幻の単行本原稿『アナーキー・イン・ザ・選挙』2

都知事選開始直前に出しませんかと途中まで書いて
   いくつかの出版社への打診に使用したもの。
   結局どこも引き受けてくれなかった。
2007年1月ごろ執筆。

----以後、外山さんの生活形態はそのまま変わりませんよね。
 「基本的にはそうです。八九年末からですから、もうかれこれ丸十七年間も弾き語りの投げ銭で生活しています(笑)。さすがにそれだけ長いと、中には比較的文筆収入の多かった時期とか、あと二年間獄中にいたとか、ヒモとか居候とかで誰かに食わせてもらってたなんて時期も多少ありますが、まあ」
 ----話を戻しますが、DPクラブ解散直後には、どういう展開を考えていたんですか?
 「いや、展望を失ったからやめたんですよ。自分の云ってること、書いてること、やってること、すべて正しいと思うし、だけど現実には敵をひたすら増やすばかりで、まして具体的に社会状況を変えるなんてとうていできそうにないとハタと気づいて立ち止まってしまったんですから。これが、自分に何か落ち度があるとかであれば、それを改めればまた新しい展望も拓けるんでしょうが、どう考えても私が正しいんですから(笑)、それはもうどうしようもないですよ」
 ----でもそれまで依拠していたマルクス主義は間違っている、と思ったからそれを放棄したわけでしょう?
 「ああ、それはありますね。しかしちょっとニュアンスが違うんですよ。マルクス主義は正しいんです。むしろ正しいから間違うんですよ。簡単に云うと、まああなたが仮にマルクス主義者だとします。当然、マルクス主義は全面的に正しいとあなたは思うわけです。政治思想の話ですから、宗教みたいにひたすら盲信してるわけではなくて、自分なりによく検討した上で、論理的に正しいと納得しているからあなたはマルクス主義者なんです。しかし、ここにあなたと考えの異なるA君がいます。あなたがどんなにA君を友人として好きであろうと、それとは無関係にA君は間違った人間であるとしかあなたには思えないはずです。そう思えないようではナントカ主義者とは云えないというのは分かりますよね。これが日常的というか、のんびりした状況の中での話なら、別にたいした問題は生じません。ところが非日常的な、切迫したシビアな状況下では、間違った人間であるA君を殺してもよい、いや殺す以外の選択は正しくないということに必ずなるんです。マルクス主義であれなんであれ、何かの主義者になるというのはそういうことです。で、我ながらこれはマズいぞと(笑)。いや、過去にそこまで徹底してみた人が誰もいないんなら、あえて自分はそこまで行ってみる、人でもなんでも殺してみる、それが正しい行動なんだから、その先に何らか展望が拡けてくるかもしれないですよ。でも、そこまでやってみた人は歴史上もうこれは掃いて捨てるほどいるわけですよ。連合赤軍事件というのはそういう事件ですよね。そもそもソ連でレーニンもスターリンもやったことです。そしてその先には肯定的な展望なんか何もなかったことがすでに明らかになってます(笑)。だから同じようにやってみるわけにはいきませんよね。しかしここから先が実はもっと重要なんです。だってマルクス主義は正しいんですよ。でも、正しい思想信条を保ち続けることが、どう考えてもろくでもない結果をしかもたらさないんです。これは困るでしょ?」
 ----困るでしょうね(笑)。
 「だからもうどうしようもないんですよ。ここから先へは行けない。自分は正しい、しかし正しいことは、正しいがゆえに必ず間違った結果をもたらす、じゃあ一体どうすればいいんですか(笑)。だから、私がそれまでの反管理教育運動の中で自分は正しいことを云ってきた、という自負と、正しいとしか思えないマルクス主義を放棄した、ということとはそんなふうに私の中ではリンクしているんです」
 ----実際に何かそういう、シビアな状況が具体的に存在したんですか?
 「私の具体的な経験は実際にはショボいレベルのことです。例えば私の、というよりもその頃にはすでに私たち同志の間ではとうに共通認識になっているはずの何らかに、明らかに矛盾するような言動を同志の一人がおこなったとしますよね。私たちは当然、まあ具体的状況にもよりますが、基本的にはそいつを糾弾します。糾弾される方も、認識を共有している同志ですから、自分の方に非があることは分かっているわけです。これは、糾弾する方もされる方も地獄ですよね。そういう場面が、とくに後退期に入るととにかく増えるんですよ。敵を粉砕することで状況を突破できないと、仲間どうしの自閉的な空間で、互いの落ち度を責め合うようになる。仲間のおまえがそんなふうだから我々は敵に勝てないんだ、ということですよね。そのうちみんな消耗して、櫛の歯が欠けるように仲間が一人二人と脱落していきます。私は正しいんで(笑)、主に糾弾する側だったんですが、気がついたら仲間がどんどん減ってるんですよ。たまたまというか、もしかすると必然なのかもしれませんが、そういうキビシイ時期に連合赤軍のこととかを読んで知ったりするわけですね。あれれれれ、おんなじだぞ(笑)。私たちの場合はまだ国家権力や、あるいは敵対する反管理教育運動の主流派の人たちなんかと、殺す殺されるみたいなシビアな状況になるはるか手前の時点での内輪モメですからそうヒドい結果にはならないけれども、七〇年代とかだったらかなりヤバいぞと(笑)。それでまあ、正しくあることは放棄しようと、こうなったわけです」
 ----しかしそれでは確かに活動の新展開、みたいな感じにはならないですね。
 「ええ(笑)。だからこの時期、私は本当にきついんです。とりあえず街頭ライブだけは続けて食いぶちを確保しながら、具体的な活動はほぼ完全にストップですね。読書はしました。実はそれまであんまり本を読んでいないんです。まったくゼロではないですが、活動が盛り上がってる時には、忙しくて本なんか読んでる時間はありませんからね。たまたま何かのきっかけで視野に入ってきた本を読んで、感銘を受ければその本ばっかり何度も繰り返し読む、とまあ活動に忙殺されている時期の読書はそんな感じです。ところがその活動がストップしてしまったもので、本を読む時間ができたんです。年譜にもあったとおり、特に笠井潔さんの著作を片っ端から読んでいきました。笠井さんという方は、もろ全共闘世代で、しかも小さいとはいえれっきとした新左翼党派の指導者だった人ですから、ぼくよりずっとシビアな状況を体験した上で、私と同じような結論に至った、というよりももちろん逆に、笠井さんの陥ったジレンマにまっすぐ共感し、その上で笠井さんが出した結論を読んで、私は説得されたんですね。なるほどこのまま正しいマルクス主義を後生大事に護り続けていったんじゃ、この先に待っているのは破滅だけだと、しかしじゃあどうすんだ、ということももちろん笠井さんは全共闘以後ずっとほとんどそればっかり考えて生きてますから(笑)、私にも何かヒントになることが書かれているに違いないと思うわけです。笠井さんは今はどちらかというと探偵小説の作家、評論家として売れてますし、そっちはそっちで素晴らしいんですけれど、やっぱりちくま学芸文庫から出てる『テロルの現象学』ですね、これが九〇年代の私にとってまさにバイブルのような書物でした。まあ実際どんなことが書かれているのかは、読んでみてくださいとしか長くなるからここでは云いませんけれども、ほんとに素晴らしい人ですよ」
 ----長くなりそうならそこはあえて訊かないことにして(笑)、読書以外にはどのような……?
 「あとは映画とか音楽とかをひたすら学びましたね。楽しんで観たり聴いたりしてるわけじゃなくて、もちろんいいものがたくさんありますからそれはそれで結果としては楽しむんですが、動機としては、どうも私は文化的に洗練されていないというコンプレックスがずっとあって、だから本当に勉強として、文字どおり“学ぼう”という姿勢なんです(笑)」
 ----それもまたカネがかかるでしょう。
 「もちろん全部レンタルですけどね。街頭ライブに行く以外には、ほとんど部屋から出ない生活だったんで、それくらいのカネは捻出できますよ。私は勉強する時たいていマニュアルに頼るんで(笑)、その時も『映画歴代ベスト100』とか『ロック名盤100』とか、そんな本を何冊か買ってきては、それに載ってる映画やCDを片っ端から借りる。活動がストップしてからもタクローという、まあそいつはそもそも具体的な活動にはあまり参加しないで、たぶん単なるダベり相手として私に価値を見出して、DPクラブのアパートに足しげく通い続けていた一つ年上の友人なんですが、彼はもともとそういう文化芸術方面に明るいんですね。“やっと君とこういう話ができる日がきたよ”とか云われながら、タクローにもいろいろ観るべきもの、聴くべきものを教えてもらって、まあ次第に恥ずかしくないレベルまでそっちの方のセンスも磨くことができましたけれども」
 ----本、映画、音楽と、とにかくひたすら吸収する時期だったんですね。
 「自伝は書いてましたよ。自分のやってきたことは正しい、ということ自体はやっぱり疑えなかったし、だからとりあえずここから先の展望は少なくともその時点では見出せていないけれども、そこに至るまでの経緯は記録に残しておかなければならないという使命感にとりつかれて、それで書き上げたのが例の『注目すべき人物』ということになるわけです」
 ----なるほど。新しいことは何も云えないが、すでに云ったことやったことを整理するようなアウトプットならできたと。
 「ですね。ただまあ、基本的には無為の日々ですよ。今思えばいろんなものを吸収して、それなりに身になってるし、そういう時期も必要だったんだろうけれども、やっぱりこの先おれはどうなるんだろうという不安は強烈にありました。結局それは時が解決するというか、実際には何も解決しないんだけど、私の方から何か仕掛けるというんではなしに、勝手に周りの状況が動き始めて、その変化に対処しているうちにまたいつのまにか忙しく活動じみたことを始めてしまうわけですけどね」
 ----具体的にはどういう状況の変化があったんですか?
