トリスタン・ツァラの生まれ変わりとして

08年12月執筆
九州ファシスト党員・山本桜子が関係するトリスタン・ツァラの研究誌のために執筆したが、掲載に至ったかどうか失念

 ある人に云わせれば、私こそはトリスタン・ツァラの「生まれ変わり」なのだそうだ。そう云われてみると、もしツァラを信奉する人があれば「不敬」きわまりないと思われようが、思いあたるフシがないでもない。
 「教養のない教養主義者」を自認する私は、トリスタン・ツァラもしくはダダイズムについて、ごくわずかのことしか知らない。20代の終わりに塚原史の『言葉のアヴァンギャルド』を読み、以来時折読み返しているだけで、そこに書かれた以上のことは今もほとんど知らない。
 もっとも私は、そこで紹介されているダダイズムの具体的な実践例に、あまり感銘を受けなかった。バカバカしい乱痴気騒ぎを「芸術」と称して正当化するのは、それを最初に始めた者にしかも短期間だけ許される特権であり、やがて惰性化してつまらなくなる。
 前衛芸術史のオベンキョウとしてはともかく、当時のものであれ現在のものであれ、ダダイズム的な芸術実践に、私はほとんど興味がない。
 それでも私が『言葉のアヴァンギャルド』を時折読み返すのは、ただひとえに「ダダ宣言一九一八」のくだりを味わいたいがゆえのことだ。とても他人が書いた「宣言」とは思えない。あるいは「ある人」の云うとおり、私が「前世」で書いたのかもしれない。

 「今生」の話をしよう。
 一九七〇年に生まれた私は、十代と八〇年代がぴたりと重なっており、つまり私の中学・高校時代はその後の「ゆとり教育」とは正反対の、「管理教育」の全盛期だった。健全な若者は、自身をとりまく環境にことさらに反発してみせなければならず、九〇年代の健全な若者たちが「ゆとり教育」に反発して右傾化したように、八〇年代に健全な若者だった私は「管理教育」に反発して左傾化した。
 以来、今日に至るまでマジメに政治活動を続けてきた。「ダダ宣言」を読むかぎり、ツァラも相当にマジメである。いや、単にマジメなのではない。マジメすぎるのである。過激にマジメなのである。極端なマジメさは、周囲の目にはその正反対のものに映る。
 私もまた、極端にマジメだった。
 「反管理教育」を掲げる中高生グループを地元・福岡で旗揚げしたのは十七歳の時だが、もちろん当初は仲間もなく、まずは仲間を募るところから始めなければならなかった。私は実は当時高校を中退したばかりで、もう学校に通っているわけではないのに学校のあり方に抗議しつづけるというヘンなことになっているのだが、それもひとえにマジメであるがゆえ、そう簡単にスマートな転身は図れなかったのである。むろんインターネットなど存在しない時代だから、仲間を募る手段は基本的に紙メディア、ひらたく云えばビラである。「管理教育」に反対する中高生のグループを形成したいのだから、ビラも当然、中高生にまかなければならない。となると、中学校や高校の校門前で、登校する生徒にまくのが一番であり、私は一人、あちこちの学校に早朝、ビラを持って出かけた。かなりマジメである。
 多くの学校で、教師たちにビラまきを妨害された。大勢の生徒が野次馬的に取り囲む中で教師たちと口論するのは面白く、たまに自由にビラをまけたりするとむしろ張り合いがないと感じた。かなりフマジメである。が、ビラまきを続けなければ観客つきの楽しい衝突も体験できないわけで、つまりマジメなことを徹底的にやらなければ面白い体験も味わえないということを身をもって学んだのであり、私は以後ますますマジメになる。
 そもそもなぜ校門の「外」でビラをまかなければならないのか。学校は公共の場である。「関係者以外立入禁止」と云うが、学校と「無関係」な人間などいるわけがない。ろくでもない教育の結果、ろくでもない連中が大量に生み出されるのは、少なくとも私にはとても迷惑なことで、つまり私が「無関係者」として排除されるべき筋合いはない。
 そこで私はある時期以降、わざと校門の内側に一歩入って生徒たちにビラをまき始めた。たった「一歩」の違いで弾圧の様相は一変する。ふだんはビラまきを許容する「リベラル」な学校であってもまず警察を呼ばれて、衝突はいっそう激しくなる。
 少数ながら中高生の仲間が増えてくると、例えば「どうも明日あたりウチの学校で風紀検査がありそうだ」といった情報も入ってくる。校庭や体育館で風紀検査を実施する学校が多く、私たちは拡声器を持って「現場」に出向き、フェンスを隔てたすぐ外側から盛んに中止を要求する演説をやって、生徒たちの喝采を浴びた。
 しかしマジメな私は、やがて自らの行動に疑問を持ち始めた。「管理教育反対」などと云うが、そもそも「管理でない教育」などあり得るだろうか。「ない」と結論して、私は「反管理教育」の旗を降ろし、「反教育」の旗を掲げ直した。当然、ビラの内容も変わる。登校してきて、校門前で「学校なんか来るな」と大書されたビラを受け取った生徒たちの、キツネにつままれたような表情といったらなかった。
 途中を省略する。
 とにかく私は、そのようにマジメにその時々の自分の課題に取り組んできた。二十歳で学校問題への直接の取り組みをやめて以降も、そのことはまったく変わらない。
 フマジメな(つまり問題意識を徹底的に掘り下げることをしない)市民団体が、「親子でROCK」なるこっ恥ずかしいキャッチフレーズを掲げ、大きなホールを借りてブルーハーツ・コンサートを主催した時には、数千枚の抗議ビラを会場の二階席・三階席から散布して、スタッフと格闘になった。
 「相田みつを」の蔓延に苛立ちを感じた時には、恥ずかしさに耐えて一冊購入し、全ページをコピーして一文字一文字を切り抜き、「生きていてもしかたがない みつを」、「みんな死ねばいいのに みつを」などの「新作」を偽造、大量に刷って街じゅうに貼って歩いた。
 失恋のショックを新しい恋を得て癒そうと、「女募集」と題したビラをこれまた街じゅうに貼って、イタズラ電話に悩まされた。
 フェミニストたちによる「男はみんなこうだ」みたいな決めつけに反発して、男もいろいろであることを示そうと、数人の仲間を招集、各自が普段どんなオナニー・ライフを満喫しているか赤裸々に告白しあう座談会を主催し、『自慰MEN99』なるミニコミとして刊行した。
 そもそも選挙じゃ何も変わらない上に、ますますろくでもない選挙制度改革を進めておきながら、投票にだけは行けという政府やマスコミのキャンペーンに頭にきて、「投票率ダウン・キャンペーン」を展開、「めざせ投票率ゼロ%」、「一票の軽み」、「私は大人です。私は、行かない」などのステッカーをまたまた街じゅうに貼りまくり、当選した奴の得票より棄権した人の数の方が多い、つまり私が支持されたのだという理屈で「外山恒一氏が当選」と大書した特大の「号外」を、開票翌日のターミナル駅構内に貼り出した。
 微罪で在宅起訴され裁判になった時には、裁判制度を徹底的にコケにするパフォーマンスを法廷で展開、裁判官を激怒させ、複数の弁護士や司法担当記者までもが「執行猶予つき有罪判決」以外にあり得ないと云っていたショボい「犯罪」なのに実刑判決を受けて服役した。本来ならショボい一般刑事犯であるところ、裁判官にもともと何が問題だったのかを忘れさせ、事実上「法廷侮辱」を処罰されたのだからと自信を持って「私は政治犯」とイバれるようになった。
 別の(!?)裁判では、傍聴人にだけ見えるよう背中に「全部私がやりました」と書いたTシャツを製作して法廷に臨み、正面の裁判官に対しては「私は何もやっていない」と無罪を主張するなどのやはり「法廷侮辱」を繰り返して裁判官をまたまた激怒させ、検察側求刑の八倍という前代未聞の罰金刑を宣告された。
 〇七年の東京都知事選に正式立候補しての政見放送については改めて書く必要もなかろう。知らない人はネットで検索して見るとよいが、五分足らずの演説中、聴き手を飽きさせないための「脚本」や「演技」の工夫こそあれ、本気で思っていないことは一言も口にしていない。「アナーキー・イン・ザ・UK」に匹敵する日本発のパンク・ナンバーを、私の政見放送演説以外には探せないはずだ。

