ファシズム入門

第一章 左右対立図式の整理 ファシズム理解の前提1


 

   「ファシズム」の一般的定義

 序文冒頭に掲げたような、ファシストというのは「常日頃から、戦争とか侵略とか少数民族抑圧とか管理社会化とか悪いことばかり考えている」人のことだ、という誤解や偏見を抱いているのは、何も無知蒙昧な一般大衆に限った話ではありません。
 私の手元にある高校生用の世界史用語集では、「ファシズム」を以下のように定義しています。

 ファシズム fascism 独占資本主義下に出現した国家主義的独裁政治の形態。国家主義・反資本主義・反共産主義を唱え、内では民族主義を鼓舞し、基本的人権・議会政治を否定、経済・思想を統制、外には露骨な侵略戦争を断行した。伊のファシスタ党の運動、独のナチズム、日本の軍国主義が典型。

 これはほとんど、「戦争とか侵略とか少数民族抑圧とか管理社会化とか悪いことばかり考えている」というイメージを、学術用語をちりばめてもっともらしく飾りたてただけの云い方です。
 ファシズムをこのように説明したのでは、やはり「ではなぜ当時、知識人や一般大衆のかなりの部分がファシズムに惹かれたのか?」という疑問は、まったく解けないままとなってしまいます。
 というのも実は当たり前の話で、当の歴史学者自身が、ファシズムの「魅力」をまったく理解していないのですから、よく分かりもしないことを分からないままに説明しようとすれば、こうなる以外にないのです。しかもいわゆる「戦後民主主義」的な価値観が、アカデミズムの世界ではいまだ根強く支配的ですから、一九四五年以前のイタリア・ドイツ・日本の体制は否定されなければならない、という姿勢が、こうした文章の書き手にとって所与の前提となってもいます。
 ここに掲げたおそらくそれなりの歴史学者によるものであろうファシズムの定義は、そもそも重大な誤りを含んでさえいます。イタリアとドイツのかつての体制はファシズムですが、「日本の軍国主義」はそうではありません。「大政翼賛会」的なかつての日本の政治体制は、実はファシズムではありません。それがイタリアとドイツのファシズムに影響を受けていたことはたしかですが、少なくともファシズムの「典型」などではありません。
 近年流行の「自由主義史観」的な右派の歴史学者や歴史教育者も同じように主張しています。彼らも、「かつての日本はドイツやイタリアのようなファシズムではなかった」と云います。そのとおりであると私も思います。しかし彼らは、「だからかつての日本は間違ってはいなかった」と云いたげです。ファシストである私の立場はもちろん逆です。「だからかつての日本は間違っていた」というのが私の立場です。
 この話は、ややこしくなるのでまた後でやりましょう。

   ファシズムは反資本主義?

 先の定義の他の部分、「独占資本主義下に出現した国家主義的独裁政治」とか、「国家主義・反資本主義・反共産主義を唱え」、「民族主義を鼓舞」、「基本的人権・議会政治を否定」、「経済・思想を統制」、「露骨な侵略戦争を断行」などの記述については、完全に間違いというわけではありませんが、そもそもがファシズムに対する悪意、と云って悪ければ否定的評価、に基づいて文章自体が構成されているので、ファシストとしては当然ながら随分と居心地の悪いものに感じられます。
 しかし例えば、ファシストが「反資本主義」を唱えていたことなどは、一般には意外な事実かもしれません。
 このあたり、歴史教育の現場でも混乱があって、私なども実はかつて相当の期間、左派的な教養環境に身を置いていたのですが、そこでは次のような「説明」をよく見聞した覚えがあります。
 つまり、資本主義の弊害として貧富の差の拡大などさまざまの社会矛盾が顕在化する、そのため資本主義打倒を掲げる社会主義・共産主義の運動、つまり左派による革命運動が飛躍的に前進し、これに危機感を持った富裕層がファシズム勢力と結託して、左派の運動を暴力的に抑え込む、かくしてファシズム体制の実現となる、といった「説明」です。
 この「説明」では、ファシストは「反資本主義」どころか、追い詰められた資本主義システムの支配者たちに雇われたガードマン、平たく云えば「資本家の手先、イヌ」のような云われようです。
 しかしファシズムは「反資本主義」を明確に掲げてもいたわけです。
 この「矛盾」を解決するために、さらなる「説明」が追加されます。
 ファシストは、本気で「反資本主義」を云っていたわけではない、それは云わば、資本主義の矛盾に激昂した貧しい労働者階級の人々の気を惹くための方便だったのだ、という「説明」です。その証拠に見よ、かのナチスの正式名称「国家社会主義ドイツ労働者党」には、「社会主義」、「労働者」などと、(当時の)大衆にウケるキーワードがちりばめられているではないか、と。何のことはない、ファシズム批判者が理解不能の現象を目のあたりにした時の常套句、「ファシストは大衆をダマすのだ」という例のアレがここでも使われるわけです。
 一般に流通している世界史の教科書や参考書をいくら熟読しても、ファシズムについてきちんと理解することは不可能であると結論づけて、以下、私なりの「説明」を試みていきましょう。

   「ファシズム」の日本語訳は存在しない

 さて、「ファシズム」という言葉を日本語に直訳するとどうなるでしょうか。
 多くの方は、例えば「全体主義」などの言葉を思い浮かべるかもしれません。
 あるいは「軍国主義」、「国家主義」、「独裁政治」など。
 しかしこれは、いま挙げたいくつかの「候補」を逆に英語などに訳してみれば分かるとおり、ファシズムの日本語訳としてはどれも不適切です。
 つまり「全体主義」はtotalitarianism、「軍国主義」はmilitarism、「国家主義」は(これは異論もあるところでしょうが)nationalism、「独裁」はdictatorshipで、どれもfascismとはなりません(「ファシズム」は英語でも「ファシズム」です)。
 結論から先に云えば、実はfascismの日本語訳はないのです。
 ちゃんとした訳語のないままに、例えば『現代用語の基礎知識』などでは「イタリアのムッソリーニの政治運動とその理論をいったのが言葉の起源。それがやがてひろく他の国の同種類の国家主義運動の総称となった」などと説明されることになるのですが、要するにムソリーニの組織したのが「ファシスト党」(イタリア語では「ファシスタ党」)だったために、以後そういうものは「ファシズム、ファシスト」と呼ぶことになったというだけです。(ちなみにこの『現代用語の基礎知識』での説明も、「ムッソリーニの政治運動とその理論」と「同種類の国家主義運動の総称」としているわけですから、逆に云えばたとえ「国家主義運動」であってもムソリーニのそれと「同種類」でないものはやはりファシズムとは呼べないということが分かるでしょう)

   ファシズムとは団結主義

 ではムソリーニはなぜ自らの思想や運動を「ファシズム」と命名したのでしょう。もちろん、ムソリーニは例えば何かカッコいい響きの単語をオリジナルに発明したわけではありません。「ファッショ」という、ごくありふれたイタリア語の単語がもともと存在しています。
 「ファッショ」とは「束」のことです。「花束」などと云う時の「束」です。
 この言葉は、例えば日本語で「〜の集い」とか「〜の会」とか云う場合の「集い」「会」の意味でもごく普通に使われると聞きます。私はむしろ「〜団」の「団」と云うほうが、ニュアンスとしてはよく伝わるのではないかと思います。
 一九一九年、ムソリーニは「戦闘ファッショ」という組織を作ります。ファシスト党の前身です。
 「戦闘ファッショ」などと云うと、「ファッショ」という単語に何か特別な意味合いがあるかのように感じられますが、少なくともこの時点ではそんなものはなかったろうと私は思います。どの世界史教科書・参考書の類を見ても、この団体名はそのまま「戦闘ファッショ」とか「戦士のファッシ」(ファッシはファッショの複数形)などと記述されており、おそらく「ファシズム」の語源を読み手に理解させようとの意図からそうしているのでしょうが、ここは素直に「戦闘団」とでもしておいた方がいいのではないかと私は思います。
 何か組織を作る時の、「〜の会」くらいの意味合いでしかなかった「ファッショ」という言葉に、-ism、-istをくっつけた時に、「ファッショ」という言葉は特別な意味合いをかもし始めます。
 それにしても「会」主義、「会」主義者とはまことに奇っ怪な表現です。普通は、「〜の会」の「〜」の方に「主義」や「主義者」の言葉が接続されるものですが、ここでは「会」の方にそれがくっついているのです。このこと一つとっても、「ファシズム」というのが極めて特殊な政治思想であることがうかがわれることでしょう。
 つまりファシズムにおいては、その主張の中身よりも、自分たちが一つの「会」、集団を形成しているのだという現象の方に重きが置かれているわけです。
 云い方を変えれば、ファシズムとはつまり「仲間意識」のことであると考えてよいかもしれません。
 私はファシズムを「団結主義」と訳します。ニュアンスとしては正しいはずです。

