学生運動入門

2013年6月 ブログ「我々少数派」にて公開




   1.

 どうすれば社会を変えられるのでしょうか?
 いろんなことを云う人がいるでしょうが、答えはハッキリしています。
 まずは学生運動が復活しないことには何も始まらないのです。
 学生運動の復活、ということを抜きに社会変革の構想を語る人がいたとすれば(実際、私とあとは文芸批評家のスガ秀実氏を除いては、そんな人たちばかりなのですが)、その人は何も分かっていないので、マジメに取り合う必要もありません。

 「学生運動」という言葉は、多少は広い意味にとっていただいて結構です。
 その主体は、若くて、ヒマがあって、かつ一定以上の知性を持つ人たちです。「若い知的なヒマ人たち」、こういう層が社会変革の情熱に燃えて盛んに行動した時にのみ、社会は本当に変わります。
 若くてヒマで知的であれば、べつに「学生」でなくてもいいわけですが、現実問題、それは「層」としては「学生」以外に存在しにくいことは云うまでもありません。歴史的には、例えば日本で云えば「幕末の志士」たちもそういう「若くてヒマで知的」な存在でしたが、現代においてはやはり「学生」ということになるでしょう。
 諸外国でも同様です。近代以前には貴族(日本の武士階級に当たります)のうちの若い不満分子たちが、近代に入ってからは学生が社会変革の主役、少なくとも先駆けになってきたことは、万国共通です。
 六〇年代末(象徴的には六八年)に世界中の学生たちが反乱を起こしました。西側(先進資本主義国)でも東側(共産圏)でも南側(発展途上国)でも、それは爆発的に盛り上がりました。それらは一過性のもので結局は何も変わらなかったかのように、大多数のモノの分かってない人たちは云いますが、ダマされてはいけません。六八年の学生運動は世界を変えました。それは、いわゆる「試合に負けて勝負に勝った」ような勝ち方だったので、試合結果しか目に入らない単純な人たちが負けた負けたと云っているだけです。このことは日本でも同じです。
 六〇年代末の学生運動が実は勝利していた(ちなみにこのことをはっきりと指摘しているのも私とスガ秀実氏だけです)というのはどういう意味なのか、それはどうせ後で詳しくお話しすることになるでしょうから、ここではとりあえず措いておきます。

 とにかく、学生運動(若くて知的なヒマな人たちの運動)がまずは復活しないことには、社会変革はその端緒すら拓かれません。
 これを抜きに夢みたいなことを云う人たちというのは、学生運動なんか復活するわけがないと思い込んでいて、であれば社会変革など不可能なのに、そこをなんとか学生運動が復活する以外の道筋で社会変革の構想を描けないものかと、そもそも無理なことを無理矢理に追求しているだけです。そうでないケースはありません。みんな、もっともらしいことを云っているでしょうが、前提が間違っているのですから、展開も結論も必ず間違いです。
 学生運動の復活なしに社会変革など始まらないという単純明快な真実を堂々と主張する人が私(とスガ氏)以外にほとんどいないことには、もちろん理由があります。
 第一には、学生運動がほぼ壊滅しているという日本の現状があります。こんな事態は、北朝鮮などの特殊すぎる例外を除いて諸外国では見られないものだし、近代日本においても初めてのことです(暗黒時代のように云われている昭和十年代の日本においてさえ、若い知的な軍人たちによる革命運動などがそれなりの規模で存在したのです)。そんな現状を見て、ほとんどの人が日本にはもう学生運動が復活するようなことはないと諦めきっているのです。
 第二に、その極めて珍しい「学生運動のほぼ完全な消滅」という事態が日本に生じた時期に関する誤解が、社会学や現代史の研究者のような人たちまで含めて、広く共有されてしまっています。日本の学生運動がほぼ消滅したのは実は九〇年代の初頭なのですが、ほとんどの人が、それが七〇年代のうちに消滅したかに誤解しているのです(「七二年の連合赤軍事件を境に学生運動は急速に衰退し」という決まり文句を読んだり聞いたりした人も多いでしょう)。日本に学生運動がほとんど存在しないのは本当はここ二十年ほどのことにすぎないと私は知っていますが、私以外のほとんどの人は、それはもう三十年も四十年もずっとそうなのだと思い込んでいるのです。
 さらに云えば、学生運動がほぼ壊滅した九〇年代以降も、必ずしも学生とは限らない「若い知的なヒマ人たち」が社会変革を目指す運動は、実はそれなりの規模で、現在に至るまで途切れることなくずっと継続されています。そのことを知らない人(要するに私以外のほとんどの人)は、例えば3・11以降、首都圏の反原発運動の中心の一つとなっている「素人の乱」を3・11以降に初めて知って、「どこからこんなスゴイ若者たちが出てきたのだ」と驚きますが、私は本当の歴史を知っているので少しも驚きません(したがって「素人の乱」に驚いて今さら飛びついているような無知蒙昧な「知識人」たちを信用しないことです)。
 まとめると、私は、狭義の「学生運動」が九〇年代に入るあたりまでずっと続いていたことを知っているし、「広義の学生運動」つまり必ずしも学生ではないが「知的でヒマな若者たち」による社会変革の運動がその後もずっと続いていることを知っているので、学生運動が本格的に復活することを当然ありうることとして自然に想定できますが、私以外のほとんどの人たちは、学生運動はもうここ三、四十年ナカッタと思い込んでいるので、ナイことを前提にものを考える癖がついてしまっており、結果として歴史認識も現状分析も将来の見通しもすべて誤るのです。
 私以外に正しいことを云う人がほとんどいないというのは、考えようによっては、みなさんは私の云うことだけをとりあえず聞いていればいいのでラクです(何度も云うようにスガ秀実氏も正しいことを云っていますが、スガ氏の文章はほとんどの人にとっておそらく難解すぎます)。

 さて、学生運動と云ってもピンとこない、という人がおそらく学生を含む若い世代の大多数を占めていることと思います。狭義の学生運動は存在せず、広義の学生運動は「学生運動」とは認識されない形で存在してきたこの二十年ほどの間に、自己形成したどころか生まれてきたぐらいの世代なのですから仕方がありません。
 しかしそんなに難しく考える必要はないのです。学生運動とは、同語反復のようになりますが、「学生がやる運動」という意味でしかありません。
 もちろん身の回りの状況に対する不平不満が前提になります。その不平不満は、いわゆる「天下国家」的な、原発がどうの戦争がどうのTPPがどうの支那朝鮮の脅威がどうのグローバル資本主義がどうの、ということでもいいし、逆に「半径数メートル」的な、就職不安だとかモテないとか大学生活が面白くないとか、あるいは抽象的で実存的な悩みとかでもいいのです。とにかく自分を取り囲む状況に不平不満や焦りや苛立ちや不安があることが前提ですが、大事なのはその先で、それら諸々に「運動」的に取り組むのが要するに学生運動です。運動的に、というのは、自分一人の個人的な問題意識として抱えるのではなくて、その問題意識を他人と共有して、協力して解決していく、少なくともそうすることを目指すということです。
 他人と問題意識を共有するためには、当初は誰でも漠然としたものとして抱えているはずの不平不満や焦りや苛立ちや不安を、言葉にしなくてはなりません。それも感情的・感覚的な言葉ではなく、要するに「理屈」として提示しなくてはなりません。感情的・感覚的な言葉はセンスの合う人としか共有できませんが、理論的な言葉はセンスの違いを超えて流通しうるからです。運動というのは、できるかぎり大勢の人間(大多数あるいは過半数という意味ではありません)を巻き込んでいかなくては盛り上がらないのだから、問題意識を理論化することは絶対に必要なのです。
 運動の担い手が、単に若くてヒマなだけではなく、プラス知的でなければならないのも、運動には理屈が必要だからです。
 といっても、これまたそう難しいことではありません。とくに学生にとっては。
 というのも、小中高の「勉強」の延長で、何ら自発的な必要性も持ち合わせずに、大学で教えられることをただ漫然と丸暗記的に「勉強」しているだけでは気づかないことですが、とくに人文系の諸学問は、実はかなりの部分が社会変革のための理論、時には革命理論でさえあります。学生は、大学に通ってたまに授業に出るだけで、自動的にそれら社会変革の理論、革命理論の少なくとも片鱗に触れることができるのですから、それらを流用すれば、普通の学生が思い抱く程度のありふれた問題意識は(もちろん世界中の優秀な頭脳の持ち主たちが競っていろんな学問をやっているのですから、かなり特殊な問題意識であってさえ)簡単に「革命理論」化することが可能です。
 実は、九〇年代以降の「学生ではない若者たち」による社会変革運動の不断の歴史を熟知している私が、しかしやはり「学生運動」が必要だと考える理由もこのあたりにあります。学問に身近に接していない若者たちの運動には知的な側面で限界があって、数としては時に盛り上がっても、質的にどうしようもないのです。
 やはり運動は、学生が中心的に担わなくてはなりません。

 学生運動が存在しない現在でも、社会的な問題意識を持っている学生は個別には存在しますし、私自身、そういう学生にたびたび出会います。こんなものを読んでいるあなたがもしも学生なら、あなたもきっとそういう学生でしょう。
 が、彼らが共通して口にするセリフがあります。「自分はいろいろ問題意識を持っているつもりだけど、今の学生の大半はそんなことに興味がありません。みんな、遊ぶことや、あるいは就職のことしか考えていません。何か呼びかけたって反応しませんよ」といった内容です。
 思い上がってはいけません。あなたはそんなに特別な、優秀な、非凡な学生なんですか。たまに私のように本当にスペシャルな人もいるかもしれませんが、みなさんのうち九九・九パーセントは違います。あなた程度の不平不満を世の中に抱いている学生は、少なくともあなたと同じ大学に通っている、したがってあなたと同じぐらいの学力水準の学生たちの中にはいくらでもいます。
 私は最近、一年間ほどバーテンというか、いわゆる「雇われ店長」的にバーに常駐して接客をしていました。私が常駐していることを積極的にアピールし、政治的な背景をプンプン匂わせているバーだったので、そういうことに興味のある人たちがよく飲みに来ていました。もちろん学生も珍しくはありませんでした。
 そこで何度も体験したのですが、ある大学の学生がやって来て、前記のような思い上がったことを云います。「そんなことはないはずだよ」と私は諭します。しばらくして同じ大学に通う別の学生がやって来て、まったく同じような思い上がったことを云います。つまり私に云わせれば「おまえら知り合ってないだけだ」という話なのです。そういうことが本当に何度も、つまり複数の大学に関してありました。
 どうしてそんなことになってしまうかと云えば、まさに学生運動が存在しないためなのです。運動が存在しなければ、かなり似通った問題意識を抱えている学生同士が、日々同じ大学に通っていながら、出会うキッカケがないのです。
 これはつまり、問題意識を持っている学生はかなり存在するけれども、それを周囲にアピールして仲間を集めようとする学生がほとんど皆無であるということです。「この指とまれ」と云い出す「一人目の学生」が存在しないために、誰か別の学生が云い出してくれるのならそこに参集する気ぐらいはないでもないらしい、多くの今ひとつフンギリがつかずにクスブった学生たちが、永遠に孤独の淵に追いやられるままになっているのです。
 私の感触としては、大学生活になじめず、「毎日どうも面白くない。いっそ学生運動でもあれば参加するのに。ああ、おれも六〇年代に学生やりたかったなあ」などと考えている(じゃあ率先してやりゃいいのに)情けない学生は、どこの大学にも少なくとも百人に一人はいます。どこの大学にもというのは、東大にも、「国際環境こども福祉ナントカ大学」みたいな大学にも、ということです。たぶん八〇年代末あたりから、小中高の教育システムが崩壊しているために、優秀な若者が必ずしもいわゆる一流大学に自動的に集まってくるようなことになっておらず、それでも東大生や京大生が比較的優秀であるのは当然としても、いわゆるFラン大学の学生だからといって必ずしも平均的な東大生や京大生より優秀でないとも云えない状況になっている感触もあります。つまりどこのどんな大学にも、それなりの問題意識を持っている学生が、大差ない割合で一定います。
 一定というのは、繰り返しますが百人に一人とか、です。
 少ないと思いますか? 百人に一人じゃ、仮にその全部が立ち上がったとしても、たいした勢力にはならない?
 もちろんそんなことはありません。六〇年代末に学生運動がとんでもなく盛り上がったという話はイマドキの若者でも小耳に挟んだことぐらいはあるはずですが、では当時どれくらいの学生がそれに参加していたかといえば、十人に一人ぐらいです。「全共闘」を中心とする過激な運動ではなく、共産党などの穏健なヘナチョコ学生運動に参加していた学生まで含めれば五人に一人ぐらいになるかもしれませんが、それでも当時は大学進学率そのものが今よりずっと低いので、今の感覚で云えばやはり学生の十人に一人ぐらいが何らかの学生運動に参加しているような感じでしょう。十人に一人と百人に一人とではだいぶ違う気もするかもしれませんが、六〇年代末というのはあくまでも特別な高揚期、一部の学者が「世界革命」と呼ぶぐらいの史上稀な高揚期なのです。学生の十人に一人が立ち上がれば「世界革命」なんですから、「平時」には百人に一人ぐらいで上出来です。
 逆に、百人に一人なんてありえない、多すぎる、私の希望的観測、妄想だと感じる人もいるんじゃないですか? しかしそんなこともないはずです。百人に一人というのは、平均的な中学・高校で考えれば、二、三クラスに一人ということですよ。大学進学率を考慮に入れれば、五、六クラスに一人かもしれません。いくらなんでもそれぐらいは、マジメに社会や人生の問題を考えている人はいるでしょう。妄想どころか、私はむしろ低く見積もっているつもりです。
 学生の百人に一人が学生運動に参加しているという状況は、まったく考えられないものではありません。それは、とくに盛り上がっているわけでも、とくに盛り下がっているわけでもないぐらいの、本来ありうべき、フツーの状態です。
 ところで、あなたの通う大学では、どれぐらいの学生が学生運動に参加していますか? 何千人か学生のいる大学なら、何十人かは、ナニガシカ社会的政治的思想的哲学的形而上学的の話でアツくなって、「運動」的に日々あれこれやっているのが当たり前だと分かったはずです。そんな学生は一人もいない? だとしたらそれはものすごく異常なことなのです。
 異常すぎる現状を鑑みれば、今日明日にも百人に一人の学生が学生運動に参加するということは考えられないとしても、一年後も、まして五年後もそうなっていないとは絶対に云えないのです。だってそうなるのが本来フツーなのですから。


    2.