 以上列挙してきたのは、過去に私が展開した「政治活動」のほんの一部である。思わず「ツァラの生まれ変わりか!?」との声が上がるのも我ながら不思議ではない。自称ダダイストのそれも含め、同時代のさまざまの前衛芸術作品にもいくらか目配りしてはきたが、「負けた」と思ったことは一度もない。
 戦後まもない頃、「政治と文学」論争というのがあったと聞く。当時は文学に代表された「芸術」は、「政治」(当時は要は共産党のそれ)に従属し奉仕して初めて価値があるのか、それとも「芸術」にはそれ自身の固有の価値があるのか、という論争だ。むろん「芸術」派が勝利したし、それから半世紀以上を経た今、「芸術は政治に奉仕すべし」などという「珍説」を唱える者などもはや皆無と云ってよかろう。
 しかし思うにこの芸術の「自立」こそが、その今日の目を覆うべき惨状の出発点だったのではないか。長らくアナキストであったが、近年ファシストへと転向した(従ってダダイズムよりはむしろ未来派に親近感を覚えるようになった)私は、今こそ断固として「芸術の政治への従属」を訴える。政治的な抑圧の存在しないところに「自由な表現」など成立し得ず、「自由な表現」を感じさせない芸術は芸術の名に値しない。
 ファシズム革命政権樹立の暁にはまず、前衛芸術に対する徹底的な弾圧をおこなうつもりだ。しかし考えようによっては、「前衛芸術を徹底的に弾圧する」という以上に前衛的な、なかんずくダダイズム的な芸術行為はないとも云える。