DPクラブの分裂

『ハイスクール「不良品」宣言』に収録

 DPクラブのフリースペースが開設されてからようやく八か月になった。
 DPクラブは、「学校の現状に異議あり」という一点でのみ団結し、またそのフリースペースは、万人に開放されていた。
 だが、ぼくは今、このフリースペースのありように疑問を惑じている。
 ぼくはスペースの常連現役生に「逃げ場」を提供しているだけなのではあるまいか、とこの頃とくに強く感じていた。それは、これまで何度かDPクラブの機関誌で書いてきたとおりである。
 スペースの現役生は、なぜ主体的にならないのだろうか。
 ぼくが彼らの受身の姿勢を指摘し、注意するたびに、彼らは自分らをこう説明するのである。
 「スペースができて、まだ八か月です。まだ主体性を持てません。動こうという気になるまで待ってください。学校や社会についてもっと考えるようにしろと言われても、ぼくらはまだ知ろうとは思いません。興味がわけばそうします。それまで待ってください」
 果たして彼らの言い分は正しいか。
 正しくない、というのがぼくの答えである。
 主体性を持つ時期は、人によって異なるだろう。しかし、スペースの常連現役生と、ほとんど同じ時期にほとんど同じくらいの認識の段階(つまり、怒りの対象がはっきりとせず、漠然とした不満を感じている)でDPクラブにかかわってきた現役生との差を比べれば、このことは、おのずと明らかである。
 DPクラブにかかわりながらも、主に地理的な事情でスペースの常連となれない仲間の中には、ここ数か月の間に、活発に動き始めた者がかなりいる。たとえば、筑豊で<LEPクラブ>を始めた福原史朗くん、築城町の渡辺つむぎちゃん(彼女はDP以前から活動していたが)、沖縄でミニコミを編集した中山綾子ちゃん、加治木高校で活発に動き始めた童夢くん、<DPクラブわかやま>を始めた坂口博紀くん、<改革者の組織・O2R>を始めた香川の川本京子さん……。会報への投稿も、とくに最近では他県の仲間のほうがずっと積極的だ。
 対してスペースの常連現役生は……。いまさら言うまでもないだろう。
 これはいったいどういうことなのだろう。
 状況をぼくなりに分析してみた。
 つまり、普通の中高生には、「学校」と「家」以外の居場所は存在しないのである。「学校」と「家」の往復という生活。「学校」では一方的な規則を押しつけられ守らなければそれなりの制裁があり、「家」に戻ればウルサイ親が「勉強、勉強」とやかましく言う。これが、現在の中高生の大半が置かれている状況であり、ぼくもかってそのような中に身を置いていた。このような状況にあって、正常な感性を持ちあわせた人間は追いつめられてしまい、追いつめられ「これではいけない」と思った時に初めて人間は行動を起こす。
 スペースに来れない仲間は、そうしてさまざまな行動な起こし、沖学園の女生徒は授業ボイコット(DPクラブのすぐ近くの高校で、DPクラブとはまったく無関係に起きた闘争)までやった。
 しかし、スペースの常連現役生はどうか?