   戦友的な「絆」

 くりかえしになりますが、ファシズムとは何らかの共通の政治的目標を実現するために団結する、その団結それ自体に価値を見いだす思想であり、その際に掲げられる「共通の政治的目標」の中身についてはどうでもいい、とまで云うと云い過ぎになりますが、少なくとも二の次にしてしまうという、まことにヘンテコな「政治思想」なのです。
 ファシストの党なり組織なりが、まがりなりにも一つの政治結社である以上、自分たちとは違う政治的目標を掲げる他の政治的な党なり組織なり勢力なりと相争うことになります。その時、ファシストの政治結社に結集した個々のメンバーは、「共に闘う仲間」となります。「単なる仲間」ではなく、「共に闘う仲間」です。おおげさな云い方をすれば、「戦友」であるということです。
 このあたり、ファシズムに対する共感をしばしば表明し、また自らも冗談とも本気ともつかぬ口ぶりで時に「ファシスト」を自称する批評家の福田和也氏も、的確に云い当てています。いわく、ファシストの理想とは「戦友的絆による社会の求心化」である。
 ファシストは、たしかに特定の社会全体が、「戦友」的な仲間意識を基盤としたまとまりや秩序のようなものとして形成されることを理想としますが、それ以前に、ファシストの組織そのものが、戦友的な「絆」の感覚によって結ばれているのです。
 話を戻すと、ファシストにとって重要なのは、自らが掲げる政治的な目標以上に、まず自分たちが団結していることそれ自体なのです。

   政治思想で結ばれたヤクザ

 云うまでもなく、これは「ヤクザの論理」です。
 ファシストの組織のありようは、ヤクザとかマフィアのそれに似ています。映画『ゴッドファーザー』に美しく描かれた、「ファミリー」の団結です。マフィアやヤクザは、自分の属する「ファミリー」や「一家」を守りながら、その勢力を伸ばしていくことにすべてを、時に生命すらを賭けます。道徳的・倫理的に善であるか悪であるかではなく、「ファミリー」や「一家」にとって有益であるか否かが唯一絶対の判断基準です。そしてここで重要なのは、マフィアにしてもヤクザにしても、その「ファミリー」や「一家」が必ずしも生物学的な血縁関係だけに基づくものではなく、むしろ多くの場合は自らの意志でまずそこに加盟することから始まる、疑似的な家族・親族の共同体であるということです。いわゆる「義兄弟」や「義理の親子」の盟約が、組織の基盤となります。
 ファシストの組織は、べつにそうした疑似家族の組織ではなくむしろ近代的な政治組織の形をとりますし、マフィアやヤクザのそれとすべてが同じということはないのですが、やはりよく似ていることは確かです。自らの意志で加盟する組織であり、最大の価値はその組織の維持拡大、そして仲間意識の涵養に置かれるといった点はまったく同じだと云っていいでしょう。
 そしてファシストの組織があくまでも政治的なものである以上、加盟に際しては、その掲げている政治的目標を共有することが当然ながら最低限の条件ともなります。
 例えばヤクザは彼ら自身がよく主張するようにいわゆる「任侠道」によって結ばれているのか、それとも彼らを非難する側が云うようにしょせんは「カネ」のための団結なのか、その実態については私もよく知りませんが、ファシストの組織は、もちろん特定の政治的目的の共有がその団結の基盤です。ファシストの組織とは、「任侠道」(もしくは「カネ」)の代わりに、政治思想で結ばれたヤクザである、と云ってしまってもよいと思います。

   「奴ら」と「我ら」

 ふたたび話を戻します。
 ファシズムとはその掲げる政治的な目標よりも、それを共有することによって形成される団結それ自体に第一義的な価値を置く、きわめて特殊な政治思想であり、あえて日本語に訳すとすれば「団結主義」とでもするのが適切であろう、という話でした。
 しかしよくよく考えてみれば、これは政治的な運動を形成するに際しては、ごくごく基本的なことでもあります。「団結」(あるいは、私にとっては「団結」の大衆迎合的な云い換えにすぎないと思われる「連帯」)を口にしない政治運動など、まずありえません。それが右であろうと左であろうとです。
 別の云い方をすれば、現在の最も主要な社会矛盾が何であり(社会に矛盾が存在し、それを是正していこうというのがあらゆる政治運動の前提です)、その矛盾によって利益を得ているがためにそれを今後も維持しようとしている階層なり勢力なりに属する人々を打倒すべき敵として設定し、逆にその矛盾によって苦しみをもたらされている階層なり勢力なりに属する人々を共に闘う仲間として組織してゆく、というのがすべての政治運動の基本的性格なのです。
 つまり、誰が敵で、誰が味方であるのか、それをまず規定するところからあらゆる政治運動は出発します。「奴ら」と「我ら」との間に、明確な分断線を引くこと、このことなしに政治運動は成立しえません。そしてその分断線の「こちら側」の人間をできるだけ多く組織し、団結なり連帯なりを実現して、「あちら側」との決戦で最終的な勝利を目指すこと、政治運動とはすべて、ぶっちゃけてしまえばそういうことです。
 細かいところはハショって、かなり大ざっぱにまとめると、右翼的な政治運動ならば、「奴ら」にあたるのが「非国民」、「我ら」にあたるのが「愛国者」ということになるでしょうし、左翼的な運動ならば、「奴ら」とは金持ち連中つまり「ブルジョア階級」であり、「我ら」とは時給いくら日給いくらで身売りして生計を立てる他ない「プロレタリア階級」ということになるでしょう。その他にも、まあ左翼運動の一種ですが、フェミニズムの運動であれば、「奴ら」とは「性差別主義者」であり、「我ら」とは「男女平等論者」ということになるでしょう。
 右にも左にも、とくに左にはさまざまな思想潮流が混在しており、個々の運動や団体によって細かい違いはいろいろとあるでしょうが、それぞれがそれぞれの言葉や云い回しで、「奴ら」と「我ら」とを峻別し、その間に境界線を引くという作業をおこなっているという点だけは共通しているはずです。
 そして、私の個人的な経験に照らせば、右や左の政治運動によってこれまでに提出されたあらゆる「奴ら/我ら」イメージに違和感を生じ、しかしそれでもなお、「奴ら/我ら」と云う他ないような対立が、自分が現に生きているこの社会には間違いなく存在するという感じそれ自体だけは否定のしようがない、という困難に逢着してしまった時に初めて、右でも左でもない、まったく新しい政治運動のビジョンたるファシズムを発見することができます。