 さて、ここからどう話を進めていきましょうか。
 話しておきたいことは、おおまかに二つあります。
 過去の話と未来の話です。つまり、かつて存在した学生運動とはどのようなもので、それがどう展開して、最終的になぜ今から約二十年前の九〇年代初頭にほぼ壊滅してしまったのかという話と、現在の学生であるあなたが、このほぼ何もないところから、どうやって学生運動を再建すればいいのか、具体的に何をやればいいのかという話です。
 順序としては、やはり過去の話から始めるほうがいいでしょう。ただ、過去の話は知っておくべきですが、回りくどくもあるので、読者は、過去の話はいったん飛ばして、まず後ろのほうを先に読んでから、ここに戻って来てもかまいません。そこはどちらでもいいのですが、いずれにしても、学生運動を始める、あるいは参加する気があるのなら、過去の経緯については必ず知っておいてください。

 では過去の話を始めます。
 最初に断っておきますが、この本では学生運動史に関するそんなに詳しい話はしません。あくまで最低限の大雑把なものです。
 まず大枠を述べますと、第二次大戦後に限っても、学生運動史というか、それを含む社会変革運動史あるいは革命運動史には大きな節目が三つあります。五六年と六八年と八九年です。この三つの年号は必ず覚えてください。
 第二次大戦後の世界というのは、云うまでもなく「冷戦」の時代です。アメリカとソ連という二つの超大国が世界を二分し、争いながら支配している時代です。冷戦構造というのは強力な秩序で、その時代に根本的に社会を変革するというのは冷戦構造を破壊するということです。冷戦時代のあらゆる本質的な社会変革の運動は、それが本当に本質的なものであるかぎり、どうしたって最終的には冷戦構造の破壊を目指すことになります。
 冷戦構造は四五年に第二次大戦が終わってまもなく成立するわけですが、大雑把に云って、その破壊を目指す運動が本格的に始まるのが五六年、ピークに達するのが六八年、結果が出るのが八九年です。
 ではそもそも冷戦構造はなぜ成立したのか?
 それまで三つ巴で世界の覇権を争っていた三大勢力の一つが第二次大戦で敗退したからです。これまた云うまでもなく、敗退したのはドイツを中心とするファシズム勢力です。
 さらにさかのぼって、三つ巴の争いが始まったのは第一次大戦の後です。一四年に第一次大戦が始まり、一八年にそれが終わって、まもなく三鼎対立の構造がハッキリしてきます。
 もう一段階さかのぼって、その三つ巴の争いは何をめぐる争いだったのでしょうか?
 そもそもは資本主義をどうするのかという問題です。というか、すべてはそこから始まった問題です。つまり最初に、前提、所与の問題としての資本主義の拡大発展があります。
 資本主義がどのように成立し、拡大発展したかについては、フツーに世界史の勉強をしてください。とにかく資本主義という強力なシステムが世界史のある時点で(いつからなのか学者によって諸説あります)成立し、発展を始めました。このシステムに対する根本的な疑問の声が上がり、それが思想や運動として広がっていくのが十九世紀です。資本主義の弊害を除去する、あるいは資本主義というシステムそのものを廃止することを目指すそれらの思想や運動は「社会主義」と総称されます。さまざまな社会主義思想が提唱されましたが、やがてその中でもマルクスの思想が最も理論的な体系性を備えたものとして圧倒的な影響力を獲得するのが十九世紀後半から二〇世紀初頭にかけてのことです。そして一九一七年、ついにそのマルクスの理論に基づく(と称する)革命が勝利します。レーニンが指導した「ロシア革命」です。
 ロシア革命が第一次大戦中の出来事であることは重要です。この時代、いよいよ資本主義システムが行き詰まり、そもそも第一次大戦の勃発こそまさに資本主義の行き詰まりの証左であるようにさえ印象されていたのです。「戦争を内乱に転化せよ」の名台詞でも知られるとおり、レーニンはまさに資本主義の危機=戦争の混乱に乗じて革命を成功させました。
 当然、まだまだ資本主義を続けていきたい他の国々は慌てます。利潤追求にただ明け暮れて、資本主義に必然的に伴うさまざまの弊害を放置していたのでは、やがてそれらの国々でも人々の不満が爆発して社会主義革命が起きてしまうことは目に見えています。資本主義を続けたいなら、自分たちの側も何らかの「正義」を仮構する必要があります。そこで一躍、世界史のもう一方の主役として前面に登場してきたのがアメリカです。弱肉強食の資本主義を単に擁護するのではなく、「自由と民主主義」という普遍的理念のようなものを掲げてそれをいくぶん補正しつつ正当化したのです。ヨーロッパ全域が第一次大戦で疲弊していたこともあり、先進資本主義諸国の覇権は大戦前のイギリスからアメリカに移行します。
 ソ連型の「社会主義」と、アメリカ型の「(修正)資本主義」の、どちらが全人類が最終的に到達すべきユートピアのモデルなのかという競争が、第一次大戦が終わるやいなや開始されたのですが、まもなくその双方を拒絶する「第三の道」が提示されます。云うまでもなく、ファシズムです。今では(第二次大戦後の、戦勝国であるアメリカとソ連の双方による長期にわたるプロパガンダのために)誤解されていますが、ファシズムとはもともと、絶対的な正義、普遍的な理念を拒絶する思想です。ソ連の掲げる正義もアメリカの掲げる正義もマヤカシである、そもそも全人類が共有しうる普遍的な正義などというものはありえない、歴史的経緯を共有していない他民族には通用しない独自の正義や価値観を各民族は保有しており、アメリカやソ連が全人類に押しつけようとするマヤカシの「普遍的正義」を拒否して諸民族の自立を守り抜こうという思想・運動なのです(国家を持たない少数民族などへの配慮が欠けている歴史的限界はもちろんありました)。普通のナショナリズムとは違うのは、「反普遍主義」を云わば「もう一つの普遍主義」として掲げるアクロバットによって、普遍主義の登場を前提にそれに事後的に意識的に対抗して登場してくるところです。既存の素朴な伝統的保守政権では普遍主義の猛威に対抗できないので、当然まずそれを打倒する革命を志向します。
 一次大戦後に米ソ対立が始まろうとしていた矢先、早くも一九二二年にはファシズムの創始者でもあるムソリーニがイタリアで革命を勝利に導き、政権を樹立します。これに倣ってやがてドイツでもヒトラーが革命に成功、ナチス政権が誕生して(一九三三年)、ファシズム陣営ではむしろイタリアよりドイツの方が要の位置を占めることになります。もともと英米寄りだった日本も複雑な経緯の末に独伊側に転じたことはわざわざ説明するまでもありません。ただし、日本ではムソリーニやヒトラーに相当するファシズム革命家(北一輝や石原莞爾や中野正剛など)はすべて敗北し、ファシズム政権は成立しませんでした。日本に成立したのは、既存の保守政権が革命によって打倒されないまま自ら成り行きで独伊の体制を外見だけ模倣した、せいぜいのところ「疑似ファシズム政権」です。
 ともかく、一次大戦の終結後、世界は急速にソ連型社会主義、アメリカ型資本主義、そしてファシズムの、三つ巴の闘争の場として再編成されていったのです。
 これまたわざわざ云うまでもなく、やがて第二次大戦が勃発し、米ソ連合軍によって(「疑似」の日本を含めた)ファシズム陣営は完膚なきまでに叩きのめされ、世界史の表舞台から退場させられて、米ソ冷戦という戦後体制が成立したことはみなさんも(たぶん?)ご存じのとおり。本来ならまた数年なり十数年なりの準備期間を経て、米ソいずれが真に「普遍的正義」の体制なのか決着をつける「第三次世界大戦」が勃発するはずだったのでしょうが、本番が始まる前に両陣営が共に核武装を実現してしまったがゆえに、互いに手出しのできない「冷戦」が延々と続くことになりました。
 が、ここのところはとても重要なので是非みなさんにも共有してほしい歴史認識なのですが、実は「冷戦」というのはまぎれもなく「第三次大戦」そのものだったのです。派手なドンパチだけが戦争ではありません。対峙して睨み合いながら、たまに局地的に火の手を上げながらも正面衝突はせず、さまざまの工作を仕掛けて敵が疲弊し降参するのを辛抱強く待つという戦争もあります。第三次世界大戦は、「冷戦」という長期にわたる持久戦・消耗戦として現実に戦われたのだと考えるべきです。「平和な戦後世界」などというものは幻にすぎず、世界中のあらゆる国が(もちろん日本も)「冷戦」という第三次大戦に巻き込まれていた事実をよく自覚しないと、本当の歴史は見えてきません。少なくとも「冷戦」期を知っている人たちは「戦争を知らない世代」などではあり得ません。

 さて、そうすると学生運動を含む「戦後」の革命運動、社会変革の運動は、実は「戦時下の運動」だったことになります。
 世界中が米ソ二大陣営に分かれて争う「冷戦」の世界では、当然、西側の反体制運動は東側に与するものとして位置づけられます。過酷な戦時下なのですから、そうである以外にはあり得ないのです。日本の学生運動ももちろん例外たり得ません。戦後の学生運動は日本共産党の指導下に始まります。戦後の学生運動を指導したのは日本共産党の学生党員であり、学生党員は日本共産党に指導され、日本共産党はソ連に(実質的に)指導されていました。これはまぎれもない事実です。
 ところが、ここで先に「必ず覚えておくべき重要な年号三つ」の最初の一つである「一九五六年」がやってきます。
 この年に起きたのは、世界史の教科書にも太字で載っている「スターリン批判」です。ロシア革命を指導したレーニンは、政権樹立後わずか五年ほどで死去し、その後はスターリンがその後継者として革命国家ソ連を指導していました。スターリンは徹底的なプロパガンダによって、ソ連が全人類の祖国とも云うべきユートピアであり、また自身がその比類なき偉大な指導者であると、全世界の「心ある(?)」人々に信じ込ませることに成功していました。学生運動に参加していた戦後日本の学生たちもこれを心底から信じきっていたのです。その偉大な指導者スターリンが一九五三年に死去し、フルシチョフがその地位を継ぎましたが、あろうことかフルシチョフは、実際にはスターリンはとんでもない残虐非道な独裁者にすぎなかったと暴露してしまったのです(正確には、ソ連共産党の秘密大会で暴露がおこなわれたことをアメリカが察知して公開し、全世界がその内容を知ることになりました)。これが一九五六年の「スターリン批判」という歴史的大事件です。
 世界中の共産主義者が大混乱に陥ったことは云うまでもありません。日本の左翼学生も同様です。そしていわゆる「新左翼運動」が誕生することになるわけです。
 新左翼とは簡単に云えば、ソ連を否定する左翼です。ソ連と一心同体(というか、手先)である自国の共産党も否定します。日本で云えば、日本共産党を否定し、これと袂を分つ新しい左翼運動が、とくに若く血気盛んな学生たちによって急速に形成され始めるのです。具体的には、「革命的共産主義者同盟」(通称・革共同)と、(「革命的」のつかない)「共産主義者同盟」(通称・ブント)という二つの組織が、日本共産党に代わる新たな「前衛党」として五〇年代末に相次いで結成されます。いずれもメンバーのほとんどは当時の学生です。
 ここで「前衛党」という言葉を説明しておく必要があるでしょう。
 マルクス・レーニン主義では、革命にはそれを指導する「前衛党」の存在が必要不可欠とされます。先に述べたとおり、マルクス・レーニン主義は(少なくとも主観的には)「普遍的正義」つまり「真理」ですから、「前衛党」は一つしか存在しえません。正義がいくつもあるのならそれは「普遍的」とは云えませんから、「普遍的正義」に立脚する「前衛党」も、複数存在しうることは論理的にあり得ないのです。「前衛党」とはそういう存在です。
 世界的にも「一九五六年」は新左翼誕生の年ですが、ほとんどの国では文字通り単に「誕生」の年であって、それがすぐさま社会的影響力を持つわけではありません。しかし日本では、新左翼は誕生するやいきなり大きな闘争の主役として一躍注目を浴び、社会的にも重要な存在となります。大きな闘争とは「六〇年安保闘争」であり、闘争の主役として注目を浴びたのは先に挙げた二つの「新左翼」組織のうち後者の「共産主義者同盟(ブント)」です。議会政治の駆け引きの材料として安保闘争を利用することしか考えなかった日本共産党とは違って、血気盛んな若者の組織であるブントは、後先を考えてないとしか思えない過激な玉砕戦術で国会突入などのド派手なパフォーマンスを繰り返し、当然自滅したのですが、少なくともカッコ良かったので、一躍「時代のヒーロー」となったのです。
 ブントが大活躍したこの六〇年安保闘争の総括として、「前衛党神話の崩壊」ということが云われました。日本共産党が唯一無二の革命の前衛党であるという「神話」を崩壊させる出来事だったという意味です。ここで勘違いをしてはいけません。この時点で崩壊したのは「革命には前衛党が必要だ」という神話ではなく、「日本共産党こそまさにその前衛党である」という神話です。前衛党の必要そのものは、革共同に結集した人たちも、ブントに結集した人たちも、固く信じているのです。そしてもちろん、革共同に結集した人たちは革共同こそが、ブントに結集した人たちはブントこそが、日本の革命運動を指導する唯一無二の前衛党であると見なしているわけです。日本共産党を含めて三者とも、自分たち以外の二者は前衛党を僭称する「ニセの前衛党」だと見なしています。逆にそう見なさないようでは「普遍的真理」を体現するマルクス・レーニン主義の「前衛党」の名に値しないことは、先の説明からも明らかでしょう。
 そして実は、次の「重要な年号」である「一九六八年」の運動こそ、この「革命には前衛党が必要だ」という神話を破壊する運動だったのです。
 このことは、とくに西側先進国の「六八年」の運動に関しては露骨に明らかな事実なんですが、日本のそれでは非常に見えにくいものになってしまっています。日本の「六八年の運動」というのはつまり「全共闘」のことですが、全共闘の話といえば「中核派が、赤軍派が云々」と党派(つまり前衛党)の話ばかりになりがちなことにもそれが現れています。しかし、日本においても全共闘運動の主役はあくまで「ノンセクト・ラジカル」です。ノンセクト・ラジカルとは、諸々の党派に所属していない、云わば「個人的過激派」の人々のことです。「六八年」の運動は、世界的にも日本国内でも、その中心を担ったのはこのノンセクト・ラジカルなのだということを踏み外さないようにしてください。
 それでも日本の事情はやはり特殊で、その結果として日本では「六八年」に関する認識が混乱してもいるわけなので、少し丁寧に経緯を追います。

