外山のファシズム転向直後のいわば“初期論文”であり、文中登場する首相は小泉純一郎、米大統領はブッシュ・ジュニアだったりするが、現在が引き続き、95年のオウム事件あるいは01年の米同時多発テロに根本的に規定された“世界内戦”の時代である以上、時に例えば菅直人政権やオバマ政権などの一見“リベラル”な政権が成立することがあろうとも、状況は根本的にまったく変わらない。

ファシズムの原理

2006年執筆


 

 資本主義は、伝統的な共同体を破壊し、諸個人をバラバラにする。
 バラバラの諸個人を、バラバラのまま組織するのが、民主主義という政治制度である。
 諸個人がバラバラにされる状況に対応して台頭してくる民主主義もまた、それ自体、諸個人をさらにバラバラにしていく力となる。
 ゆえに資本主義の発展と民主主義の発展はパラレルに、あるいは弁証法的に進行する。
 資本主義にとっても、民主主義にとっても、諸個人はバラバラである方が、システムがより完全に機能するので、望ましい。
 資本主義も民主主義も、全体と諸個人の中間にあるあらゆる共同体を破壊してゆく。家族共同体や地域共同体はもちろん、宗教的共同体、政治的共同体、すべてを破壊してゆく。最終的には国家さえ破壊する。究極の民主主義体制下には、政党も存在しない。世界資本主義は、世界直接民主主義を指向し、実現する。

 人間は、本能の壊れた動物である。
 動物は、個体が欲求のままに行動することが、そのままその個体や種の存続・保存を結果するように作られている。
 人間は、個体が欲求のままに行動することが、その個体や種の利益にならなかったり、むしろ有害な結果をもたらす場合さえあるから、行動に観念的な意味や目的を与えることで、その欠陥を補うしかない。
 諸個人の生に、観念的な意味や目的を供給するのが、共同体の役割である。
 共同体の成員は、物語を共有する。物語は、その共同体を構成する、社会的位置や世代的位置を異にする諸個人を互いに関係づける。
 諸個人は共同体の成員であることによって、その生に、空間的(社会的)あるいは時間的(歴史的)な意味や目的を見いだしたり、充てがわれたりする。また、本能のままに生きて観念を持たない動物の生に意味や目的は存在しないが、本能が壊れ観念を持たざるを得ない人間の生は意味や目的を必要とするから、共同体の中でそれを得て初めて安定する。

 したがって、資本主義と民主主義によって共同体が破壊されると、諸個人は、その生から意味や目的を奪われる。
 個人とは、そもそもは近代的自我を有し、近代的自我は意味や目的で充填されている。前近代の末期に登場し、近代を、つまり資本主義と民主主義の発展を推進する歯車となった近代的な個人は、結局は資本主義と民主主義の発展のためにやがて消滅する。したがって、バラバラにされ生の意味や目的を奪われた諸個人は、個人というよりも個体である。東浩紀による「動物化するポストモダン」というキャッチコピーは、正しい。
 諸個人をつなぐ意味や目的の連関が失われると、さまざまの出来事の間の意味的な連関も失われるから、つまり因果関係の総体である歴史が失われる。フランシス・フクヤマによる「歴史の終焉」というキャッチコピーも、正しい。
 生に意味や目的を持たず、欲求のままに刹那的に行動する個体は、人間というよりも生物学的なヒトであり、またその集合は人間の共同体ではなくヒトの群れである。それはまた、ニーチェの云う「畜群」のイメージとぴったり重なる。
 しかし、人間の生の「動物化」がいくら進行しても、そもそも人間が本能の壊れた欠陥動物であるという前提条件は変わらない。
 意味や目的のない生に、ほとんどの人間は耐え難い。大多数の個体が精神的ストレスを抱え、うちかなりの個体が精神病となり、また少数ではあるが無視できない割合の個体が、ストレスを爆発させて他の個体に危害を及ぼす危険きわまりない存在となる。そのような少数の危険な個体の顕在化は、大多数に対してさらなる精神的ストレスをもたらす。
 マルクスは、資本主義はその爛熟の果てに、自らの存立をもはや不可能とするような、内的な危機を自ら作り出すと云ったが、この予言は、的中した。
 プロレタリアートとは、資本主義と民主主義の弁証法的な発展によって登場する、動物化したヒトの群れである。
 しかし、プロレタリアートは団結することができない。団結には、意味や目的の共有、つまり物語の共有が不可欠であるが、動物化したヒトであるプロレタリアートの生からは、すでに意味や目的が、物語が失われているからである。プロレタリアートは、群れることはできるが、団結することはできない。
 プロレタリアートの意思決定は、群れを群れのままで統合する政治制度である民主主義、つまり常に多数決によってしかおこなわれない。
 プロレタリアートの多数決は、この危機に対して、ハイテクを駆使した監視と摘発のシステムを要求する。
 他の個体に危害を及ぼす危険な個体を早期に発見し自動的に駆除するこのシステムは、その意味や目的が自覚された社会的制度というよりも、動物化したヒトの群れを包み込む自然環境のようなものとして機能する。
 原始共産制社会でまだ半ば動物として暮らしていた人間は、やがて共同体を形成して動物状態を脱却し、試行錯誤を繰り返す中から資本主義と民主主義とを生み出し、ふたたび動物と化して、資本主義と民主主義の副産物である高度なテクノロジーをその欠陥の補完物として利用する人類史の終着点、すなわち未来共産制社会で、永遠の快楽と平和と安全とを、精神病を伴いながら享受する。
 歴史は現在、猛スピードでこの最終コーナーを回っている。