   左右対立は終わっていない

 ファシズムは、一般的には右翼思想に分類されます。
 しかしもちろんこれは、ファシズムに対する誤解や偏見、要するに無理解に基づく誤りです。
 ファシズムに最も近いのは、これは意外に思われるでしょうが、アナキズムです。
 アナキズムは、一般的には左翼思想に分類されます。
 が、実はこれも、私に云わせれば間違った認識なのです。
 読者の中には、私が右だの左だのという言葉を多用することに、違和感や、場合によっては反感を抱く向きもあるでしょう。
 もはや右とか左とか云い争う時代は終わった、一体いつまでそんな古くさい対立図式に縛られているのだ、と。
 近年、とくに一九八〇年代後半から一九九〇年代前半にかけての、いわゆる冷戦構造やその国内版たる55年体制の崩壊以降、こうした「右とか左とか云うのはもう古い」といった話を、それこそ耳にタコができるぐらいあらゆる場面で聞かされるようになりましたが、私は逆に、そうした風潮に激しい違和感、むしろ軽蔑の念を持ちながら、この10数年を過ごしてきました。絵に描いたような、「標本」として博物館にでも飾ってやりたくなるほどの、旧態依然たる右翼や左翼の運動を担っている人間の口からさえ、こうした「いまどき右とか左とか」論が飛び出すことが別に珍しくもないのですから、私の苛立ちはもう言語に尽くしがたいほどに高じています。
 ご存じの方も多かろうと思いつつ、しかしかくも「右とか左とかはもう云々」が云われるようになって久しいために、とくに若い読者の中にはこうした基本的な常識さえ踏まえる機会を奪われてしまった向きもあろうかと思ってわざわざ説明するのですが、そもそも左右対立の構図は、18世紀末のフランス革命直後に形成されたものです。
 世界史は大きく「古代・中世・近代」というふうに整理されますが、フランス革命は、中世から近代への歴史の移り変わりを最終的に決定づけた、世界史上の最重要事件です。大ざっぱには、フランス革命以前が「中世」、以後が「近代」です。もちろん、21世紀初頭であるこの現在も、まだ「近代」の枠内です。
 フランス革命の直後に左右対立の構図ができたということは、「近代」という時代の出発点でそれが発生したということです。つまり近代は常に、左右対立の構図とともにあったのです。もちろんその表面的な現れ方は、時期によって違いますが、左右対立の構図それ自体が消えてなくなったことは、近代という時代が始まって以降、一度もありません。そして今後も、近代という時代が続いてゆくかぎり、それはあり得ないことなのです。
 近年流行の、「右とか左とか云う時代は終わった」という俗論は、冷戦(第二次大戦終結直後から一九八九年の米ソ両大国の和解までの40数年間)や55年体制(自民党vs社会・共産党の対立構図が固定的となっていた一九五五年から一九九三年までの38年間)の時期に特有な形での左右対立が終わった、という意味でなら正しいのですが、また違う形での左右対立が始まるのだという点を見落としているのです。

   「自由・平等・何とやら」

 私のファシズム論の前提ともなりますから、右とは何か、左とは何か、という基本中の基本、初歩の初歩を、ここで簡単に整理しておきましょう。
 先に書いたとおり、この問題をちゃんと理解するためには、フランス革命にまでさかのぼって考えなければなりません。といっても、歴史の本ではありませんから、細かいところは無視して、大ざっぱに整理するにとどめます。
 まずフランス革命が終わらせた「中世」とはどのような時代であり、逆にフランス革命によって始まった「近代」とはどのような時代であるのか、ここのところを押さえておかなければなりません。
 それには、有名な、フランス革命のスローガンについて考えてみるのが手っとりばやいように思います。「自由・平等・何とやら」です。
 ここで「何とやら」と曖昧にしたのにはもちろん理由があります。一般に、「自由・平等・博愛」のセットで流通している言葉ですが、「自由」と「平等」はともかく、「博愛」では何が何やらよく分かりません。実際、多くの人がこの「博愛」はほとんど誤訳であると指摘しているのです。
 「博愛」と云うと、ヒューマニズムとか人類愛のようなものをイメージする人が多いでしょうが、元の「フラタニティ」という欧米語には、そのようなニュアンスはありません。「博愛」は誤訳であると指摘する人々は、多くの場合、「友愛」と訳すべきであると云いますが、それで明白な誤りは訂正されるにせよ、そのニュアンスはやはりぼやけたままです。
 これはファシストつまり団結主義者だから云うのではありませんが、私としては、ここはやはり「団結」と意訳した方がニュアンスは正確に伝わるだろうと思います。「自由・平等・団結」です。
 どうしてその方がよいのかという説明は後回しにして、フランス革命の推進者たちが「自由・平等・団結」をスローガンとして掲げたということは、つまりそれ以前にはそれらが実現されていなかったということです。
 まず「自由」が実現されていなかったというのは、どういうことを指して云うのでしょうか。
 それはつまり権力機構が強大であったということです。権力者が、諸個人の生活における細かな領域にまで介入する権限を持っていたということです。諸個人は、その同意なしに、あるいは合理的な説明を求めることもできないままに、逮捕され処罰されたり、あるいは税金を取られたり、特定の職業や居住地を強制されたりしていました。そういうことは今後はもう認めないぞ、というのがつまり「自由」の要求で、これはとても分かりやすい話です。
 次の「平等」についても理解は容易でしょう。それ以前には強固な身分制というものがあり、王や貴族、あるいは西欧では聖職者の身分と、それ以外の平民との間では、さまざまな差別的待遇が制度化されていました。そういうことはもう終わりにしようということです。

   「同じ国民」としての仲間意識が「フラタニティ」

 そして問題の「団結」です。これが少し難しい。
 というのも、中世のいわゆる封建制社会には、今のような「国民」という発想が希薄だったのだということが、すぐにはピンとこないからです。当時は「国民」などという存在は事実上なかったようなものなのです。簡単に云えば、王や貴族は、自分の国の平民どもよりも、他国の王や貴族との間にむしろ強い仲間意識を持っていました。聖職者にしても似たようなもので、聖権と俗権の棲み分けのようなものがあって、聖職者は自分のいる国の権力組織からは半ば独立した、ローマ教皇を頂点とする国際的な教会組織の一員として自己認識していたりします。つまり中世という時代は、かなり分権的な社会で、それぞれが身を置いている部分社会においてはまとまっていますし権力構造もしっかりしていますが、たくさんの部分社会を統合する中心を欠いていたようなところがあるわけです。別の云い方をすれば、「私は貴族だ」「私は聖職者だ」と自分をとらえている人はもちろんいくらでもいますが、「私はフランス人だ」「私はドイツ人だ」などと感じている人はほとんど一人も存在しない、そんな社会だったのです。貴族や聖職者と平民とを、「同じ国民」と考える発想がなかったということです。
 「フラタニティ」というスローガンには、「これからは、我々は『同じフランス人』である、という発想を持とうではないか」という意志が込められているわけです。身分その他の部分社会的な属性でまとまるのではなく、「国民」単位のまとまりを実現しようではないかということです。フラタニティ、直訳して「友愛」とは、「同じ国民」としての仲間意識のことなのです。

   ナショナリズムは国家主義でも民族主義でもない

 ついでですから、ここで少し脇道にそれます。
 ナショナリズムという言葉は、国家主義、民族主義、あるいは国民主義などとさまざまに訳されます。しかし実は、ナショナリズムの語幹である「ネーション」の意味での「国」は、フランス革命を典型とする、「中世」を終わらせ「近代」を始める契機となったいくつもの歴史的な事件を経て、初めて登場するものです。「国民」としてのまとまりの意識を基盤とした共同体、それが「ネーション」です。ですからこれは、国家機構のようなものを指す「ステート」の意味の「国」とは違うことはもちろん、「エスニック」つまり「民族」とも違う概念です。移民など、民族的な出自が違う者であっても、「同じ〇〇国民」という感覚を持って形成されたまとまりが、「ネーション」です。
 となると、ナショナリズムを「国家主義」と訳すのはちょっとピント外れです。国家主義と云うと、国家権力(つまり政府の権限)を強化すべしというニュアンスになってしまいますが、そういう考え方とナショナリズムとは別のものだからです。また、同じように「民族主義」と訳すのもかなりズレています。ナショナリズムにおいて重要なのは、民族的な出自や血統のようなものではなく、一つの「国」を形成する一員としての自覚だからです。現在の日本で例えるならば、狭い意味での「日本民族、ヤマト民族」に属していようと、「在日朝鮮人」であろうと、あるいは「琉球民族」や「アイヌ民族」であろうと、「日本国」という一つの「国」を形成する「同じ日本国民」としてのまとまりを実現しようというのが、本来の意味でのナショナリズムです。「ナショナリズム」はやはり「国民主義」と訳しておくのが最も適切で、つまり国民単位の発想を定着させようという考え方です。これはもちろん、分権的な社会構造を放置するのではなく、中央集権的な統一国家のシステムを整備しようという発想にもつながります。
 ナショナリズムがいいとか悪いとか、あるいは国家主義や民族主義がいいとか悪いとかの話ではなしに、単に言葉の定義の問題として押さえておいてほしいことです。