 先に述べたとおり、六〇年安保闘争を経ても、「革命には前衛党が必要だ」という神話はまだ生き延びています。とはいえ前衛党(の候補)が共産党と革共同とブントの三つぐらいであれば、うち二つは「ニセの前衛党」なのだということで神話を守り続けることもそれほど難しくはなかったかもしれません。しかし、六〇年代前半の過程で状況が錯綜していきます。まず安保闘争敗北後すぐにブントが自壊して三分裂します。ブント残党の一部が革共同に流れ込んだことが却って革共同を混乱させたのか、まもなく革共同自身も二つに割れてしまいます(それが以後現在まで新左翼の二大党派として生き残ることになる中核派と革マル派です)。ブント本体の再統合も目指されますが、統合されては再分裂、ということを繰り返し、結果として「ブント系」諸党派が乱立します。さらに共産党からも、先の二つに遅れて党に愛想を尽かした人々が新たに分裂して新しい革命組織を立ち上げます(構改派)。共産党より穏健で中途半端な左翼政党だと見なされていた社会党からも、学生党員の一部が過激化して飛び出します(解放派)。それぞれが離合集散を繰り返し、六〇年代半ばを過ぎる頃には「自称(唯一無二の)前衛党」の数は十ではきかなくなります。これで「十以上ある自称前衛党のうちどれか一つが真に唯一無二の前衛党だ」という神話を信じろという方が無理でしょう。「革命には前衛党が必要だ」という大前提じたいが次第にウサンくさいものに思えてきます。主観的にはマルクス・レーニン主義を信奉する革命派ではあっても、とりあえずどこの党派にも属さないノンセクト・ラジカルの存在が次第に目立つようになります。
 そしてこのことが学生運動の形態にも大きく影響し始めました。というのは、この六〇年代半ばぐらいまで、学生運動の中心には各大学の「自治会」があったのです。ほとんどの大学で、学生は大学に入学すると自動的に自治会に加入させられるしくみが、戦後すぐの段階で作られました。自治会は大学機構の一部であり公的な存在です。べつに最初から学生運動のために作られた組織ではありませんが、学生の要望をとりまとめて大学当局や教授会などと交渉する役割もありますから、自然、自治会が学生運動の中心になりますし、公的な組織である自治会を通して提出された学生の要求は当局や教授会の側もムゲにはできません。形式的には、各大学の学生運動はそれぞれの自治会が指導しており、前衛党が共産党しかなかった時代には共産党の学生党員が自治会執行部を握ることで、事実上、共産党が学生運動全体を指導していたわけです。ところが、五〇年代末に共産党以外の前衛党が、しかも学生を中心に結成され始めると、共産党は学生運動を掌握するこのシステムを維持できなくなります。ブントや革共同が執行部を握る自治会があちこちの大学に誕生し、共産党はむしろ学生運動の「反主流派」に転落してしまいます(六〇年安保闘争の前後の文章で「全学連主流派」とあればブント系、「反主流派」とあれば共産党系の意味です)。
 今つい注釈なしに出してしまいましたが、「全学連」という言葉を聞いたことのある人も多いでしょう。これは「全日本学生自治会総連合」の略で、その名のとおり要するに各大学の自治会が連合した全国組織です。六六、七年頃までの学生運動の中心にはこの全学連があり、全学連の指導部を握ることは日本の学生運動全体の主導権を握ることを意味していましたから、各「(自称)前衛党」はそのことに躍起になっていました。ただし本当にそうだったのは六〇年安保闘争の頃までで、反主流派に転じてしまった日本共産党系の大学自治会はまもなく本家の全学連を脱退して、共産党系の全学連を別個に勝手に立ち上げますし、本家の全学連の側も、ブントが消滅し革共同が二つに分裂すると中核派系全学連と革マル派系全学連に分かれてしまいます。さらに解放派系全学連も誕生します。全学連そのものがいくつもあるわけですから、「全学連の指導部を掌握する」こと自体が各党派にとって(同語反復的な意味でしかない)無意味になりますが、それでも個別の大学自治会の執行部を握ることは引き続き重要です。ある大学の自治会を握れば、そこが自派系全学連を構成する個別自治会の一つになるんですから。
 したがって、自治会は各党派の熾烈な政争の場になります。一般学生の要求を議論して集約することよりも、党派利害を優先する空気が濃厚になるのです。次第に勢力を増してきた「ノンセクト・ラジカル」の学生たちにとっては、自治会の存在は極めてバカバカしいものに感じられ始めます。「学費値上げ反対」とか「サークル棟の建て替え反対」とか、各党派にとっては政争の具にすぎないが、一般の学生にとって切実なものと感じられる問題は、自治会を通して運動を進めるよりも、それ専用の組織を別に立ち上げた方がいいという話になります。そうして六〇年代半ば以降、各大学にポツポツ登場し始めるのが、具体的な個別要求のために有志だけで構成される「全学闘争委員会」とか「全学共闘会議」とか、組織の名称は大学によってマチマチなのですが、「全学共闘会議」という場合が一番多かったのでそう総称されることになった、つまり「全共闘」です。
 整理しておくと、全学連は各大学の自治会の連合体であり、個々の自治会は各大学の公的な機関、大学機構の正式な一部です。これに対して全共闘というのは何らかの具体的な問題について関心を持つ学生たちが勝手に結成し始めた、公的・制度的な裏付けのない云わば任意団体です。自治会の会員はその大学の学生全員であり、多くの大学では入学に際して自動的に大学側が自治会費を代理徴収していました(だから各党派にとってその主導権を握ることは自動的に多額の活動資金を確保できる手段でもありました)が、全共闘にそんな仕組みはありません。自治会には一応、執行部の選出や議決の方法などに関する(往々にして各党派が暴力的に死文化させるとしても)明文化された規約がありますが、全共闘にはそれもありません。要するに全共闘は「やりたいことをやりたい奴だけで勝手にやる」ための組織なのです。
 「プレ全共闘」と呼ばれる、全共闘方式が各大学に浸透し自覚的に追求される以前の萌芽的な闘争が六五年頃からいくつかの大学で始まり、六七年頃から全共闘こそが全学連=公的自治会に代わる日本の学生運動の中心的な闘争形態となります。六八、九年がそのピークで、最も熾烈な闘争となった日大全共闘の一瞬の勝利(学生側の要求をいったんは当局に丸呑みさせた)が六八年九月、若い人たちでもその映像ぐらいは何かで見たことがあるだろう東大全共闘の安田講堂での機動隊との攻防戦が六九年一月のことです。ちなみに映像が派手なので当時を回想するテレビの特集などで繰り返し使われますし、全共闘と云えば安田講堂攻防戦の東大が中心であったかに誤解している若い人が多いかもしれませんが、少なくとも当時最も英雄的に称えられていたのは日大全共闘(中でも芸術学部闘争委員会)で、さらに云えば全共闘運動には「この大学がそう」と云えるような中心はありません。各大学でそれぞれ勝手に結成されて、それぞれ勝手に闘争を展開していたのですから「中心がない」のは当然です。
 繰り返すように全共闘運動は党派に属さない個人的過激派、ノンセクト・ラジカルの学生たちが主導したものですが、それが学生運動の中心的役割を果たすような情勢になると、各党派もこれを無視できず、慌てて介入し始めます。「おれたちも是非、全共闘の一員として参加させてくれ」というわけです。もちろん全共闘の側にこれを拒む理由も(自治会の運動を形骸化させられたなどの反感はあったかもしれませんが)、そもそも規約がないのですから参加したいという者を参加させない明確な根拠もありません。新左翼運動総体に敵対心を持つ共産党以外のあらゆる党派が全共闘運動に参入します。とはいえあくまで有志の集まりである全共闘ではノンセクト・ラジカルの学生も党派の学生も個人として対等です。それまでの自治会の運動と違って議決の方法すら決まってないのですから、自治会を掌握するためには意味があった、党派には有利な多数派工作などの手法も全共闘では役に立ちません。全共闘の会議では、多数決のような議決もなく、時間無制限で丁々発止の議論が延々と続き、要はその場の勢いで何となく闘争方針が決まっていくだけです。決まっていくと云っても、個々のメンバーがその決定に従う義務もないわけですから、議論の過程で個々のメンバーが「おれ自身はこうする」という決意を固め、それぞれそれを実行に移していくだけの話です。「やってられん」と思えば勝手に抜けるのも自由です。そんな闘争で党派が主導権を握れるはずもなく、全共闘運動は、あくまでノンセクト・ラジカルの優位のもとに、形態としてはノンセクトと諸党派の共闘として推移していくわけです。
 ところが闘争が激化し、大学当局が自力で学生たちと向き合うことを諦めて機動隊を導入するようになると次第に状況が変わってきます。各大学に築かれたバリケードは機動隊によって次々と解除され、さすがの全共闘学生たちの間にも無力感や厭戦気分が蔓延し始めます。こうなってくると、組織的に武装し、またメンバーに闘争継続を命令しうる党派の存在感が大きくなるわけです。かつての自治会同様、全共闘もまた各党派の政争の場と化します。六九年夏ごろからの状況です。

 ノンセクト優位、真の意味での「前衛党神話の崩壊」を実現したかに見えた日本版「六八年」の全共闘運動も、後退ムードの中で党派政治の復活を許し、元の木阿弥となりそうな気配が濃厚でした。そこに勃発したのが「全共闘運動のターニング・ポイント」として私やスガ秀実氏が強調する「華青闘告発」事件です。七〇年七月七日の出来事で、「七・七告発」とも呼ばれます。
 「華青闘」というのは正式名称を「華僑青年闘争委員会」という在日中国人のグループです。七月七日は中国に対する「日本の侵略戦争」の発端とされる盧溝橋事件(一九三七年に起き日中戦争に発展)の記念日で、この日に合わせて「全国全共闘」や「華青闘」などいくつかの団体の共催で反戦集会が予定されていました。ちなみに「全国全共闘」とは、そもそも各大学で個別に勝手に展開されていたはずの全共闘運動を一つの統一された勢力にまとめ上げるために六九年夏に結成されたもので、要するに闘争スタイルとしての全共闘の画期性を無化し、のちに「全共闘運動の事実上の終焉」とさえ評されることになる、もちろん党派主導の組織(というか諸党派の政争の場)です。
 ところが開催当日までの議論の過程で複雑な経緯があり、結果として華青闘は共催の立場を降りてしまいます。そして開催当日、華青闘のメンバーやその支援(日本人)学生たちは開会前に壇上を占拠し、日本の新左翼運動総体、とりわけ新左翼諸党派を激烈に糾弾する演説を始めるのです。それは、日本の新左翼運動がうわべでは「侵略戦争反対」などと云いながら、実態としてはいかに在日中国人や在日朝鮮人などの反差別運動を軽視し、時には結果として敵対するような言動を繰り返してきたかを徹底批判する内容でした。諸党派による全共闘運動の引き回しに嫌悪感を募らせていたノンセクト・ラジカルの学生たちもこれに同調し、党派主導の予定調和の反戦集会になるはずだった「七・七集会」は新左翼諸党派に対する糾弾集会と化してしまったわけです。各党派の指導者たちは壇上に引き出され吊るし上げられて、最終的には「坊主懺悔」的な自己批判を余儀なくされました。
 諸外国のそれと同様、ここにようやく、「六八年」におけるノンセクト・ラジカルの優位、真の意味での「前衛党神話の崩壊」が、日本の運動の文脈でも決定的となったのです。
 分かりにくいでしょうから、もう少し突っ込んで説明します。
 華青闘告発とは要するに、「マイノリティの運動」が革命運動、反体制運動の中心に躍り出るきっかけとなった事件です。華青闘が直接に問題にしたのは在日中国人や在日朝鮮人への差別の問題ですが、日本には他にも反差別運動を展開する「マイノリティ」が多数存在します。部落、障害者、琉球・アイヌ民族、などなどです。数的にはマイノリティではありませんが、差別問題ということでは女性解放運動もこれに連なります。同性愛者の運動もそうです。
 従来の革命運動では、それらさまざまの「問題」は、マルクス・レーニン主義の「前衛党」が取り組むべき諸課題の一部を構成するものにすぎませんでした。前衛党はあらゆる社会問題の解決を一手に引き受ける万能の存在であり、マイノリティの問題を含むさまざまの「個別課題」は、前衛党の掲げる体系的な革命理論の中に有機的に統合されているはずだったのです。
 華青闘が突きつけたのは、そうした「前衛党幻想」の虚構性でした。さまざまの「個別課題」にはそれぞれ固有のベクトルがあり、単一の「革命理論」の体系に組み入れられうるようなものではない、というまさに「自称前衛党」への全否定を意味するものだったのです。
 となれば、さまざまの反差別運動のみならず、あらゆる「個別課題」の運動に同様の問題意識が拡大していきます。成田空港建設反対の三里塚の農民の運動も、公害企業を告発する水俣病患者の運動も、山谷や釜ヶ崎などの最底辺労働者の運動も、諸党派が掲げる「革命理論の体系」に一方的に包摂されてたまるか、という話になるわけです。当然、各大学で取り組まれている学生たちのさまざまな「個別要求」についても同様です。
 「六八年の運動」を経た七〇年代以降、「あらゆる問題を統括して一手に引き受ける前衛党」を中心に持たない、さまざまの「個別課題」を独自に追求する大小無数の団体や個人が何となくグラデーションをなして連帯しているような、していないような、「曖昧な全体」がそれ自体として革命運動の現在である、というふうな認識が世界的な「常識」となります。これを理論化する試みが、文系の学生なら必ず押さえておかなければならない(はずの)、ミシェル・フーコーやらドゥルーズ&ガタリやらジャック・デリダやら何やら、最近ではネグリ&ハートの「マルチチュード」理論などのいわゆる「ポストモダン思想」なのです。また、ある程度は勉強している学生なら、ポストモダン思想に関連してよく云われる「大きな物語の終焉」というお決まりのフレーズを知っているかもしれません。これも本来の文脈に引きつけて云えば、あらゆる課題を一手に引き受ける前衛党の革命理論体系が要するに「大きな物語」です。「六八年」以後は、個別課題の解決を散文的に追求する「小さな物語」がそれぞれに紡がれ、革命はただその総体として何となくある、あるいは「総体」などという発想をすること自体がナンセンスであると見なされるのです。
 この脈絡が分かると、七〇年代以降の学生運動史は世間一般に広く流布しているそれとはまったく違った見え方をしてきます。「世間一般に流布している図式」は、赤軍派がどうの、よど号がどうの、連合赤軍がどうの、内ゲバがどうの、といった話です。それら要するに「諸党派の消息」は、遅くとも六〇年代半ばには存在意義が疑われ始め、「六八年」の過程で事実上乗り越えられ、七〇年の華青闘告発によって最終的に破産宣告を受けた「前衛党」諸派の後日譚にすぎません。七〇年代以降の(学生運動を含む)革命運動の主流はあくまでもそれぞれの個別課題に散っていったノンセクト・ラジカルたちなのです。
 それらはあちこちに分散して存在し、全体が一同に会するような機会もそもそも動機もないために、目立ちません。しかし私がいろいろ調べてみた印象では、「六八年以後」の問題意識を継承してさまざまの個別課題に取り組む学生運動への参加者は、八〇年代半ば頃まで、全国の大学に総勢二、三万人の規模で存在していたようです。彼らは具体的には、さまざまの反差別運動や、水俣病を典型とする公害問題や原発などの環境問題、山谷や釜ヶ崎などの最底辺労働者の支援、あるいは学内の、サークル棟や寮を学生運動の温床とみなす大学当局がそれらを建て替えたり廃止したりする動きへの抵抗や、例えば学園祭などの運営やサークル活動への当局の介入に対する抵抗など、多岐にわたる活動を展開していました。それぞれの運動が個別に存在し、地道に黙々と取り組まれているために、実は総勢で万単位という規模が傍目からは見えにくかっただけなのです。
 それでも多少の「盛り上がり」の時期はあります。七〇年代末から八〇年代初頭にかけてのポストモダン思想の流行やサブカルチャーの隆盛は、その地表に現れた部分ではあったのです。ポストモダン思想がそもそも「六八年」の延長で登場したものであることは先に述べたとおりですし、欧米の同時期にはそれらの新思潮と、パンク・ロックやテクノなどのサブカルチャーと、「緑の党」などに代表される「六八年以後」の社会運動の新展開とが、渾然一体となって一大ムーブメントの趣きを呈します。思想・学問の運動、芸術・文化の運動、そして政治的な運動とが相互に密接な関連を持ちながら同時に隆盛したのですが、日本においてはこれが政治的な運動の特段の盛り上がりを欠いたまま、思想・学問と芸術・文化の領域でのみ、欧米のそれと呼応するような現象が見られたわけです。
 八〇年前後に日本で政治運動の新展開が起きなかったことには明確な理由があります。もはや積極的な存在意義は何もないのにそれなりの規模で存続してしまっていた新左翼諸党派のさまざまの蛮行がこれを阻害したのです。「さまざまの蛮行」の最たるものはいわゆる「内ゲバ」です。
 七〇年に本格的に始まった内ゲバ、つまり新左翼諸党派間の武力抗争は、とくに革マル派と中核派・解放派の間で百名近くの死者と数千名の重軽傷者を出す凄惨なものとなりますが、その最盛期は七〇年代後半の五年間です。
 とくに学生運動の現場においては、これら内ゲバ党派に所属していない他党派やノンセクト・ラジカルの活動家も、内ゲバと無縁ではいられません。学生運動がそれなりに盛んな大学のほとんどは内ゲバを敢行している三党派いずれかの「拠点校」であることが多く、文字どおり命がけで「拠点」を死守している内ゲバ党派にとって、学内で自派以外の運動が一定以上に盛り上がるのは危険です。そんな兆候があれば内ゲバ諸党派は暴力に訴えてでもこれを潰します。欧米では「六八年」の問題意識の延長線上で政治運動の再編が急速に進む七〇年代後半、あるいは日本でそれを担ったかもしれない個性的で優秀な若い活動家は、少なくとも大学の中ではおおっぴらに登場することすらままならなかったのです。

