「学校」は抑圧装置だ

『見えない銃』に収録

 久留米市立南筑高校に通い始めて約二ヶ月ちょっと。今、思っていることをつらつらと書いていきたいと思います。
 学校へ行くのがきつくてきつくてたまらない。しょっちゅう学校を休んだり、昼ごろ登校したり、とかいうことをやっていて、五分の一以上欠課すると単位不認定という、単位制度が他校より厳しい南筑高校なので、すでに進級が危うい状態だ。
 何がつらいかといって、毎日毎日、同じ時間に起きて登校しなくちゃいけないということが、低血圧で朝に弱いぼくにとっては一番つらい。月に六回以上無断遅刻をすると、生徒指導主任に呼び出されて、剣道場で何時間か正座をしなければいけない(今のところそれにはひっかかっていない。遅刻より欠席のほうが多い)。
 毎朝きめられた時間に学校ヘ行くということも、たとえば授業が楽しくて、学校にいることが面白いというのならそれほど苦痛でもないかもしれない。
 でも、「面白い授業」なんてほとんどない。
 前にも書いたとおり、南筑高校は日教組の教員が過半数を占めているらしく、「教育研究集会」などで授業方法を研究したりしているはずなのだが、それが活かされているとも思えない。授業だけを開いていたのでは、どの人が組合員で、あるいは非組合員で、あるいは「第二組合」員なのか、なんてことは全然区別がつかない。どの授業もつまらないものばかり。何のために勉強しているのか、なんて問いかけもバカバカしいくらいにつまらない。ほとんどの授業は、「その科目を嫌いにさせるための授業」として以外の意味味を持たないように感じられる。「英語を嫌いにさせるための英語の授業」、「物理を嫌いにさせるための物理の授業」、「社会を嫌いにさせるための社会の授業」、「音楽を嫌いにさせるための音楽の授業……。
 面白くなさそうな、何の熱意もなさそうな授業をする教師がいる。きっと、去年も、一昨年も、その前の年もそのまた前の年も、同じような授業をくりかえして来たのだろう。そして来年も来々年も、ずっと同じような授業をくりかえしていくのだろう。
 やっぱりぼくとしては、社会の授業が一番イライラする。
 一年なので「現代社会」の授業なんだけど、ぼくらの日常に対する何の突きつけもないまま、「オゾン層の破壊」だの「温暖化」だの「砂漠化」だの「熱帯雨林の乱伐」だの、あるいは「管理社会」だの「高度情報化社会」だの「高齢化社会」だの、言葉のための言葉が目の前をとおりすぎていく。テストに出るから、みんなしかたなく板書をノートに書き写しているだけで、何の緊張感も要求されない怠惰な授業。教師が黒板の字を間違えて、黒板消しを取ると、みんな一斉に消しゴムを手に取る。「原子力発電」について、教師が説明をしている時でも、チャイムが鳴り出せば、みんな教科書を片付けはじめる。
 教師から生徒への、一方的なコミュニケーション。生徒から教師への回路は、「質問」という形のみ。生徒と生徒のヨコの回路はない。タテだけ。「教える側」−「教えられる側」という構造から、とても抜けだせない。
 中間テストの社会の解答用紙の余白に、あんたのやっている機械的説明の授業がいかにつまらないか、ということを書いた。後で、その若い女の社会科教師に呼ばれ、「ジプシーくんは、いろいろ知っているから、そんなふうに感じるのよ。討論形式だとかグループ研究だとかいうけれど、基盤になる知識を持っていないんだから無理よ」と、高校生をナメくさった言葉を聞いた。最近、例の伝習館事件についての三一新書を読んでいるけれど、主体的でなければ参加できない――というより参加すれば主体的にならざるを得ない被処分三教師の、二十年前にじっさい同じ高校生に対しておこなわれていた授業とこの目の前の教師の何らの主体性も要求されない授業との差に言いようのない空しさを感じる。