 「一つには、これは反管理教育運動をやってた最後の時期に、『別冊宝島』に書いた文章があるんです。活動が行き詰まる直前で、まあ一番威勢がよかった頃に書いたものですね。だからものすごくハイテンションで、今読み返しても本当にいい文章をおれは書いたなあと思いますけれども」
 ----<プロ教師の会>という管理教育推進派の教員グループの主張を前面に押し出す形で発行されていたシリーズの中の一冊ですね。
 「ええ。ただ彼らは管理教育推進といっても、かなりヒネリがあるというか、要するに私たち高校生会議の一派は、生徒の立場から反管理教育の運動を進めていく過程で、そもそも管理でない学校教育など存在しない、学校教育自体は存続させて、しょせん程度の問題にすぎない管理度あるいは自由度を云々するのはナンセンスだという主張を掲げるに至ったわけですよね。<プロ教師の会>の人たちは、逆に教師の立場からまったく同じことを云ってるにすぎないんです。彼らも実はもともと、学校の存在そのものを否定するような方向をはらんだ伝習館闘争という、一九七〇年に福岡で起きて全国的に支援された闘争ですが、これに連帯するところから、“どうすれば本当に生徒の立場に立った学校教育を実現できるんだろう”という問題意識で出発してるんです。でまあ最終的に到達した結論が、“そんなことは不可能だ”(笑)。学校制度は、生徒のためではなくて、国家のため、あるいは国民の共同体のために存在しているんですから、それは正しい結論ですよ。彼らはちょっと偽悪的というか、ナイーブな人たちを挑発するつもりでわざと云ってる感じもあるんですね。私たちくらいラジカルな活動家になるとそれがよく分かるものだから、何か書かせてくれとこっちから編集部に売り込んだんです。で、結論は逆なんだけど、つまり私たちの結論は“学校廃止”なんだけれども、“子どもの人権”がどうのこうの云って中途半端な学校変革を目指しているような不徹底な連中は、私たちと彼ら<プロ教師の会>共通の敵である、という文章を書いたらそれが載ったんですね。この『別冊宝島』が刊行されたのは九一年の三月で、末期的な状況ながらもまだDPクラブを続けていて、またそんな文章を堂々と公にしたことは<プロ教師の会>を単に“保守反動”としかとらえることのできない従来の反管理教育運動主流派のさらなる不興を買うことにもなったんですが、それから半年以上たって、DPクラブももうなくて、ひたすら無為の日々を送っていたところに、『週刊SPA!』編集部から電話がかかってきたんです」
 ----『別冊宝島』の文章を、中森明夫さんが読んで非常に面白がっていると、そんな話ですか。
 「そんな話です。で、それがたしか十一月か十二月だったんですが、中森さんが翌九二年から『SPA!』で“中森文化新聞”という連載を持つことになっていて、それは要するに中森さんのアンテナに引っかかった、中森さんが面白いと思う若者たちを紹介したり、当人に何か書いてもらったり、そういう雑誌内雑誌みたいなページになるんだと。ついてはプレ企画として、年末に出る新年第一号に、“サブカルの未来の主役たち”と題した中森さん監修の特集を組むので、私のことも取り上げたいと、まあそういう話でした」
 ----外山さんはそれまで、中森さんのことをご存じだったんですか?
 「それが全然知らなかったんです(笑)。まだ文化方面の勉強を始めたばかりの時期ですから、実は名前も知らなったんじゃないかな。そもそも『SPA!』の存在も知らなかったくらいですからね(笑)。しかしどうやら全国の書店やコンビニで売ってる雑誌らしいし、中森さんというのがどういう人なのかよく分からないけれども(笑)、まあ展望を失って困り果てている私を引っぱり出して誌面でプッシュしてくれるというんだから、ありがたいことではないか、というぐらいの感覚で」
 ----でもこれが現実に、九二年から九三年頃にかけての、外山さんの『SPA!』への連続登場、という展開につながっていくわけですよね。
 「なんか唐突な展開で、ちょっとどうしていいか分かりませんでしたけど。それともう一つ、ちょうど同じ時期の私の身の周りの状況の変化として、例の街頭ライブがあるんです。それまでまあ約二年ほど、福岡市天神の親不孝通りという、主に若い人たちで賑わう飲み屋街の路上で毎週金曜土曜の夜に歌ってたんですが、カネは儲かるけれども新しく知り合いができるとか、そういうことはほとんどなかったんですね。だいたい一人か、さっき少し触れた友人のタクローと二人で、ほとんど毎週欠かさず続けてたのに、何も起きないんです。私自身も、実は常連客がつくと雰囲気が身内ノリになりやすいし、そうすると収入減という結果になるわけですから、極力無愛想にというか、まあ表面的に愛想はいいんだけれども心は閉ざしてる、ファストフードの接客みたいなというか、そういう感じだったためでもあるんでしょうけど。それがこの九一年の年末あたりから、突如として常連客に取り囲まれ始めるんです。私としてはむしろこの時期、あんまり他人と接したくない、世間と関係を持ちたくない、みたいな気分でいたわけですが、実際に人が集まり始めると……やっぱり心が騒ぐんですよね(笑)」
 ----活動家の哀しい性ですね。
 「どう人と接していいかがそもそも分からなくなっていたんですが、だからこそ逆にまあリハビリも兼ねて、この街頭ライブというものを何かラジカルな文化的ムーブメントに成長させられないだろうかと。結果的にはこれは大失敗して、つまりそれなりの文化的ムーブメントに成長させることはできたけれども、“ラジカルな”という一番肝心な部分を欠落させた形になってしまったと。それはたぶん実際、私の人徳の問題が大きいような気もしますが……」
 ----前にもちょっと触れた九二年四月二五日から八月二日までの外山さんの日記、これが『さよなら、ブルーハーツ』と題して後に宝島社から刊行されるわけですが、まさに外山さんの悪戦苦闘の日々が赤裸々に描かれてます。とにかく相当にブッ飛んだ内容で、浅草キッドの水道橋博士もこの本のかなりの愛読者であるらしいという話も伝わってきてますが、同時に外山さんがいかに人格破綻者であるかということもこれを読めばよく分かりますね。
 「いやはやまことにお恥ずかしいかぎりで。ラジカルなムーブメントを形成しようと仲間を集めて、ラジカル路線を強引に推し進めようとする私だけがそもそも云いだしっぺなのにそのうち嫌われて排除されて、ラジカルでないムーブメントを元仲間たちが盛り上げていく(笑)、というのが私の活動がいつも陥るパターンです」
 ----ともかく外山さんが二年にも満たないくらいの短期間とはいえ頻繁にメディアに露出するようになったこと、また地元の街頭ライブ・シーンが賑やかになったことは、活動の新展開のためにはまたとないチャンスですよね。
 「本来はそうなんですけどね」
 ----そう簡単にはいかないと。
 「そうですね。だってそもそもかつて依拠したマルクス主義みたいな、一生だって支えられる思想的なバックボーンを失ったままであることに変わりはないわけですから」
 ----やっぱりそういうものがないとダメですか?