   左右対立の始まり

 右と左の話に戻します。
 フランス革命はもちろん勝利して、政治制度に関しては王政や帝政といった「中世」のシステムが廃止され(あるいはイギリスなどのように、残されるとしてもほとんど名目上の存在にとどめられ)、「自由・平等・(国民的)団結」の理念に基づいた、「近代」的な新しいシステムが整備されます。
 議会です。
 すべての「国民」が、社会のありようを自らの意思で決定する、あるいは決定の手続きに参加するのだという、「国民」としての自覚と責任をもって、一人一票という「平等」な資格でおこなう投票によって代表を選び、諸個人の「自由」を可能なかぎり侵害しないことを定めた憲法の枠内で、それら代表者たる議員たちが「国民」の利害に関係するさまざまの物事を決めてゆく、という制度です。
 フランス革命後に発足した議会の様子も、現在の我が国の国会のそれとまったく同じようなイメージを持っていただいて結構です。つまり正面に演壇があり、それと向き合って、数百の議員がそれぞれ所定の席に、ドーナツやバームクーヘンの切れ端のような形をなして座っています。
 この時、たぶん演壇から見てでしょうが、右側の議席に座っていた議員たちを右翼、左側の議席に座っていた議員たちを左翼と総称したのが、政治的・思想的な方向性の意味での「右翼・左翼」という言葉の始まりです。議員たちは、それぞれの思想傾向に沿って、似た者どうし固まって座っていたのです。

   最右翼の王党派から最左翼の急進共和派まで

 では、どのような考えを持った議員たちが右側に、あるいは左側に座っていたのでしょうか。
 まず、右側の議席にいたのは、フランス革命はもう充分に成果を収めた、これ以上の改革は不要、むしろ行き過ぎになると考えていた議員たちです。
 打倒されてしまった当時の王、ルイ16世はまだ処刑されておらず、この右翼席の議員たちの多くは、王政を完全に廃止するのではなく、すでにイギリスがそうなっていたように、王や貴族にほとんど実権のない、「立憲君主制」の形をととのえることで革命を収束させようと考えていました。
 この立憲君主主義者たちが固まって座っている右側議席のさらに右側には、革命を挫折させて、かつての王政を復活させたいと目論む「王党派」の議員もいます。
 ひるがえって議会の左側議席には、革命はまだまだ進行途上であり、少なくとも現時点で獲得された成果では不充分だと考える議員たちが陣取っています。王政や貴族制度を完全に廃止しようという「共和主義者」たちです。王政を単に廃止すればそれでよしという穏健派も、いやルイ16世を処刑すべしという過激派もいます。また、こうして選挙によって選ばれた議員たちによる議会が発足したといっても、実は選挙権を有しているのは一定以上の税金を納めている富裕層ばかりで、もちろん女性にはそもそも選挙権すらありませんでしたから、そうした納める税金の多寡による「制限選挙制」をやめて、財産の有無と無関係にすべての成人男子を有権者とする「普通選挙制」を、さらにはもっと進んで「男女普通選挙制」を、と左翼席の議員たちは主張しました。
 形勢はめまぐるしく変わり、もともと左翼席に座っていた共和主義者たちが躍進して、議席の大半を占めるようになると、今度はその中の穏健な議員たちが右側議席に、過激な議員たちが左側議席に陣取るようになります。
 このように右と左はグラデーションを成していて、今の例では「近代」という新しい時代を切り開いたフランス革命それ自体を否定しようという王党派が最右翼で、これは共和主義者から見ても立憲君主主義者から見ても「おまえは右だ」ということになりますが、立憲君主主義者は、全体の中では右寄りですが、王党派から見れば「おまえは左だ」ということにもなります。共和主義者にしても、まだ王党派や立憲君主主義者が右翼席に大量に陣取っていた状況では「同じ左」として共闘もしますが、主要な対立が共和政を穏健に推進するか、それとも急進的な改革をおこなうかという点に移れば、互いに「おまえは右」「おまえは左」ということになります。
 しかし総じて見れば明らかなように、中世的・前近代的な価値に対して(妥協、さらには維持、もっとさらには復活しようと)肯定的になればなるほど右だということになり、それに代わる近代的な価値(自由・平等、そしてそのための団結)を定着させようという姿勢が強固であればあるほど左ということになります。
 自由や平等といった近代的な価値に対して肯定的であることを「進歩的」とするならば、右と左の対立とは、そもそもは保守主義と進歩主義の対立です。

   「社会主義」の登場

 19世紀に入ると、フランス革命直後には最左翼であった急進的共和主義者のさらに左に、新しい政治勢力が登場します。社会主義者です。
 社会主義がなぜ社会主義の名で呼ばれるのか、実は私もよく分かっていないのですが、おそらく今で云う「社会派」みたいなニュアンスではなかったかと想像しています。
 というのも、実は「社会問題」という言葉そのものが、中世には存在しないのです。なぜかと云えば、ある時期までは、その社会が暮らしにくいものであるとすれば、それは為政者個人の性格や力量によるもので、為政者の首をすげ替えればそうしたことは解決可能であったからです。
 ところがある時期以降、そんな簡単な問題ではすまされない状況へと急速に変化していきます。資本主義の進展ということです。
 フランス革命自体、実は資本主義の急激な発達を助長するものでした。云いかえれば、中世のさまざまの制度が、資本主義の発達にとって足かせとなっていたということでもあります。職業選択の自由がないことはもちろん、王や貴族によって保護された一部の職人団体がさまざまの特殊権益を維持していたり、あるいは商品を流通させようとすればその過程のあちこちに税金がかけられていたりもします。職業選択の自由がないということにも関係しますが、例えば工場で大量の労働者を雇わないことには安価な商品の大量生産など不可能ですが、農民は農民、職人は職人という身分社会には、わざわざ工場に雇ってもらわなければ食っていけないような「なにものでもないただの人」というのがそもそもほとんど存在しないのです。そのため当時成長しつつあった初期の「資本家」の多くは、フランス革命において革命勢力側についたのです。
 ところがフランス革命を典型とする「中世」から「近代」への転換をもたらすいくつもの歴史的大事件と共に、資本主義のメカニズムが全面解放されていくに従い、その弊害もまた目に見える形で次々と表面化していきます。
 資本主義の発達には大量の労働者が必要とされますし、それを困難としていたさまざまの中世的諸制度が次々と撤廃されていきますから、資本家はありとあらゆる手段で、自らが経営する工場で働く労働者を確保します。食いつめた最下層の農民は、なまじ職業選択の自由があるために、そのまま最下層の工場労働者へと立場を移行させてゆきます。労働者を保護するための法律などほとんど整備されていない時代ですから、労働者たちは完全に資本家の云いなりです。多くの労働者は低賃金・長時間労働など劣悪な条件で酷使され、資本家側の一方的な都合で失業する可能性に日常的に直面しています。最下層の労働者や失業者、そして移民労働者たちがスラムを形成しはじめます。こうしてとくに都市部の住民は、一握りの資本家とその他大勢の貧しい労働者とに次第に二極分化していきます。
 このような、資本主義メカニズムの全面開花によるさまざまの深刻な問題は、為政者個人の責任に帰すことができません。これらは誰か特定の極悪な権力者がいるせいで生じている問題ではなく、資本主義という大きなメカニズムそれ自体が生み出している問題だからです。つまり、社会構造そのものをどうにかしないことには解決不能の問題であり、だからこれは「社会問題」なのです。そしてこの「社会問題」の解決を目指す人々が、「社会主義者」と呼ばれ始めるのです。

