どうも私はかなり頭がいいらしい

15年6月執筆

 スガ秀実氏や千坂恭二氏のように本当にとんでもなく頭の良い人を目の当たりにするとシュンとなってしまうが、私は基本的には自分のことをかなり頭が良いと思っている。もっと正直な云い方をすると、実際そんなに頭が良いとは思っていないのだが(むしろ自分の頭の悪さに苛立つことが多いのだが)、そのようにあんまり大したことないはずの自分が、どうも世間の大多数の人よりは圧倒的に頭が良いらしいと衝撃を受けるケースにたまに見舞われるのだ。
 私は不勉強ではある。例えばいわゆる名著、名作文学の類はほとんど何も読んでいなかったりする。が、ある時、気まぐれでカミュの『異邦人』を読んでみると、それまであちこちで見聞きして私も漠然とそういうものなんだろうと受け取っていた(もちろん大部分は世間的にインテリとして通っているはずの人たちが書いた)『異邦人』評がまったくデタラメであることを疑問の余地なく確信した。
 “不条理を描いた”ことになっているのだが、それ自体は確かにそうなのだ。だが、“不条理”なのは主人公のムルソーではない。ムルソーは明らかに“ごくフツーの人”として描かれていて、もちろん人を殺してしまうのだが、何か異常な動機のようなものがあるのでもなんでもなくて、要するに“つい魔がさして”衝動的に殺してしまうだけなのだ。それがどういうわけか、殺人の前後のムルソーの何とはなしのさまざまな言動(要は気持ちの整理がつかなかったからなのだが、結果として母親の葬儀をすっぽかしたとか)が、ことごとく悪い方へ悪い方へと解釈されて、あれよという間に稀代の凶悪犯のように見なされ、死刑に処せられることになる。もちろんムルソーは状況をよく理解できずに戸惑い続け、しかし処刑台に上がる最後の最後の場面で、その不条理に対して怒りを爆発させ、自分はそんなものに屈しないと意を決して、昂然と誇り高く死んでいくのである。つまり、“不条理”なのは主人公ムルソーではなく、ムルソーが置かれた状況、要するに“社会”の方なのだ。作者のカミュは、明確にそのように描いている。
 ところが自他称インテリを含めた世間の大多数の“解釈”(明らかに単なる誤読であって、私はそんなものを“解釈”だとは認めないが)では、カミュは、大した理由もなく人を殺し(“魔がさした”程度のことだからもちろん明確な動機はない)、なぜ殺したのかと問われると「太陽が黄色かったから」とかワケのわからないことを云う“不条理な人間”を描いたかのように云われている(実際には、「魔がさしたんです」と云えばいいし、それぐらいの返答が求められている場面なのに、ヘンにマジメなムルソーは「自分はなぜ“魔がさした”んだろうか」と自問自答する方向に行ってしまって、あれこれ考えたあげくに「あんまり太陽が眩しかったんでクラッときたんじゃないかと思います」みたいなことを云ったにすぎない)。訳者なり専門家がきちんとチェックしたはずの、その後しかも専門家を含めて少なくとも何十万人かが手にしたはずの、新潮文庫版の裏表紙にすら、おおよそそういう誤釈の方向での記述が今なおまかりとおっている。
 もちろん私は専門家ではないので、私が簡単に記したような“正しい解釈”が専門家の間でどの程度に流通しているのか、あるいはまったく流通していないのか、よく知らない。最も人口に膾炙している新潮文庫版のデタラメな“品質表示”が改められないことからも、たぶん後者に近いのだろうと推測はされる。私が見聞きした中では唯一、ドラマ『相棒』の初期の方の回で、早熟な小学生が『異邦人』を読んでいて水谷豊に感想を問われ、「主人公はごく普通の人間だと思う」と答えて、「ちゃんと読めていますね」とホメられる、という場面があっただけだ。作中のエピソードとしては少し唐突で、もしや脚本家は私の文章を読んだことがあるのではないかと勘繰ったほどだ(私はこの“正しい解釈”を、“政治犯として2年間投獄され”るに至る裁判闘争の過程で、当時のサイトで公開していたことがある。当時の私は現在の百分の1以下の知名度ではあったろうが、知ってる人は知ってたし、アンテナのある人はとっくに注目していた)。
 ともかく、世間の“専門家”や“インテリ”の圧倒的大多数はこの私より遥かにバカであるらしいと気づかされた、衝撃的な読書体験だった(もちろん内容的にも“さすが世界文学”だった)。
 セックス・ピストルズの「アナーキー・イン・ザ・U.K.」の歌詞誤訳問題については、他の文章で詳しく書いたとおりだ。
