幻の単行本原稿『アナーキー・イン・ザ・選挙』1

都知事選開始直前に出しませんかと途中まで書いて
   いくつかの出版社への打診に使用したもの。
   結局どこも引き受けてくれなかった。
2007年1月ごろ執筆。

----今回は、『アナーキー・イン・ザ・選挙』と題して、外山さんが過去におこなったいくつかの異色の選挙運動について詳しくうかがいたいと思います。そのタイトルはどうなんだ、もうちょっとヒネリとかないのか、そもそも“選挙”の前置詞は“イン”なのか(笑)、いろいろご不満もあるかとは思いますが、そこらへんはまあ、深く追及せずどうかお手やわらかにお願いします。
 「こちらこそどうぞよろしく」
 ----いま、外山さんが過去におこなったいくつかの異色の選挙運動、という云い方をしましたが、正確には、実際にご自身が立候補されたのは一度だけですよね。
 「ええ。二〇〇五年十一月の鹿児島県霧島市議選のことを云われているのでしょう」
 ----そうです。しかしそれ以前にも二度、ご自身が立候補するという形ではないけれども、選挙戦というか、選挙にからんだパフォーマンスをなさっていますよね。
 「おそらく、一九九九年の福岡県知事選に際して展開した“投票率ダウン・キャンペーン”と、あとは二〇〇〇年に私の友人が、これはマジに鹿児島市議選に立候補して、これを支援する形で、なんというか、“サブカル選挙参謀”のような活動をおこなったことを指して云われているのだと思いますが」
 ----ご友人はその時、本当に当選されましたね。
 「ええ。それは私の力でというわけでは決してありませんけれども、まあ幾らかの貢献はしたであろうくらいには自己評価しております」
 ----いまご自身で挙げていただいた、選挙という制度にからんだ三つのパフォーマンスというか、活動について、今回は詳しくお訊きしていきたいわけですけれども、その前にそもそも外山恒一とは一体どういう人間なんだ、という大半の読者の疑問があると思うんです。
 「そうでしょうねえ。なにしろ現時点で私はほとんど無名ですから」
 ----知る人ぞ知る、という存在ではあるんですけどね。
 「著作も何冊かありますし、まあ実感としては、日本人をランダムに何千人か集めたら、一人か二人は私の名前くらいは知っている、という感じなのではないかと思います」
 ----これだけ派手な行動を十数年にわたって繰り広げてきた人が、なぜかくも無名の存在にとどまっているのかという一種の驚きを、本書を読み進めていくにつれて読者のみなさんにも共有していただけるんではないかとは思いますが、一つにはやっぱり、それらのほとんどが中央ではなく地方でおこなわれてきたということも大きいんでしょうね。
 「私は普段ほとんど九州から出ませんからね」
 ----九〇年代半ばくらいでしょうか、『週刊SPA!』などによく登場されていた時期には東京におられたんでしょう?
 「いえ、あの時期もやはり九州がメインでした」
 ----そうなんですか。
 「まあ福岡に二ケ月くらい、東京に一ケ月くらい、というペースで往復生活していたような感じですから、今よりはずっと頻繁に東京に出てはいましたが」
 ----地元に愛着があるんですね。
 「そういうわけではないんです。私はむしろ東京とか、あるいは札幌でもいいですけれども、他の地域からの流入者によって形成された街というか、伝統的な共同体の縛りが少ない街にいる方が居心地がいいんです。最近は“九州独立”とか云ってますけど、私の場合それはいわゆる九州ナショナリズムみたいなものとは関係ありません。九州に居つづけていることもあって、誤解されることは多いんですが」
 ----そのあたりもまた、おいおい訊いていくことにします。先ほど云いましたように、本題であるこれまでの外山さんの選挙関連の活動についてお訊きする前に、まずは外山さんのそもそもの来歴というか、活動歴、人となりみたいなことも含めて、外山さんのことをまったく知らない読者の存在を念頭に、お話ししていただきたいと思います。最初にごくごく基本的な情報になりますが、生年月日を教えてください。
 「一九七〇年の七月二六日です。二〇〇七年一月現在、三六歳ということになります」
 ----一九七〇年というと、よど号のハイジャックとか、三島由紀夫の事件なんかが起きた年ですね。
 「もっと重要な事件として、これは私の生まれる三週間ほど前ということになるんですが、華青闘告発というのが起きた年でもあります」
 ----一般的にはあまり知られていない事件ですが……。
 「いわゆる全共闘運動が、決定的に変質するターニング・ポイントとなった事件です。詳しくは専門の書籍、例えばスガ秀実さんの『1968年』(ちくま新書)などに譲りますが、差別問題が学生運動の、ひいては左翼運動全体の中心的な課題となって、簡単に云えば左翼運動がまったく楽しいものではなくなってしまうのがこの華青闘告発事件以後なんです。左翼運動衰退のきっかけとして、よく七二年の連合赤軍事件が挙げられますが、私の研究によれば華青闘の方がよっぽど重要です」
 ----ご自身がまだ生まれるか生まれないかの頃の事情について、外山さんはやたら詳しいですよね。
 「全共闘世代よりも全共闘のことをよく分かっているつもりです(笑)」
 ----ネットなどで時折、左翼オタクみたいな手合いを見かけますが、まさか外山さんもその部類ですか?