   左翼思想の代名詞となったマルクス主義

 社会主義者たちの主張はさまざまで、要するに資本主義が悪いのだという認識は徐々に共有されていったとはいえ、どうすれば資本主義を終わらせる、あるいはその弊害を最小限に食い止めることができるのかという具体的な運動の形は、長い期間をかけて試行錯誤されました。
 労働者が団結し、労働組合を作って資本家や政府にさまざまの要求をするとか、あるいは選挙権の拡大によって可能となった、労働者を支持基盤とする政党の議会進出などがおこなわれるようになりました。
 またさまざまの社会主義思想家が誕生し、要するに資本主義においては、一部の資本家がさまざまの産業を運営するために必要な資金(資本)や設備(生産手段)を私有しており、それに対して労働者は自分の体ひとつ以外に何も所有していない、ここにすべての原因があるのだから、資本や生産手段は特定の個人ではなく社会全体の共有財産とすべきだという主張は、かなり早い時期からおこなわれるようになっていました。ここから、社会主義の別称として「共産主義」という言葉も使われるようになりました。
 19世紀半ばから後半にかけて、これら一群の社会主義の主張を整理統合し、資本主義を廃止するための壮大な理論体系を構築したのがかの有名なマルクスです。
 社会主義の思想や運動に、マルクスがもたらしたインパクトはあまりにも大きく、20世紀初頭には、資本主義の弊害を最小限に食い止めるための漸進的な努力を続けようという妥協的な「社会民主主義」の勢力を除く、革命という強硬手段によって資本主義を廃止しようとする非妥協的な社会主義とは、ほぼイコール「マルクス主義」のことであるような状況となります。
 これら一連の社会主義の主張も、「左翼思想」に含まれます。というより、19世紀を通じて拡大・発展を続けた社会主義こそが、「左翼思想」の代名詞的な存在となるのです。
 というのも、社会主義も実はフランス革命の理想を、さらに純化していこうという方向性を持っているからです。フランス革命が、中世の身分制社会を終焉させたことは正しい、しかしそれに代わる新しい身分制が生み出されてしまった、それが資本家階級と労働者階級である、この階級対立を終わらせることで、やっと人類社会は真に「自由・平等・団結」の理想を実現できるのだ、という発想が社会主義の根底にあります。つまり彼らは社会の「進歩」を信じています。中世に比べれば、この資本主義近代ははるかにマシだし、それは進歩である、そしてそれは社会主義の社会へとさらなる進歩を遂げるべきである、ということです。

   「昔はよかった」と「昔よりマシ」

 さきほど右と左の対立とは、要するに保守主義と進歩主義の対立であるとしました。さらに平たく云えば、右も左も「今の世の中はおかしい」と感じ、それを現実に変革しようとする立場ですが、右翼思想は「昔はよかった(あるいは、まだマシだった)」というメンタリティに支えられ、左翼思想は「昔よりはマシになったが、まだまだ不充分だ」というメンタリティに支えられているということでもあります。
 仮に社会というものが少しずつでも「進歩」していくものだとすれば、かつて左翼的な立場に身をおいていた人が、彼の設定する「理想」が実現した時点で右でも左でもない現状維持派となり、彼が望んでいた以上の「進歩」がおこなわれ始めると、「元に戻せ」という右翼的立場へと自らを移行させることになるでしょう。
 逆に、これも「進歩」という発想を前提とすれば、右翼勢力の運動などによって社会状況が「後退」してしまうこともあり得ます。その時にはもちろん、今挙げた例とは反対のことだって起こり得ます。右翼的な立場に身を置いていた人が、当人の期待する以上に状況が「後退」してしまったと感じ、その段階での現状維持的な立場の人よりも自らの立ち位置が左側になってしまうケースです。
 繰り返しますが、右と左とは、真ん中に「現状維持」「現状肯定」の立場を挟んで、グラデーションを成しているものですから、ある立場が右であるか左であるかは、その時々の「現状」如何によるのです。
 しかし政治運動とはすべて現状を変革することを目指すものです。それが政治運動である限り、時間軸のある一点をとらえれば、その「現状」に比して右翼運動であるか左翼運動であるかの必ずどちらかであるわけです。つまり、右と左の対立は、冷戦や55年体制が崩壊しようがどうしようが、現在も絶対に存在するのです。

   「現状維持」は右か左か

 ここで話を少しややこしくします。
 実は現状を維持しようという政治運動もあり得ます。逆に云えば、状況が右や左に変化しようとするのを、阻止しようとする政治運動です。これは、右翼運動なのでしょうか、それとも左翼運動なのでしょうか、それともそのどちらでもないのでしょうか。
 もちろんこれも、右や左というのはそもそも相対的な問題なのだということ、それから、状況はたえず右にも左にも揺れ動いているのだということを踏まえれば、すぐに分かることです。
 つまり、状況が左へ移行しつつある時に(つまり「進歩」局面である時に)、それに抵抗して現状維持を図るとすればそれは右翼的な政治運動であるし、状況が右へ移行しつつある時に(つまり「後退」局面である時に)、それに抵抗して現状維持を図るとすればそれは左翼的な政治運動です。そして、状況は常にどちらかに移行しようとし、局面の変化が完全にストップすることなどありませんから、現状維持の政治運動というのも、やはり局面によって右翼運動であるか左翼運動であるかのどちらかでしかあり得ないということになります。
 もちろん「無関心」という意味で、常にその時の「現状」維持を利する立場もあり、それは実際、右でも左でもない立場ということになりますが、無関心はそもそも政治運動ではありませんから、すべての政治運動は右か左のどちらかでしかありえないというここでの立論とは無関係です。

   左翼思想の根底には「普遍的価値」がある

 さらに話をややこしくします。
 ここまで、フランス革命を挟んで、その前後の社会状況の変化を「進歩」とみなす前提で、右と左を定義してきました。
 では、それを「進歩」とはみなさない、あるいは、社会状況はいろいろと変化し続けるかもしれないが、それは「進歩」とか「後退」とかいった問題ではない、との考えに立って、それでもなお政治活動をおこなうことは可能です。この場合は、どうなるのでしょうか。
 結論から云えば、そのような政治運動はすべて右翼運動です。というよりも、実は本来の右翼運動はそういうものであるはずなのです。
 そもそも社会状況が「進歩」するとは、どういうことでしょうか。
 簡単です。社会状況が、「合理的」な方向へと変化することです。逆に云うと、結局は同じことですが、「理不尽」なことが減っていく方向での変化が「進歩」です。
 そして、実は左翼思想とは、合理的な社会をよしとする立場であり、右翼思想とは、合理的であることが必ずしもよいことであるとはかぎらないとする立場なのです。
 なぜフランス革命が今もって最重要の歴史的大事件であるかといえば、それがそれ以前になんとなく成り行きで起きていたいくつかの歴史的なやはり大事件、つまりイギリスのピューリタン革命、名誉革命、アメリカの独立革命などですが、それらに際して発せられた主張や、それらの地でその前後に実際に生じた社会状況の変化を体系的に意味づけした上で、つまり云わば理念先行の色彩が濃厚な形でおこなわれた革命であったためです。イギリスやアメリカの革命で、蜂起した側が自分たちの行動を正当化するために、実は後づけ的にひねり出したさまざまの理念、具体的には「社会契約説」だの「自然権(いわゆる基本的人権)」だの「三権分立」だのといったデッチ上げ理念が、何か人類が共通に目指すべき普遍的な価値であるかに盛大に流通していた状況を前提として、それに基づいて、あるいは少なくともそれを追い風として実現されたのがフランス革命なのです。だからこそフランス革命は、中世から近代へという世界史の重大な局面変化を、最もよく象徴する標準モデル的な事例となり得たのだとも云えます。
 そしてこのフランス革命以後、何らかの「普遍的」と称する理念に基づいた社会変革の構想が次々と提出され、また実行に移されることがそれこそ「普遍的」におこなわれるようになってきたのです。マルクス主義はその典型です。
 左翼思想とはつまり、何か実現すべき普遍的な価値が存在する、ということを前提とする政治思想です。逆に、そんなものは存在しない、ということを前提とする政治思想が右翼思想なのです。
 それが例えば「基本的人権」とか「三権分立」、「普通選挙制」のようなものであろうと、あるいは「平和主義」、「差別撤廃」、「自然保護」、「多文化主義」といったものであろうと、何らか目指すべき普遍的価値を掲げておこなわれる運動はすべて左翼運動です。