 私は獄中で短歌に凝って、出所後も1年ぐらいは関心が持続して、関連書籍をいくらか読んでいたが、その時にも“世間”のバカさにかなり衝撃を受けた。どうやら俳句や短歌のリズムがエイトビートである(というか例えば俳句なら“三三七拍子”の最初の“三”がないだけ)という明白すぎるほど明白な事実についての認識が、俳句や短歌の世界ではまったく一般化していないらしいのだ。私なんか、獄中で自分で作歌し始めるまでもなく、そんなことは“常識”だと昔から思っていた。もちろんこんな当たり前すぎることは私だけが気づくものでもなく、私は、「短歌は(俳句は、だったかもしれない)エイトビートだ!」と力説する誰かの文章を読んで、「え? その認識は共有されてなかったの!?」と衝撃を受けたのだ。
 それとは別の文章だったと思うが、誰かが俳句のリズムについて書いていて、字余りでない正調の俳句を“自然に”口に出して読む場合、普通は「タタタタタン、タタタタタタタンタタタタタン」になるが(もっと正確に書くと「タタタタタンンン・タタタタタタタン・タタタタタンンン」である)、たまに真ん中の7音の部分が、「タタタタタタタン」ではなく「ンタタタタタタタ」といわゆる“ウラ拍”から入るものがあるようだという。
 誰でも知ってるような例をあげると、まず“ウラ”から入らない“タタタタタタタン”型の7音の俳句には、「夏草や兵共がゆめの跡」、「秋深き隣は何をする人ぞ」、「五月雨を集めてはやし最上川」、「春の海終日のたりのたりかな」、「五月雨や大河を前に家二軒」、「われと来て遊べや親のないすずめ」、「痩蛙まけるな一茶是に有」などがそうである。下2句はそれぞれ「つわものどもがンゆめのあとンンン」、「あつめてはやしンもがみがわンンン」とかである。
 このことを指摘した文章では、“稀に”というニュアンスで書かれていたんだったか、単に“どうも2種類あるようだ”というだけの話だったかよく覚えていないが、“ウラ”から入る例も実はいくらでもある。有名どころでは例えば、「古池や蛙飛び込む水の音」、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」、「柿くえば鐘がなるなり法隆寺」、「菜の花や月は東に日は西に」とかである。これらは「ンかわずとびこむみずのおとンンン」、「ンかねがなるなりほうりゅうじンンン」とかである。
 私が読んだその文章では、ともかく“どうやら2種類ある”という話で、それらがなぜそうなるのか、というメカニズムの説明はなかったと思う。
 私は感心した。確かにそうだ。2種類ある。その文章を読むまでまったく気づかなかった。すべて「タタタタタタタン」であるような錯覚を私自身がしていた。ものすごい“言葉の神秘”を目の前に突きつけられたような気がした。
 へー、面白い面白い、と私はいろんな有名俳句を集めて、あ、これも“ウラ拍”だ、これもそうだ、としばらく楽しんだ。が、2時間ぐらいで“真相”に気づいてしまった。
 何のことはない。もともと4拍子というか8拍子というか、要するに1小節に8分音符8つが3小節ぶんなのが俳句である。上下の5音句は、8分音符5つと8部休符3つで、休符は3つとも小節の末尾に固まって、もしかしたら例外もあるかもしれないが、思いつかないし、たぶんない。問題は真ん中の7音句である。これも小節そのものは8分音符8つで、7音だから1つが8分休符になる。それが小節の先頭になる場合と末尾になる場合の2種類がある、という話である。で、どちらになるかを、何が規定しているのか? 実は“神秘”でもなんでもない。文節的に3・4で切れる場合は休符は先頭に来て、4・3なら末尾に来るというだけの話である。基本、4・4なのだ。足りない方が空く。“ウラ拍”から入る例の真ん中の7音句は「かわず/とびこむ」「いわに/しみいる」「かねが/なるなり」「つきは/ひがしに」ですべて3・4であり、“ウラ拍”から入らない他のものは「つわもの/どもが」「となりは/なにを」「あつめて/はやし」「ひねもす/のたり」「あそべや/おやの」「まけるな/いっさ」ですべて4・3である。それだけのことだ。
 “謎”を提示されてから私は2時間ほどでこのミもフタもない結論に達したが、たぶん俳句界ではこの認識は今なお少なくともほとんど共有されてはいないはずである。