 「そう思われるのは心外です。タネを明かせば実はそれほど奇異なことではないんです。七〇年前後に生まれた私たちの世代というのは、実は六〇年代の学生運動などに対する関心がそもそも高いんです。なぜならまさにそれが私たちの“生まれた頃”の出来事だからです。私たちが思春期を迎えるのが八〇年代半ば頃ですが、それはちょうどいわゆる“管理教育”、細かな校則とか理不尽な体罰とかが問題視された時期で、当然それに反発する層は一定いるわけです。ところがその反発がなかなか“運動”みたいな形にならない。本を読んだり、いろんな形で貪欲に情報を摂取したい年頃でもありますから、そのうち“なんだかよく分からないけれども、おれたちの生まれた頃はなんか熱かったらしいぞ”ということが分かってきます。私たちより十歳くらい上の、いわゆる新人類と呼ばれた世代の人たちは、どうも全共闘に対する反発の方が強いようですが、それはやはり世代的な距離が近いからで、私たちくらいの世代になると、逆に細かいことがよく分からないから、なんとなく漠然と憧れるような気持ちが強くなるわけです。これがもっと下の世代になると、六〇年代は遠い歴史上の話になってしまうようですが、私たちの世代ではまだそこまではいかないんですね」
 ----でも外山さんの世代の多数派がそうだというわけではないでしょう。
 「そんなことを云い出せば全共闘運動を担ったのだって全共闘世代のごく一部です。ただ私はそれほど同世代の中で特殊な部類というわけではなくて、むしろ類型的な、ありがちな存在でしかないということが云いたいわけです。例えば村上龍さんがご自身の高校全共闘体験を小説化した『69』が刊行されたのも私の高校時代ですし、これは実際、私たちの世代の読者に熱狂的に受け入れられました。また、ブルーハーツの曲には時折、ベトナム反戦運動や公民権運動への言及がありますが、ブルーハーツこそは私たちの世代を代表する文化現象であったことは、今さら説明するまでもないはずです」
 ----世代の気分として全共闘的なものへの関心や憧れが一定あったというのは何となく理解できなくもないですが、それにしても外山さんは詳しすぎるように思います。やっぱりそこらへん不思議というか、むしろ不審なんですが(笑)。
 「それは私だって当時から詳しかったわけではないですよ。中高生当時の私はむしろ無知蒙昧(笑)、やっぱりなんとなく漠然と憧れみたいな気分を抱いていただけです。詳しくなったのは、後に実際に左翼運動に関係するようになって、全共闘世代のダメな活動家ばかりマノアタリにして、どうしても面白そうなものである印象は払拭できない全共闘を実体験した活動家が、なにゆえこれほど堕落腐敗するのか(笑)と不思議に思って、そういう問題意識から戦後の学生運動史、左翼運動史を徹底的に研究した結果です。さすがにそこまでやった同世代は他にほとんどいないだろうことくらいは自覚しています(笑)」
 ----一九七〇年生まれ、現在三六歳というところに話を戻しまして……。
 「全共闘運動がちょうど後退期に入ったところに誕生、と。そういうふうに整理しといてください(笑)」
 ----これまでの活動のメインは福岡で、ということのようですが、お生まれは福岡ではありませんよね。
 「鹿児島ですね。東京とか、北の方の人から見れば“要は同じ九州じゃん”って印象なんでしょうけど、そもそも九州は県によって全然文化が違いますからね。正確には県というより旧藩ごとにいろいろ特色があって、例えば同じ福岡県でも北九州市と福岡市では全然違うし、福岡市の中ですら武士の街だった福岡地区と商人の街だった博多地区とでは文化が違う。まして福岡と鹿児島ではもう、全然違いますよ」
 ----どうも話が脇にそれがちな……。
 「すいません(笑)。鹿児島県の隼人町の生まれです」
 ----二〇〇五年に周辺との合併で霧島市となって、外山さんはその合併後最初の市議選に立候補したという流れになるんですが、それはまた先々おうかがいするとして、この隼人町というのはご両親の出身地になるわけですか?
 「そうですね。正確には父方の実家があるのが隼人町で、母方はその隣町の加治木町ですが」
 ----何歳まで鹿児島で育ったんですか?
 「四歳までです。四歳の時に、父の仕事の関係で福岡県大野城市に一家で移り住みました」
 ----父上のご職業は?
 「ヘリコプターの整備士をやってました」
 ----それはまたずいぶん変わったお仕事ですね。
 「鹿児島の高校を出て、自衛隊に入っていろいろ免許を取得したらしいです。整備士の仕事は、民間の空輸会社でやってました。マスコミの取材用とか、農薬散布とか、いろんな目的でヘリを飛ばしてる会社みたいですね」
 ----現在の外山さんが右翼的な立場を標榜してらっしゃるのは、自衛隊におられた父上の影響もあるんですか?
 「それはまったくありません。ちなみに私の現在の立場がアンチ左翼であることは確かですが、別に右翼を標榜してはいません。それも左翼運動への幻滅から選択した立場で、父からの思想的影響のようなものはまったくありません。そもそも父はごく平凡な市井人で、大衆の常として保守的な性格や感性の持ち主ではありましたが、何か思想的なものがあったわけでもありません。私は、私自身が思春期に入っていろいろ本を買い始めるまでは、蔵書のようなものもほとんどない、非教養的な家庭環境で育ちました」
 ----でも成績は良かったんでしょう?