   「普遍的価値」を認めないのが右翼思想

 逆に右翼運動は、それぞれの民族や地域に特有の「伝統的価値」を守ろうというものですが、伝統的な価値はもちろんどれもこれも、普遍的な価値ではありません。それぞれの民族や地域の共同体の長い歴史の中で、突発的なものや偶然によるものも含めたさまざまの具体的出来事の積み重ねや、あるいは疫病や災害などの自然環境的な条件や、さらにはどの民族や地域でも歴史上たまに出現する強烈なキャラクターの言動などが相互に複雑に影響しながら、要は成り行きで形成されるのが伝統的な価値で、当然のことながらそれらは何ら普遍性を持つものではありえず、むしろ理不尽、不合理なものである場合がほとんどです。
 さらに踏み込んで云えば、右翼運動は、伝統的価値を守ることに汲々とするあまり、一切の変化を否定するというものでもないはずです。そもそも伝統的な価値それ自体が、さまざまの成り行きで形成されたものにすぎません。ですから、それがさらに長い時間の経過の中で、成り行きによってまた変化していくことは当たり前のことなのです。しかし、その変化が成り行きでなく、何か人為的に提出された普遍的な価値や理念のようなものに基づいて、意識的に引き起こされることに反対するのがつまり右翼運動だということになります。
 これは先に展開した、相対的な左右の定義ではなく、絶対的な定義です。
 相対的定義を援用すれば、例えばいかに急進的な共和主義を掲げていようが、さらに左の社会主義の立場から見れば右翼思想だということになりますが、絶対的定義を援用するなら、社会主義だろうが共和主義だろうが、あるいはさらに「右」の立憲君主主義だろうがもっと「右」のナントカ主義だろうが、それが実現すべき何らかの普遍的と称する価値を「何々主義」という形で掲げている以上はすべて左翼思想だということになります。

   かつて私は左翼活動家だった

 かくのごとく私は、私なりの政治活動遍歴の過程で、「右とは何か、左とは何か」という問題にしつこくこだわり、思索を重ねて続けてきました。
 それはもちろん、私は一体右翼なのか左翼なのかということが、次第に分からなくなってきたからでもあります。次第に分からなくなってきたということは、つまり当初はそれははっきりしていたということです。
 私はかつて、間違いなく左翼活動家でした。
 私の政治的履歴の出発点は、一九八〇年代後半に日本全国の中学高校に蔓延していた、行き過ぎた生徒管理、つまり理不尽な校則や体罰などのことですが、それに抵抗する「反管理教育」の活動家としてのそれです。
 その時点での私の思想的な立ち位置は、云ってみれば「基本的人権の尊重をもっとしっかりおこなえ」ということで、社会主義も共産主義も知らないただの子供でしたから、先の相対的定義で云うところの、「現状」を真ん中において「ちょっと左」という程度だったでしょう。
 それでも私は当時すでに、自分は左翼陣営の一員であるとの自覚を持っていました。「生徒の人権」を掲げる私の主張や行動に好意的な教員には当然というか何というか、日教組の組合員が多く、日教組が日本における左翼陣営の主要な構成団体の一つであることを、単に知識としては知っていたからかもしれません。あるいは当時愛読していたジャーナリストの本多勝一氏の著作で、氏と対立する思想的立場にある論者が「右翼」とか「右派」(とか「保守反動」とか)と規定されていたために、では我々(私や本多氏)は「左翼」「左派」ということなのだろうと素直に受け入れたのだったかもしれません。
 高校在学中は、左翼といっても極めて牧歌的な水準にいた私ですが、高校を中退し、それでもしばらくは「反管理教育」の活動を継続しながら、次第に本格的に思想的な書物を手にしたり(といっても大半は入門書レベルのものでしたが)、あるいは大人の左翼活動家との交流が始まったり、ついには私自身がマルクス主義に傾倒して、そうなると自分は左翼活動家であるということは、疑う余地のない単なる事実にすぎなくなりました。マルクス主義者となった当時、私は18歳でした。

   異端的極左活動家としての孤立

 私にはそもそもつい極端に走る性向があるようで、当初は古典的・原則的で穏健なマルクス主義者であったのが、自身の思考や感覚の中にある保守的な要素や「世間の常識」の汚染、残滓を執拗に洗い落とすような内的作業を繰り返すうちに(私は思想的に潔癖症でもあるのだと思います)、当然のごとく私はみるみる過激なマルクス主義者へと変貌していきました。実際問題としても、当初はいわゆる「戦後民主主義」を礼讚する日本共産党のシンパだったのが、次第に新左翼党派的な感性になり(もっとも具体的な組織に属したことはありませんが)、20歳の頃には完全に、20年遅れの全共闘活動家でした(いわゆる「ノンセクト・ラジカル」、若い人のために注釈すれば「党派に属さない過激派」になったということです)。
 自分がマルクス主義者であることをやめたのは21歳の時ですが、もちろん挫折して右傾化したわけではなく(少なくとも主観的には)、マルクス主義の範疇に収まりきらないくらいにさらに過激に走ったのです。
 当時の私が具体的にどのような活動をおこなっていたのかという話は私の別の著作なりサイトに別途掲載している活動史年表なりに譲りますが、さまざまの具体的行動と並行しての「左へ、左へ、さらに左へ」という私の内面における思想的ドラマは、10代後半から20代前半にかけて展開されたものです。これはちょうど一九八〇年代後半から一九九〇年代前半にかけて、ということです。つまりまさに冷戦や55年体制が崩壊していくさまを横目に見ながら、私は飽くなき左傾化の道を爆走していたのです。といってももちろん社会状況の変化に知らぬ存ぜぬを決め込んでのことではなく、逆にそうした変化を踏まえてものを考えれば考えるほど、私には自身の左傾化をさらに推し進める以外にないと思われたのです。
 ところが当時はむしろ、左翼陣営を形成する無数の活動家の大半が、私の道行きとは正反対に、その主張や行動を急速に微温化させていく時期でした。「右とか左とかはもう古い」という、幅をきかせはじめた俗論におもねるように、彼らはいかにも左翼的な作風を忌避しはじめ、かつては日和見の代名詞であった「社会民主主義」を称揚したり、ビラの文字を丸文字化したり、可愛らしいイラストを多用したり、「反何々」と云うのをやめて「脱何々」と云い換えたり(近年この傾向はますます進行し、連中はビラや小冊子をフライヤーだのフリーペーパーだの、デモをウォークだのとぬかすようになりました)、果ては先にも書いたように彼ら自身が「右とか左とかもう古い」などと左翼のくせに云いだす始末で、云ってるうちに自身で自身を洗脳してしまうメカニズムがはたらくのでしょう、現在もはや左翼活動家の多くは自身が左翼活動家であるという自覚を欠いています。彼らは「左翼運動」ではなく「ボランティア」や「NPO活動」をおこなっているつもりでいるようです。
 そんな具合ですから、私は私が本来は共に陣営を形成して闘う仲間であるはずなのにと固く信じている左翼運動シーンで、急速に浮いた存在となっていきました。方針(というより作風の選択)をめぐって他の左翼活動家と衝突せざるを得ない場面も激増し、しかも数はあちらの方が圧倒的に多いわけですから、さまざまの薄汚い中傷を含めた罵詈雑言を浴びせられて、結果としては私はその世界から放逐されてしまったのでした。左翼運動シーンに完全に自分の居場所はないと観念したのは25歳頃のことですが、22歳の頃には事実上放逐されていました。
 こうした過程で、「私は現在もまだ左翼活動家であると云えるのだろうか」という自問自答を、私は何度となく繰り返さざるをえなかったのです。私は10代後半に政治的に目覚めて以降、ずっと自分は左翼陣営の一員であると思ってきたし、その後の思想的変化も要は「ちょっと左」だったのが「すごく左」になっていく経路であったし、左翼運動の世界でむしろ尊敬されてもいいところを、なぜにこれほどの迫害をこうむらねばならないのかとその理不尽さに歯がみする思いであったのです。
 20代半ばにして私がくだした一応の結論は、「少なくとも現在の日本に左翼活動家と呼びうる存在は私一人しかいない」というものでした。ゆえに私には、日本の左翼陣営というものを、これから一人で形成していく責任があると思い、また当時は時にそう公言してもいたものです。
 滑稽な話と思われるでしょうが、私は真剣でした。
 今にして思えば、私はやはり状況を見誤っていたのです。

