何が死の校門を押させたか?

『校門を閉めたのは教師か』に収録

 女生徒が校門に挟まれて死んだという、例の兵庫県立神戸高塚高校の、その校門前に、ぼくら三人はビラ配りに行った。
 ぼくは、DPクラブという、中高生の自由を中高生自身の手で勝ち取ろうというグループを主宰している19歳の高校中退生。沢村は、広島の高校をこの春に卒業して、埼玉で極貧生活を送っている18歳のプー太郎。中村は、つい最近千葉の高校を中退した16歳のカメラ少年。
 ぼくら3人は、遅刻の校門指導で生徒が死ぬという前代未聞の事件に衝撃を受けていた。そして、学校の管理主義に対してよりも、むしろ、事件後も相変わらず平然と期末試験や授業を受けつづけている高塚高の生徒たちに対して云いようのない苛立ちを覚えていた。
 報道によれば、校門に、死亡した石田僚子さん(15)がはさまれたためにできたスキマから、何人かの生徒が彼女の上を飛び越えて登校し、テストを受けたのだという。校門を押した教師は、その後、そのテストの監督をしていたとも聞いた。
 20年前の学生運動の時代ならもちろん、10年前の「校内墓力」の頃の生徒でさえ、こんなムチャクチャな事件が起これば、授業ボイコットなり、校長つるしあげなり、抗議集会なりを起こしていたことだろう。
 それが高塚高校では、ちっとも起こらない。そのことにぼくら3人は苛立っていたのだ。

 ぼくはちょうど東京に遊びにきていたので、沢村、中村とともに、ヒッチハイクで神戸へ向かった。
 7月16日(月)の朝8時前、ぼくらは事件の起こったその現場に立った。すでに約10日が経過してしていたが、事件の衝撃は大きすぎて、つい2、3日前のでぎごとのように思える。
 ぼくは、到着したとたんに、足がガクガク震え、胸の鼓動が激しくなるのを感じた。
 ぼくらの作成した生徒向けビラ約百枚の内容は、起ち上がらない生徒を口汚く罵倒するような、度を越して不謹慎なものだったからだ。

 
 (文面をちゃんと読みたい人は『校門を閉めたのは教師か』など、ぼくの著作をどうぞ)

 他の二人については知らないが、ぼくがこんな「不謹慎」なビラを作った理由は、前述したような、生徒に対する憤りを表現するとともに、この異常な状況の中で何とか保たれている高塚高校の「秩序」を―挙に粉砕して、混乱を生み出し、生徒を怒らせて本音を吐かせるためだ。
 後で聞いた話、神戸の市民団体がぼくらより2日早く、事件についての緊急集会の案内ビラを同じ校門前で生徒に配布したが、何の反応もなかったという。
 ──勇気をふりしぼって、ぼくら3人は、登校中の生徒にビラを渡しはじめた。
 「笑いながら読んでる奴がいるよ」
 沢村が複雑な表情でぼくに云った。
 テレビ局が2社ほど朝から取材に来ていて、そのうち1社のテレビカメラが、中村に近づいてインタビューを始める。

 ──ビラ配りを始めて、15分くらい経過したころだろうか、中村は少なくなったビラを補充し、ぼくはテレビカメラを向けられているうちに、ダダダと足音が聞こえ、振り返ると3、40人の生徒がビラ配り中の沢村のところへ集団で押し寄せ、
 「なんなんですか、このビラ──」
 「バカにしてるんですか?」
 と口々に抗議の声をあげている。
 呆れた話ではあるが、沢村と中村は、生徒が怒って出てくるという事態は予測しておらず、もっぱら教師に制止される事態を心配していたらしい。沢村は生徒に詰め寄られて、何も云えずオロオロしている。
 女生徒の一人が、沢村の目の前でビラをビリリと破り捨てる。
 ぼくはそこへ割って入った。そして、生徒らに向けて大声で訊いた。
 「あんたがたは、ぼくらのビラに対して怒っているのか、それとも石田さんを死なせた学校に対して怒っているのか、どっちなんだ?」
 ここで、じつはぼくのヨミも甘かったのだということを正直に告白しておこう。ぼくは、あらかじめ事態を予測して用意しておいたこの問いで、生徒らに自分らのバカさ加減に気づかせ、場の流れを変えることができると考えていた。しかし、ぼくの「期待」は、一人の女生徒の言葉によって、あっさりと裏切られた。
 「なんでアタシらが学校に対して怒らなあかんの?」
 ぼくは愕然として言葉を失った。
 学校の管理主義によって友人が殺された、という認識がまるでないのだ。今回の事件が、ほんとうに「単なる事故」としてしか、彼女らにはとらえられていない……。
 次の瞬間、さらに恐ろしい光景が目の前で展開された。
 一人の教師が慌てて中から出てきて、必死で生徒らをなだめ、校門の中へ何とか彼女らを押し入れた。
 なんという絶望的な構図あろうか。
 生徒が一人、実質的に学校によって殺されるという事件が起きていながら、生徒が学校を守り、また教師がその生徒たちを守る。
 ぼくは夢中で叫んだ。
 「そういうオマエらが石田さんを殺したんだ!」
 また生徒の群れの中から怒りの声がいくつか上がったがよく聞き取れない。
 沢村が続けて叫ぶ。
 「そんなふうに学校を守って、オマエら楽しいか?」
 すると生徒の中から、「帰れ!」との声が上がった。その声はたちまちのうちに群れの中に広がって、「帰れコール」になる。
 中村の、
 「オマエら、何も学校に不満ないのかよ」
 という声が空しかった。
 校舎の窓から顔を出した男子生徒が、
 「楽しい学校や!」
 と叫んだ。
 ぼくらはしばらく呆然と校舎を見上げて立ち尽くした。

 翌朝、ヒッチハイクで福岡に到着した。沢村と中村は、京都の友人宅に―泊して、それから関東へ戻ったようだ。
 福岡市南区の、冒頭でふれたDPクラブという中高生グループの事務所兼たまり場であるアパートの一室に戻ると、前日のうちに3件、生徒からのものらしい抗議の電話があったということだ。
 留守番をしていた一つ年上のタクローがメモを残している。2件はコレクトコールだったらしい。「礼儀知らずはお互いさまだ」とグチが記してある。
 ぼくが福岡へ戻ってからも、この原稿を書いている19日の時点で2件、抗議電話があった。どちらも、女生徒からのもので、電話口で数人が交代しながら話していた。
 彼女らの云い分は、こうだ。
 「あなた方の書くほど、ウチは悪い学校じゃない」
 「あなた方やマスコミが、外から騒ぎ立てるから、中は困る」
 「門を押した先生は、いい先生だ。日頃から、規律を守ることについては厳しかった」
 「今回の事故は、たまたま不幸が重なっただけだ」
 「私たちは卒業してから進路のことがあるから、あんまり騒がれると迷惑だ」
 教師かPTAのオバサンと話をしているみたいな気分になる。
 生徒の一人や二人死んだくらいではビクともしない「学校共同体」の幻想。生徒たちのこの自己保身的な共同体幻想が学校の管理主義の秩序を支えている。その頑丈さ、強固さは、当初のぼくらの予想をはるかに上回っていた。
 それが、今回の「不謹慎」なビラ配りで見えてきたことだ。
 「気違いざた」だ。他に言葉を知らない。