 「少なくとも私はダメです。だってそういうものがないと、何をやっても一時の退屈や不安をまぎらすような、打ち上げ花火みたいなものにしかなりようがないでしょう。ちょっとスカッとしたなあとか、そういうのも必要だとは思うし、それはそれで実際に楽しいんだけども、ほんっとにオナニーでしかないじゃないですか。そりゃ一時は虚勢を張って、そもそもオナニー以上のことは不可能なんだ、だったらせめて壮大なオナニーを追求しようじゃないかとか、そういうニヒったことを口にしてた時期もありますけど、ほんとに何もないなら仕方ないけど、もし万が一何か別の、セックスに至る道筋があるんなら、そういうのが見つかったなら、もうすぐさま手のひら返してそっちに行きますよ(笑)。とりあえず今のところ見つからないから、オナニーでお茶を濁してるわけですよね。何もないならないで性欲は溜まるから、オナニーはやるしかない。それと同じで、やっぱり活動欲というか革命欲というか、こんなろくでもない社会は徹底的にぶっ潰してやりたいという破壊衝動というか、そういうものは放っとくと自然に溜まっちゃうんで、オナニー的、打ち上げ花火的な活動をついやってしまうわけです」
 ----実際、この時期の外山さんはかなりお盛んな活動ぶりですよね。
 「表面的にはそうですね。まあ尾崎豊の急死にショックを受けて、もちろんブルーハーツほどにはハマれなかったわけですが、反管理教育運動なんてやってると、周りには尾崎ファンもたくさんいるし、あるていど身近に感じられる存在ではあったわけですよ、私にとって尾崎は。で、ああ二十代半ばで死んじゃうこともあるよなあ、こんな無為な毎日を送ってちゃダメだよなあと強烈に思って、まずは尾崎の死んだ二六歳だか二七歳だかを目標に設定して、それまではともかく自分の人生を完全燃焼させてやろうとガゼン決意して、とりあえず形から入ってみるかということでパンク・ファッションに身を固めるわけです(笑)。といってもパンクというより完全にブルーハーツの格好なんですけど」
 ----『SPA!』にもよく写真が出てました。
 「決意したのが尾崎の死んだ九二年四月二五日で、だからその疾走の日々を記録しておこうと思って、それでその日からの詳細な日記が残って、後々本にできたわけですね」
 ----それからはもう、よく死なないもんだというくらい過激な毎日が続くんですが、日記の半ばの六月くらいに、福岡の左翼系の市民運動家たちが、本物のブルーハーツを呼んで、ふだん学校で傷つけられている子どもたちのために手作りのコンサートを開いてあげよう、という計画を進めていることが外山さんの耳に入る、と。そのコンサート本番が、日記の最終日である八月二日です。
 「本当に頭にくるわけですよ(笑)。歪んだファン心理なんかではないと思うんですよね、ブルーハーツはそんな甘ったれた子どもや大人たちのためにではなく、この不条理な世界で、それでも日々を真摯に試行錯誤しながら、闘い続けている我々のものだという感覚は。何が“親子でROCK”だと。ああこれは連中がそのブルーハーツ招聘計画につけたキャッチコピーなんですけどね(笑)」
 ----ほんとにどうしようもない人たちだ(笑)。
 「で、結果としてはコンサート当日、数千枚の抗議ビラを、会場の二階席三階席から街頭ライブの仲間とともに散布する、とまあそういう行動に出たわけです。これはもう、それまで多少は私に同情的だった人たちも含めて、福岡の左翼市民運動総体を一気に敵に回す結果になったんですけど、そもそもこんなコンサートを思いつくような奴らは最初から敵みたいなもんですからね(笑)、いずれどこかの時点では正面衝突せざるをえないわけで、まあそれ自体は痛くも痒くもないけれども」
 ----この件にからんで路上で襲撃されたりしてますよね。
 「主催の中心にいた小学校の教師で、反管理教育運動の世界では当時ちょっとしたカリスマ的な存在だった奴ですけど、私がいつものように街頭で歌っているところに、まあ酔った上でのことですが、そいつがいきなりビール瓶を振りかざして殴り込んできまして、それでそのまま路上で数分間、無言で格闘と(笑)」
 ----無事だったから笑い話ですが、ちょっと反応が遅れてたら頭を割られてますよ。
 「まあそうですけどね。だいたい普段は体罰はいけないとか、戦争はよくない、暴力反対なんてヌルいこと云ってる奴がですよ、まあ無事だったからですけど、あれは笑えた(笑)」
 ----次の年もまた同じような左翼活動家連中と激突してますよね。
 「あれは九四年だから翌々年ですね。順を追って話すと、まず九三年の夏に、東京で“退屈お手上げ会議”というイベントをやるんです。これは年齢的な縛りがないだけで、もうまったくかつての高校生会議と同じもの、場所も駒場寮ではないけれども東大駒場キャンパス内の別の建物なんですけど、要するに高校生会議の仲間たちも、あるいはDPクラブの末期に仲良くしてた、<秋の嵐>という東京の反天皇制グループの若者たちも、九一年に入るあたりから、たいていみんな失速して鬱屈した日々を送ってたんです。で、こういう時こそ高校生会議の、とにかくまずは一ヶ所に集まって互いに今考えていることをとことん吐き出して、そこから何か新しい熱い展開を成り行きで導き出すというあの形態が使えるんじゃないかということで、数年ぶりに何人かで再結集して、企画をぶちあげたわけです。私は『SPA!』や『宝島』系の雑誌で広く一般に参加を呼びかけられるし、他のメンバーも、離れ離れになってからもやっぱり細々ながら何か続けていて、新しい仲間を少しずつ獲得したりもしていて、とにかく力を合わせれば数日間の合宿イベントを開くことくらいできるだろうと。で、やったわけです」
 ----盛り上がりましたか?
 「微妙ですね。というのも、冷静に考えれば当たり前の話なんですけど、かつての高校生会議の背景には、各地に同時的に自然発生してた反管理教育や反原発の高校生グループがあって、基本的にはそれをヨコにつなげれば成立したわけですね。ところがこの退屈お手上げ会議はそういう基盤みたいなものが何もないところでやってるんです。要するに参加者の平均的なモチベーションが全然違うということです。高校生会議よりは幅はありますが、それでもおよそ20代の、まあ同世代といえる人間が、何かを求めて百人ちょっと集まりましたから、一応その場はそれなりに盛り上がるんです。しかしそもそも何かをすでにやっている人間を主に集めた高校生会議と、何をやっていいのか分からなくなって途方に暮れている連中をとりあえず集めてみた退屈お手上げ会議とでは、それはやっぱり同じようにはなりませんよね。何も生み出さなかったわけではなくて、例えば最近『別冊宝島』なんかで活躍している線引き屋というライター集団なんかは、この退屈お手上げ会議で知り合った人間関係を基盤にしてて、それが悪いとは云わないけれども、私たちが期待していた“何か新しい展望”というのは、やっぱりそういうものではないということだけは確かですからね。結論としては、なんだか虚しいイベントでした」
 ----外山さん自身の活動には変化をもたらさなかったんですか?