 彼らはまだ追いつめられないうちにスペースの存在を知り、ここへ来た。もちろん、学校というものの現状に彼らはある程度の不満を持ち、自分にできることがあればDPクラブの活動に協力したいと思っていた。
 スペースに来てみると、自分と同じような思いの仲間がたくさんいた。彼らは、自分の思いをぶちまけあい、仲良しになった。
 学校でも家でもイヤなことばかりだけど、スペースヘ来ると、何でも話せる友達がいた。
 彼らは自分の第三の居場所、安心できる居場所を発見した。
 そして彼らはスペースの常連になった。
 ――こんなところではないだろうか。
 彼らは、「安心できる居場所」、「友達と気兼ねなく話せる居場所」、「自分が追いつめられない居心地のいい場所」を求めてスペースに来るのである。
 たとえばぼくが大金持ちで、現役生がスペースに来るたびに五百円ずつでも渡せば、彼らは連れだってマクドナルドにでも行ってダベってるだろう。
 スペースさえ存在しなければ<学校変革>ヘと向けられているかもしれない彼らのエネルギーを、ぼくは彼らに「居心地のいい場所」を提供することによって奪っているような気がする。
 もしも沖学園のボイコットで中心的に動いた生徒が、事件の起こる以前にスペースの存在を知り、その常連であったならばあのボイコットは起こらなかったに違いない。スペースのような「居心地のいい場所」を持たなかったからこそ、彼らは追いつめられ、授業ボイコットに及んだのである。
 「学校変革をやろう」「菅理教育を粉砕しよう」と言いながら作ったスペースが、逆にそれらの障害になっている。もしこのスペースがなければ、KONSONや不楽平派(当時DPクラブに出入りしていた現役高校生)のように厳しい新設校に通う現役生は、何か行動を起こしていたかもしれない。彼らの力量をある程度は把握しているぼくは、彼らがそれをやっていたにしてもその抵抗は簡単につぶされてしまうだろうと予想するが、それでも彼らは何かやるだろうし、「何かやる」という意味は、その結果のいかんにかかわらず大きい。
 それが、スペースがあるばかりに現実のものとならない。
 よくよく考えると、ぼくは「反管理教育」を叫びながら、管理教育をやめさせようとする現役生の主体的なエネルギーを吸い取っていたかにさえ思えてくる。福岡県教育委員会の表彰を受けてもいいくらいだ。
 ぼくのやったことは、現役生に「逃げ場」を与えたことにすぎない。
 そしてさらに困ったことに、スペースの常連現役生のほとんどは、悪い意味で保守的になっている。人間は、安心できればその状態を保ち続けようと必死になる。
 つまり、ぼくが今やろうとしていることは、彼らを学校と戦う気にさせることであり、スペースを単なる「仲良しクラブ」にさせないことであり、スペースを「ゴール」から「スタート」に転換することである。結局のところそれは、ぼくが、彼らのせっかく手に入れた「居場所」を奪うことである。
 だから、彼らは必死になって抵抗するのである。
 また、追いつめられることのなくなった彼らが、学校や社会について考えるのをやめてしまったのは当たり前であって、それを責めるぼくのほうが間違っていた。彼らは「DPクラブのフリースペース」という「居場所」が欲しいだけであって、それさえ手に入れば良いのだから、月々の会報などろくに目をとおさないのも当然だ。これも責めるぼくのほうが間違っていた。また、スペースに来ることによってすでに自己完結してしまう彼らが、その先なんら主体的にDPクラブの活動にかかわることのないのも同様。責めるぼくが悪い。
 またこの堕落腐敗は、スペースにいるのが長い者ほど症状が重く、一種伝染病的な性質を持ち、最初は学校と戦うつもりであった新参者をもしだいに巻き込んでゆく。
 かくて外山VS他大多数という構図がスペースにできあがり、スペースのかかえる矛盾は次第に激化し、(八九年)十月一日、すなわち崩壊の日を迎えることになる。

 直接的な発端は、ぼくが中学生の少女・だいなまいときっど(以下DK)を叱ったことだ。
 九月二八日、DKは、彼女の通う私立の中学校で、クラス全員が特別教室かどこかへ移って不在の際、教室で教師による抜きうちのカバンの中身検査が実施されており、そのことに非常に怒り狂っていた。
 ぼくが、何かやろうか、と言うと、彼女は、うん、と答えた。
 「でも、昔おまえの学校でビラ配っても反応なかったしなあ」
 ぼくはそう言って、今回のことをDKが直接DPクラブを取材したことのある新聞記者に話して記事にしてもらったらどうか、と提案した。