 全世界を資本主義と民主主義の原理で覆わんとして進められているブッシュの戦争は、したがって本人の自覚の有無はともかく、共産主義革命戦争である。
 ちなみにアメリカの戦争は歴史上、常に革命戦争であった。アメリカはいつも、その時々の戦争の相手を道徳的な悪であると規定してきたが、これはつまり革命戦争の論理である。今回の戦争も、そうである。
 ブッシュを支持する勢力は資本主義の原理に重点を置き、ブッシュを批判する勢力は民主主義の原理に重点を置いてはいるが、両者は互いに補完しあう形になっている。そもそも資本主義と民主主義とは、互いに互いを必要とし、弁証法的に発展しながら統合されてゆくのである。近年のグローバリズムの運動と、反グローバリズムの運動とも、このような関係になっている。反ブッシュの陣営が論旨を歪曲してよく援用するハート&ネグリの『帝国』においても、<帝国>と<マルチチュード>として表象される両者のこうした関係が分析されている。その弁証法的発展の終着点には、動物化したポストモダン、すなわち未来共産制社会がある。
 現代の資本主義は、全人類を個体単位で監視するために必要な、高度なテクノロジーを有している。また現代の民主主義は、PC(Political Correctness)を普遍的正義として有している。来たるべき共産主義社会は、この両者が弁証法的に統合されたものとなる。
 左翼的正義と国家権力とが結合したものをスターリニズムと呼ぶ。来たるべき共産主義社会は、ゆえにもちろん、スターリニズムの世界国家である。