 「いや、ありました。瞬間的には私も元気になったというか、生きるエネルギーみたいなものを得て、福岡で新グループを結成します。それがこの退屈お手上げ会議の直後、福岡から参加した幾人かで結成した反共左翼革命結社・日本破壊党です。九三年秋ですね」
 ----それはまたオドロオドロしい組織名ですね。
 「日本破壊党という名前それ自体は、当時まだご存命だった日本社会党のパロディなんですけどね。機関紙も、結局出なかったんですが、『破壊新報』にしようとか云って(笑)。反共左翼革命結社というのは、まあ半分マジな、当時の私の最低限の方向性を示したものです。まず革命を目指すことは放棄しない、と。で、それはやっぱり左翼的な方向での革命だ、と。ただし共産主義つまりマルクス主義は正しすぎてろくでもない結果しかもたらさないから、それだけはやめておこう、と(笑)。ぶっちゃけアナーキズムなんですが、現実に日本に存在しているアナーキズムの運動というのは、これはもう主流であるマルクス主義者たちに完全に依存していて、要するに“親子でROCK”な堕落したマルクス主義者たちとすら衝突できないヘタレどもばかりなんで、一緒にされたくないからこの時期の私はアナーキストを名乗ることを厳しく自らに禁じていたんです」
 ----でも、実際には当時の外山さんはアナーキストだったんですね。
 「恥ずかしいから誰にも云わないでください(笑)。で、話を先に進めますと、この日本破壊党というのは、たいした活動はやってないんです。時々思い出したように、やっぱり近所の高校前なんかでビラをまくぐらいで。そのビラというのが、もちろんわざとですが、ヘタウマっぽい文字で“過激派になろう”とか大書して、“最近、過激な人が少ないので世の中が面白くありません、これではつまらないので、世の中を面白くするためにいっそ自ら過激派になりましょう”ぐらいのトボけたレトリックの文章が続くようなものです。基本的にこの時期の私はニヒってるし頽廃してるので、ことさらに女子校とかにビラまきに行っては女の子たちの笑いをとって、たまに電車の中とかで彼女たちに発見されたりして、“ハカイトウよ、ハカイトウよ”なんてヒソヒソ話をされるのが楽しくて楽しくて、なんていうテータラクなんですが、こういうどうしようもないマヌケな活動集団が、意外にも妙に大袈裟な事件をいくつも引き起こすんですね。まずこれはどうでもいい部類ですが、そのビラそのものが、サブカル系マンガ誌の『ガロ』で紹介されたりしてます。たぶん、ビラを受け取った生徒が編集部に送ったんでしょうが、唐沢商会に絶賛されました」
 ----それはまさにおっしゃるとおりどうでもいいプチ自慢です。
 「ええまったく。重要なのはここからです。福岡市の大きなデパートの中にあるギャラリーで、寺山修司展があったんです。で、当時の私は、革命的な政治運動と革命的な芸術運動の融合、みたいなまあそれ自体はむしろ凡庸な発想ですが、とにかくそういうことを結構マジに追求したいと思っていて、それで会場で客に単に仲間募集のビラをまくために、破壊党の党員でもある当時の相棒と二人して出かけたんです」
 ----それはつまり、街頭の表現を追求した寺山の回顧イベントを、室内のギャラリーでおとなしくやるなんてのは許せん、粉砕あるのみ! とかそういうノリではなかったということですね。
 「そうです。もうまったく、本当にただ芸術方面にも仲間を求めたい、だから会場でお客さんたちに普通にビラをまこうと、それだけだったんです。むしろ非寺山的だと怒られても文句は云えないくらいです(笑)。だからほんとにおとなしく、“ども、よろしく”なんてボソボソ云いながら展示を見て回ってる客に近づいてビラを一枚一枚手渡していくだけで、あまりにも地味だから最初は主催者側も気づいてなかったんです。私たちもマジメだから、それを何時間も続けてて、やがてやっと気づかれて、“勝手にそういうことをされては困ります、出て行ってください”と。こうなると闘わないわけにはいきませんよね。とりあえずは“どうしてダメなんですかぁ?”とかトボけて訊いてみます。すると“ここはデパートの中なんですよ、常識でしょう”と。これはもう、この時点で私たちの勝ちは確定ですよ。“ほほー”と。“寺山修司というのは、芝居やっちゃいけないところで芝居やったりした人ですよね。そういう人を絶賛するイベントをやってる人が、なんでビラまいちゃいけないところでビラまいたからって怒るんですか?”、ともう圧倒的に私たちが正しいですよね(笑)。どうせおとなしくビラまいてるだけなんだから、たいして実害があるわけでもなし、そこで“ギャフン”と云って折れればいいんですよ、向こうも。それを、“だったらケーサツを呼びます”と。私も相棒も、基本的には覚悟のなっとらん軟弱者ですからね。これにはちょっとひるみまして、いったん作戦を練り直そうと撤退したんです。今思えばここで粘ればよかったんですよ。そうなれば“初逮捕は寺山修司展”、これは相当自慢できるじゃないですか。でもまあ、そういうところが私は反射神経がないんですね、撤退してしまいました。そして、相棒ともう一度よく話し合って、やっぱり悔しいから再突入しよう、どうせ逮捕されても最大二、三泊で済むようなショボい“犯罪”だし、今云ったように後々自慢にもなる、と。それで景気づけにホカ弁で一番高い弁当買って腹ごしらえなんかした上で、行くんです。この時、念のために知り合いの新聞記者に、今からこういうことをやるから、何かあったらよろしくと、そう電話で伝えといたんですね。というのも、特に私なんか地元の左翼市民運動業界で嫌われまくってるわけですから、万が一にも長期拘留される事態になった時に、何の支援も期待できないわけです。せめて新聞報道でもされれば世間への問題提起にはなるだろうと思って、それで信頼できる記者に連絡を入れたんですね。読売の記者なんですけど、なんか経験的に、私を好意的に紙面で扱ってくれるのは、なぜか読売の人である場合が多いんですよ(笑)。で、いよいよ再突入。ところがギャラリー側がどうも歯切れが悪いんですよ。“やめてくださいと云ったでしょう、ほんとにケーサツを呼びますよ”と一応恫喝はしてくるんですが、“こっちももう覚悟はできてるんだ、呼びたければ勝手に呼びなさい”なんて云ってビラをまき続けても、それ以上は何もないんですね。実は私が連絡を入れた記者が、やはり電話ですぐ取材に入ってたんです。それで警察なんか呼んだ日には明らかに向こうに分が悪いでしょ。それで結局は黙認となって、ビラまきはできたんですけど。しかもこれ、実際に翌日に記事になって、社会面に結構デカくバーンと報道されちゃってるんですよ。“寺山修司展でユニークな問題提起”とかって感じで」
 ----大勝利じゃないですか(笑)。
 「結果的には寺山修司展の欺瞞性を広く世間に暴露した、ということで、これは“寺山修司展粉砕闘争”としてわが党の歴史に燦然と輝いてるわけです(笑)。しかもさらに後日談があって、この年の年末に『シティ・ロード九州版』という雑誌で、“今年の私の重大ニュース”みたいな、地元の文化人へのアンケート特集があったんです。そこにこのギャラリーの“ケーサツ呼びますよ”のまさにその当人が出てて、第一位に“寺山修司展を開催”とか自慢げに書いてるんです。ところが実はその隣りに私が載ってて、“寺山修司展を粉砕”(笑)、しかも第三位とかってショボい位置づけで」
 ----それはまた痛快な……。
 「編集部もわざとやったとしか思えないんですけどね(笑)。まあこれが日本破壊党の最初の大闘争(笑)、九三年の十一月ですね。次はちょっと時間が開いて、翌九四年七月。例の相棒と繁華街をぶらぶらしてたら、たまたま左翼市民運動の連中の街宣活動とハチ合わせたんですね。当時、朝鮮人学校に登下校中の女生徒のチマチョゴリが何者かに切り裂かれる、なんて事件が問題になってて、実際にそんな事件が多発してたのかどうか怪しいなと今の私なんかは思うわけですが、とにかくそういう“差別事件”を糾弾する演説とビラまきをやってるんです。それでまあ、ちょっとイタズラ心を起こしまして、私が飛び入り演説を申し出たわけです」
 ----外山さんなんかに飛び入りを許さないでしょう。
 「いや、私が連中に嫌われてると云っても、たいていは例えば例のブルーハーツ・コンサート事件の話なんかを、当事者から又聞きで聞いた人からさらに又聞きで、みたいな形であくまで噂だけを元に嫌ってるんです。外山とかいう奴がいて、そいつはほんとにろくでもないらしい、と。だから一度も話したことも会ったことすらない奴にやたら嫌われてるということが私にはもう頻繁にあるんですよ。逆に云うと、私のことを蛇蝎のごとく嫌っている人が、私の顔を知らないということも非常に多いんです。たぶんこの時も、連中は私がかの悪名高い外山恒一だということに最初気づかなかったんでしょう」
 ----噂で人を判断するなんて、左翼にあるまじき思考の頽廃ですね。