   マルクス主義を捨てアナキストに

 私が当事者として目のあたりにした左翼運動の急激な変質は、もちろん私が当時そう考えたように、彼らが左翼であることをやめた、あるいは左翼陣営から脱落した結果として生じた現象ではなく、冷戦や55年体制の崩壊といった社会状況全体の大きな変化の中で、端的に云えば左翼運動の役割が変化したために生じた現象だったのです。そして、自分こそ最後の左翼活動家であり、またそれゆえに新しい時代の最初の左翼活動家であるという名誉をも手にしたのだと息巻いていた私の方が、むしろこのポスト冷戦の時代状況の中では、もはや左翼陣営の内部には居場所を見いだせない、しかもむろん右翼活動家でもありえない奇っ怪きわまる存在と化していたのです。
 先に、21歳にして私はマルクス主義を放棄したと書きました。現在の私の認識では、実は私はこの時点ですでに左翼ではなくなっていたのです。
 マルクス主義者であることをやめた私は、では何になったのでしょうか。
 当時さまざまの理由から、私はアナキストを自称することを、厳しく自らに禁じていました。しかしやはり私は実際のところ、マルクス主義を放棄してアナキストになったのです。
 アナキズムは普通、無政府主義と訳されます。
 要するに政府なんかいらないということですが、多くの人は「そんな無茶な」と思うでしょう。
 政府なんかいらないというのは、国家権力それ自体を廃止すべしということと同じですが、アナキストがなぜそんなことを云い出すかといえば、国家権力というものは、否応なくその傘のもとに置かれている諸個人の自由を、多かれ少なかれ制限しないではありえない存在だからです。
 アナキストにかぎらず、もともと左翼全般に、国家権力を悪とみなす発想は広く共有されています。もちろん左翼の多くは、悪は悪でもそれは必要悪であると考えているでしょうが。

   自由主義と民主主義は両立しない

 予定していた以上に遠回りをして、なかなか本来説明したいファシズムの話にたどりつかないので、書いている私自身がもどかしい気持ちでいるのですが、ここはその「ファシズムとは一体どういう思想なのか」ということにも実は密接に関わってくる部分なので、やはり丁寧にいきます。
 ややこしい議論になります。
 またもやフランス革命の話です。
 「自由・平等・団結」の話ですが、「近代」の出発点に掲げられたこの3つの理想は、実は必ずしも互いの相性がよくないのです。正確には、「自由」と「団結」、また「平等」と「団結」も両立可能ですが、「自由」と「平等」が問題なのです。
 「自由」の原理を政治的に理念化したものが「自由主義」であり、「平等」の原理を政治的に理念化したものが「民主主義」ですが、自由主義と民主主義とは本質的に対立するという指摘を、実は過去にもたくさんの論者がおこなっているのです。
 自由主義と民主主義は、そもそも発想を異にする、云わば「ジャンルの違う」思想です。
 自由主義とは要するに、国家権力の縮小を求める思想です。自由主義者にとって最も重要な関心事は、国家権力に諸個人の言動をできるかぎり制約させないということで、自由主義者の云う自由とはまず何よりも国家権力からの自由です。極端な話をすれば、たとえその国家権力の行使に関する意思決定が国王一人の手に委ねられていたとしても、実際にその権力の及ぶ範囲がかぎりなく小さく設定されているのであれば、それでまったく構わないというのが自由主義です。
 これに対して民主主義とは、国家権力の行使に関する意思決定に、できるだけ多数の「国民」が関与することを求める思想です。国王一人が決めるよりも、たとえ全体の中のごく一部であっても複数の有力者を、一部有力者だけでなく成人男子全員を、男子だけでなく男女双方を、意思決定に参加させろというのが民主主義者の基本的な要求で、つまり選挙権拡大の程度が民主主義がどれだけ実現しているかを示す象徴的な指標ともなります。最近では、特定の問題については「国民」だけでなく外国人にも何らかの形で投票権を与えよという主張さえ登場していることはよく知られているとおりです。これまた極端な話、「みんなで(多数決で)決めた」結果であれば、諸個人の自由を大々的に制限するような国家権力の強化がおこなわれても、民主主義者としてはまったくそれで構わないのです。
 民主主義にはそもそも国家権力の強大化を招きやすい傾きがあります。全員参加の国家権力なのですから、必然的に国家機構それ自体が巨大で複雑なものとなります。また「自由からの逃走」と呼ばれる問題もあります。圧倒的多数の大衆は、あまり切実に「自由」など欲しないという現実です。大衆には、国家権力からの自由よりも、国家権力による保護を求めたがる傾向があります。
 そしてまさにここに、自由主義の理念と民主主義の理念とが、単に性質を異にするのみならず、いずれは必ず正面衝突してしまう原因があります。
 程度の問題にもよりますが、自由主義者は多少の安全上のリスクを負うことになるとしても、自由を犠牲にしたくないと考えるものです。しかし圧倒的多数の大衆は、わずかばかりの安全のために、平気で自由を国家権力に売り渡します。
 旧西側諸国が掲げていた「自由民主主義」なるものは、旧東側の奇妙な(あくまで自称ですが)「共産主義」体制に、自由主義者と民主主義者とが協力して対抗するためにひねり出された云わば妥協の産物であって、本来そんなヘンテコな「主義」はありません。
 あえてそれらしく整理すれば、「自由民主主義」とは、政治制度としては民主主義的な多数決の原理を採用し、啓蒙的なスローガンとして自由の価値を喧伝することでバランスをとるしくみですが、実態としては民主主義がメインで自由主義はしょせん飾りのようなものです。それでもまだ共通の敵たる旧東側諸国が存在している間は、なんとか取り繕っていられたわけですが、その共通の敵が倒れてしまえば、両者の間にある本質的な両立不能性が顕在化してくることになります。つまり民主主義的な多数決の原理によって、「安全・安心」な社会環境の整備と引き換えに、自由はどこまでも縮小されていきます。

   アナキズムとマルクス主義

 話を少し先に進めすぎました。
 とりあえずはアナキズムについてでした。
 アナキズムとはつまり、近代の出発点に掲げられた理想の一つ、「自由」を政治理念化した自由主義を、最大限に徹底した政治思想です。国家権力はできるだけ縮小すべきであるというのが自由主義ですが、それを徹底すれば当然、国家権力などなくしてしまうべきだという話になります。
 徹底した自由主義者であるアナキストが、民主主義者と対立する局面は、歴史上、現実に存在しました。普通選挙制の導入に際してアナキストがこれに反対したことなどはその典型的な事例といえます。選挙権を持つということは、否応なく国家権力を形成する一員とみなされる、要するに自らも国家権力に取り込まれるということですから、アナキストが本能的に反発するのは当然です。
 しかしそもそも国家権力を完全に廃止するなんてことが、本当に可能であるとアナキストたち自身は思っているのでしょうか。発想というか、気持ちや動機は理解できるが、しょせん非現実的な妄想、おとぎ話の類ではないかと、ほとんどの人が感じることでしょう。
 アナキストがそれなりの政治勢力として存在感を示していたのは19世紀後半ですが、それは既存の雑多な社会主義の思想がマルクスによって整理、体系化されていく時代であり、自身が体系化をほどこす以前のそれらをも「空想的社会主義」と嘲笑的に呼んで一刀両断にしたマルクスにとって、アナキズムなどは空想以前の妄想、お話にならない、論外の存在だったでしょう。しかし実際のところ、次第に社会主義の「統一理論」のようなものへと影響力を拡大していくマルクス主義に反発した社会主義者たちはむしろアナキズムへと接近し、一八六四年に結成された史上初の社会主義者の国際組織「(第一)インターナショナル」の内部では、プルードンやバクーニンを中心とするアナキストと、マルクス本人やエンゲルスを中心とするマルクス主義者との間で激しい論争が繰り返されました。
 フランス革命で提示された近代的な理念、「自由・平等・団結」の理想を徹底した、左翼思想の究極の統合態であるマルクス主義も、実は「国家の廃止」を掲げていました。しかしマルクスによれば、階級というものが存在しているかぎり国家の廃止は不可能であり、なぜなら支配階級が被支配階級を、つまりフランス革命以後の「近代」という時代状況にあてはめれば資本家階級が労働者階級を抑圧する装置として国家権力は存在しているのだから、まずは革命によって労働者階級が国家権力を奪い取って逆に資本家階級を抑圧する装置としてこれを活用、ついに資本家階級というものが一掃された段階で、初めて国家権力は不要となり、その廃止も実現可能となるのでした。
 このように「国家の廃止」というアナキストの専売特許であったような壮大な理想さえ、まがりなりにも現実的で「科学的」なビジョンとして提示したマルクスにとって、そうした具体的な道筋も踏まえず今すぐにでもそれが可能であるかのように云うアナキストなど、聞きわけのないダダっ子の類としか思えません。
 そして結局、アナキズムは展望のない非現実的な夢物語であるとのイメージが支配的となり、急速に影響力を失っていきます。