 そういえば教室の椅子の配置も、「教える側」−「教えられる側」、タテ構造を象徴している。一番前に、デーンと置かれた教卓。生徒の椅子は、一つ一つバラバラに、しかしすべて前方に向けて並んでいる。これがもし、班ごとに机をくつつけたり、コの字型の配置にしたりすれば、必然的に授業形態も変わらざるを得ないのだろうか。試してみる価値はありそうだ。
 じっさいに原本を読んだことはないけれど、ミッシェル・フーコーという人は、「監獄の誕生」という本の中で、監獄を始めとする、兵舎・学校・工場・病院などは、「管理するための」建築構造を持っていると指摘しているとか。ぼくも学校にいてそう思う。部室棟は、周りを鉄条網で囲まれて、放課後しか入れないようになっている。
 学校は、たしかに「集団生活の場」になってしまっている(つまり、もともとただの公共機関にすぎないはずなのに、ほとんどの教師・親・そして生徒までが、学校を、「共同体」としてとらえる幻想にとりつかれている)から共同体の目に見えない(あるいは見える)、秩序を、個人の力で拒絶していくことば難しい。集団の前で個は無力だ。ちょっとでも変わったことをすれば周囲から浮きあがる。ぼくはぼくを失わないために、共同体の秩序に埋没してしまわないために、故意に「変わったこと」をやるようにしている。そうしないと、とたんに共同体の秩序に取りこまれてしまって、ぼくもならされてしまうような気がする。しかし、無理にそうして自分に「変人であること」を強制してしまうと、不自然になり、逆の意味で、ぼくがぼくでなくなってしまう矛盾に陥る。
 隣りのクラスで「いじめ」がおこなわれている。でもぼくは、「いじめ」をやっている連中ではなく、「いじめ」の存在自体を許している共同体の秩序を破壊することにともなって出てくるであろう集団からの疎外感が恐くて、何も言えない。「傍観者は加害者にすぎない」のだから、ぼくも「いじめ」の加担者だ。こうやってみんな、集団が社会的弱者を抑圧するという社会構造に慣れ、感性をマヒさせていくのだろうか。
 確かに、こんな狂気じみた状況の中で自分を「正常」に保つには、何も考えないで周囲に同調していくことが一番かもしれない。そして、みんな「正常」という名の「気狂い」になっていくのだろう。こんな狂った世の中に、自分の感性を何とか合わせて「気狂い」になっていくことが、教師たちの言う「協調性」というものなのだろう。そして「気狂い」になることを拒否する者は、「集団生活の秩序を乱す」ということで疎外され、排除されていくのだろう。
 「学校」という場所は、徹底的な人間破壊をおこなう場所なんだということが、ようやくぼくにも見えてきた。
 ありのままの自分を通そうとすれば叩かれる。おかしいものをおかしいというのには想像を絶する勇気がいる。不当なことにいちいち反抗していては身がもたない。気が狂いそう。
 こんなことなら、いっそ何も考えずに、適当に周りに合わせておいたほうが楽だろう。そうすることができれば苦痛は魔法のように消えてなくなるかもしれない。自分を捨ててしまえば、やるべきことは、すべて誰かが決めてくれる。何を着ればいいかということも、教師やファッション雑誌が教えてくれる。何を勉強すればいいかということも、誰かが決めてくれる。そうやって受け身になっていれば、不都合なことは何ひとつないのだから。
 そう。「学校」は、自立することを妨害して、いつも無意識のうちに誰かのいいなりになっているような、ロボット人間を大量生産するための主体解体工場だ。
 「学校」は抑圧されることに慣れさせるための抑圧装置だ。
 自分をほんとうに「正常」に保つためには、退学するしかないのかもしれない。でも、退学したからといって、気狂いじみた共同体の秩序がなくなるかというとそうではない。共同体は、少数の「脱落者」を出しながら、これからもずっと秩序を保持しつづけるだろう。そして、大多数の共同体の成員の主体性を破壊し、管理社会・階級社会を維持する役割を果たしつづけるだろう。「学校をやめる」ということそれ自体は、何の秩序解体にもならない。そのうち強制的に退学させられるかもしれないが、やれるところまでやってみるつもりだ。