 「それが改めて振り返ると、実はそうでもなかったことに最近気がついたんです(笑)。これは別に卑下して云ってるわけではなくて、私の通った小学校は一学年が八十人くらいの小さなところなんですが、その中で常に成績トップだったというわけでもないんです。三人ぐらいでトップ争いをしてた中の一人で、まあその程度には優等生だったことは確かですが、内実はそんなものです。自分はドロップアウトしたエリートだというふうにずっと自己認識していて、実はそうでもないことに最近ようやく気づいて、とても恥ずかしいんですよ(笑)」
 ----でも中学はエリート校じゃないですか。
 「追及しますねえ(笑)。西南学院中学という私学で、福岡市早良区にある、まあエリート校の部類でしょう。最終的に中退することになる福岡県立の筑紫丘高校というところもやはり地元の名門で、だからこそ私は自分を“ドロップアウトしたエリート”だと錯覚しやすかったんですが、結論から云うとですね、この種のエリート校というのは、エリート候補生を集めて、ほんとにエリートになっていく人間と、“しょせんここまで”的な人間とに振り分けるような役割をどうしても担ってしまうわけですよ。つまり例えば西南学院中学で云うと、小学校では皆それなりに成績優秀な、我こそは優等生なり、みたいなプライドを持った連中ばかりなんですよ。ところがそういう連中ばかりの世界の中で、また序列ができるわけでしょ。小学校でトップだった人間が、ここでは必ずしもトップになれない。で、大半の生徒はアイデンティティ・クライシスに陥るわけです。勉強でトップになることに自分の存在意味を見いだせなくなった生徒はどうするかというと、勉強以外の何かでトップを目指すんです。具体的には、マニアックな趣味の世界に走る(笑)」
 ----外山さんは何に走ったわけですか。
 「推理小説の創作と、ピアノの独学。どっちも中途半端に終わりましたけど」
 ----でもその後、文筆と音楽で食ってきたわけですから……。
 「間接的には何がしかの役には立っているんでしょうね。しかしまあ、当然もう勉強はできなくなるわけです(笑)。多少努力して勉強したところで、絶対コイツにはかなわないと思えるモノホンの優等生がゴロゴロいるような世界ですから、そういう無駄な努力は一切放棄! 末は博士か大臣か、はたまた大ブルジョアジーかと期待してた親との関係はグチャグチャになるし、ずいぶん辛い思いをしました。だから自分の子供が多少勉強できるからって、このテのエリート校に入れちゃうのも考えものですよ奥さんって私はどういう読者を想定してるんだ」
 ----ただその中学校で、思想的に受けた影響は大きかったとあちこちで書いてますよね。
 「左翼偏向教育の話ですね(笑)。西南中というのはかなり変わったところで、生徒や、あるいはその親たちは、末の博士や大臣や大ブルジョアジーを育成するフツーのエリート校だと思って入学したりさせたりするわけですが、教員の側にはそんな気持ちがミジンもないんです。授業では、受験と関係ないことばっかり教える(笑)。小学校を出たばかりの子供を相手に、数学の授業ではカントールの無限集合論とかいうのを教え、国語の授業ではソシュールの記号論を教える。さすがエリート校と思われるかもしれませんが、要はその教師がたまたま一番関心のあることを、子供相手ですから分かりやすく噛み砕いてではありますが、とにかく熱く語りまくる、そういう授業ばっかりなんです」
 ----面白そうではありますね。
 「そりゃ面白いですよ。教師が、一人の学問探求者として一番興味があり、また若い世代にぜひ伝えたいと本気で思っている内容を、全力でぶつけてくるんですから、面白くないわけがないです。生徒はみんな熱心に話を聞いていましたよ。エリートを目指している生徒たちも、それはそれとして楽しく聞いて、受験勉強は自宅や塾でやる(笑)、そういう学校だったんです。今思えばそうした教師たちはみな、志を持続しているタイプの全共闘体験者で、当時おそらく三十代半ばですから、まあ元気だったわけです。さきほど数学と国語の例を話しましたが、これが社会科の授業であればどうなるかはだいたい想像がつきますね(笑)」
 ----ええまあ。
 「しかし実際はその想像をはるかに凌駕しています(笑)。一年生の社会科は、西南中では地理だったんですが、これはもう、日本各地、世界各国で現在どのような社会問題が発生しているか、詳細に啓蒙していく内容です。沖縄の米軍基地問題はもちろん、成田空港闘争も、青森県六ヶ所村の話も、北海道のアイヌ迫害のことも、全部中学一年の段階で教えられました。毛沢東の冒険活劇も、カストロとゲバラのそれについても同様です。高校の頃にパンクに興味を持って、クラッシュの『サンディニスタ!』というアルバム・タイトルを見た瞬間に、あ、ニカラグアの話だなと分かったのも、この地理の授業のおかげです。三年生の時に公民の授業を担当していた教師は、三人いる社会科の教師の中では一番保守的な印象がありましたが、それでも“基本的人権の中には、ろくでもない政府は打倒してもよいという革命権というのも含まれる”という、これはまあ事実そうなんですが、そういう話をちゃんとしてくれるという、一般に右翼の人たちが“日教組の左翼偏向教育”とか云って非難する時に想定しているレベルを何万光年も超越したとんでもない授業です。もっとも、当時まだ存在したソビエト連邦や、中国・北朝鮮などの社会主義国の体制を賛美する部分以外は、内容的にそう間違ってはいなかったと今でも思いますが」
 ----で、外山さんはその影響を強く受けたわけですか。