 内ゲバがいくぶん沈静化した八〇年代前半、ようやく日本にも欧米で七〇年代後半に模索されたような新世代による運動再編の試みが陽の目を見ます。保坂展人(現・世田谷区長)による反管理教育運動や、当時は現役の早大生だった辻元清美(現・民主党代議士)による反戦運動「ピースボート」など、一連のポップな政治運動です。
 八五年に社会党委員長に就任し、旧態依然たる巨大労組への依存から脱皮しようと目論んだ土井たか子は、これらの運動と結びついて社会党のイメージ・チェンジを図り、その試みはいったんは成功、八九年の参院選における保革逆転を実現します。たまたま参院選だっただけで、もしこれが衆院選であればこの時点で社会党政権が誕生していました。
 八〇年代後半にフィリピンや韓国など「南」の国々で独裁政権が倒されたのに続き、中国でも天安門広場を舞台として民主化運動が激化し、東欧の社会主義政権が次々と雪崩を打ってベルリンの壁もろとも崩壊し、冷戦を終わらせ、やがて「本丸」のソビエト連邦そのものをも解体させた「八九年革命」は、日本でも実現の寸前まで行ったのです。
 社会党政権の誕生にまでは至らなかったとはいえ、この八九年の参院選敗北に危機感を募らせたことで自民党の迷走が始まり、その結果としての今に続く終わりの見えない「政界再編」の過程でまずは九三年に細川政権の誕生で冷戦の国内版たる「五五年体制」の崩壊も起きるのですから、日本の「八九年革命」も事実上勝利していたと云ってよいとさえ思います。
 話が先走りましたが、八〇年代後半の社会党の党勢一新の試みは、時期が遅すぎたのかもしれません。七〇年代後半にそれがおこなわれていれば、社会党は日本版「緑の党」として生き残りを図れた可能性がありますが、現実には、八九年の勝利をピークとして一連の「政界再編」の過程で社会党(現・社民党)は凋落の一途をたどり、今や消滅寸前の泡沫政党に転落しています。
 また、七〇年代後半から八〇年代前半にかけて欧米の新左翼のそれに類比的な新展開を図れなかった日本のノンセクト学生運動も、八五年頃を境に急速に消滅に向かい始めます。欧米の実験に学んだ保坂展人の反管理教育運動は中高生が主役の運動であって大学はその主要な舞台ではありませんでしたし、ピースボートも主催の辻元清美が現役学生だったというだけの話で運動そのものは学内に軸足があるものではありません。八〇年代前半の重要な運動展開は大学の外で起きたのです。
 さらには八〇年代は(保坂展人の運動が隆盛したことからも想像されるように)いわゆる「管理教育」の全盛期でもあります。先輩学生の運動と問題意識を継承しつつ、ただそれをなぞるだけでなく新展開を模索・実現しうるような個性的で行動的な新入生候補は、そのほとんどが高校卒業の前に学校空間からパージされてしまいます(高校中退者が十万人を超えたのが八七年のことです)。
 八五年頃にはおそらく全国で総勢二、三万人の規模で持続していたノンセクト・ラジカルの学生運動は、九〇年の時点でおそらく総勢数百人規模にまで落ち込んでいたと思われます。現在では(繰り返しますが全国で!)数十人規模でしょう。「平時」の「フツー」の規模と思われる二、三万の学生運動を再建するのは途方もない難事業と感じられるかもしれません。
 ただし、八五年以降も「若くて知的なヒマ人たち」によるラジカルな政治運動は主に大学の外で途切れなく続き、現在までの間に幾度かの高揚を実現してさえいます。その最初の高揚が「日本の八九年革命」であり、土井社会党ブームはその氷山の一角にすぎません。
 土井社会党を支えた保坂や辻元に象徴される八〇年代の「穏健化したノンセクト・ラジカル」の運動は、過激な最左派の諸運動を伴っており、中でも有名なのは八七年の広瀬隆ブームを起点とする八八年の「反原発ニューウェーブ」です。反原発運動の高揚は今回の「3・11」をきっかけとするそれが最初ではなく、実は八八年(つまりチェルノブイリ原発事故の二年後)に一度盛り上がっており、量的にも今回のそれに匹敵し、質的には今回のそれをはるかに上回る過激でラジカルなものでした。
 文化的にも当時の若い活動家の最大公約数的な表現が「バンド・ブーム」の象徴的存在であるブルーハーツによってもたらされ、よりラジカルな表現も忌野清志郎による覆面バンド「タイマーズ」の八方破れ的な活動展開や、バンド・ブームのもう一つの頂点である「たま」の登場に担われています。
 かく云う私自身がこの時代風潮の渦中で自己形成し、保坂系反管理教育運動の最左派として活動したことが、革命家人生の出発点です。
 つづく九〇年代の諸運動は、当時の知的な若者に圧倒的な影響力を持っていた社会学者・宮台真司の造語「まったり革命」に象徴されるような雰囲気を共有しています。九〇年代末に注目を浴びた(当時の『現代用語の基礎知識』にも登場します)「だめ連」や「メンズリブ」に代表される、脱力系のライフスタイル提唱運動です。今もノンセクト学生運動がかろうじて存続している数少ない大学の一つである法政大で、やはり脱力系の秀逸な笑いのセンスを武器に、他大学に十年ほど遅れていよいよ急速な壊滅へのサイクルに突入していたかに見えた法大ノンセクト運動を強引に再び数百人規模にまで盛り返した松本哉の「法政大学の貧乏くささを守る会」も同じく九〇年代末の運動です。ただし「八九年」の諸運動とは異なり、この九〇年代末の脱力系政治運動のブームは首都圏以外にはほとんど飛び火しませんでした(「だめ連」にも「貧乏くささ〜」にも各地に「支部」が誕生しましたが、オリジナルのそれが持つ独特の機微までが伝わっているとはとうてい云えないものがほとんどでした)。
 また九〇年代後半は、小林よしのりのマンガ『ゴーマニズム宣言』の右転向と爆発的ヒットによって、「若者の右傾化」が急速に進んだ時代でもあります。世の中に疑問や不満を持つ若者たちがとりあえず入門的に手にとる書物は、八〇年代いっぱいまでは朝日文庫の本多勝一シリーズだったと思われますが、九〇年代半ば以降は、小林よしのりのエッセイ・マンガに変わったのです。この嘆かわしい傾向は(八〇年代の本多勝一シリーズも今思えば相当に嘆かわしくはあったのですが)その後ますます加速し、二〇〇〇年代には小林マンガの劣化版とも云うべきマンガ『嫌韓流』が大きな影響力を獲得したりします。
 ただし九〇年代のうちはまだ「若者の右傾化」はせいぜい「ネット右翼」の段階にとどまり、リアル世界に政治運動として登場するまでには至りませんでした。例外的に、右翼パンク・バンドでの活動が注目された(左翼転向以前の)雨宮処凛の存在を挙げられるくらいでしょう。
 二〇〇〇年代の初頭に世界史的な大事件であるアメリカ同時多発テロ事件、いわゆる「9・11」が勃発します。これを機にアメリカの「対テロ戦争」が開始され、日本でもアフガン反戦、イラク反戦の運動に突如として大量の若者が参加し始めます。私はこれら一連の反戦運動の高揚を表層的でつまらないものと見なしているのですが、二〇〇〇年代後半のさまざまな運動を担う若い活動家の多くが、アフガン反戦やイラク反戦を機に運動の世界に参加し始めたらしい事実は否定できません。
 二〇〇〇年代後半の若者たちによる左翼運動は、人格的には(必ずしもすでに若者とは呼べない年齢になっていた)松本哉と雨宮処凛に象徴されます。「素人の乱」と「フリーター労働運動」です。東京・高円寺を拠点とする「素人の乱」の運動はもちろん首都圏の外には本質的な影響力を持ちませんが、フリーター労働運動は全国各地に飛び火しました。「素人の乱」の運動が松本哉の強烈な個性に依存する部分が大きい(本人に間近で頻繁に接する機会がなければその独特のノリや作風の機微を体得しえない)のに対して、フリーター労働運動が提起する若者を取り囲む過酷な労働環境の問題は全国共通の極めて「わかりやすい」ものだし、運動スタイルも要はフツーの個人加入労働組合の運動をマジメに組織することに尽きるからでしょう。
 ただしアフガン反戦やイラク反戦の過程で導入され、フリーター労働運動の展開過程で定着した、スローガンを叫ぶよりも先頭車輛から爆音で流れるテクノ系・ハウス系の音楽を前面に立てているかのような「サウンド・デモ」のスタイルは、「3・11」以降の反原発運動にも(一部)継承されていますし、「素人の乱」はその反原発運動の一方の極ともなっています。
 「右傾化した若者たち」の運動も、二〇〇〇年代後半にはついにネットの世界を飛び出し、公然と街頭に登場しました。「在日特権を許さない市民の会」(在特会)です。朝鮮人や支那人(と呼ぶこと自体は別に差別ではありません)に対する露骨に差別的な言辞を臆面もなく叫び散らすその街宣活動は、私を含め良識ある人々をいたたまれない気持ちにさせますが、聴衆を煽り立てる演説の技術や、市民感情を逆なでするような言動をあえて辞さないその開き直りぶりは見事でさえあり、今のところ在特会に正面きって太刀打ちできる左派系の運動は皆無と云ってよいくらいの状況でしょう(二〇一三年、必ずしも「左派系」とは呼べませんが、有力な対抗勢力「レイシストをしばき隊」が登場しています)。
 また在特会の周辺に誕生し(二〇一二年解散)、在特会が素朴な差別感情で云わば「天然」でやっている悪質な街頭示威運動を、確信犯的にさらに過激に露悪的に追求する「排害社」の存在も最大級に重要です。その絶妙な笑い(ブラック・ジョーク、あるいは時に差別ギャグですが)のセンスや戦術アイデアの豊富さにおいて、「排害社」主宰の金友隆幸は左派シーンにおける松本哉に匹敵するキャラクターです。
 在特会や排害社は(主には左翼が「原発反対」を云うことへの対抗意識から)「原発推進」を掲げていますが、「3・11」以降、「右傾化した若者たち」の一部にも反原発の機運が生じ、八〇年代に反米・反体制の右翼団体として注目を浴びた「一水会」の関連組織である「統一戦線義勇軍」議長・針谷大輔が主催する「右からの脱原発デモ」に彼らは結集しつつあります。
 以上ざっと概観してきたとおり、八〇年代半ば以降、「学生運動」はほぼ壊滅状態ですが、大学の外では、学生も含む「若くて知的なヒマ人たち」によるさまざまの運動は途切れることなく持続しており、時に相当の高揚をしてさえいます。しかし学生でもないのに「知的でヒマな」若者の数はそう多いはずもなく、一部の学生が参入したとしても量的な拡大には自ずと限界があります。いかに困難に思えようとも、「学生の百人に一人ぐらいは政治的・社会的な反体制の運動に参加して熱くなっている」実はごく当たり前の状況を何とか再建しなければなりません。

