、ぼくなどが、文句を言おうとすると、
 そのC君は、
 「まだぼくの発言中です」
 と、自分が一方的に勝手につくったルールがもう発効しているようなことを言う。しかし拍手がおこる。
 「そういうことが大事なんです。ぼくたちは討論をしに来ているんです。他人の話をしっかり聞くことが大切なんではないですか。――もう一つ提案したいルールは、他人の発言に対してヤジをとばしたり、あざ笑ったり、不愉快にさせるようなことはいけないということです。こういうルールを、ぼくたちは作れないのでしょうか?」
 彼に続けて、ぼくがマイクを握る。
 「さっきから話し合いのようすを見ていると、なんだか学校と同じような気がするんですよ」
 拍手が起こる。だが小さい。森野とイトケンと倉田と須崎の拍手だからである。七十人の中では圧倒的少数派だ。
 「一つは、“前提”を持っているということです。討論というものはこうでなければならないとか、発言のマナーはこうだとか、進行の段取りだとか、そういうものは、たとえば学校に入学すると、生徒はこうあらねばならない、というような“前提”が勝手につくられているのと同じだと思います。ぼくらみたいに、その“前提”に納得していない人間がいくらかいるのに、そういうのは話し合う余地のない絶対的なものだと決めつけられているみたいです。思い思いのやり方で発言しようとすると周囲に押さえつけられる。――それから、話し合いが混乱すると、すぐ司会者に何とかしてもらおうとするのも、学校で何かあるとすぐ教師に頼るのと同じです。――こういった生徒の体質が今の学校を支えているような気がするのですが、どうでしょうか」
 例によって小さい拍手。ぼくがそういうふうに説明しても、多くの高校生は分かってくれないようだ。発言の最中に、ぼくや森野がマイクを持ってる人に反論的質問をぶつけると、ヤジが飛ぶ。ヤジが悪いとは思わないが、自分たちで「ヤジを飛ばすな」というルールを提案しておきながら彼らはヤジを飛ばす。ま、いいけど。何度目かの、そういう場面になった時、また司会者が入った。
 「自由とわがままをはき違えているのではないか」
 との内容だ。森野やぼくに対して向けられている。
 「言いたいことを言ってくれるのはいいが、他人のことを考えてますか?」
 「考えてまーっす!」と森野。
 「考えてませんよ」と司会。
 「一方的に決めつけるな」とイトケン叫ぶ。
 さまざまな声が飛びかい、騒然となる。怒号も発せられる。ルール、ルールという声があがる。
 「ルールって、誰が決めたルールよ?」と森野が叫ぶ。司会者は、
 「あなたたちみたいな言い方をする人がいると、他の人が発言しにくいじゃないですか」
 「ルールを守れないのなら帰れ!」という声も上がる。
 途中からぼくらの側についていた神戸の中退生が、その言葉に怒って「帰るわ」と席を立つ。ぼくと森野が、「帰らない方がいいよ」「ここで帰ったら何も変えられないよ」と言って彼を引きとめる。
 「ルールを守れないのなら、帰ってください」と司会者。
 「ほら、それがドロップアウトのしくみじゃないか」と森野。「学校と同じだ!」
 「帰ってください」司会者がくり返す。
 「これと同じことが学校でおこなわれているんじゃないのか!」とぼくが叫ぶ。
 「ルールも守れない人間が、なんでそんなこと言えるんですか?」司会者もかなり高ぶっているようだ。「規則、規則って悪く言うけど、それ以前に人間として守るべき礼儀があるでしょう」
 「どういうことよ!」森野が叫ぶ。
 別の高校生がマイクを持つ。
 「ちょっと待て。これでは混乱するばっかりだ。周囲のことを考えてこそ自由だ」
 「周囲のことを考えて、というのは具体的にどうすること?」と森野。
 「特定の人だけじゃなく、他の人も司会が指名して意見を求めたらどうか」
 と提案する高校生もいた。
 「こういう場で、自分の言いたいことを積極的に言えないようじゃ、それこそ学校で何もできないんじゃないのか」と森野。
 「司会に発言の場を与えられないと喋れないのか」
 「マイクいらないんじゃないのか?」
 会場の高校生の一人が声を上げる。
 「そうだよ。マイクいらないよ!」と森野。
 「マイクがないと、発言する人が誰なのかはっきりしないので」と司会。
 「そんなのいいじゃん」
 「こっちが困るので」
 また応酬が始まる。司会者が、
 「ちょっと待ってください。混乱してきたので、意見のある人は手を上げてください」
 「手上げなきゃ喋れないなんて学校と同じじゃん。授業と同じじゃん」
 「ルールなく、みんながめいめいに喋ったらどうなるのか。縛られてるとか何とかいう前に、人間として最低限守るべきことは守ってください」
 また高校生の拍手が起こる。
 「これは“会”なんだから、多勢の人のことを考えなければならないのです。それができないのなら、そこの三人だけ(と目立っていた森野、ぼく、神戸の中退生を指して)で別のところで話し合ってればいい。最低限のマナーを守るべきです」
 森野が反論を加えようとすると、司会者が、
 「参加者を責めないでください」
 と間のぬけたことを言った。「こちらにはこちらのルールがありますから。ちゃんと始まりのときに配ったプリントに書いてあるでしょう」
 「これではただの雑談だ。司会者なんとかしてください」
 と別の高校生。
 「話がちっともすすんでない」
 とさらに別の高校生。
 「進んでいるよ!」とぼくらは声を上げる。するとその高校生は、
 「発言中は黙れ!」
 と怒鳴った。「暴力的だ」と森野が言う。
 「ルールに従ってください」と司会者は相変わらず。高校生の一人がマイクをとって、
 「自由にものを言うのはいいが、その“自由”が相手を傷つけるということを考えてください」
 「その発言に傷つけられた」と森野。
 「そういうことを言うのはやめてください」
 と司会者。会場からも森野に罵声が浴びせられる。
 ――まだまだ討論会は続くが、ここらでやめておこう。これが八月五日のHCN集会の実態である。ぼくも森野も最後まで引き下がらなかった(特に森野は)が、同時に最後まで疎外感を味わっていた。ぼくも森野も途中からぼくらの側についた神戸の十七歳の男も、ともに中退生であるのは象徴的だ。学校の管理体制を真に支えているのは誰か、ということを、ぼくらの行為は余すところなく表面化させることができたと思う。
 九月五日には、第二回のHCNが開かれたが、基本的にはこれと変わるものではない。
 学校と戦うということは、こういった高校生らと戦うということだ。集会に来ていた高校生らに言いたい。君たちの敵は君たちを抑圧する学校当局だけじゃない。小中高と管理されることに慣れてしまった自己が一番手強い敵なのだ。