 しかし、DKは首を横に振った。怖い、と言う。
 ぼくは、スペースに来た当初のDKなら、そんな反応は示さなかったと思った。
 スペースに来た当初のDKは、生徒総会で管理派の校長と口論したり、教師にさまざまなイタズラを仕掛けたり、書道の時間に好きなことを書けと言われて「だからなにさやっつけろ」と大書して叱られたりする元気な少女だった。
 ぼくはDKに、おまえは何のためにここへ来たのか、おまえはここへ来るようになってから何をしたのか、ほんとに学校を変えたいと思うなら何かすべきではないのか、今にも処分されそうになりながら名前まで出して戦っている史朗くんやつむぎちゃんをどう思うのか、と彼女に説教した。
 相手が悪かったように思う。
 DKは子供で、元気がよくて、何をやっても許されるような、一種のスペースのマスコットになり下がりていた。
 今までにも、現役生の主体性のなさについて、何度か叱責したことがあった。
 スペースに来ている常連現役生とぼくとでは、ぼくのほうが圧倒的に多くの経験を積んでおり、ぼくが言いたいことの半分も言わないうちに彼らは黙り込んでしまう。そういう「屈辱」が彼らの意識の底にわだかまっており、それがスペースのマスコットになってしまったDKに対してなされた時に爆発したと言っていいだろう。
 この直後から、DKをかばう声が女子中学生の一人から出て、それが急速に外山批判に発展していった。
 DPクラブ雑記帳より。
 「活動を強制することはできないと思う」
 「DKの気持ちをわかってほしい」
 「DKは中学生だ」
 「もし(学校に)ばれたらどうなるかわかってるでしょう?」
 「史郎さんとDKじや立場が違う」(以上、巴・中三・女)
 「何でも一方からしか見られないあわれな小羊よ」(DK)
 「居場所は話すためにあるんじゃないの? 話してていいじゃないか。話さなくて、ここにいて何するの?」
 「外山さんは意見の一つでしかないよ。みんな外山思想じゃないんだ。あの人は世界をつくってるから、その世界に入ってるんじゃないの?」(以上、鼓・高一・女)
 例によってぼくは疎外され、彼らはスペースのあるビルの屋上で外山批判をくりひろげ、どうやって外山を改心させるかを話しあっていたようだ。(ね。追いつめられると人間は何か行動を起こすのです。こういうエネルギーは学校や社会に向けてほしい)。DK、巴、鼓、KONSON、不楽平派、RONA、飛鳥、スドー・ビシャス、これにさらに浪人生のバロン影山民夫と石峯が加わった。バロンは、今回の件とは別のところで、ぼくが一方的に恋愛感情を抱いている女の子(注・バロンではなくぼくの恋愛対象)を泣かしたことなどに個人的に激怒して反外山の側についた。

 ぼくは、九月三十日午後から泊まりがけで福岡県高校教職員組合の学習会にタクローくんとともに参加し、十月一日の昼ごろスペースに戻った。
 すると彼らはすでに全員スペースに結集していて、ぼくが部屋に入ると一枚の色紙を手渡して、読めと言った。それが、次ページに掲載しているものである。(例によってこのホームページでは図版を出してません)
 さらに、模造紙四枚分の似たような寄せ書きが用意してあった。ぼくの気持ちも知らずに、こんなくだらないことを書き散らす彼らに猛烈に腹が立ったが、感情のたかぶりをおさえて、
 「じゃあ、ここに書いてあることを、ひとつひとつ論破してやろうか?」
 と言った。とたんに大声で何かわめく者、泣き出す者、罵声を浴びせる者……。
 ぼくは、彼らがなぜこの色紙に書いてあるようなことを感じてしまうのかということが理解できるが、彼らにはぼくの考えが理解できない。論破しても、「理屈を言うな」的な、反論とも言えない反論が返ってくる。
 三時間ほどの「外山糾弾集会」の間に、激昂したバロンが二度ほどぼくに殴りかかるなど、まったくスペースは「阿鼻叫喚の巷」といった感じだった。バロンは、「(もうここには)来ない!」と大声で叫んだ後、スペースを出て行った。
 混乱状況は、この騒ぎの後も続いており、反外山派VS「逃げ場」解体派の感情的対立(正確には、感情的になっているのは、「居場所」を必死こいて奪われまいとする彼らだけだが)の構図は変わらない。そして、常連現役生のほとんどが「居場所」を死守しようとする側に回っている。

 ――こういったスペースの状況の中で、ぼくは決断を迫られた。
 「万人に開放する」というスペースの方針に従って彼らのあり方を許すのか、その方針を信じてここに来ている彼らを裏切るのか?