 「それが実はそうではないんです。さきほどチラッと云ったように、私は中学時代、趣味の推理小説とピアノに専念していましたから、そうした授業を面白く聞いてはいましたが、別にだからといってガゼン政治的に目覚めたとか、そういうことはないわけです。それに件の地理の教師が顧問を務める“社会研究部”という部活があって、その部員である同級生たちが、社会問題について熱く語っている様子を身近に見て、世の中いろいろ不正や矛盾はあるようだが、そういうことは彼らのような頼もしい人たちに任せておけばきっと何とかしてくれるんだろうと安心しきってもいたのです」
 ----無責任ですね。
 「しょせんはアイデンティティ・クライシスの問題ですから。私は私の選んだ分野で一番になりたかったし、きっと社会研究部の部員たちもその分野で一番になりたかっただけなんです。これは別に彼らを貶めて云っているわけではありませんよ。思春期にさまざまな試行錯誤を繰り返すのはごく健全なことだし、生徒の大部分が実際にそうなる西南中は、いい学校だったと思います」
 ----では外山さんが政治的に“目覚める”のはいつのことなんですか。
 「高校に入ってしばらくしてからです」
 ----二年間に三つの高校を転々としたあげく中退、というのは外山さんをすでに知っている読者には今さら説明するまでもない基本的なプロフィールですね。
 「回りくどくなるので説明は省きますが、いろいろ事情があって、西南学院とはまったく別系列の、中村学園三陽高校という私学の新設校に、まず第一期生として入学します。これは福岡市西区にあります」
 ----ここで外山さんは典型的な“管理教育”を体験することになります。
 「入学早々、体育館や運動場で延々行進や挨拶の練習をやらされる“合宿”があったりというやつですね。さきほどの話から充分想像できるかと思いますが、西南中は本当に自由だったので、その落差は衝撃的でした。西南中の社会科の授業の影響かもしれませんが、権利意識には目覚めていたし、また当時はかなり弁も立ったので、よく職員室に一人で抗議に押しかけたりしました」
 ----弾圧されたでしょう。
 「いえ。というのも、新設で、三年後の大学受験で最初の“成果”を世に問わなければならない三陽高校側にとって、私は貴重な財産だっんです。私は、三陽高校では優等生でした。私は“学歴が多い”人間で、いろんな学校に通っているのでその時期その時期によって優等生だったり劣等生だったりして、そういうのも精神的に結構大変なんです」
 ----その後も含めて、浮き沈みの激しい人生ですね。
 「余計なお世話です。とにかくそういうわけで、私は反抗的な生徒でしたが、三陽高校の教師たちは、むしろそんな私をひたすらなだめすかすような態度で接してきて、しかし当然、管理的な教育方針が改められるはずもなく、私ももうメンドくさくなって、さっさと転校することにしたわけです」
 ----転校先が鹿児島県立加治木高校ですが、これは父方の実家に一人で移り住んだんですよね。
 「隼人町の父方実家に祖母がまだ健在で、福岡の両親や妹・弟と離れて、そこにまあ単身赴任したような形です。高校一年の九月から転入して、だから最初の三陽高校には夏休みを引くと四ケ月もいなかったことになります」
 ----当時の西南中も、三陽高校も男子校ですから、実に三年半ぶりの共学じゃないですか。
 「ええ、淡い恋などもありました」
 ----淡くない恋などもあったでしょう。
 「ええ、淡くない恋などもありました」
 ----全部最初の著作に書いてありますもんね。
 「ええ、まったくお恥ずかしいかぎりです」
 ----では加治木高校での話を。
 「結論から云うと、ここから私の政治的な目覚めがいよいよ始まります」
 ----それは何かきっかけのようなものがあるわけでしょう?
 「もちろんです。それはもう、ほんの些細なことだったりするわけです。私の場合は以下のような感じです。そもそも今ご指摘のとおり久々の共学だったし、また加治木高校はその前の三陽高校と比べれば、あくまで比較の問題にすぎませんが、ずっと自由な校風に感じられたし、転入直後はもう、毎日が楽しくて仕方がないくらいでした。ところが一ケ月もしないうちに、唐突に状況が変わるんです。きっかけは、一枚のプリントです。それは、近く始まる“補習”とやらへの参加意思の有無を問うものでした」
 ----学校側が全校生徒に配布したということですか?
 「そうです。近く“補習”を開始する、と。通常の一時限目がまあだいたい朝八時半とか九時とかに始まるとするでしょう。その前にさらに一時限を設けて、それをつまり“補習”と呼んでいるわけです」
 ----要するに、授業について行けなくなった生徒をフォローしてくれるようなシステムとして設けられているんですね。
 「誰だってそう思うじゃないですか。私もそう思いました。で、私は別に加治木高校の授業について行けないわけでもなかったし、何よりそれに参加するには早起きしなきゃいけないでしょう。だから“参加しない”の方にマルをつけて返したんです。そしたらこれが大問題になって」
 ----え、なんでですか!?
 「実はこの“補習”は全員強制参加だったんです。そして、私以外の生徒はみなそのことを知っていて、当然“参加します”にマルをつけて返していたわけです。“参加しない”にマルをつけたのは、学年で私一人だけだったんですよ」
 ----不条理小説みたいな展開ですね。
 「で、職員室に呼び出されるわけです。みんな参加するんだから、参加するように、と。これはやっぱり納得できないでしょう」
 ----まあそうですね。
 「強制なら強制と最初から云ってくれれば、私だってフツーに参加したと思うんですよ。早起きはイヤだなあとグチでもこぼしながら。それが、参加の意思をわざわざ問うておいて、参加しないと答えたら怒られるというのは、どう考えても理不尽じゃないですか。それでまあ、私は態度を硬化させたわけです。絶対参加しないと」
 ----気持ちは分からなくもないですが、そういう状況だと孤立しませんか?