 学生運動史に関して書き残していたことがいくつかあります。
 まず、五六年に誕生し六八年にピークを迎える新左翼運動は、冷戦構造の中でソ連側に奉仕する陣営の中から誕生しつつも、次第に「反米反ソ」の立場を鮮明にしていったわけですが、これはつまるところ何を意味するのでしょうか。
 二〇世紀の歴史は、その初期の「一次大戦後」の段階で、いったんは資本主義陣営と社会主義陣営とファシズム陣営による三鼎対立の様相を呈しました。それは「普遍的正義」の実現をめぐる三つ巴の闘争であり、「反普遍主義というもう一つの普遍主義」というアクロバットを掲げるファシズムを含め、普遍的正義の候補はこの三つ以外に存在しないはずでした。
 ということは、「反米反ソ」という立場は、その当事者たちが自覚しているか否かに関わらず、やがてはファシズムに収斂していくはずのものではなかったでしょうか。
 一般的には、新左翼運動は、スターリン流に硬直したマルクス・レーニン主義を脱却しアナキズムへと転身してゆく運動であったかに総括されています。一連のポストモダン思想も実質的には現代ふうに再構築されたアナキズム理論であり、その最新版であるネグリ&ハートの「帝国とマルチチュード」三部作も要はアナキズム理論書です。ネグリ&ハート以外にも、近年のポストモダン系アカデミズムの界隈では、海外の最新アナキズム理論の翻訳が盛んです。
 しかし偏見を捨てて歴史を調べれば容易に見てとれることなのですが、ファシズムの創始者ムソリーニはもともと限りなくアナキズムに近いマルクス主義者であり、「戦争を内乱に転化せよ」というレーニンの立場とほとんど同じ観点から一次大戦への参戦を提唱して(そもそも参戦しなければ「戦争を内乱に転化」できませんから!)、反戦派が主流だったイタリア社会党を除名されたムソリーニのもとに結集し、初期ファシスト党を構成したのはモノホンのアナキストと前衛芸術家たちだったのです。
 通説にはなっていませんが、全共闘運動が「プレ・ファシズム運動」であったことを当時最年少にして最左派のアナキズム理論家として活躍した千坂恭二氏が指摘していますし、スガ秀実氏も一連の「六八年」論の中で全共闘運動が少なくともファシズムに親和的であり事実いくぶんファシズム運動への傾きを有していたことを認めています。
 しかし全共闘運動がついに最終的にはファシズム運動へと転化しなかったのは、やはり「華青闘告発」事件に負うところが大きいのだと思います。華青闘告発によって、ノンセクト・ラジカルの革命運動は革命の「総体」を志向しない、さまざまの個別課題に散る「マルチチュード路線」への展開を決定的にしました。マルクス・レーニン主義からアナキズムに転じ、さらにはファシズムへと転じたかもしれない「ポスト全共闘」の運動は、その中途でアナキズムにとどまることを選択したとも云えます。しかし、その選択は果たして正しかったのでしょうか。
 今日では、「PC(ポリティカル・コレクトネス)の脅威」が、抑圧的な社会制度の形成に敏感な人たちにとって最重要の課題の一つとなりつつあります。差別的な語彙を公的な場から追放し、「政治的に正しい」云い回しに置き換えてゆくPCとは、要するに耳になじんだ日本語で云うところの「言葉狩り」です。差別的ではあるかもしれないがさまざまのニュアンスに富んだ旧来の云い回しが、誰も傷つけないかもしれないが無味乾燥でフラットなPC用語に置き換えられていくことを、どうにも居心地の悪い、表立って異論を唱えにくいが何か納得できない気分でただ指をくわえて座視しているという人は多いでしょう。しかしこのPCこそはまさに「六八年」を機に世界的に主流化したマイノリティ諸運動の現代的な帰結なのです。
 新左翼運動が展開する過程で、マルクス・レーニン主義のスターリン的解釈がまず疑われ、スターリンによって歪曲される前の「本来のマルクス・レーニン主義」が希求されました。やがてそもそもマルクス主義のレーニン的解釈がスターリン主義を必然化するのではないかとの問題意識が広まり、レーニンによって歪曲される前の「本来のマルクス主義」が求められました。さらに進んでマルクスの思想が盟友エンゲルスによって「マルクス主義」として体系化される過程にスターリン主義を必然化する萌芽があると云われ、いやそもそもマルクス自身の思想の内にすでに「唯一の真理の体系」への志向があり、国家主義や産業主義が内包されていると指摘されて、マルクスの生きた時代にマルクスに対立したバクーニンらアナキストたちの思想の復権が目論まれたのでした。とても「わかりやすい」理路ではあるのですが、アナキズムではなくファシズムに到達する別の理路もよく考えたら実はありうるのです。
 一口に「マルクス・レーニン主義」と云っても、「真理の体系」を体現しているのはマルクス主義であり、レーニン主義はそれを実現するための「唯一の前衛党」の必要を云う運動論にすぎません。であれば、レーニンではなくマルクスを捨てて、べつに「真理の体系」を保持しているわけではない「唯一の前衛党」によるアクロバチックな革命運動の理論が構想しうるのではないでしょうか。前衛党は唯一無二ではあるが、「普遍的真理」とは無縁の党であるから、党を割ることだけは許さない代わりに内部の議論は何でもアリ、革命運動に身を捧げようという決意さえホンモノであれば誰でも「同志」として遇するという、傍目にはおそらく意味不明なハチャメチャな「革命党」のイメージ。しかしこれまた実際のムソリーニのファシスト党は、そういう党だったのです。
 話を戻すと、さまざまの反差別運動を中心とする「六八年」の「マルチチュード」的展開(説明が遅れましたが「マルチチュード」とは日本語で云えば「有象無象」のニュアンスで、簡単にひとくくりにできない多種多様な諸個人・諸団体の諸運動ということです)は「PCの猛威」を結果しただけではありません。
 「真理の体系を教授する場」としての大学の権威も崩壊させられ、重々しい「学問」を提供するのではなくフラットな「知的サービス」を提供する、何ら権威のない単なる「教育産業」としての大学も、「六八年」が意図せず生み出してしまったものです。
 自治会や労働組合のような形で公的に組織された学生や労働者であることを拒否し、何らかの「大きな物語=理念」を共有することで成り立っていたには違いないそれらの組織に従属しない「自立した個」であることを希求した「六八年」の運動ですが、「非正規雇用」が常態化し、「自己責任」で「スキルアップ」の絶え間ない努力が求められる現在の労働のありようは、「手にしたものをよく見てみれば望んだものと全然違う」(ブルーハーツ)ではあるかもしれませんが、そもそもは「六八年」の担い手たちが自ら「望んだ」結果でもあるのです。
 その他にも、「エコ」も「嫌煙権」も「男女共同参画社会」も「ロハス」も「心のケア」も「ナンバーワンではなくオンリーワン」も「みんな違ってみんないい」も、すべて「六八年」に淵源するものです。国家権力と正面衝突して完膚なきまでに粉砕されたかに思われた「六八年」の運動が求めたものが、気がついてみると現代社会の支配的な風潮として「こんなはずじゃなかった」感じで完全に定着している。このことを捉えて私やスガ秀実氏は、「全共闘(六八年の運動)は実は勝利している」と云っているのです。
 「反米反ソ」の新左翼運動は、冷戦構造の破壊を目指しました。それは八九年に実現し、新左翼運動はその目的を果たして役割を終えました。冷戦の終焉は、単に社会主義陣営が崩壊したということにとどまらず、資本主義陣営の決定的変質をも伴う形で到来します。ライバル・ソ連の消滅で全世界の覇権を握ることとなったアメリカは、しかしすでに自身がPCに代表される「六八年的な正義」を掲げる国家へと変質させられていたのです。

 二〇〇一年の「アメリカ同時多発テロ」は、「対テロ戦争」という「まったく新しい戦争」を誘発しました。
 この「戦争」は今も続いています。タリバン政権を崩壊させても、フセインを処刑しても、ビンラディンを暗殺しても、「テロ」が根絶されたわけではないので「対テロ戦争」も終わりません。そもそもアメリカは「対テロ戦争」を開始するにあたって、それが永久に終わることのない性質を原理的に有していると明確に宣言していました。
 アメリカが攻撃している「イスラム過激派」勢力は、女性に伝統衣装を強要し、その社会進出を妨げる「差別的」な連中です。「六八年」の問題提起を受け入れてPC的な正義の国家に生まれ変わったアメリカは、力づくでもそれを世界中に押しつけようとしていますが、PC的な正義をアメリカ政府と共有している「マルチチュード」の反戦運動が本当にそれに対抗しうるのでしょうか。私が「日本版マルチチュード」による二〇〇〇年代初頭のアフガン反戦やイラク反戦の運動に懐疑的な理由もこのあたりにあります。
 一部の知識人は、「9・11」に始まるアメリカ主導の「対テロ戦争」を、新たな世界大戦、正確には二〇世紀的な「世界大戦」に代わる二一世紀的な「世界内戦」と呼び始めています。一つの主権国家の内部での武力抗争を「内戦」と呼びますが、「9・11」に端を発した「対テロ戦争」は、「世界規模に拡大した内戦」ではないかと云うのです。
 そもそも対戦の相手が主権国家ではなく国際的な「テロリスト」のネットワークなのです。その構成員は世界中どこにでもいるし、アメリカの国内にさえ潜んでいます。「戦場」も、「9・11」ですでに明らかなように、アメリカ国内であることも常にありうるし、「サイバー攻撃」などの現代的戦術を考慮に入れればネット上でさえ「戦場」です。
 また「内戦」で前面に出るのは軍隊であるよりも普通はまず警察ですが、アメリカの感覚では米軍は「テロリスト」という「犯罪者」を検挙する「国際警察」として世界中に派遣されているのです。逆にアメリカ国内の「テロリストかもしれない」不審者を摘発する通常の警察活動も「対テロ戦争」の一環としての軍事活動の性格を帯びます。このように、警察活動と軍事活動の境界が曖昧な「まったく新しい戦争」がアメリカの内外を問わず展開されているのが現在の世界状況なのです。
 ひるがえって日本国内のことを考えれば、実は日本版の「対テロ戦争」は世界が(アメリカが)それに突入する二〇〇一年にはるか先駆けて、すでに九五年にとっくに開始されていたことに思い当たります。オウム真理教が引き起こした「地下鉄サリン事件」です。
 オウム事件に端を発する「不審者狩り」は、その対象を当初のオウム信者に限定することなく、急速に拡大していきました。もともと同調圧力の強い日本ですから、「世間」と軋轢を起こす「変わり者」はすべて要警戒の犯罪者予備軍のように見なされます。ストーカー規制法も、喫煙者迫害も、飲酒運転の厳罰化も、少年法の改「正」も、犯罪全体の厳罰化や時効の撤廃も、刑事裁判過程の迅速化(お手軽化)も、ヤクザへの締め付けも、ゴミ出しのルールの瑣末化も、個人情報保護云々も、コンプライアンス云々も、「感動をありがとう」の大合唱も、「がんばろう東日本」の大合唱も、すべてが「オウム以後」の不審者狩りと同調圧力強化の連鎖反応現象です。
 九五年以前の日本と九五年以後の日本とでは、まったく違う国であるかにはっきりと一変していることを、もはや「戦前」の日本を知らないだろう今の学生が実感的に把握しうるのか、私は懸念しています。オウム事件を境に日本はいち早く「対テロ戦争」を開始しており、九五年以後は文字どおり「戦時下」なのです。不審者狩りと同調圧力強化のための一連の施策総体それ自体が「戦争行為」としておこなわれており、第二次大戦の戦争イメージにとらわれている限りは、冷戦を「第三次大戦」そのものであると認識できなかったように、今回の「対テロ戦争=第四次大戦」も戦争と認識できないのです。したがって、冷戦終結後の九〇年代に生まれただろう現在の学生諸君も、決して「戦争を知らない世代」ではありえません。九五年以来、現在も戦争はまさにおこなわれている真っ最中であり、現在の学生諸君はむしろ「戦争しか知らない世代」なのです。
 「対テロ戦争」は、アメリカが主導する世界大のそれにおいても日本国内のそれにおいても、「六八年」に由来するPC的な正義に抵触しないばかりか、むしろそれを自らの戦争行為を正当化する根拠として展開されます。冷戦期の真にラジカルな革命運動が冷戦構造という第三次大戦の戦時体制の破壊を目指したように、少なくとも「対テロ戦争」という第四次大戦が継続する限りは、真にラジカルな現代の革命運動はその戦時体制の破壊を目指さなくてはなりません。「六八年」の正義を体制側と共有する「マルチチュード」的な左派の運動に、それを担いうるとは私には到底思えません。それを担いうるのは、「六八年」の延長線上にもう一つあり得たファシズム革命運動か、私には提示できませんが「マルチチュード」的なそれではない何らかのまったく異質な左翼運動の、いずれかのみでしょう。


   3.

 さんざん大風呂敷を広げたとおり、今まさに現役の学生であるみなさんが取り組まなければならない課題は重厚で巨大で深刻なものなのですが、深刻な問題に深刻に取り組むのは芸がないし、深刻な雰囲気に包まれた運動は疲れるばかりで長続きさせることすら困難です。課題は深刻であっても、運動そのものは軽やかで楽しげなものでなければなりません。
 ここからは、「私がもし現在二十歳前後の現役学生であれば何をやるだろう」と妄想して、思いついたことを思いつくままに列挙してみます。

 まず前提として、大学単位の発想は最初に放棄した方がよいと思います。とりあえずテーマは措いといて抽象的に例えるとして、「○○大学の学生運動」ではなく、「○○県の学生運動」「○○市の学生運動」などと地域単位の発想をした方がいいように思うのです。
 理由はいくつかありますが、そもそも現実問題として、ほとんどすべての大学に学生運動の影も形もない現段階において、一つの大学の学内でそれなりの数の仲間をいきなり集めるのは難しいだろうというミもフタもない理由が一つ。それから思想的なマジメな問題として、究極的には「自治会」的な発想に帰結する個別大学単位の運動論は、「六八年」以前の水準への後退をしか意味しないこと。それにネットが存在する現在、他大学の学生とつながることはかつてよりずっと容易です。

 私自身の昔話をしますと、八八年、私は十七歳でした。
 「ゆとり教育」以前の「管理教育」全盛期にそれと闘う決意を固め、日々「同志」を探し求めていたのですが、八〇年代後半はすでに大学の学生運動すら急速に規模を縮小している時期です。同世代の高校生の同志など簡単には見つかりません。それでもなんとか、(私は当時も今も福岡にいるのですが)同じように同志を探し求めてやはり一人で日々活動していた広島の高校生H君とやがて偶然に知り合うことができました。
 そこからの展開は急速でした。当時は反管理教育と並んで反原発の機運も盛り上がっていたのですが、全国各地の、原発をはじめさまざまの社会問題に取り組んでいる(大人たちの)グループに、「中高生の参加者はいませんか?」と問い合わせました。一人でもいると分かれば我々のミニコミ(今で云う「フリーペーパー」ですね。H君が学校の紙と印刷機を勝手に使って作りました)を送りつけ、「結集」を呼びかけました。
 八八年の暮れ、H君と二人で全国をヒッチハイク旅行し、発掘した「同志候補」たちを訪ね歩きました。八九年春、東京に集まって「合宿」しようということになり、北海道から沖縄まで、全国各地から八十余名の中高生がこれに参加しました。実際に会って話し込むことで本格的な仲間意識が芽生え、この「合宿」参加者のネットワークが以後数年間の私たちの活動基盤となりました。
 今と同じように、パッと周囲を見回しても自分と似たような問題意識を抱えているらしき同世代の姿は影も形もなく、さらに今とは違ってネットという便利な道具もなかったので、手間ひまをかけて仲間を探し、つながっていく以外になかったのです。