 「許す」と「裏切る」では、「許す」ほうが百倍いいに違いない。
 しかし、よくよく考えてみれば、彼らを「許す」ことによって他地区の仲間を「裏切る」ことになる、というジレンマに気付いた。
 スペースは他地区の仲間のカンパによって支えられているところがかなり大きい(スペースの常連現役生は、「まったく」ではないが、ほとんどカンパしない)。他地区の仲間は、他人の「逃げ場」を作ってやるために金を出しているのではない。他地区の仲間は、おそらく「学校変革の拠点」としてのスペースにカンパをしているはずだ。ということは、彼らの現状を受け入れて「許す」ということは、同時に他地区の仲間を「裏切る」ということだ。
 彼らと他地区の仲間と、どちらを裏切るのかという決断。いや、正確には、ぼくは今まで彼らの状況を甘んじて受け入れ、許してきたわけだから、このまま他地区の仲間を裏切り続けるのかどうかという決断だ。
 ぼくは、「万人に開放する」と同時に「学校変革の拠点とする」というスペースのありようの限界を感じた。他に道はないのか、という向きもあろう。
 しかし、彼らは民主主義の最低限のルールというものを理解していない。すなわち、問題は話しあいによって解決していくものだということを。
 彼らととことん話しあうか?
 彼らは非民主的な学校教育の中で育ったため、討論の経験が浅く、そのルールを理解できていない。理論的に打ち負かされると、すぐ卑屈になる。だからすぐ、「理屈で人をおさえ込むな」「口論で勝つのが正論じゃないんだぜ」などと模造紙に書いたりする。彼らの言うことと、論理的に崩壊した管理派教師の言うことと、どこが違うのか納得のいく説明のできる人があれば行って祝福の熱いちっすをしてあげたい。
 物事は話しあいで解決する。自分の理屈が相手の理屈に丸め込まれたら、とりあえず引く(かならずしも考えを「変える」必要はない。「保留する」ということ)。これは、民主主義の最低限のルールだ。これがわかってないから、バロンのように言葉に詰まると相手を殴ったり、女の子が泣くとそれに同調したりする。
 このルールを理解しているものがもっと多ければ、これを彼らに説明してやることも可能だ
 が、圧倒的に少数派であるぼくにはもうそんな余力はない。説明しようとすれば、また「外山さんはすぐ自分の考えを人に押し付けようとする」などと言うに決まっている。
 ぼくは、彼らに「逃げ場」を与えたいわけではなく「学校変革」をしたいのだから、他地区の仲間ではなく彼らを裏切ることにする。
 東京の<学校解放新聞社>(青生舎)や名古屋の<オイこら!学校倶楽部>のフリースペースも、数年続けているうちにこのような状況が生まれ、結局つぶれてしまった。DPクラブのフリースペースが八か月で破綻したということは、東京や名古屋より数年分早めにこのことに気付いた外山氏がそれだけかしこいということなので、他地区の仲間やスベース常連現役生少数派も、福岡の仲間がいくらか減るくらいはあまり気にしないで、安心して(「安心する」のはいけないんだが)DPクラブにかかわり続ければよろしい。

 スペースに来ることで安心したい奴は来なくていい。君たちを受け入れることはできない。
 常連現役生諸君。君たちはもう一度、現実を見てくるがいい。君たちにはもともと「学校」と「家」しか居場所はないのだ。そして同時にそのどちらも君たちの真の居場所にはなりえないだろう。君たちは、現実の中で苦しんで、追いつめられるかもしれない。
 追いつめられて、何か行動しないではいられなくなったら、またDPクラブに戻ってくればいい。そうでなければ来るな。来なくていい。
 君たちは現実から遠ざかりすぎた。君たちやぼくに責任があるわけではなく、これは今までのスペースのありようから、当然帰結するところだったのだ。
 君たちが自分を取り戻すためには、この甘ったるい蜜のような居場所から、とりあえず勇気を振りしぼって出ていかなくてはならない。
 もちろん、自分はここで安心したいわけじゃないんだ、何かを始めるんだ、と思う者は残ればいい。このスペースは君たちのものだ。
 そうでない者は、とりあえずここから去れ。そのまま「現実」に妥協してしまう奴は、そうなってしまえばいい。君たちには初めからここは必要なかったのだ。 とりあえず現実の中にしばらく身を置いてみて、やっぱり現実に妥協できないという正常な感性を待った者は、よく一人で考えてから、次に来る時には今とは違ったかかわり方をすればいい。
 DPクラブの最初の大きな試みは、失敗に終わった。これをムダにせず、貴重な教訓として肝に銘じたい。これからDPクラブの新しい模索が始まる。
 君たちの「安心できる居場所」はもう存在しない。