 「それが意外とそうでもありませんでしたね。まあ最初の一ケ月の間に、クラスにかなりうまく溶け込めていたからなんでしょうが、やはりそもそもこの“補習”制度への疑問が、生徒の間にもなくもないというか、少なくとも私が“これはおかしいじゃないか”と云えば、“云われてみればそうかもなあ”という程度には思う生徒も多少いるわけで、教師からすれば“とんでもない問題児を抱え込んでしまった”となったようですが、クラスメイトにはかなり理解されていました。それで“補習”拒否の動きが他の生徒にも広がる、とまではならなかったんですが、なんか学校のやり方はおかしいぞ、なんてことを熱く語り合うような輪が、私の周りに次第に形成されはじめるわけですね」
 ----今度は熱血青春小説みたいになってきましたね。
 「そのうちそれが単に学校への不満を語り合うだけではなくて、そもそも今の社会は……みたいな話にもなるわけですよ」
 ----いきなり飛びますね。
 「雰囲気ですよ。しょせん田舎の高校生ですし、熱くなると飛躍もあります。たしか直接のきっかけは、そんな輪の中にいた一人が、“なんか親父がどこかでもらってきた”とか云って、共産党のビラを持ってきたんですね」
 ----どういう内容ですか。
 「まあ共産党ですからね、軍事費を増やすなとか、そんな感じでしょう。なにしろ当時はかの中曽根政権時代ですからね。若い世代には分からないかもしれませんが、もう絵に描いたようなタカ派の首相だったわけです。しかも世界的にも冷戦の最後のピークでしょ、イギリスのサッチャーと、アメリカのレーガンと、そして日本の中曽根がトリオを組んで、東側に強硬姿勢で臨むという。キレイゴトを云って批判の対象とするにはもってこいの状況ですよ。それでまあ、私もちょっと熱いだけの無知蒙昧な若者ですから、こりゃ共産党の云ってることは正しいと、そうなるわけですよ。しかし中には偽悪的というか、世の中そんなキレイゴトだけじゃ云々とか、若いくせにスレたことを云うクラスメイトもいて、やっぱり軍事は重要だとか、私に論戦を挑んでくるんです。こっちも負けてはいられませんから、新聞を読んだり、テレビのニュースを熱心に見て、勉強して対抗しようとします。そんな感じでまあ、だんだん政治的に目覚めてくる、と」
 ----共産党の活動には参加したりしたんですか?
 「事務所には行きましたけどね。なんか町で唯一の共産党の町議がいて、その人は後に私が霧島市議選に立候補した時のまあ“ライバル”にもなるわけですが、その人の事務所に行って、パンフをいっぱいもらったりしました。ところが二度目か三度目に行った時ですかね、民主青年同盟の地元のリーダーだという大学生くらいの若者がいて、“君はなかなかミドコロがあるからぜひ民青に入りたまえ”なんて云うわけです。こっちは焦りまして、そんなナントカ同盟だなんていかにも過激派みたいな組織に誘われるなんてとんでもないと、それっきり足が遠のきました」
 ----それはたしかに無知蒙昧ですね。
 「共産党が武装闘争をやってたのはせいぜい敗戦直後くらいまでですからね。以後はずっと、むしろ政府に過激派の取り締まりを要求してるようなヘタレ政党なんですが、当時はそんなことも知らなかったわけです。ただまあ、もらったパンフだけは熟読して、クラスメイトとの論戦に役立てていましたよ。最初はハチャメチャですが、理論武装しながら議論しているうちにだんだん考えが整理されて、といっても依拠してるのがそもそも共産党のパンフですから、まずは凡庸な戦後民主主義者になるんです。平和憲法を守れとか云って」
 ----外山さんの高校一年生というと、一九八六年ぐらいですよね。その時代に左傾化するのはちょっと珍しいんじゃないですか。
 「だから最初の方で云ったように、そんなことないんです。いつの時代でも若者の一部は社会問題みたいなことに関心が芽生えたりするものなんですよ。私の高校時代でも、学年に一人か二人くらいの率で、それはもちろん六〇年代、七〇年代に比べたら少ないですが、いるんです。私もそういう凡庸な社会派の高校生にすぎなかったわけで、ただ、当時は若者が政治的に目覚めるというのはイコール左翼になるということだったんですね。八〇年代いっぱいはぎりぎりそういう傾向が続いていて、つまり私なんかがその最後の世代になるわけですが」
 ----政治的に目覚めることがイコール左翼になることだったというのが、とくに今の若い人たちにはよく分からないと思うんですが……。
 「そうでしょうね。ここ十年くらいは逆になってますからね。それはつまり小林よしのりさんなんかの影響でしょ。若者が社会問題に興味を持った時に、入門書的な役割を果たすのが『ゴーマニズム宣言』とかだったりするのが、九〇年代半ばあたりから始まって、でも私たちの時代には、入門書は朝日文庫の本多勝一シリーズだったんですよ。私たちの世代の社会派っぽい若者は、だいたいみんな本多勝一に影響されて、政治っぽい話をする時の基本教養みたいなものを身につけていったんです。もうちょっと進むと、現代書館から出ている“フォー・ビギナーズ”というシリーズがあって、本多勝一的な、なんというか社会党左派とか無党派市民左翼みたいなノリから、もうちょっとハードな、新左翼過激派的なノリになっていくんですが、まあ要するに社会派チックな若者に対する左翼の引力圏、磁場が今よりずっと強くて、そういうテキスト的なものも、初級編・中級編・上級編と、順ぐりに階梯を昇っていけるような感じがあったわけです。私なんかの場合はまだこの加治木高校時代、本多勝一も知らなくて、それ以前の、日本共産党的なズブズブの戦後民主主義の段階なんですけど。まあ鹿児島の、しかも郡部ですからね、大きな本屋も当時はなかったし、パッと目につくところでは左翼は共産党ぐらいしかいないんだから仕方ないんですが。ただ他にも入門書の代わりを果たすものとして、久米宏の『ニュース・ステーション』がありました」
 ----当初『ニュース・ステーション』はかなり左派的なスタンスで、保守派に目の敵にされてましたもんね。
 「そうなんです。で、タカ派色の強い中曽根政権に対抗する形で、社会党は土井たか子の時代でしょ。それまでの労働組合依存型から、各地の無党派市民運動みたいなもの、反管理教育運動とか反原発運動、それにフェミニズム運動とかに軸足を移し始めて、一時的にかなり議席も伸ばしましたしね。さらにはソ連もゴルバチョフ時代なんです。あのソ連が変わり始めた、みたいな雰囲気があって、東側は平和路線に移行しつつあるのに、西側はレーガン・サッチャー・中曽根でもうケシカランと、そういうイメージが広く共有されてましたから、左翼にとってはいい時代ですよ。アジアでも、ちょうどフィリピンや韓国で民主化運動が盛り上がっていて、そういうのを『ニュース・ステーション』なんかで見て、私なんかも熱くなるわけです。こんなふうにちゃんと時代背景をふまえれば、たまたまその時代に社会問題に目覚めたりすると、左翼的というか、少なくともリベラルな方向に行くのが当たり前だったという私の話もそうヘンな感じはしないでしょう?」
 ----ですね。
 「もっと云うとですね、この翌八七年にあのブルーハーツがメジャー・デビューするんですよ。その前段階として、八〇年代前半には尾崎豊が登場して、いわば“反抗のロック”みたいなものを復活させるんですが、私は尾崎にはピンときませんでしたね」
 ----周囲に聴いてる生徒はいたでしょ。
 「ええ。“補習”の問題をきっかけとして、学校当局との闘争の日々が始まったわけですが、そんな私を見て、尾崎を聴けと勧めてくれる女の子とかいましたけど、私は当時“ロックは不良の音楽”みたいな迷信を頑なに信じておりまして、文化的には非常にオクテだったんですよ。闘う自分を鼓舞するために聴いてるのは、さだまさしと中島みゆきだったりして……」
 ----ええっ、何ゆえ!?