 今ならこれと同じようなことはもっと簡単にできるはずです。
 「反原発」でも「愛国」でも、自分と似たような問題意識を持つ学生をネットで見つけることは簡単すぎるほど簡単でしょう。自分の住む地域にも、ことによると自分と同じ大学に通う学生すら見つけることができるかもしれません。
 そしてもちろん重要なのは、実際に会って話すことです。同じ大学に通う人や、同じ地域に住む他大生と頻繁に会うことは容易でしょうが、せっかく学生なんだから、夏休みなどを利用して遠くの人にも会いに行くことをオススメします。ヒッチハイクでも(やり方は「ヒッチハイク・マニュアル」を参照。グーグルで「ヒッチハイク」で検索するとそこそこ上の方に出てきます)、原付でも、安上がりに旅をする方法はいろいろあります。未知の仲間を求めて旅をすることは、私自身の経験から云っても単純にテンションが上がるものだし、先方にとっても、遠くからわざわざ自分を訪ねてきてくれる人があるというのはちょっとしたイベントです。
 とにかくまずは実際に会って話すことですが、それだけで終わっては「運動」になりません。「反原発の学生グループを立ち上げよう」、「愛国学生のグループを立ち上げよう」という方向に話を進めるべきです。このハードルはそんなに高いものではないはずです。相手にも「反原発」なり「愛国」なりの問題意識は共有されているのですから、せいぜいは提案するあなたの側のキャラクターや「コミュ力」の問題です。ただし、少なくともこの段階で大雑把に「反原発」とか「愛国」とかいう以上の細かい方向性を打ち出してはうまく行きません。ゆるやかな、「原発を止めるために何ができるか一緒にいろいろ考える」「国のために何ができるのか一緒にいろいろ考える」ぐらいの趣旨でいいのです。
 メンバーは学生に限定することは最初に決めておいた方がいいでしょう。新規メンバーの勧誘に際して、その方が「怪しげ」な感じを与えないからです。よくよく考えれば相手も「同じ学生である」ということに警戒心を解くべき何の根拠もないのですが、現実問題としてそういう効果を持ちます。運動を展開していく過程で知り合う「学生でない人」とは、付き合う意味があると思えば個人的に付き合えばいい話です。
 グループ名は、あまり奇をてらわないことです。面白くしようとして痛々しいことになってしまう例をよく見かけます。痛々しいことになるぐらいなら、「反原発学生ネット」とか「憂国学生の会」とか、無味乾燥な直球ネーミングにした方がよっぽどマシですが、それもアンマリだと思うなら、私の提案としては、「仮にバンド名だったとしても違和感がない」という基準でアイデアを出し合ってはどうかと。
 グループを立ち上げてからも、もちろんさらにメンバーを増やす努力を続けなければなりません。ネットでの発掘も続けなければいけませんが、せっかくならリアル世界で仲間を探すべきでしょう。反原発デモに行っても右翼集会に行っても、ほんの少しは学生もいるはずです。見つけるたびに誘って、じわじわ拡大していけばいいでしょう。
 週一か隔週ぐらいで定期的に集まって、具体的な活動や、さらなるメンバー拡大の方法などを謀議しつつダベり合っていれば、自動的に盛り上がります。あなた自身がそれほどのアイデアマンではなかったとしても、地道に、なんとか最初の四、五人さえ集めることができれば、いろんなことを思いつく人が必ず混じっています。弁が立つ人、文章がうまい人、デザインのセンスがある人、笑いのセンスがある人、アイデアが豊富な人、事務能力のある人、交渉ごとがうまい人、勇敢な人、ひたすら誠実でマジメな人、いろいろいるでしょうから、地道にメンバーを増やしていくうちにグループ全体の自然なノリが生まれてくるでしょう。

 学生運動は(中核派や革マル派など既成組織がムリヤリに形だけ持続させているようなものは除いて)九〇年代初頭以来、全国的にほぼ壊滅していますが、それでもさすがに首都圏には近年にも多少それらしきものもないではありません。法政・早稲田・慶応・明治学院大・東洋大などのそれぞれ数人(一〜三人ぐらい?)のノンセクト学生たちがネットワークを形成して、「ゆとり全共闘」と自称したり、「黒ヘル全学連」と他称されたりしていました。ここ二、三年の話です。
 彼らの主だった部分とは面識もあるのですが、ハタから見ていてキビしいと感じたのは、彼らが「学生運動をやりましょう」的な呼びかけをしてしまうところです。「学生運動のない大学なんか面白くない、とにかく学生運動を再興させよう」という彼らの気持ちは分かるし結論的には私もまったく同じですが、現実に学生運動を再建していく順序として無理があります。多くの人は、仮に学生運動に参加するとしても、「学生運動に参加したい」から参加するのではなく、もっと素朴な、具体的な何らかの社会問題なり学内問題なりの解決に取り組みたいと思って、結果として学生運動に参加するだけです。いきなり「学生運動をやりましょう」と呼びかけられて「そうだ、そうしよう」と応じてくる学生は、いたとしても一人か二人の、しかも相当にこじれた人に決まっています。学生運動をそれなりの規模にしていくためには、「とても変わった人」ばかり数名集めても仕方がないのです。本気でやるなら具体的な問題を前面に出す必要があります。
 「鍋闘争」にしても同様です。鍋闘争とは、キャンパスの適当な場所(主に屋外)で勝手に鍋を始め、宴会のノリで社会や大学への不平不満をぶちまけ合うという戦術で、やはり「ゆとり全共闘」系の諸君が追求していましたが、もともとは九〇年代後半に法政大学で、のちの「素人の乱」代表の松本哉が始めたものです。松本君の鍋闘争は大成功を収め、九〇年代半ばにはさすがに急速に規模を縮小しつつあった法政大のノンセクト学生運動を一気に盛り返しました。「ゆとり全共闘」系の諸君もその「故事」に倣ったか、あるいは直接には参照していないとしても首都圏の学生運動の細い継承の糸によって松本君のスタイルが伝わっていたのだと思います。
 が、松本君の例はかなり特殊なものです。まず何よりも松本君の特殊なキャラクターに依存するところが大きかった運動で、ミもフタもないことを云うと、松本君は十年二十年に一人ぐらいの一種の?運動の天才?です。そのスタイルは誰もが簡単にマネできるようなものではありません。そもそも松本君は鍋闘争だけをやっていたのではありません。まずは『貧乏人新聞』という学内ミニコミをかなりのペースで刊行し、しかもそのいちいちが面白いのです。そして話術が巧みです。松本君もまずは二、三人の仲間でキャンパスに勝手にコタツを出して「鍋闘争」を始めますが、松本君は付近を通りかかる学生に「一緒に飲もう」と盛んに声をかけ、話術が巧みですから、つい釣られて一緒に飲み始めてしまう学生も続出します。飲んでダベってるうちに大学の悪口で盛り上がり、(話術が巧みですから)いつのまにかその気にさせられてしまいます。たまに大学当局が見かねて中止させに来るとむしろシメたもので、職員と松本君のやりとりがそのまま爆笑を誘う見世物になってしまいます。企画力も並外れています。当局をコケにするための無数の珍作戦を次々と案出し、しかもそれらはごくフツーの学生が悪ふざけでちょっとハメを外す感覚で参入できる水準のものがほとんどです。とにかく松本君は特殊な人で、その成功した数々の闘争も松本君ならではのもので、安易に外形だけマネると却って痛々しいことになります。
 その上、松本君の時代の法政大学の状況も特殊です。法政大学はもともと中核派の最大の拠点校であり、かつ中核派は自派に属さない(他党派に属していれば話は別ですが)ノンセクトの学生運動に比較的(あくまで「比較的」です)寛容な党派で、したがってノンセクト学生運動のメッカでもありました。当局が学生の諸々の活動に簡単に手を出せない状況を、中核派とノンセクトとが九〇年代後半にはまだギリギリ守り抜いており、今とは違うのです。
 先に述べたとおり、松本君が九〇年代後半に展開した「法政大学の貧乏くささを守る会」のさまざまの闘争の中で、鍋闘争は決してメインではなく、せいぜい云って「いくつかの主な活動のうちの一つ」でしかありません。もっと大きな枠組みの中の「部分」を構成するものにすぎないのです。「ゆとり全共闘」の諸君のように、鍋闘争をメインに置き、しかも松本君のような天才的な話術もなしにそれで仲間を集めようとしても無理です。実際、「ゆとり全共闘」の鍋闘争は、数人で始めるやいなやすぐに当局の職員に取り囲まれ一般学生と分断されて、淡々と中止させられてばかりです。
 しかしもちろん、学生運動は松本君のような天才タイプでなければ担えない、ということではありません。ただし天才でない多くの学生は、松本君のようなド派手な闘争スタイルをいきなり追求するのではなく、マジメに地道な活動を展開するべきなのです。

 現在の大学には、本当にまったく自由がありません。
 ビラまきやタテカン設置やアジ演説も、許可なしには不可能な大学がほとんどでしょうし、仮に許可を求めても許可されない大学がほとんどでさえあるかもしれません。これは本当は異常なことで、後進国に後進国呼ばわりされても仕方ないくらいのレベルです。
 しかしそれが現実なんで、ここから出発するしかありません。
 まずは公認サークルを立ち上げることをお薦めします。
 いくらなんでもサークル活動が認められていない大学はないでしょう、たぶん。公認サークルであれば、新歓期の活動や学園祭がらみの活動はかなり自由になりますし、とくにそういう時期でなくとも、例えば何かの企画に空き教室などを使わせてくれという要求も通りやすいはずです。活動費を支給されたり、部室も確保できるかもしれません。
 もちろん当局が、サークルを公認してくれという学生の要求を無条件に自動的に受け付けてくれるはずもありません。政治的思想的ニオイのするサークルならばなおさらです。
 が、学生運動をやるんなら当局に何らかの要求をする場面はいずれそのうち必ず、しかもちょくちょく出てくるでしょう。こちら側が提起したナンラカを当局に認めさせる、あるいは少なくとも交渉それ自体は成立させる、その練習台だと思えばいいんじゃないでしょうか。サークルを一つ公認させるというのは、交渉ごとの練習としてはかなり適切な設定のような気がします。
 というのも、現実に公認サークルはたくさん存在しているわけです。その存在は、必ず何らかの学則等によって規定されています。サークルを運営する上での権利や義務とか、新設や廃止の手続きなどについても必ず明文化されているはずです。つまり一般論としてサークルを新設すること自体は原理的に不可能であるはずがありません。交渉の腕次第なのです。学則などの明文法を根拠としての交渉なのですから、法曹志望の学生なら(むろんそうでなくとも)将来の役にさえ立つかもしれません。
 順法闘争は闘争の基本です。学生運動に限らず反体制的な運動では、時にあえて違法な戦術にうって出る覚悟が必要な時もありますが、そういうのは「ここぞ」という時だけで充分です。普段から違法な、あるいはギリギリな、あるいはゲリラ的な戦術ばかり用いていては身が持ちませんし、簡単に弾圧されてもしまいます。まずは徹底的な順法闘争を心がけましょう。
 (順法闘争をナメてはいけません。その枠内でもアイデア次第でいろんなことができます。例えば私の東京都知事選だって完全な順法闘争です。そもそも適法でなければ立候補も認められないし、例の政見放送だって放映されないんですから。あまり知られていないだろうエピソードを紹介しておくと、選管が公費で大量配布する「選挙公報」に掲載された私の顔写真は、満面の笑みというか、ニッカーッと気持ちの悪い明らかにフザケた写真なのですが、当初この受理を選管は渋りました。が、私が「公職選挙法には服装等についての規定はありますが『表情』についてはとくに定められてませんよね」と確認を求めると、担当者はしばらく条文とニラメッコして、「確かに何もありませんねえ」と溜め息と共に受理しました。?有段者?の順法闘争とはこういうものです。とにかくまずは順法闘争を極めましょう)
 公認サークルを新規に立ち上げるにあたっては、たいていの(すべての?)大学では、おそらく顧問の存在が必要なはずです。それが教授や准教授に限るのか、非常勤講師とかでもいいのかは私は知りませんが、何か規則にあるでしょう。まずは訊いてみることです。ただしここでいきなり当局に訊きにいくのは危険です。初っ端から要らぬ警戒をされてしまうかもしれません。どうせ顧問は必要なんでしょうから、それを引き受けてくれそうな教官に訊きにいくべきです。
 大学の教員にはいろんな人がいます。思想的にも極右から極左まで何でもいます(極左の方が多いですが)。学生運動の経験者(しかもそのココロザシを持続させてるタイプ)だってちっとも珍しくはありません。あなたの立ち上げようとしているサークルが右翼的なものであれ左翼的なものであれ、それに理解を示してくれる大学教員は(あんまり規模の小さいところは難しいかもしれませんが)必ずいます。もしかしたらすでに頭の中に「あの先生なら」と具体的な顔が浮かんでいるかもしれません。もしアテがなければ、調べましょう。思想傾向が分かりやすいのは文系の教官ですから、その著作や論文に目を通してみましょう。
 「先公なんかみんな敵だ」「大人は分かってくれない」というのは中学生レベルの思考です。いや、ラジカル道を極めればそれもまたアリで、「六八年」の学生運動はむしろ「理解ある先生」をこそあえて徹底攻撃するという非常に画期的なものでもあったのですが、その水準の回復までにはまだまだ遠い現在です。今のあなたが仮に自称「極右」であれ「極左」であれ、客観的にあなた以上にどちらにも偏った大学教員はいくらでもいます(それが現在、学生運動を真に困難にしている高度な原因の一つでもあるのですが)。もし見つからないのであれば、探し方が足りないのだと思った方がたぶん正解です。見つかるまで探すのも修行のうちだと心得ましょう。
 基本的なことを確認しておくと、大学の「当局」と教員集団とは一体ではありません。当局と教授会が対立しているようなケースだってあるのです。単純な例で云えば、教員が労働組合に組織されていて、経営者的な立場である当局と紛争を抱えていることもフツーです。そして新規サークルの許認可権を持っているのは「当局」であり、あなたの交渉相手も「当局」であって、教授会等ではありません。さらにはそもそも教員集団も絶対に一枚岩ではありません。思想的な対立や学問的な対立は(もっとショボい人間関係的な対立も)あって当たり前です。いろんな人がいる中で、あなたの活動に協力してくれそうな人を探すのです。
 で、相談に乗ってくれたり、協力してくれたり、顧問を引き受けてくれたりする教官に行き当たったとしましょう。
 あとはまあ、その先生と一緒に作戦を練って話を進めていけばいいだけなんですが……。
 サークルの名称については、できるだけカマした方がいいと思います。つまり何かホンワカした癒し系な名称ではなく、直球で硬派で大仰な名称にした方がいいということです。「何々問題研究会」的な。
 アタリサワリのないサークルを装って公認を勝ちとったところで、いずれそのうちアタリサワリのある正体が露見すればその段階でモメるに決まっています。「設立趣旨について虚偽の説明があった」とか云われて、せっかく勝ちとった公認を取り消されるかもしれません。どうせモメるんなら、後でややこしいことになるより最初からアタリサワリの匂いをプンプンさせて、当局側もこれを公認するからには「覚悟」を決める、という流れにする方が結局アタリサワリがありません。
 「社会問題研究会」「原発問題研究会」「環境問題研究会」「格差社会研究会」「管理社会研究会」「ナショナリズム研究会」「アナキズム研究会」……。何でもいいですが、重要なのはあくまで客観性を装うことです。「ナショナリズム研究会」だからといってナショナリストの集まりだというわけではなく、「アナキズム研究会」だからといってアナキストの集まりだというわけではなく、「原発問題研究会」だからといって反原発派の集まりだというわけではない「かのように」、少なくとも公認を獲得する交渉の過程では、振る舞わなくてはいけません。
 公認サークルの地位を獲得できれば、学内での活動の自由の幅が断然広がります。部員勧誘も公然とできますし、学内で何かイベント的なことを企画するのもやりやすくなります。
 例えば新歓期でも学園祭でもない時期に何か企画したっていいわけです。空き教室を借りて、学外から誰か、事前に大々的に宣伝さえすれば多少はサークル外の学生たちも興味を持って当日ある程度は集まってくれそうな活動家を、私でも松本哉でも雨宮処凛でも坂口恭平でもチンポムでも山本太郎でも藤波心チャンでも首都圏反原発連合や「レイシストをしばき隊」の人でも「右からの脱原発」の人でも在特会の桜井誠会長でも誰でもいいですが、呼んで話を聞いたり質問攻めにしたりするイベントを企画し、それ自体は人寄せと割り切って、実際に寄ってきた新顔の学生を新しい仲間にする機会として利用すればいいのです。
 が、そういう企画をやるにしても、公認サークルでなければ、空き教室の使用も大々的な事前情宣活動もなかなか許可されないというのが後進国日本の、現在の嘆かわしい大学状況でしょう。
 先述のとおり、いくぶん政治的思想的ニオイのする何らかのサークルを当局に新規に公認させる交渉それ自体が、?学生運動の練習?として丁度よい難易度の例題的水準のように思うので、是非とも知恵を絞っての健闘を祈ります。