 したがってこの新体制に抵抗する原理は、左翼が『帝国』を誤読して称揚する<マルチチュード>などではあり得ない。
 近代以降、資本主義の論理を代弁してきた国家権力と、民主主義の論理を代弁してきた左翼運動とを、同時に敵として闘い、勝利した実績を持つのは唯一ファシズムのみである。最終的には大戦で敗北して世界史の舞台から退場させられたとはいえ、それはイタリアとドイツで、比較的長期にわたる安定した政権を維持し、外交政策にさえ失敗しなければ大戦を引き起こすこともなく、さらに持続した可能性も高い。少なくとも旧東側の自称「共産主義」体制とは違って、ファシズムは単に戦争に負けただけで、内部から崩壊したわけではない。ファシズムの命脈は、尽きていない。
 古くから、民主主義と自由主義の本質的な対立を指摘する論者は多かった。
 典型的な市民革命であるフランス革命のスローガンは、<自由・平等・団結>である。このうち自由の原理が近代的に理念化された自由主義となり、平等の原理が民主主義となり、団結の原理が国民主義となる。
 しかしつきつめて考えると、この三つの理念のうち、自由と団結との相性はいいし、平等と団結との相性もいいが、自由と平等とは実は相性が悪い。
 自由主義と民主主義とは、そもそもまったく問題意識を異にする思想である。
 自由主義とは、国家権力の縮小を求める思想である。自由主義者にとって重要なのは、国家権力が諸個人の行動をできるかぎり制約しないということであって、極端な話、国家権力の意志決定が国王一人の手に委ねられていたとしても、その権力の及ぶ範囲がかぎりなく小さければ、自由主義者としてはまったくそれで構わないのである。
 民主主義とは、国家権力の意志決定に、できるだけ多数の人間が関与することを求める思想である。国王だけでなく一部有力者も、一部有力者だけでなく成人男性全員を、男性だけでなく女性も、意志決定に参加させろというのが民主主義者の基本的な要求である。これまた極端な話、「みんなで(多数決で)決めた」結果であれば、諸個人の自由をまったく認めない体制になっても、民主主義者としてはまったくそれで構わないのである。
 旧西側諸国が掲げていた「自由民主主義」なるものは、旧東側のヘンテコな自称「共産主義」体制に、自由主義者と民主主義者とが協力して対抗するためにひねり出した妥協の産物であって、本来そんな主義はない。共通の敵が倒れてしまえば、ふたたび両者の本質的な両立不能性が顕在化してくる。
 民主主義にはそもそも、国家権力の拡大を結果しやすい傾きがある。全員参加の国家権力なのだから、必然的に国家機構自体は巨大で複雑なものとなる。また、いわゆる「自由からの逃走」といった問題もある。圧倒的多数の大衆は、そもそもあまり真剣に自由を欲しない。国家権力からの自由よりも、国家権力による保護を求めたがる傾向がある。程度の問題にもよるが、自由主義者は少々の安全上のリスクを負うことになるとしても、自由を手放したくないと考える。しかし圧倒的多数の大衆は、少々の安全のために、平気で自由を売り渡す。
 「自由民主主義」は政治制度としては民主主義的多数決の原理を採用し、啓蒙的なスローガンとして自由の尊さを喧伝することでバランスをとるしくみだが、その内実は民主主義がメインで自由主義は飾りのようなものとなる。アメリカは従来、民主主義よりも自由主義に重きを置いた珍しい国家だったが、最近は怪しい。銃規制や、音楽や映画などにおける過激な性描写や暴力描写の規制、これらと密接に関わるPCの猛威などを思えば、アメリカもすでに民主主義メインの普通の「自由民主主義」体制に変質してしまった感がある。
 民主主義の多数決原理を採用している限り、自由主義的な主張は次第に圧殺されてゆく。大衆の圧倒的多数は、自由よりも安全を選択する。武装する権利を国家機関の独占とはさせないという自由主義者の主張は、銃器犯罪に脅える多数派のマス・ヒステリーにやがて押される。国家権力が最も強権的に発動される対象となるがゆえに犯罪者(容疑者・被告人・受刑者)の権利を重視する自由主義者の主張も、犯罪への厳罰化を求める多数派のマス・ヒステリーに太刀打ちできない。犯罪を抑止するための監視システムの導入も、民主主義の多数決原理に基づいて、次々に実現される。
 また、平等を根本原理とする民主主義の思想は、女性や障害者やマイノリティの権利拡大を求める。それにとどまらず、差別を是正するためとして、国家権力による積極的な保護をも求める。我が国における男女共同参画社会推進の政策と、DVやストーカーなど主として女性が「被害者」となる場合が多い犯罪への厳罰化を推進する政策は、完全に同質のものである。民主主義下においては、国家権力の保護を必要とする「社会的弱者」が次々と名乗りをあげる。非喫煙者を保護するための、健康増進法や路上禁煙条例もこのようにして成立する。自由主義者は、圧倒的少数派として、せいぜい仲間内で愚痴でもこぼしあう他ない。不運にもDVやストーカーの加害者として刑事告発された場合に、法廷で自由主義者として原則的な刑事政策批判などしようものなら、いよいよ悪質な犯罪者であると判断され重刑に処せられるヤブヘビの結果を招く。
 現在、自由主義者の多くは、絶望している。
 彼らが、ファシズムを知らないからである。

 ファシズムは、民主主義勢力と国家権力とが強力に結びつき、いよいよ自由が死の瀬戸際にまで追い詰められた時に、劇的な逆転を企図する自由主義者のアクロバットであり、怒りの爆発である。
 ファシストは、自由の価値を知らぬ大衆を嫌悪する。
 大衆が自由を売り渡すなら、勝手にすればよい。
 だが我々自由主義者の自由は絶対に奪わせない。
 そのためには、自由主義者自身が国家権力を手中にする他はない。
 ファシスト党は、追い詰められた自由主義者の党である。
 ファシスト政権下では、自由主義者たるファシスト党員の自由だけが最大限に保障される。ファシスト党員だけは、定められた手続きによらずに身柄を拘束されたり、処罰されたりすることはない。
 自由主義者から自由を奪う結果を必ず招来する民主主義復活の策動は徹底的に弾圧される。自由がすべての者に平等に保障されなければならないというのは自由主義ではなく民主主義であり、まして自由の敵である民主主義者にまで自由を保障してやる必要はない。民主主義者は、自由主義者つまりファシスト党員によって、「自由に」処罰される。
 民主主義を要求しない無害な一般大衆には、「パンと見世物」とを適度に供給することで、ファシスト政権への不満を感じない程度に馴致すればよい。一般大衆の自由はほどほどに、つまりファシスト党の支配を脅かさない程度に保障される。

(未完成原稿)