 「だからオクテだったんですって(笑)。でまあ、尾崎はロックだと云うから、なるほど“不良の音楽”かと(笑)。私は反抗的な生徒でしたが、べつにいわゆるヤンキーのタイプではありませんでしたから。むしろ優等生的なエリート意識も引きずってましたし、勧められても尾崎豊は結局その時は聴きませんでした。仮に聴いてたとしても、“夜中に校舎の窓ガラス割って”とか“盗んだバイクでどうしたこうした”とか、露骨にヤンキーっぽいノリでしょ、ハマることはあり得なかったと今でも思いますね。だから、ブルーハーツを知るまでは私は時代とズレまくったフォーク・ニューミュージック少年だったんです。ブルーハーツを初めて聴くのは、次の高校の時ですけどね」
 ----じゃあ話を先に進めましょう。
 「加治木高校にいるのは、高校一年の二学期から高校二年の一学期まで、つまりちょうど一年間です。というのも、私がこれまでお話ししてきたような経緯で、次第に政治的な言動が増えていく様子を、一年生の時のクラスメイトはリアルタイムで見てるんですよね。経緯が見えているから、理解もあるわけです。ところが二年生になる時にクラス替えがあって、もともと転校生ですから、新しいクラスメイトから見ればもういきなりヘンな奴なんですよ。クラスでも浮きまくって、まあ私はそもそも理不尽なことに唯々諾々と従うタイプではありませんからそう深刻化はしなかったですが、“いじめ”みたいなのも多少はあるわけです。それでだんだん居づらくなってきて、転校するかと」
 ----生徒間での孤立だけではなくて、学校当局との軋轢の問題もあるんですよね。
 「もちろんです。両方ともだんだんシビアになってきて、加治木高校というのは地元では“自由な校風”とされていたんですが、そんなもの表層だけですからね。それに私は西南中という特殊な私学で、本当に自由な校風というものも経験しているわけですから、ますます加治木高校の“自由”のウソ臭さにガマンならなくなるんです」
 ----その時点で中退は考えなかったんですか?
 「そんな覚悟はまだありませんよ。なにしろ優等生気分はまだ抜けきれてませんし、高校中退なんて選択肢は思いつきもしません。今と違って、まだ高校中退はそんなに一般的ではなかったという事情もありますが」
 ----まさに外山さんの世代からですもんね、ヤンキー的なタイプでもなんでもない、ごくフツーの生徒の高校中退が増えるのは。
 「それほど当時のいわゆる“管理教育”がすさまじかったということですよ。自分の生き方なり何なりについて、マジメに考えれば考えるほど、このまま理不尽な管理体制下に身を置いていてはダメだという結論に向かいます。私の場合は、同時にものすごく臆病でもあったために、他に選択肢があるかぎりは小中高、そして大学というレールになんとかしがみつこうとしたわけですが。つまりまだ転校できる先があるかぎりは、そうしようと」
 ----で、今度は福岡県立筑紫丘高校への転入となるわけですね。高校二年の二学期からということは、八七年秋ですね。
 「ええ、“自由な校風”というやつに憧れて」
 ----ところがもちろんそれも“偽りの自由”にすぎないわけですよね。
 「そういうことです(笑)。そんなもの、加治木高校で充分以上に思い知ったはずなんですけどね。しかも加治木高校で二年生に上がる時に、まだ周囲に溶け込めもしないうちから自分を強く押し出したりするとヤバいということも学んでいてしかるべきなのに……やっちゃうんですね(笑)」
 ----いきなり孤立、と。
 「ええ(笑)。当時すでに政治的な関心が高まっているわけですから、そんな私のやりたいことというのは、なんかこう、社会派な同世代を結集させる感じで熱く盛り上がりたいと。具体的にどうするなんてことは今思えば全然ないんですが、とりあえずそういう方向で熱く語り合える仲間が欲しかったわけです。ところがいきなり孤立でしょう(笑)。それで仕方がない、学校の中に同志を得られないとしても、他の学校の奴と連帯できればいいかな、と」
 ----発想の方向は間違ってはいないと思うんですが……。
 「そう、方向はいい(笑)」
 ----方向だけですよね(笑)。
 「私のこれまでの著作を読んだことのある人にはもう云うまでもないんですが、この最後の高校で私の一世一代の大恥というか、若気の至りここに極まれりというか……」
 ----あんまりお話ししたくない?(笑)
 「観念してすべてお話ししますよ。全部この私がやったことですよ、刑事さん(笑)」
 ----正直に話すように。
 「その……高校生の……政党……というか……」
 ----ナニナニよく聞こえませんな。
 「だから! “ほんとの自民党”と称してですね、つまり本家の自民党と違って、“ほんとに自由と民主主義を実現しようじゃないか”ということでですね、そういう問題意識を共有する高校生の手による“政党結成”なんて妄想にとり憑かれて、これに熱中するわけですよ。もう恥ずかしいったらありゃしない」
 ----具体的にはどういうことを?