 “専門家”どもってほんとにアホだな、と短歌・俳句に関して思ったことは他にもある。“英語俳句”についてである。俳句は“世界一短い詩型”というのが本当なのかどうか知らないが、とにかく何かすげー、ということで俳句に凝る西洋人も多いらしい。で、英語で俳句を詠もう、ということに当然なる。だが日本人指導者たちは、どうも「五七五」という“常識”に呪縛されて、たいていは5音節・7音節・5音節の“英語俳句”を詠ませてしまうのである。5単語・7単語・5単語、というのもあったような気がする。なんだコイツら、専門家ヅラして、俳句のことなんか何も分かっちゃいないじゃないか、と私などは呆れてしまう。“英語俳句”をやるなら、断乎として3音節・4音節・3音節、以外はありえない。俳句のリズムは、“三三七拍子”の最初の“三”がないやつ、だからである。意味的に詰め込みうる内容の点でも、日本語の十七音は英語の十七音節より遥かに厳しい制約で、おそらく英語で十音節ぐらいでちょうどいいバランスのはずである。
 ……とまあ、何かにちょっと興味を持ってその世界をチラッと覗いてみると、門外漢のくせに「コイツらみんなアホじゃないのか?」と思ってしまう経験を時々して、もともと私はそんなに頭が良い自覚はないのだが、どうも“客観的には”かなり、並外れて、とんでもなく頭が良いのだろうと考えざるをえないのである。
 このところ、英語を猛勉強している。目的は“読み書き”なので、話したり聞いたりはそれほどのレベルにならなくてもいいと思いつつ勉強しているのだが、一応、単語を覚える時には発音もいちいちチェックしている。まあ、“LとR”の聴き分け、云い分けなんぞはハナから諦めており、YouTubeとかで「light、right」「long、wrong」などと外人サンがゆっくり云ってくれてる動画を繰り返し見ても何がどう違うのかまったく分からない。たぶん「ジ」と「ヂ」も私には一生聴き分けられなさそうだし、vとb、sやzとthさえも聴き分けられる自信がものすごくない。
 そんなレベルのくせに、英語の発音に関して、たぶんまだ誰も指摘してないんじゃないか、というある重大な“事実”に気がついたので、それを今回どうしても云いたいのである。
 「ae(例の音声記号がうまく入力できないので以下『ae』と記述する)」のことだ。中学校で初めて英語を習い始めた時にも「アとエの中間」と説明されたし、たぶんすべての参考書や辞書にそう書いてあるし、それ以外の説明を聞いたことがない。
 しかし何のこたぁない、“小っちゃい「ャ」”じゃないか、これは。
 そう思って「cat」の発音記号を見たら案の定、単に「kaet」と書いてある。中学生向けの参考書なんかで片仮名表記する場合にも「cat」は「キャット」である。「カット」と表記してあるのは見たことがない。だったら「bat」も「ビャット」のはずだし、「mat」も「ミャット」のはずだ。「begin-began-begun」は「ビギン-ビギャン-ビガン」のはずだ。そういう片仮名表記の単語帳などもあるかもしれないとは思うが、「aeは要するに小っちゃい“ャ”です」という説明はおそらくあるまい。
 もちろん「sae」は「シャ」ではない。それではsh系の音になってしまう。「セャ」ぐらいの表記がしっくりくる気がする。「zae」も「ゼャ」、「tae」も「テャ」とかだろう。shやchのaeを素直な「シャ」や「チャ」と区別してどう表記しうるかは分からない。「fae」は「フャ」で「ファ」と差異化を図ればいい気がするし、「vae」も「ヴャ」で「ヴァ」と書き分けられる。実際、正しい日本語の文字感覚があれば、「サ」と「シャ」と「セャ」、「ザ」と「ジャ」と「ゼャ」、「ファ」と「フャ」、「ヴァ」と「ヴャ」は云い分け(音読し分け)られるとも思う。「hae」は「ヒャ」とは違う気もするが、しかし「hat」をただ片仮名読みしちゃうとして、「ハット」と云うよりは「ヒャット」と云った方が外人サンに聴きとってもらえそうな気はする。子音のない単なる「ae」は、ちゃんと書けば「イャ」とかだろうが、外人サンに聴きとってもらうには、いっそ「ヤ」と云ってしまってもいい気がするので、私は例えば「南極」は「ヤンタークティク」と覚えることにした。
 この(少なくとも私にとっては)衝撃的な事実に、実は今回ではなく10年ほど前に獄中でちょっと英語のおさらいをしていた時に気づいたのだが、英語教育方面で誰か公然と云っている人はいるのだろうか? 私は30を超えてやっと気づいたわけだが、中1の頃に気づいておきたかったし、気づいている人がいたのなら教えてほしかった。