 「きっと奴らは福岡に大地震でも起きたら、外山恒一が井戸に毒を入れて回っているという噂を信じて自警団を結成しますよ(笑)。話を続けると、実際もし本当にそんな切り裂き事件が多発してるならそれはろくでもない差別事件だし、私にも怒りはあるんですよ、これはマジに。だけど彼らの演説は本当に退屈で、通行人は誰も立ち止まって聞いていかないんです。それで私がマイクを譲ってもらって、“世の中には正しい差別と間違った差別があります”、もうこの時点で左翼の活動家連中はカチンときてるのが分かるんですが、通行人も思わずギョッとして立ち止まるんです。だからそのまま、“正しい差別というのは、その人が選択できる属性に対しておこなう差別です、例えばミスチルのファンであることはいつでも自分の意志や努力でやめられるんだから、これを差別して迫害することは正しい、あるいは学校をやめることも簡単なんだから、いつまでもそういう与えられたレールにしがみついている大学生を差別して迫害するのも正しい”と。立ち止まって聞き始める通行人も少しずつ増えています。“しかし! 朝鮮人に生まれるというのは自分で選択したものではないんだから、その人が朝鮮人であるということを理由に差別したり迫害したりするのは絶対に間違った差別で、そういう間違った差別を許してはいけないし、こういう間違った差別をする人間を差別し迫害することは全面的に正しい”、と私も私なりにちゃんと云うべきポイントは云うんですよ、常識ある大人ですから(笑)。しかもちゃんと通行人の足を止めることにも成功しているのに、ダメな左翼の連中には、こういう変則技で通行人のウケを狙うような行為そのものがそもそも不愉快なんですね。でまた私が調子に乗って、“最近、通学中の朝鮮人学校の女学生のスカートを切り裂くという事件が問題になっています、私も男ですから、単にスケベ心で女の子のスカートを切り裂きたいという欲望は分からなくもない、しかしそれなら他にも福岡女学院とか筑紫女学園とか、制服姿の女子高生はいくらでも歩いているんです、みんな平等に切り裂いて回るというんならまあスケベ心として理解できないでもないが、現実には朝鮮人学校の女生徒のスカートだけが切り裂かれているのであって、つまりこれはスケベ心ではなく例の間違った差別意識に基づいての行為であることは明らかで、絶対に許してはいけません”、いったん立ち止まった通行人はずっと笑って聞いてますが、もうこの時点で限界です。活動家連中から口々に、“ナンセンス!”、“女性サベツ発言だ!”、“そんな奴に喋らせるな!”と次々に怒号が巻き起こって、私はマイクを奪われてさんざん罵倒されながら追い払われるわけですね」
 ----まったく理解できません。外山さんの演説は、まあたしかにヘンですけど、差別とかなんとか、そういう問題はないですよね。なんで怒られるのか、全然わかりませんよ。
 「とにかくそれぐらい奴らのセンスは世間とズレてるってことです。私みたいな不良市民が世間のセンスを代弁するのもおかしな話ですが、私はむしろ、私はある程度世間一般の感覚を理解しているからこそ、ヘンなことをわざとやることもできるんだと思っています。世間と本当にズレた人には、世間に笑われることはできても、笑わせることはできませんから。もちろん私は、こういう演説をすると左翼の連中は怒るだろうな、というのも分かっていて、わざとやってるようなところもあるんですが、それも単に連中を怒らせようというんじゃなくて、なんというかまあ、一種のデモンストレーション、プレゼンテーションをやってるんですね。つまり私の演説は実際に通行人の足を止めてるわけです。そして、それを怒って中止させる諸君の演説は、しかし一人の足も止めないではないかと、足を止められれば何でもいいってわけじゃないけれども、それでももうちょっと何か気づくことはないのかと、遠回しに助言すらしてやってるわけで、ほんとに親切ですよ私は(笑)」
 ----歪んだ愛情ですね。
 「でまあ、そういうことがあった翌朝、ふと新聞を見ると、本日市内どこそこ公園で、一連のチマチョゴリ切り裂き事件に対する抗議集会、というパブリシティ記事が載ってるわけです。あ、これはまた昨日の連中だなと思って、さっそく昨日の出来事に対する詳細な報告と、私の見解を書いたビラを大急ぎで作成して、配りに行く」
 ----外山さんのそういう情熱はよく分からないんですが……。
 「私にもよく分かりませんけどね、でもまだこの時期は左翼に期待というか、むしろ未練か、そういうものが私の中に残っていたことは確かですね。左翼の大部分はクズだと、それはそうなんだけれども、中にはマトモな感性が残ってる奴もいるはずだと、こっちの主張をちゃんと伝えれば、そういう人とは共闘できるんじゃないか、そういう気持ちもあって、ビラ自体はかなり真剣に、ちゃんと書くんです。で、結局また野次と怒号の中、排除されてすごすご帰ってくることになるんですが」
 ----むずかしい人生ですね。
 「これがさっきちょっと話題にのぼりかけた、九四年夏の地元左翼ムラとの再衝突事件なんですが、この話はこれで終わらないんです。破壊党の引き起こす事件というのは、前の寺山修司展の時もそうですが、なんか単に思いつきとか、さして深い考えもなしにとった行動が、思ってもみなかった大袈裟な展開をする、そんなのばっかりで、この時もそうです。公園でやってた、左翼の野外集会にビラまきに行って、例によって例のごとく排除されますよね。ところが今回のこの問題は、北朝鮮問題がからんでくるというか、実際、集会の現場には朝鮮総連の活動家もたくさん参加してたんでしょう、そういうところには当然、公安も来てるわけです。この時にはどうやら公安調査庁もいたんですね。朝鮮総連も公安調査庁の監視対象団体ですからこれも当たり前なんですが。ところがそこに、わけのわからない二、三人の小グループが登場して、主催側を激烈に批判するような内容のビラを配布して騒ぎを起こしていった、と。これは公安としても気になる動きでしょう。しかも自分で云うのもなんですが、敵対的な場にわざわざますます敵の神経を逆なでするようなビラを持って乗り込むというのは、いかにもある種の新左翼党派なんかがやりそうなことですから、ちゃんと調べておくにこしたことはないわけですよ。けれどもビラには団体名、つまり“反共左翼革命結社・日本破壊党”という名前と、連絡先住所しか書いてありませんから、とりあえずその住所に誰か住民登録している人間がいるのか、区役所に問い合わせたらしいんです。公安といえどもお役所ですから、そういう時はいちいち正式な文書を作ります。“以下の住所に住民登録している者について情報開示を求む”とか書いてあって、“九州公安調査局・調査第一部長之印”なんてのが押してあるようなシロモノです。これを公安調査官の自称“山田”が実際に区役所まで持参して問い合わせたというんですね。ところが私の住民票は、当時まだ大野城市の実家にあって、つまり拠点アパートには誰も住民登録してません。そこで“山田”は、区役所の帰りに問題のアパートの前まで来て、しばらく外から様子をうかがってたんだと思うんです。その時になんとこのマヌケな公安は、実はメディアが連日九州の異常な猛暑を書きたてていた時期でもあって、単に暑さでボーッとしていたのかもしれません、件の問い合わせ文書をうっかり落っことしていくんですね(笑)。で、後から明らかになった話の断片をつなぎ合わせていくと、“山田”が書類を落っことして現場を離れた直後、一階でソバ屋をやってる大家さんがこれを拾います。見ると何だかよく分からないけれども私の部屋の住所が載ってるから、きっと私のものだろうと嬉しい誤解をしてくれて、なんと私の郵便受けに入れてしまう(笑)。さらに“山田”にとって間の悪いことに、その直後に私が外出先から帰ってきて郵便受けを開ける、で、“なんじゃこりゃあ”と(笑)」
 ----聞けば聞くほどすごい偶然の積み重ねです。
 「部屋に持ち帰って、鍵をかけて、私は書類を前に腕組みをして、どうしたもんだろうかと考え込んでしまうわけですよ。そしたらそこへノックです。開けてみると、明らかに不審な二人組が立っています(笑)。“法務省の者ですが”と。さすがにいきなり公安とは云わないんですよね。一応、公安調査庁は法務省の下部組織なので、ウソではないんです。で、“実は大切な書類を落としてしまったんです、聞けば下の大家さんが、あなた宛ての郵便物か何かだとカン違いをして、あなたの郵便受けに入れたと云うんですよ、それで郵便受けを覗いてみたら、あ、勝手に開けたりとかそういうことはしてませんけど、とにかく何も入っていないようなので、これはたぶんあなたが持っているんだろうと、そういうことなんです”なんてことを“山田”は云うわけです。ああ、この“山田”はこの時この当人が名乗ったものです。二人組のうち、いかにも焦って汗だくになっている方で、もう一人は終始無言で周囲の様子をうかがってる素振りでしたが。もちろん“それならここにありますよ”なんて云えませんよね(笑)。スッとぼけて、“そうですか、でもなにしろこの部屋は人の出入りが多いんで、誰か他の人間が開けて持ってるのかもしれません。こっちでも当たってみますよ”なんて云ってごまかすわけです。その上で、“ところで一体何の書類ですか?”と(笑)。すると“山田”は、“いや、ここに住民登録している人を調べていたんです、どうも手違いで、あなたではなくて、あなたの前にここに住んでいた人のことを調べていたんですけど”とかなんとか見え透いた云いわけをするんですね(笑)。そんな感じでいったんはお引き取り願ったんですが、十分もしないうちに今度は大家さんを連れて戻ってきて、それでもこっちがトボけていると、“これは窃盗事件、拾得物横領事件として警察に捜査してもらうしかないかもしれませんねえ”などと脅しをかけてきます。その場もなんとかとりつくろって、いよいよヤバい展開になってきたぞと悩みました。最終的には、翌日になって、例によって知り合いの新聞記者に相談するんですね」
 ----その記者さんというのは……。