 「もう勘弁してくださいよ」
 ----……。
 「……」
 ----……。
 「……。話します。西南中に“社会研究部”という熱い部活があったことはお話ししましたよね。ああいうのが、全国を探せば他にもあるんじゃないかと思ったわけです。それで電話帳で調べて、日本中の高校に電話をかけまくって、“そちらに社会研究部とか、なんかそんな感じの部活はありますか?”とか訊いて回ったら、やっぱり稀にあるんで、今度は発見したそういう部活宛てに、片っ端から手紙を出したんです。“社会問題に興味を持つ高校生同士、ヨコにつながろうじゃないか”って。もちろん“政党を結成したいと思ってるんで”とかはいきなり書きませんよ(笑)。で、二つくらい返信があって、うち一つが広島からだったわけです。ここでは仮に“沢村君”としておきましょう。彼は私より一つ年下の、当時高校一年生で、私からの手紙が着くなり、即座に直接電話をかけて寄越したんです」
 ----この沢村さんとの出会いから、現在に至る外山さんの政治遍歴が、本格的に始まるわけですよね。
 「ええ。だから若気の至りでもなんでも、若いうちは思いついたことをとにかく実行に移してみるもんだと思いますよ(笑)。この沢村というのがまたすごい奴で、今考えてもやっぱりその政治的な方向性はともかく、少なくとも行動力に関してはとんでもないんですが、彼がそもそもそういった政治的なことに目覚めたのは、中学の一年か二年の時に、小田実の文章を読んだためだったというんですね」
 ----かつてのベ平連、“ベトナムに平和を!市民連合”のリーダーで、以後九〇年代あたりまで一貫して、無党派市民運動の中心的な役割を果たしていた人物ですね。
 「で、以来沢村は、夏休み冬休み春休みなんかをフルに使って、全国をくまなく貧乏旅行して、各地の市民運動と交流を続けてきたと云うんです。高校一年生なのに、もう三年以上の活動歴があるわけですよ(笑)。しかもこっちは共産党ふうの凡庸な戦後民主主義がベースなのに、向こうは小田実でしょ。今の私の目から見ればともかく、まあ当時の最先端の、カッコいい運動ともリンクするわけですよ。具体的には、保坂展人の反管理教育運動とか、辻元清美のピースボートとか、あるいは当時チェルノブイリの事故から一年以上を経てようやく盛り上がり始めていた反原発運動とかですね。沢村の方が年下なのに、私なんかより圧倒的に、まあ少なくとも耳年増なんです(笑)。それで私もいてもたってもいられなくなって、広島まで自転車こいで沢村に会いに行くわけです」
 ----重要な情報をハショりましたね。ただ自転車こいだわけじゃないでしょ。
 「荷台にくくりつけたラジカセで、さだまさしの反戦歌を大音量で流しながら行きましたよ(笑)。ちょうど私がさだまさしからブルーハーツに転向する過渡期でね。でまあ、広島で実際に沢村に会って、いろんな話をして、というよりも一方的に聞かされて、それでいよいよ感銘を受けるわけです。要するにそれまでの自分の井の中の蛙ぶりを思い知るわけですね。何が政党結成かと(笑)。で、猛反省して一から考え直さなきゃというところに……」
 ----政党結成計画が筑紫丘高校側にバレる、と。
 「高校生が政治活動などモッテノホカ、というわけで無期停学処分。そうなるとこちらも意地にならざるを得ないんで、まあ非転向でしばらく頑張りましたが、最終的には偽装転向して、もう二度とやりません、聞きわけのよい良い子になりますと反省文を提出して学校に戻ります」
 ----そのへん、けっこうヘタレですよね。
 「まあ若気の至りですから。それでも停学は結局五十日の長きに及んだし、しかもこの停学期間中にいよいよ自主退学を決意して、それでもとにかく二学年修了まで残った方が取得単位が増えて大検受験に有利だからということで仕方なく戻ったんです」
 ----この期に及んでまだ大学に行く気でいる……(笑)。
 「そして予定どおり、高校三年になると同時に退学届を出して、めでたく中退と」
 ----大検の他に、もう一つ“保険”をかけてたでしょ(笑)。
 「はいはい全部しゃべりますよ(笑)。停学期間中に、それまでの波瀾万丈の闘争の日々の出来事を箇条書きにしてですね、これを手記にまとめたいのだが刊行の意思ありやなしやと、東京のいくつかの大手出版社に手紙を出したんですね。うち徳間書店から引き受ける旨の返事がきて、これが私の単行本デビューにつながっていきます」
 ----低学歴と引き換えに、若くして単行本デビューという姑息な計算があったわけですね。もしその話がなかったら……。
 「いや、さすがにもう中退の意思だけは固まっていましたよ。私もそこまでヘタレではない、ってあんまり説得力ないか(笑)」
 ----ともかくこの時点で高校中退と。
 「八八年の五月ですね。学校側がなかなか受理しなかっただけで、始業式に退学届を出して以来、もう通ってませんでしたが」
 ----中退後しばらくは何を?