   アナキストのマルクス主義批判

 しかしこの「国家の廃止」を掲げたマルクスのもっともらしいプログラムに対して、アナキストのバクーニンがおこなった反論は、もちろん対案とまでは呼べませんが、正しいものでした。それは、いくら「国家の廃止」を目標に掲げる階級や勢力でも、いったん国家権力を手中にした連中はそれを手放すまいと躍起になるだろう、しかも実際には、マルクスの提示したようなやり方では、労働者階級の利益を代表すると称する特定の集団が実権を握り、さらにはその特定の集団の利益を代表すると称する特定の個人が実権を握り、要するに現在の資本家階級が握っている国家権力よりもはるかにろくでもない最悪の国家権力が誕生するに違いない、というものでした。ロシア革命が勃発した時、すでにマルクスもバクーニンも生きてはいませんでしたが、ソ連をはじめとする旧東側の「共産主義」諸国は、もしかするとバクーニンの想像をも上回るほどの暗黒社会を実現してしまいました。
 結局、アナキストというものは、「永遠の反体制」のようなものとしてしか存在しえないのかもしれません。頑固な自由主義者として、国家権力の横暴に悪態をつき続ける、またその拡大の兆候に敏感に反応して世間に警戒信号を発する、アナキストに可能なのは、現実的にはその程度のことでしかないのかもしれません。
 あるいは、社会全体のことはもうどうでもいい、少なくとも自分のことは放っておいてくれという態度を徹底させるのも、アナキストが現実におこないうる実践でしょう。税金など払わない(収入が捕捉されるような仕事にはつかない)、その代わり福祉の世話にもならないし、何かあっても警察なんかに頼らない、そういう生き方を徹底するのです。冗談2割本気8割ですが、私はゴルゴ13こそはアナキズムの究極の理想像だと思うのです。
 なんだか話が脇道にそれるのが常態のようになってきていますが、どれもファシズムを正確に理解する前提として重要なことです。説明の道筋がざっくばらんにすぎるというだけで。
 21歳の時、つまり一九九一年に私はマルクス主義を放棄し、アナキストになったのだという話の途中でした。先に述べたとおり、当時アナキストを自称したこともなければ、正直なところ、自分はアナキストであるという自覚も持っていなかったのですが、今にして思えばあの頃の私はアナキストだったのです。

   マルクス主義は必ずスターリニズムを招く

 マルクス主義を放棄したのはもちろん、マルクス主義に基づいて革命をやれば、スターリニズムを結果してしまうのは不可避であるとの説に、納得させられてしまったからでした。
 スターリニズムというのは、簡単に云えばかつてのソ連や東欧諸国、そして現在の中国や北朝鮮のような体制です。「自由・平等・団結」を真に実現しようというマルクス主義の理想を、当事者たちはそれなりに本気で追求したにもかかわらず、その理想とはほど遠い、単なる独裁政治とも異なる独特のグロテスクな暗黒社会が形成されてしまう、それがまあ、スターリニズムです。ソ連でそれを完成させてしまったスターリンの名前が語源ですが、このスターリニズムという言葉は、後に本格的にファシズム論を展開する際、さまざまに意味づけを変えながら頻出させますから、もし知らない人がいたら必ず覚えておいてください。
 マルクス主義に基づく革命は必ずスターリニズムを結果するという説を、私は、笠井潔氏の一連の著作を熟読することで受け入れました。特異な思想家であると同時に、近年では探偵小説の作家としての活躍がむしろよく知られる笠井氏ですが、彼はさらに、革命をふたたび現実的な希望として甦らせるためには、革命に関する思考を、マルクス主義の呪縛から解放しなければならないと云い、私はこの点についてもそのとおりだと納得しました。

   「反共左翼」であることをやめたアナキストたち

 私は一九九〇年代の大半の時期、「反共左翼」を自称していました。論理矛盾だと非難されることもありましたが、これは「反マルクス主義の左翼」(「非マルクス」ではなくあくまでも「反マルクス」)ということで、論理矛盾ではありません。実は後になって知ったことですが、大正時代に一部のアナキストも使用していた言葉でした。
 そもそもマルクス主義の成立期からアナキストはこれに執拗に批判を加えていたわけで、仮にアナキズムも左翼思想の枠内に入れておくとすれば(実際、通常はそうみなされているのですが)、アナキズムは本来まさに「反共左翼」だったのです。
 それでも私が断固として自らがアナキストであることを当時認めなかったのは、何よりも、日本になお細々と存在するアナキズムの運動の多く(というよりほとんどすべて)が、もはやマルクス主義者の運動との間に緊張感を持続させ得ず、むしろ事実上、消極的にではあれその同伴者へと成り下がっている現実があるからでした。マルクス主義と対決する意志を欠いたアナキズムになど、当時の私は一切の魅力を感じなかったし、アナキストを自称することは、そのような「なっとらんアナキスト」の同類に成り下がることであるような気がしたのです。

   ブランキストとして

 また聞き慣れないだろう言葉を使いますが、当時の私は、「ブランキスト」を自称していました。実はこれも、笠井氏の著作の影響によるものです。私が笠井氏の著作を愛読しはじめた一九九〇年代初頭、笠井氏自身が「ブランキスト」を自認していたのですが、その後まもなく笠井氏はこれを放棄したような印象があります。私の方はと云えば、少なくとも二〇〇三年に獄中でファシズムへの転向をはっきりと自覚するまで、ブランキストという自己規定は持続されました。「少なくとも」と云うのは、私はブランキズムとファシズムとの間に、大きな齟齬は感じておらず、あるいは今でも私はブランキストであるのかもしれないからです。
 ブランキとは、マルクスより一世代上のフランスの革命家で、マルクス主義の興隆以前は、「共産主義」と云えばブランキズムのことであったというほどの影響力を持っていた人物です。
 ブランキズムは一般に(といっても今や左翼でも知らない人が多いのですが)、「鉄の規律で団結した少数精鋭の秘密結社的革命党による権謀術数を用いた革命のビジョン」といったものとしてイメージされているのですが、それはブランキの言動を一面的にとらえた云い方で、笠井氏経由の私のブランキズム理解の核心は、革命後の「理想社会」に関する具体的なイメージの提出を確信犯的に放棄した上での、不特定多数の群衆の中にすでに漠然とした形で存在する現状への不満や怒りや苛立ちを、どうすれば一斉蜂起という形に組織できるかという、革命運動の方法・技術の問題に的を絞った徹底的な考察と試行錯誤、というもので、こうしたブランキのスタンスこそが正しい革命運動のあり方であると共感し、その模索を継承するという意味において、私はブランキストを自称したのです。
 この時点ですでに私は、さきほど展開した議論に照らせば実はもはや左翼ではありません。
 というのも、ブランキズムにおいては実現すべき何か具体的で普遍的な価値などすでに存在していないからです。重要なのは蜂起それ自体であって、どんな社会構造が理想的であるかなどという話は、もはや眼中にはなくなっています。
 そして私が当時、アナキストを自称しなかったもう一つの理由がここにあります。アナキズムにはやはり、「国家のない社会」という実現すべき理想が、現実にはそれが実現不可能な理想であったとしても、存在するからです。アナキズムは単に、そこへ至るプログラムを提出していない(提出できないでいる)だけです。
 一九九〇年代のブランキストとしての思索の過程で、私は、やはり革命を実現するためには、「敵」と「味方」をはっきりさせること、はじめの方で書いた、「奴ら」と「我ら」を峻別するための線を確定する作業が大前提になるようだと深く実感しました。そして、「反共左翼」としてマルクス主義の革命イメージを否定するということは、マルクス主義の引く「奴ら/我ら」の分断線とは、別種の線を引き直すということだと思い至りました。
 そしてもちろんそれは、左翼陣営において我慢ならないほどの屈辱を味あわされた私にとって、そこに属する者どもが「奴ら」の側となるような線でなければなりませんでした。さらにもちろん、私が「革命」を指向している以上、現状における支配者たちについても同様です。左翼陣営の構成員と、現体制の支配層の構成員とを、共に「奴ら」としうるような分断線を、私は切実に必要としたのです。
 ファシズムの発見まで、あと一歩です。

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