 「そうです、寺山修司展のことを書いてくれた読売の記者です(笑)。すると彼は、“その話はもう他社の記者にも話しましたか?”と。“まだです”と答えると、“じゃあこのまま黙っててもらって、ぜひうちのスクープにさせてください”なんて云うんですね。私としては、単にマヌケな公安がヘマをやったというだけで、まだそんな大事件だという実感がなかったもんですから、半信半疑で、もちろんその記者個人は信頼できる人なんですけど、“はあ、そういうものですか、じゃあお任せします”ということで、落ち合って書類の現物を渡したんです。そうそう、この日はたまたま隣県の佐賀でヒッピーのお祭りみたいなイベントがあって、私たち日本破壊党の面々もみんなで車で出かけたんですが、それをずっと現地まで尾行してくる車があるんですよ。これは気のせいとかではなくて、彼らも別にこっそり尾行するつもりがなかったんでしょうけど。そういう状況だったんで、いよいよ困ったなあと思って件の記者に相談したと、そういう流れだったような気がします。で、さらにその翌日です。なんと今度は読売新聞社会面のトップですよ(笑)。もちろん九州版だけでしょうけど。薬害エイズがらみかなんかで別のスクープが重ならなければ一面トップだったのに、と後で記者は云ってました。表題が、“公安調査局が公文書紛失”(笑)。まあ事件の中身そのものは大したことないんですが、“ふだん機密のベールに包まれている公安調査局の活動の一端が、このような形であれ明らかになるのは極めて異例だ”みたいな記事にまとめられてました。もちろん、別にテロ活動に関与している疑いがあるわけでもないごく普通の“市民”の行動までこんなふうに監視するのはいかがなものか、というトーンですよ。他のほとんどの新聞社も後追い記事を書いて、ほんとにそれなりの“大事件”になっちゃったんですね。最初に書いてくれた読売の記者もさらに続報を出して、そこでは“そもそも今回の調査対象となった反共左翼革命結社・日本破壊党とはいかなる集団か”ということで、寺山修司展の話とか、たまに福岡市近辺の高校前で“過激派になろう”というビラを配っているとか、その文面まで引用してちゃんと書いてくれてるんですが、ちゃんと書けば書くほどマヌケな記事になりますよね(笑)、もちろん記者はそれを分かっててわざとそうしてるんですよ」
 ----外山さんが信頼できると云うだけあって、ほんとにいい記者さんですね。
 「で、記事の中でも公安の偉い人が、“もしこのまま外山が書類を返さないなら刑事告訴もあり得る”なんてまだ云ってるわけです。それならば、ということで、例の相棒と二人して、とんでもない奇抜な扮装をして公安の建物に押しかけました。“そこまで云うんなら書類を返してあげよう”と(笑)。私はピンク・フロイドTシャツに洗濯バサミをいっぱいつけて、“調査対象”と大書したヘルメットをかぶっている(笑)。相棒は上半身裸で、マジックで服を書いて、ご丁寧にも腕時計まで書いて、ベルトの代わりに掃除機のホースを腰に巻いて、首には青いスカーフを巻いてるんだけど中に針金を通してピンと水平に立てて、頭にはヘルメットの代わりにやっぱり“過激派”と大書した青い洗面器をかぶっていて、さらにその上には室内用テレビ・アンテナが乗っかっている(笑)。それでもうすでにほぼ全紙が書くほどの事件になってるわけですから、それらの新聞記者と、さらにはテレビカメラも二社くらい入って、とにかく大勢でゾロゾロと公安の建物に入りました。テレビの人に“なんか電波少年みたいだ”とか云われながら」
 ----ほんっとにタチ悪いですね(笑)。
 「で、とにかく私の何を調べてたのか説明しろ、と。そうすれば書類は返してやる、と応対に出てきた職員に迫ったんです。もちろんそういうことは機密事項だから云えないと向こうは云いますよね。だったら書類は返すわけにいかんと通告して撤退、まあそういう事件です」
 ----問題の書類は結局どうなったんですか?
 「そのままウヤムヤですよね。もちろん今でも私が持ってます(笑)」
 ----しかし冷静に考えてみると、たしかに事件の中身そのものはショボいのかもしれないけれども、少なくともいろんな反権力的な運動に従事している人たちの間には、もうちょっと広く知られてていいはずの事件ですよね。先の寺山事件も面白いですが、こっちはちょっとそれとは比較にならないというか、だって公権力による市民の監視、というシビアなテーマと直接リンクする話じゃないですか。
 「それはやっぱり、地元福岡の運動シーンで私が完璧に孤立しているからですよ。そうでなければ、もっと問題を大きくすることができて、おっしゃるような程度になら認知度を高めることができたケースでしょうね。さらにはこれが九四年夏の出来事であるという、時期の問題もあるかもしれません。公安調査庁という、公安警察と比べると地味な役所に世間の注目が集まるのは、翌九五年のオウム事件の後ですから。もっとも、オウム以後であれば、破壊党みたいな名称からしていかにも怪しげな集団に、好意的に言及するような記事そのものが書けなかった可能性も高いので、むしろ運がよかった方だとも云えますが」
 ----にわかには信じがたいくらい派手に行動してるのに、なんだかもったいない話ですね。
 「でもまあそれこそ“自分で選択した立場ゆえに受ける差別・迫害”ですからその現実は受け入れるしかありませんよね。ともかく、たまたまハチ合わせた左翼の街宣への飛び入り、翌日の集会粉砕、公安調査局事件、とわずか数日でめまぐるしい展開をしたのがこの九四年七月です。これはとても楽しかった。ところがこのすぐ後に、日本破壊党は事実上崩壊します」
 ----えっ、また突然なんでですか?
 「私が女にフラレてブルーになったからです。基本的に私のワンマン・グループなので、私が失速すると終わっちゃうんです」
 ----ほんとに破壊党って、すごい運動なのかショボい運動なのか……。
 「でまあ、九四年後半の半年間は、活動らしい活動は何もやってません」
 ----あ、『SPA!』で“セックスフレンド募集”はこの時期でしょう。
 「そうだそうだ、それがあります。やっぱり失恋のショックから立ち直る最大の方法は、新しい彼女を作ることじゃないですか。私もそうするしかないと思って、彼女募集のビラを作ったんです」
 ----なんでもビラですね(笑)。あの“女募集”ってやつですよね。
 「あ、あれは違います。云うの忘れてましたけど、九二年春、尾崎の死にショックを受けての“疾走”第一弾として、“女募集”って題したバカなビラを作って、繁華街の電柱とかに貼ってまわったんです。あれは私の最初の自覚的な前衛芸術実践ですね」
 ----それのどこが芸術なんですか。
 「そんなもので女なんか募集できないって分かっててわざとやってるんだから芸術でしょう(笑)。しかも文面は練りに練って、高度なレトリックを駆使してますし。こういうバカバカしいことに莫大なエネルギーを注ぎこむのは前衛芸術の基本ですよ。実際、やっぱり後の破壊党の時と同じように、誰かこれを見た人がはがして東京のサブカル関係者に送ったらしくて、まあミニコミ・レベルですけど美術批評誌でちゃんと扱われてましたよ」
 ----じゃあこの九四年のも芸術なんですか?
 「いや、それはちょっと微妙です。実際、この時は実効性を求めてたからそのぶん不純ですよね」
 ----ビラまいて彼女募集することに実効性があるんですか(笑)。
 「ないんですが(笑)。この時にはそんなバランス感覚を失うぐらい落ち込んでたんです。それでも私のやることですから、ところどころ冴えてはいるんですけどね。例えばビラのキャッチ・コピーも、“セックスを前提としたお付き合いを!”でちょっと面白いし、で、簡単なプロフィールが載ってて、さらに付録というか、私の彼女に志願するか否か判断するためのデータというかなんというか、参考資料として、私とのセックスに関する歴代の彼女の寸評を列挙して……」
 ----たしかにちょっと面白いけれども……(笑)。
 「それを街ゆく女性に配るんですよ。もちろんコトがコトだけに、今回に限っては渡す相手を厳選して、つまりかわいいコばっかり選んで渡すんですが」
 ----それで多少なりとも成果はあったんですか?
 「そのビラそのものでは絶無です。しかし同時に、まあこれまで私に手紙を書いてきてくれた女性読者とかある程度いるわけですよね。彼女たちにもそのビラを片っ端から送りつけて……」
 ----何をやってんだか。
 「で、たぶん電話で中森明夫さんと話した時に、実は最近こんなことしてて、みたいに云ったんだと思うんですよ。それで中森さんが、そりゃ面白い、ぜひ誌面でセックスフレンド募集をやろう、というわけで、『SPA!』で実際それをやったとまあこういう流れですね」
 ----あれは革命家としての評判を落としたでしょう。
 「どうだか分かりませんけれども、しかし右翼の鈴木邦男さんはあの記事が相当ショッキングだったのか、今だに何かで私のことを書いてくれる時にはこの話をメインに構成するんですよ、しかもあることないこと尾ヒレをつけて。あれにはちょっと困ってます(笑)」
 ----で、実際の成果はどうだったんですか。
 「『SPA!』で一人、もとからの女性読者へのビラ送付で二人、反応がありまして、まあやるべきことはやりましたよ」
 ----それはまた意外な。
 「うち女性読者の一人とのエピソードはたぶん面白いので話します。そもそも私がそれまで一年くらい付き合ってて、フラれた相手の名前がこれはアダ名だから云ってもいいと思うんだけど“マリモ”ってコなんです。で、とりあえずセックスOKの反応をくれた女性読者なんだけど、なんと北海道はえりも町からの返信だったんです。で、“マリモの次はエリモか……”とか云いながら、往復の旅費を捻出するためにもう毎日街頭ライブですよ」
 ----ヒッチハイクじゃないんですか。
 「元気があればヒッチだけど、この時はとにかく落ち込んでますから。で、もう必死でいつもより長時間、ひたすら毎日歌って往復の飛行機代十万円プラスアルファを稼ぎ出して、いざ一路北海道へ、と」
 ----必死になるのはいいですが、相手の顔とか知ってたんですか?