 公認サークルとしての活動であれ、非公認サークルのそれであれ、あるいは最初に提起したような学外のインカレ的なそれであれ、私が今現在の時点で学生ならば、そこに集う面々が左右混淆の状態になることを意識的に追求するだろうと思います。「左右対立なんてもう古くさい」というのは単に不勉強な人の決まり文句ですから、私はそういう意味で云っているのではありません。むしろ昨今、ちょっとしたきっかけである日突然左右どちらかの立場を選択し(当人がそのことに自覚的であるかどうかは別問題)、いったん選択してしまうと自分と同じ立場を選択した者たちだけで交友関係を形成し、逆の選択をした者たちとは、たまに単に罵倒し合う以外には一切の関係を持たないケースの方が多すぎるように感じているからです。
 右翼思想も左翼思想も、それなりのものにはそれなりの水準があります。どうも昨今、右派の立場を選んだ者は低水準の左派の言動のみを挙げつらってバカにして、まるで左派全体がその水準であるかに錯覚し、左派の立場を選んだ者も右派に対して同様で、真剣なやりとりがないものだから、結果として左右いずれの側も多くはくだらない水準に堕しています。最終的には左右いずれかの立場を選ぶとしても(そうでない立場が「現状肯定」以外にありうると思っている人はたぶん単に勉強が足りません)、あるいはすでにどちらかを選んでいたとしても、もっと議論の坩堝のような場に身を置いて、悩まなければいけません。もしあなたがすでに右翼なら、魅力的な左翼を探してください。もしあなたがすでに左翼なら、魅力的な右翼を探してください。まだどちらでもないなら、どちらにもアンテナを張ってください。
 私自身、最近もよくやってることですが、左右から一人ずつ(あるいはせいぜい二、三人ずつ同人数)コミュ力のある論客を招いて議論してもらうのは、それ自体がハタで聞いてるだけでも非常に刺激的な体験になります。学内でそういうイベントを企画して、観客として学生を集めてもいいかもしれません。

 左右混淆と云えば、これは「公認サークル」化させるのは難しいでしょうが、我ながら気に入っている学内活動のアイデアとして、「反米同好会」というのがあります。「国際交流サークル」です。とくに留学生の多い大学でオススメです。
 活動内容は単純明快、ちょくちょく集まってはアメリカの悪口で盛り上がるという、ただそれだけでいいのです。もちろん国籍不問で、現在のアメリカのありように批判的ならアメリカ人でも歓迎します。海外に、とくにヨーロッパ以外の国々に留学するようなアメリカ人の中には、アメリカが嫌いなアメリカ人や、嫌いとは云わないまでもどうもアメリカ的なノリが肌に合わないアメリカ人が一定(かなり)含まれているはずです。ましてアメリカ人以外の留学生の中の反米派の率はもっと高いでしょう。
 集まってダベって交流を深めるだけですから、大学当局にとっても(公認するわけにはいかないでしょうが)とくに実害はありません。
 サークル内の?公用語?は英語でも日本語でもかまいません。使用言語ではなく話す内容が重要なんですから。むしろさまざまの言語で部員募集のビラを学内に浸透させましょう。「オルタナティブ国際交流サークル反米同好会・部員募集・毎週何曜何時どこどこに集まってアメリカの悪口を云い合っています」ぐらいのフレーズを二十ヶ国語ぐらいで書き並べたようなビラでいいんじゃないでしょうか。
 すでに半ば示唆しているとおり、「反米」がテーマであれば自動的に左右混淆になります。国粋主義の右翼なら当然断固反米のはずだし、しょせんアメリカニズムにすぎない昨今のハンパなグローバリズムを、真にグローバリズムの名に値するグローバリズムの実現を目指す立場から批判する(左翼的インターナショナリズムとはそういうものであるはずです)マルチチュード派左翼もまあ反米的です。「反米」をシングル・イシュー(?)として、その根拠が国粋主義だろうがマルチチュード派グローバリズムだろうが古色蒼然たる国際共産主義だろうがイスラム原理主義だろうが中華思想だろうが、問わない。集まってダベるだけですから、思想信条がそれぞれ違っても何の問題もありません。
 とっても楽しい国際交流サークルになると思います。むやみに「国際交流」をしたがる学生は時々見かけますが、自動的に盛り上がるには適切なテーマが必要です。

 先述の「ゆとり全共闘」の界隈で、当人は面白くしようと良かれと思って奇をてらってるんでしょうがハタ目には痛々しいことになっている場面をよく見かけ、逆に「フツーの学生運動」というのも思いつきました。
 「フツーが一番。奇をてらうの一切禁止」を自分たちの作風にするのです。なんかコイツあえて面白くしようとしているな、とおぼしき振る舞いは厳しい批判の対象になる。身内だけの場であればともかく、とくに対外的な場でウケを狙うような言動は一切禁止される。
 そんなの面白いのか? と思われそうですが、これは高度に面白いはずです。要するに「フツー」を過剰に追求するのです。
 まず常にリクルート・スーツを着用。仲間内で互いに訓練してでも、相手の目を見てハキハキ喋るようにする。ちょっとした集まりでも、それが公的な場であれば、まず司会者の時候の挨拶から入る(退屈で無内容でアリガチなフレーズ満載の、型にハマったものであればあるほどよい)。二次会の酒の席などで「あれは堂々たるフツーっぷりで素晴らしかった」と笑い合うのはいいですが(無礼講ですから!)、その場ではたとえ吹き出しそうになっても頑張って堪える。
 基本、いわゆる「意識の高い(問題意識はない)学生」の振る舞いをパロディ的に追求するわけです。そのテの振る舞いをマジでやるのはバカバカしくてやってられないでしょうが、ギャグとしてわざとやることは、そういう振る舞いに反感を持っている健全な学生諸君にはむしろたやすいはずです。「(マジで)意識の高い学生」以上に「意識の高い学生」っぽいことを過剰にやる。
 新歓期のサークル説明会的な場であれ、当局との何らかの交渉の場であれ、パワー・ポイントを駆使してプレゼンテーション。当局との交渉がどんなに難航していようとも、時に対決状況にある場合にも、盆暮れには学長や学生課職員へのお歳暮を欠かしてはいけません。むろん接待も可です。
 学習会では、『想像の共同体』だの『帝国とマルチチュード』だの、何の役にも立たない本を読むべきではありません。そんな趣味本は読みたい人がヒマな時に個人的に読めばいい。「フツーの学生運動」サークルが組織的に取り組むべき読書会のテキストは、断固としてビジネス書です。交渉術などを説いた良質のビジネス書が(よく知りませんがたぶんきっと)いくらでもあるはずです。実践に直結する学習会でなければなりません。
 そしてあわよくば、ミイラ取りがミイラになって、「大学当局に数々の無理難題を呑ませてきた私の経験は、同業他社との熾烈な競争や、不当きわまる行政指導の圧力に日々さらされている御社のために、必ずや役立てることができると確信しており」云々と、面接官の目を見てハキハキとアピールしてしまうことにもなりかねません。そうなれば新歓でも「ウチのサークルは就職に有利で……」とますますフツーっぽい勧誘が可能になります。
 とまあ、私は大学生をやったことも就職したこともないフリーマンなのでよく知りませんが、いわゆる「意識の高い学生」にアリガチな振る舞いとか言葉遣いとかはきっといろいろあって、そういうことにはむしろ私より皆さんの方がずっと詳しいはずです。ちゃんと奇をてらうには相当のセンスが要求されますが、「意識の高い学生」の過剰なモノマネをすることは、彼らへの悪意さえあれば、無理して奇をてらうよりずっと簡単なのではないでしょうか。フツーに振る舞えば振る舞うほど笑いがとれる(ただし公の場では仲間たちはうつむいて顔を真っ赤にして笑いを堪えている)という、画期的なアイデアだと思うのですが。

 「フツー」と云えば、「消費者運動としての学生運動」というのも思いつきました。
 詳しくは?秀実氏のムズカシイ本(『小ブル急進主義批評宣言』、『JUNKの逆襲』など)を読めれば的確に分析されていますが、昨今の多くの大学は「学生消費者主義」に陥っています。要するに学生を「お客様」として扱っているのです。「共に真理を追究する学問の若い仲間(あるいはその候補者)」としてではなく。
 とくに人文系の学問を単に机上のそれとして済ますのではなく、その成果を現実に反映させようとすればさまざまの波風を立てることになり、当然学生運動も盛り上がったりしてキャンパスはカオスと化しますが、それは学生が単に「教育サービスを一方的に受動的にのみ享受するお客様」なのであれば学生にとっても迷惑な話であるはずで、清潔で居心地の良い学習環境を保障することも教育サービス業者としての大学の責務の一つですから、「学生消費者主義」に陥った昨今の多くの大学にとって、学生運動などあってはならないものなのです。
 この云わば?業界の趨勢?を覆すのは大変なことですが、考えようによってはこれを逆手にとることも可能です。
 入学案内パンフには、もはや単なる教育サービス産業にすぎないくせして、さまざまの美辞麗句が並んでいるはずです。あるいはどこの大学にも「建学の精神」的な、国で云えば憲法にあたるような、明文化された公式アピールがあるはずですが、それらも歯の浮くような美辞麗句で彩られているはずです。
 それらはつまり大学の「広告」ですが、賢い消費者は「誇大広告」の類を野放しにさせておいてはなりません。
 これは要するに何かやって当局に弾圧された場合の、「処分撤回闘争」的な局面での闘い方のアイデアなんですが、とくに「建学の精神」的な文章では昨今の「学生消費者主義」の風潮が堂々と正当化されているはずもなく、「大学は真理探究の場」的な当局自身が信じてもいないような絵空事が書き並べてあるはずで、学生運動の存在を正当化しうるような(「自主性」だの「創造性」だのといった)フレーズもいくらでも揚げ足とり的に引っぱり放題でしょう。
 学生運動的なことを理由に当局の弾圧を受けた場合に、ヒネリのないところでまず云えば「JAROに訴える」みたいなことですが、もちろんそんなことが処分等を撤回させるに際して有効であるわけがないにしろ、当局側が陥っている消費者主義を逆用して消費者運動としての学生運動の可能性を追求するというのは、掘り続ければ何か出てくる鉱脈のような気がするのです。
 まあこれは、本当に取っかかり部分だけのアイデアです。

 DIY的な消費者運動としての学生運動のアイデアなら、美大限定ですが、一つあります。
 例えば使い勝手のいい自主管理の学生会館やサークル棟を、自分たちの手で勝手に建設するのです。「作品」として。
 最近は都心回帰の傾向もあるとか聞きますが、一時期、もとは都心にあった大学が次々と郊外、というよりド田舎に移転してゆく現象がありました。あれも知ってる人は知ってるとおり学生運動弾圧がそもそもの目的で、学生をさまざまの社会運動を含む外部環境から隔離し、かつ移転に際して一から建設する大学施設をあらかじめ学生運動に不向きな設計にしておくなどの狙いがあります。陰謀がまんまと成功して学生運動を一掃できたので、そろそろ都心に戻ってもいいという声も上がり始めたのかもしれません。
 ド田舎に建設された?学園都市?には大学以外に何もないのが普通です。「学生街」のようなものもあるわけがない。それは寂しいし「大学らしくない」ので、いっそ「学生街」そのものを学内に学生たちが勝手に建設して、飲み屋や雀荘を開業してしまえばいい。そういうことを全部、「作品制作」と強弁して進めていく。
 もともとサークル棟や学館がどうのこうのと、「本分は勉強」であるはずの学生の、余暇を充実させるためのワガママな要求にすぎません。そんなことで当局の手をわずらわすのは申し訳ない。予算も出してもらわなくていい。自分たちで勝手に作りますから……と、まずは建築科の仲間に素晴らしい新サークル棟や「学生街」を設計してもらいましょう。
 もちろん当局がそんなことを許すはずがないです。
 が、そういうことを正当化する芸術理論はいくらでもヒネリ出せるし、べつにわざわざオリジナルに創出せずとも、既成の芸術理論のツギハギでどうにでもなります。学生側がそういうふうに自らの行為を正当化した時、学問的には学生側を擁護せざるをえなくなる教授もいるはずだし、もし本来は擁護すべき芸術流派(ある種の現代美術)に与しているはずの教授がそうしなかったら、その言動不一致を徹底追及すべきです。
 最終的にそんなもん建設できなくてもいいし、(少なくとも現在の力関係では)そもそも建設できるはずもなない。とりあえず建設しようという姿勢を見せて、ポーズ程度に緒についてみせればいいだけです。それで大学全体を巻き込んだ芸術論争を巻き起こせる。多少なりとも?実体?が欲しければ、本格的な建築物ではなく、プレハブや、ちょっと大きめの犬小屋みたいなものでもいいから、既存のサークル棟の脇にでも瞬時に組み立てて、完成するなりもう使い始めてしまえばいい。それを撤去すべきか、「作品」として認めるべきか、もっともらしい議論のタネを、こちら側主導で次々と提供していけばいい。
 さらに云えば芸大では同様の手法であらゆることが可能です。ビラまきも演説も「パフォーマンス・アート」だと強弁して展開できます。キャンパスじゅうを落書きだらけにしたって、いわゆるグラフィティ・アートの有名な例はいくらでもあるのだから、どうにでも正当化できます。「ゆとり全共闘」ではなかなかうまくいかなかった?鍋闘争?も、キャンパスに勝手にコタツを出して鍋をやってる脇に「鍋を囲む人々 何某・作」とでもテキトーに一枚プレートを出しておけば、もう立派に「作品」です。
 学生がそういうことをやったとして、これをアタマから否定する現代美術系の教授がいたとすれば、それはもう大学で教える資格のないアホ教授ですよ。解雇を要求してもいいレベルです。