 「そう、そこなんですよ。もちろん手紙だけのやりとりですから、顔は知らないんです」
 ----外山さんは外見にはこだわらないタイプですか。
 「それがメチャメチャ面食いなんです。だからほんとはものすごく不安で、だって一気に十数万を蕩尽するんですよ。だけど“セックスOK”の返事をくれたからって、“じゃあ写真送って”って返すのもなんかあまりにあまりというか、やっぱできないでしょ。でまあ、札幌駅の改札かなんかで待ち合わせたんですね。気が急いてますからちょっと早く着いちゃったりして、そうすると、改札なんだから当たり前だけど、いろんな人が遠くからこっちに向かってきますよね。もうそのたびにハラハラドキドキして、もちろん“うわっ、どうか素通りしてくれますように”という場合もあるし、その逆もあるわけです。たぶん二〇分ぐらいだと思いますけど、あれだけたくさん神様にお祈りし続けた時間は人生後にも先にも他にないです。まあ、この話がしたかっただけなんですけど(笑)」
 ----肝心の結果を教えてくださいよ。
 「まあ、なんというか、その、神様はいますよ」
 ----九五年の活動についてですが……。
 「あー、ちょっと! その前に九四年の活動を補足しておきます」
 ----まだ他にあるんですか?
 「最終的にはですね、やっぱり私は書くことによって失恋の痛手から解放されるわけです。この年の暮れに、私はとにかく書きまくるんですね。まず、直接に失恋の痛手から立ち直ることを目的として書き始めた『恋と革命に生きるのさ』という、恋愛や性の経験に的を絞った自伝があります。とにかく過去を真摯に見つめなおそうということで、これは私にしては珍しくオチャラケ一切ナシなんですが、三百枚を一気に書き上げてまだ十九歳、童貞を失うくだりにすら到達しないで挫折して筆を折ったんですけどね。というのも、地元の出版社の人から、福岡の街頭ライブ・シーンのまあ当時だと五年半ぐらいの歴史ですね、これを書きおろさないかという話があって、それでそっちを先に書き始めるわけです。で、これは完成。『アスファルトばかりじゃない』というタイトルで、まあ四百枚ぐらいですね。タイトルはもちろん、ブルーハーツの“街”という曲の歌詞からとってます。で、さらにこの時期、たしか愛知かどっかで、中学生のいじめ自殺事件が起きるんですよ。そんな事件はもうその前にも後にもいくらでもあるし、報道もしょっちゅうですが、たまに何か特徴があって、特に大きなニュースになることがあるでしょ。この時もなんかそういう感じだったんですね。それでまあ、私もちょっと思うところがあって、全国のいじめられっ子に向けたメッセージみたいな文章を書き始めるんです。これも一気に書き上げて、百枚ぐらい。『いじめられたらチャンス』というタイトルで、要するに災い転じて福となせ、ということですけれども、学校というのはヒドいいじめに耐えてまで通わなきゃいけないところではないし、むしろ通えば通うほどアタマもセンスも悪くなっちゃうところですらあるし、だったらこれを機にドロップアウトして、おまえをいじめてるバカな連中より百倍面白い人生を切り拓こうぜ、というような熱い感じのやつですね。パンフとかブックレットみたいな形で出してくれる出版社はないかなと思っていろいろ当たってみたんですが、結局どこからも出ませんでした。街頭ライブ本の『アスファルトばかりじゃない』もそうなんですが、結局出なくて、『恋と革命に生きるのさ』は未完だから仕方がないとしても、この頃からですね、私がいくら面白いものを書いたと思って、いさんで持ち込みを繰り返しても、どこも相手にしてくれなくなるのは。しかし個人的には、ひと月にも満たない短期間で一気に八百枚も文章を書いて、その過程でだんだん元気になってきちゃうんですね。元気になったから、ちょっとヤバい精神状態で自身をえぐるような内容である『恋と革命』の続きは書けなくなっちゃったんですが」
 ----そういえば『SPA!』にも登場しなくなりますね。それもこの頃からじゃないですか?
 「そうですね。“中森文化新聞”に頻繁に出まくってたのは、九二年、九三年の二年間だけじゃないですか。九四年はたしか例のセックスフレンド云々の時ぐらいだし、あと九五年の阪神大震災とオウム事件について、それぞれ一度ずつ寄稿してますけど、ほんとにごく稀ですよね。九二年の『注目すべき人物』は、それ以前から交渉してたのがたまたま時期が重なっただけですけど、九三年の宝島社の『さよなら、ブルーハーツ』、例の街頭ライブ日記ですが、あれはやっぱり“中森文化新聞”効果で刊行が決まったようなもんですし、他にもいろんな雑誌に時折登場したり、やはり宝島社の音楽誌『バンドやろうぜ』に“つれづれパンク日記”って連載を持ったり、創刊当初の『クイック・ジャパン』に書いたり、あと、『噂の真相』に長期連載されたインタビュー・シリーズで、最近単行本化された“メディア異人列伝”というのがありますけど、その第一回目になんとこの私が取り上げられてるのも、全部そうですよ。だから逆に云うと、中森さんに捨てられちゃうと、もう途端にそういう仕事はパッタリ途絶えちゃうんです」
 ----やっぱり見捨てられたんですか?
 「見捨てられたというか、飽きられたというか……。なかなか九州から出ないってことで、中森さんからはいつも批判、とまではいきませんが、まあよくたしなめられてたんですね。中森さん自身もそうなんだろうと思うけれども、やっぱりまっとうな表現者というのはほとんど必ず“故郷喪失”的な感覚を持ってるものですから、私がいつまでも九州に軸足を置いてることが、中森さんの目からはかなり重要なマイナス・ポイントに映っていたんだろうとは思うんです。前にも似たようなことを云いましたが、もちろん私自身が典型的な“故郷喪失者”であると自認していますし、そのことと私が九州に住み続けていることとはとりあえず無関係なんですけれども、そこのところがどうも中森さんには分かってもらえなかったかなあという感じはします」
 ----そもそも外山さんと中森さんは、思想的にというか、近いんですか? かなり異質な取り合わせのような印象もあるんですが。
 「それはもちろん全然違います。私はむしろ、中森さんのような人が本当に重要な敵なんだと当時から思ってました。実は中森さん自身が、“中森文化新聞”で私のことを“敵だ”と当時はっきり書いていて、それを読んだ時に私は、“ああ、この人はやっぱりよく分かっている”と思って改めて中森さんを信頼し直したんですが。つまり中森さんはニヒリストですからね。絶対的な価値なんてものはないんだ、結局、面白いか面白くないかだけなんだ、という立場です。私は違います。当時、絶対的な価値がある、とまでは云えなかったけれども、そういうものが欲しい、少なくとも探し続けることだけはやめない、そういう立場です。明らかに両者の立場は敵対的ですよ。それをお互いよく分かった上で、付き合ってたんですね。あと、これはやはりそういう中森さんの思想的立場からすれば仕方ないんだけど、私が当時まあ唯一不満だったのは、私のやってることを、中森さんはあくまで私個人がやってることとしてしか取り上げないんですね。私の云ってること、書いてること、やってることには、運動的な文脈があるわけです。私の言動が仮に面白いとするなら、それは私個人が面白いのではなくて、そういうキャラを必然として生み出した背後の文脈こみで面白いんです。具体的には、私は当時、中森さんに私の周囲の、いろんなグループや個人や、彼らのビラやミニコミを紹介しつづけてたんです。もちろんそれらは単に何らかの運動の文脈を共有しなければ面白さが分からないような種類のものではありませんよ。例えば後にブレイクする“だめ連”についても、九五年段階で中森さんには詳しく伝えてます。あるいはやはり一時注目された“社会派エロマンガ家”の山本夜羽なんてそもそも私の当時の活動仲間ですから、当然これはもう九二、三年の段階で紹介してますよ。でも、私が持ってくるそういう話には、中森さんは一切興味を示さないんですね。中森さんは私を、背後にあるさまざまの運動的な文脈からことさらに切り離して、あくまで単体として売り出そうとしてたんです。だからまあ、“中森文化新聞”で私が他の“カルチャアスタア”たち、例えば『完全自殺マニュアル』の鶴見済さんを筆頭に、歌人の桝野浩一さん、ライターの石丸元章さんや藤井良樹さんたちのようにはちゃんとブレイクしなかったのも、当然と云えば当然ですね。運動の文脈から切り離された私個人は別に面白くはないですから、いわゆる“ギョーカイ人”も含めた“中森文化新聞”の大半の読者には、中森さんが外山恒一の何を面白がってるのか、全然伝わらなかったんじゃないですか」