 これを応用すれば、まあモノホンの芸大よりは難しい闘争になりますが、既成の美術部とは別個に「現代美術部」とか「前衛美術部」とかを立ち上げてそういうことをやる手もあります。それを否定してはならないはずの学問的立場の人文系教授はたいていの大学にいるはずです。

 アホ教授の解雇要求で思い出しましたが、右翼学生運動路線を追求してみたい学生に提案したいのが「レッドパージ闘争」。
 そもそも第二次大戦後すぐに取り組まれた、冷戦期の左翼学生運動草創期の運動テーマに「学園民主化・戦犯教授追放」というのがあります。云うまでもなく、積極的に戦時協力して「教え子を戦場に送る」役割を嬉々として担っていた軍国教授どもを大学から追放せよという運動です。個々にはいろいろあったでしょうが、現に百パー負け戦の戦場へと送られたり送られそうになったりを実体験した当時の学生たちの気持ちはよく分かります。
 「冷戦という第三次大戦」の戦犯教授たちにもそれと同じ目に遭ってもらわなければならないのではないでしょうか? 「スターリニズム加担責任」の追及です。特に、一番見えやすいところで、金正日がついに?自白?するまで「北朝鮮が日本人拉致などやっているはずがない」と公言していた大学教授はいくらでもいます。中には政治学の教授すらいるはずです。そういう連中には大学から出て行ってもらうべきではないでしょうか?
 これはもう、百パー正義の闘争です。アカ教授どもの過去の言動を徹底的に調べ上げて、少なくとも特に悪質と思われるケースでは、「学園追放」を要求すべきです。左翼学生も昔やったことですから、左翼に文句を云われる筋合いもありません。
 これは多少やり過ぎたとしても、そもそも正義は百パーこちら側にありますし、日本政府の立場を考えてもなかなか弾圧しにくいと思いますよ。

 単に私が現在ファシズムの立場に身を置いているからというだけではなしに、もちろんあくまで左翼路線を追求したいという人はそうすればいいとは思いますが、現状では右翼学生運動の方により大きな可能性があると私は考えています。
 まず左翼的な学生運動の可能性については、すでに「六八年」の一連の過程でその限界まで追求されてしまっています。仮にその「先」があるとしても、それを射程に入れるためにまずは「六八年」の水準にまで運動規模やせめて質を回復しなければなりません。
 これに対して、右翼的な学生運動の可能性はまだほとんど追求されていません。ほぼ未知の領域です。これまで右翼の学生運動が存在しなかったわけではありませんが、六〇年代においてさえ、そのほとんどは単に左翼学生運動の猛威に対抗するという受け身的なものでしかありませんでした。右翼学生が、右翼思想をバックボーンに、自ら主体的に、大学当局にさまざまの要求を突きつけるという運動はこれまで聞いたことがありません(あるいは皆無なのかもしれません)。しかし、とくにいわゆる「新自由主義」的な理念を背景に推進されている昨今の大学システム改変の試みやその成果としての大学の現状に否を突きつけるのは、右翼的な立場からでも可能だし、むしろ容易でさえあるのではないでしょうか。
 また、せっかく学問の現場に身を置く学生が主体となる運動なのですから、既成のアカデミズムに対して異を唱えているような側面も?ないものねだり?したいのですが、左翼学生運動の頂点である「六八年」に淵源するポストモダン論やポスト・コロニアリズム、多文化主義などが猖獗をきわめる現在のアカデミズム状況で、さらに「左」の立場からそれに異を唱えることはまず不可能で(それより「左」はたぶんありませんし)、本当に?ないものねだり?になってしまいます。
 しかし右翼学生運動にならその可能性もあるのです。まず何よりアカデミズムの世界では今も昔も左派が主流派です。層も厚く、穏健左派からそこらへんのカゲキハよりずっと過激な極左教授まで、アカデミズムという囲いの中ではそこらじゅうにいます。これに対して右派のアカデミシャンというのは、単なる保守派ならやはり掃いて捨てるほどいるとしても、極右となると、もちろんいないわけではありませんが極左に比べてぐっと数は減り、どこの大学にも必ずいるというほどではありません。つまり左翼的にちょっと過激派ぶってみたところで、たいていの大学にはもっと過激な極左のセンセイが必ずいて、万が一本気で彼らに論争を吹っかけてしまったら逆にグウの音も出ないぐらいにやり込められてしまいますが、右翼の立場に身をおけばそういう事態は相対的には避けられます。さまざまのポストモダン左翼言説が猖獗をきわめるアカデミズムの現状に対して、比較的簡単に否定的なポジションを獲得することができます。
 論理などいかようにも捏造できますから、あなたが大学の現状に関して抱いている不平不満を右翼的に(?憂国?っぽく)正当化することはさほど難しくないはずですし、その立場から大学当局者や現在の大学システム擁護者を「売国奴」「非国民」と罵倒することも容易でしょう。長い歴史の中で、左翼的な学生運動に対しては説得の論理も弾圧の手法ももはや体得しつくしているはずの大学当局の、虚を突くような右翼学生運動、オススメです。

 最後に、直接に私自身の利益(?)にも結びつくようなアイデアを提示しましょう。
 それは、私を大学に呼べというものです。
 「外山恒一」の知名度は、むろん〇七年の都知事選直後に比べればかなり落ちてはいるでしょうが、現在でもそこそこ維持されています。今の学生でも、十人か二十人に一人は私のことを知っていると思われます。もしかしたら、私と違ってここ数年さまざまのメディアに露出するようになった雨宮処凛や松本哉よりも、単に認知度だけで云えば今だに私の方がまさっているかもしれません。もちろんそれは私の思想や行動へのマジメな興味を伴うものではなく、「ニコ動とかでよくネタにされてる変なオッサン」ぐらいのものであるとしてもです。
 学外から誰かを呼んでイベントをやる際に、まずこの「知名度」の問題はかなり重要でしょうが、私の場合はさらに、また引き合いに出しますが雨宮処凛や松本哉とは違って、認知度が特定の層に偏っていない強みがあります。松本哉や雨宮処凛を知っている学生は、もともといくらか政治的・思想的・運動的な方面に興味関心を抱いている学生だと思われますが、私の場合はそうではなく、むしろ非政治的なミーハー層が多い。にもかかわらず、さらに云えば私は松本哉や雨宮処凛と違って、実はかなり正統派の人文系インテリですから、大学という場にふさわしい、多少は学問的の匂いのする議論にも対応できます。これはもう、呼ぶしかありません。
 私を大学に呼んだとして、とりあえず興味本位・物見遊山で話を聞きに集まってくるのは、政治的・思想的な問題意識の有無はさておき、少なくともヘンなもの、危なっかしいものに興味をそそられるアンテナは持ち合わせている学生たちでしょう。要するにみなさんは、そういう学生たちをおびき寄せるエサとして私を利用してくれればいいのです。私は学内に一時的に数時間だけ闖入するにすぎませんが、その場はとりあえず面白おかしく?運動?バナシをやって盛り上げます。そこで生じた熱を維持し、つまり集まった学生たちを学内の何らかの?運動?の仲間としてイベント後もつなぎ止めていくのは、ひとえにみなさんの側の努力にかかっていますが、私がそのきっかけとして寄与することはできると思います。
 ちなみに以下の条件で、私を大学に呼ぶのにとくに謝礼等は要りません。
 私の?講演?は、冒頭に一、二本(例の「政見放送」と他に何か一つ)動画の上映をした後は、最初から最後まで来場者からの質問に答えるという?質疑応答?スタイルです(「京大熊野寮講演会」動画参照。「外山恒一、熊野寮」で検索すると出てきます)。司会役の学生を置いてもらってもかまいませんが、他にゲストは不要です(他にゲストを呼んで対談やシンポジウムのような形態としたい場合は、その人選に私が関与しないかぎり交通費と謝礼をお願いします)。
 私は毎年、何ヶ月か全国各地を放浪しています。その期間に合わせて呼ぶのであれば、交通費も不要です。私が放浪するのはだいたい六月から7月にかけての時期ですが、春休みぐらいの時点で日程を決めて予約(?)してもらえれば、逆に私の側がそれに合わせて全国放浪の日程を組むこともできます。ただ、呼ぶからには少なくとも一ヶ月前ぐらいの時点から、学内できちんと告知活動をしてもらわなければいけません。事前情宣をきっちりやってくれることを前提に、無料で全国各地の大学に出張します。
 全国放浪をしている以外の時期に呼んでくれてもかまいませんが、その場合は交通費のみ出してください。飛行機は怖いんで、新幹線でお願いします。私は福岡市在住なので、博多駅からの往復交通費となります。
 またこれらは九州以外の大学についてのお話です。九州内の大学に私を呼ぶ場合には、逆にこの全国放浪以外の時期にしてください。沖縄を除き、九州内の大学になら(むろん事前情宣をちゃんとやってもらう前提で)常に交通費ナシで出張します。
 また私が無料で(全国放浪期以外は交通費のみで)行くのは、学生が学内でやるイベントに呼ばれた場合だけです。最初に述べたように、学生運動の再建こそ現在の最も枢要な課題だと私が考えており、それに寄与できるのであればそれ自体が私の利益であるからです。九州外では、学生以外の主催によるイベントや、学生が主催するとしても学外でやるイベントには、無料では行きません。
 もちろん、私を大学に呼ぶことにはそれなりのハードルがあるでしょう。事前情宣をちゃんとやってもらうのが条件、ということは、それが公然イベントでなければならないということです。つまり、私を呼んで学内でイベントをやることを当局に容認させなければなりません。
 学生が勝手に使用できるスペースがあり、かつそこでやるイベントの告知(ビラの掲示やタテ看の設置など)まで自由にやれる大学など、現在ほとんどないはずです。したがってまず会場を確保するために当局と交渉する必要があるでしょう。しかも私は、大手メディアにもたびたび登場する雨宮処凛や松本哉と違って、あらゆる見地から見てひたすら怪しい人間ですから、そんなのを学外から呼んでイベントをやることに当局が難色を示すことは大いに予測できます。活動家としてのあなたの手腕が問われるところです。会場を確保できれば、多くの場合はその時点で当局に容認されたことになるでしょうから、当局が許容する範囲で、学内の掲示板などへのビラの掲示などは可能になると思いますが。
 正攻法で難しい場合には、前にも書いたように誰か教授を味方につけることでしょう。教授に会場を確保してもらい、その教授の講義で受講者にビラを配布させてもらうことぐらいはできるかもしれません。また会場確保に動いてくれた教授以外にも、少なくとも理解を示してくれる教授を他に幾人か見つけて、その人たちの講義でもビラを配布させてもらいます。
 あるいは、通常のサークル活動には多少の自由が認められている大学であれば、自分や友人が所属するサークルの名義でイベントを主催し、会場を確保することも可能かもしれません。サークル棟の中に会議室や練習室などの大部屋があり、そこを使用するぶんには必ずしも当局の公認を必要としない場合もあるでしょう。事前情宣は、上記の例と同じように、幾人かの教授を味方につけてのゲリラ的なビラ配布などになるでしょうが。
 ともかく、本来は学生が学外から誰かを呼んでイベントを開催するという程度のことが自由にやれない現在の大学状況そのものがメチャクチャなのです。六〇年代どころか、八〇年代でさえそんな大学はありませんでした。……と嘆いてるだけでは始まらないので、この異常な大学状況を前提として、地道に突破口を開いていくしかありません。実現できるかどうかはともかく、「外山恒一を大学に呼ぶ」つもりでいろいろと試行錯誤すること自体が活動家としての経験値を上げていくことになるでしょう。これまでのところ、学園祭関連企画として以外でこれに成功したのは京都大学と法政大学だけで、いずれもかなり特殊なケースです(いずれも全共闘以来の学生運動がまだ存在しているか、最近まで存在していた大学で、学生自治がおこなわれている京大熊野寮での「外山恒一講演会」の場合には当局との交渉など経てさえいないでしょう)。例えば新潟大学や北海道大学では当局の承認を得られず、学内での開催は実現しませんでした。当局公認ではないゲリラ的な手法であったとしても、もし(事前情宣つきで)呼ぶことができれば、それだけであなたはかなり優秀な活動家だという証明になりそうなくらいです。

 私はまあ、自分でわざわざ云うまでもなく、それなりに豊かな発想を持つ活動家ではあるだろうことは、これを読んでいるみなさんも認めるにヤブサカではないでしょうが、ひとたび?運動?の世界に足を踏み入れれば私と同等かそれ以上にその種の才能を発揮し始める人も潜在的にはけっこう存在しているに違いないと私は思っています。私や松本哉は、活動家になる人間がそもそも少ない世代の中で突出しているにすぎず(もちろんそれはそれで我ながら偉大なことです)、分母が大きければ我々程度の?アイデアマン?はもっとたくさん出てくるでしょう。
 したがって今回私が提示したようないくつかのアイデアは、本当にそれなりの規模で学生運動が復活した時には「たいしたことねーな」と一笑に付されるかもしれない恐怖におびえながら期待しつつ、この「学生運動入門」を終わります。