 ----ともかくまあ、外山さんが一時期とはいえ“陽のあたる場所”にいた時代は九五年あたりを境に終わる、と。
 「現在にまで至る“不遇の時代”が始まるわけですね。どうでもいいですが私は最近、“思想界の北島マヤ”を自称しています(笑)。天才かつ不遇、ということで」
 ----いったん陽があたりかけて、すぐ失脚しちゃうあたりも北島マヤっぽいですね。
 「ええ。で、九五年の話に進むと、なんといってもまず一月の阪神大震災でしょう」
 ----外山さんは直後に現場に行ったんですよね。
 「そもそも実はあの日、九五年の一月十七日だったと思いますが、東京の友人と、中間の京都で会おうということで、始発の新幹線でたまたま京都に向かってたんですよ」
 えっ、じゃあちょっとタイミングが悪ければ、外山さん自身が遭難してた可能性もあるんじゃないですか。
 「ところが当然、新幹線が途中で止まっちゃいますよね。私の乗った新幹線はたしか広島駅で止まって、先へ進めなくなりました。関西で地震があったようで、しばらく停車しますとアナウンスが流れて、車掌が忙しく行ったり来たりしているのを呼びとめて、どうなるのかと訊いてみても、まだ詳しい状況がよく分からないんだと云うばかりです。どうもしばらくは発車しそうにないんで、改札近くの待合室まで降りていくと、テレビの周りに人だかりができてます。見ると、もうすごいんですね。これは新幹線が止まるのも当たり前だと。しかも在来線も含めて、一日二日待ったって運行再開はあり得ないですよ。仕方ないから下りの新幹線で福岡に帰りました」
 ----ああ、いったんは戻るんですか。
 「お昼ごろアパートにたどり着いて、もうひたすらテレビを見っぱなしです。破壊党の例の相棒とその彼女が、当時もしょっちゅう私のアパートにやってきて、その頃はまあ、前年夏の公安調査局事件を最後に具体的な活動はストップしたままですから、ただダラダラと無為にダベり合うような日々だったんですが、その二人と三人して“すごいよなあ”と。そのうち夕方ぐらいでしょうか、“現場に行こう”という話になって、さらに街頭ライブ仲間で唯一、なかなかセンスのいいインテリ君で私たちともウマが合った大学生がいて、そいつも誘ったら乗ってきたんで、計四人で神戸に向かうことになったんです」
 ----つまり早朝に震災の起きた、その日の夕方ですよね。
 「そうです。当然まだ線路なんかは寸断されたままなんで、それにそもそも京都行きの準備をしていた私はともかく、他の三人はまったく所持金もなかったので、ヒッチハイクで行くことになります」
 ----それはもちろん、救援に行くとか、そういう目的ではないんですよね。
 「まったくの物見遊山です。後でいろんな人に怒られましたし、やがて反省もするんですが、当時の私は思想的に頽廃してますからね。なんか困ってる人を助けるとか、そういうヒューマニズムみたいな言動にツバを吐くのがラジカリズムだとカン違いしてたようなところがあって……」
 ----たしか麻原彰晃らオウム真理教の幹部たちも、震災後すぐに神戸に駆けつけて、廃墟の街でバトミントンか何かやって遊んでたという話もありますよね。
 「それを後で知って私も複雑な気持ちになりましたよ。私たちもオウムの諸君にも、そもそもこんなくだらない社会なんか滅びてしまえばいい、みたいな強烈なルサンチマンというか、能動的には破壊願望、受動的には終末願望、それこそ“ハルマゲドン”願望があるわけです。それ自体は別に私たちだけが特殊なヘンな人なのではなくて、逆にそういう感覚がミジンもない人には、そもそもラジカルな運動は担えませんよ。政治や宗教の運動にかぎらず、音楽や美術などの芸術運動の領域でも同じです」
 ----廃墟の街、たいていは“世界最終戦争”みたいなものの後の世界で、心躍る冒険活劇が展開されるアニメ作品なんてのもまあ多いですよね。
 「そういうことです。黙示録的な“世界の終わり”が来て、壮大な廃墟の街を舞台に、生き残った一握りの人間たちで新しい世界を創造してゆく、なんてまあ凡庸といえば凡庸なイメージに心惹ひかれる人も一定数いて、私たちもそうだったというだけの話ではあるんです」
 ----実際、行ってみてどうだったんですか?
 「震災当日の夕方に福岡を出発して、翌日の夜には神戸の中心街に着きました。本物の廃墟に立って、最初はものすごく興奮しました。まだ余震も続いてて、たまたま歩道橋を渡ってる時にそれが来て、キャーキャー騒ぎながら急いで走りだしたり。しかし自分たちが革命戦争でも引き起こしてブッ潰したのでもあればともかく、ただ廃墟の街に来たからって何もやることなんかないですよ。せいぜいそれこそ“バトミントン”でもやってちょっと変わった感覚を味わうぐらいが関の山ですよね。私たちも、持っていったラジカセでヒップホップなんかかけながら誰もいない真っ暗な街を四人で連れ立って歩いて、『アキラ』とか『北斗の拳』の登場人物になったような感覚を楽しんで悦に入ってみただけで、数時間もすれば退屈してきますよ。眠くなっても真冬で寒いし、さすがに物見遊山の分際で被災者用に開放された施設にのうのうとまぎれこむわけにもいかないし、みんな口数も少なくなって……。それで翌日の午後にはもう撤退することにしたんですが、神戸に入るのならともかく、神戸を出るのにヒッチハイクはやっぱり無理ですよね。とりあえず復旧してる一番近くの駅まで歩こうということになって、あれは明石かどこかだったような気がしますが、とにかく三、四十キロ、ひたすら歩きました。被災者たちも、同じように列をなして歩いていて、私たちもその中の一人になって、私は気づきませんでしたが、一緒に行った中の一人は、黒焦げになった遺体を囲んで簡単な仮のお葬式だかお通夜だかを道端でやっているのを見たと云ってましたけど、歩いても歩いても、ずっと壊れた街で。私はこの時にヒザを痛めてしまって、今だに完全には直っていないんですが、まああんまりバカなことをやったんでバチが当たったのかもしれないですね」
 ----『SPA!』の“中森文化新聞”に寄稿したのは、この、ヒッチハイクで震災直後の神戸に行ってきたというレポートですよね。
 「そうです。でまあ、周りにはそれを面白く読んでくれた人もいたし、なんて不謹慎なと憤慨する人もいたし、反応はいろいろでしたが、怒る人に対して当初は私も、人でなしで結構、ヒューマニズムなんかクソクラエみたいな感じで虚勢を張ってました。それがだんだん……」
 ----反省してきたんですか?
 「全面的に、ではないんですけどね。それまでいろいろ理不尽な目に遭ってきたんだからそれはそれで仕方ないんだと一方では思いますが、どうも私はなんというか、“グレていた”のではないかという気持ちが強くなってきて……。というのも、私が物見遊山に行って帰ってきて、それと入れ替わるようなタイミングで、今度は全国から続々と、大量の若者たちがボランティアで現地入りしはじめますよね。グレてますから、最初はそういうのを“ケッ”と思って見てたんです。ところが次第に、動揺してくるわけです。活き活きとボランティアにいそしんでいる彼らの方が健全であることはまあ、明らかですよね。それを斜に構えて見ている私の方が明らかに病んでいるんです。ヤバいなあと。あるいは、世代が完全に入れ替わりつつあるんじゃないかとも感じたんですね。つまり私たちは、八〇年代の後半にラジカルな社会運動を追求して、当時の私たちの力量の及ぶかぎりで精一杯のことをやって、それなりの高揚を実現したんですが、九一年あたりを境に始まった停滞、後退の中でもがきながら、なんとか勢いを盛り返そうと悪戦苦闘を続けていたわけです。ところがそういう私たちの世代の試行錯誤と無関係に、それと完全に切れた文脈で、突如、もっと若い世代、私たちより五つくらい下の若者たちが、震災ボランティアとして大量に出現したんですね。私みたいな人間でも、かなりヒネくれた形ではありますが、それなりに社会をより良い方向へと変えていくために、いろんな活動をやってきたわけですよ。ところが私は、やはり社会の中で何らかであろうとしているに違いない震災ボランティアの若者たちに、届くであろう言葉を何ひとつ持っちゃいないんです。私は何か長いこと迷路みたいなところに迷い込んでいたんじゃないかと、それまでの自分の感覚を疑い始めたんですね」
 ----それはまた一つの転機が訪れたような感じですね。
 「ちょうどそんな時期に、東京で“だめ連”の運動に出会うんです」

未完