 「そりゃすぐに活動を始めましたよ。そもそも高校をやめたのは、このまま学校に残っていたのでは自分のやりたいことができないと思い知ったからですし、当時の私の“やりたいこと”というのは、社会派な同世代をとにかく片っ端から発掘して、連帯を実現していくということですから。もちろんもう“政党結成”とかは過去の話になってますけど」
 ----しかし外山さんの反管理教育運動は、実は本格的にはここからスタートするわけですよね。自分はもう高校生じゃないのに、学校問題に取り組むというのは、なんかヘンじゃないですか?
 「今考えるとそうなんですけど、当時のノリというものがありますからね。中退したといっても直後だからまだ高校生気分だし、実際、同い年の連中はまだみんな高校生ですよね。さらに間の悪いことに、例の沢村の勧めで、学校をやめてから保坂展人の本なんかを読み始めるわけです。当時、保坂の周囲には全国の闘う中高生が結集していて、彼らの闘争手記みたいなものを集めた本とか、学校と闘うためのマニュアル本とか、いろいろ出てたんですよ。そういうのを読んで、なるほどこういうふうに闘えばよかったのか、これは九州でも広めなきゃと熱くなります。自分はもう学校にはいないわけだから、校内での実践はできないんだけども、発想を変えればいろいろ思いつきますよね。例えば、地元のいろんな高校の前でビラまきとかしても、もう処分されたりする心配はないわけで、そうやって堂々と仲間集めをして、連絡してきた現役の高校生にそのマニュアル本を広めるとか、できるじゃないですか。これからはそういう方法だな、と」
 ----で、実際ビラまきとかしたんですか?
 「やりました。“校則に反対しよう”とか、現在の私の活動を知る人からは苦笑されそうな、まっとうなビラを作っては、福岡のいろんな高校の校門前で、一人でまきました」
 ----反応はどうでした?
 「じわじわ広がりましたよ。直接の反応もありましたし、一人で地道にやってたら新聞が取り上げてくれて、それで大人たちからの反応も増えましたし」
 ----その大人たちというのはいわゆる……。
 「無党派市民運動というやつですね。全共闘やベ平連の時代からずっと志を持続しているような、当時まあ四十歳前後の活動家たちです。無党派だけではなくて、例えば日教組の組合活動家とか、そういう諸先輩方とでも云えばいいのか、いろんな大人たちの運動ともつながり始めて、学校問題の集会に呼ばれたり……。つまりそれまでの自己流の八方破れの作風が、次第にごく普通の活動家っぽくなっていく時期ですね。何度も云うように、八〇年代の後半というのは、いろんな社会背景もあって、十代で社会問題とかに関心を持つのはそんなに珍しくない状況ではあったんですが、実際に市民運動の現場にまで足を運ぶ同世代は少なかったから、大人たちからはずいぶんチヤホヤされましたよ。彼らもまさか私がその後、こんな“鬼っ子”に変貌するとは思いもしないでしょうし」
 ----肝心の、同世代の仲間は?
 「もちろん少しずつ増えました。地道にビラまきは続けましたからね。半年で十数人程度ですが、マクドナルドなんかに不定期に集まっては学校や社会に対する不満を語り合うような、とりあえずそんな形ができてきました」
 ----グループ名とかはあったんですか?
 「“反管理教育中高生ネットワーク・DPクラブ”というのが当時の名称です。DPは不良品という意味の英熟語の頭文字で、まあ学校というのは規格品を大量生産する教育工場である、ぼくらは不良品・欠陥品であることを誇りをもって選択する、といったニュアンスですが、私も駆け出しでしたし、センスはヌルいですよね」
 ----広島の沢村さんとの関係はその後も続くんでしょう?
 「私の活動史的には、むしろそっちの線の方が後々重要なんですけどね。というのも当時、沢村は東京で年に一、二回開催されていた、“高校生新聞編集者会議”というイベントに熱心に関わっていて、これは要するに、たいていの学校には新聞部という部活があるでしょ、全国の高校の新聞部員たちが自主的にやってる合宿イベントなんですね」
 ----それはその、なんというか、かつての学生運動みたいなノリがあるわけですか?
 「もともとはそうだったようです。代替わりが続く中で半ば伝説化してて、実態は今もよく分からないんですが、そもそもは七〇年代の終わり頃に、当時の高校全共闘の残党みたいな人たちが始めたイベントだったらしいんです。それが代々受け継がれながら、この八八年段階でも続いていたんですね。もちろん政治色はかなり薄まっています。つまりもともとは“学校当局と闘う高校生ジャーナリストの連帯”というか、少し大袈裟ですがそういうノリだったのが、この頃には単なる交流イベントに変質しつつあって、まあそれでも少数派として、当初の志を受け継いでいる参加者もいたんですが……」
 ----顧問の教師なんかも関与してるんですか?
 「それはまったくありません。ほんとに現役の高校生だけでやってるイベントです。二十歳以上のOB・OGが数名、夜だけ参加しますが、それは単にそうしなければ宿泊施設が確保できないからで、基本的には完全な自主イベントです。顧問をはじめ、学校側の関与は一切ないし、むしろ学校側には秘密に参加しているメンバーがほとんどだったりします」
 ----具体的にはどういうイベントで、何人ぐらいが参加してたんですか?
 「とにかく熱く語り合うだけです。二泊とか三泊でやるんですが、昼間は最小限のタイム・テーブルを組んで、要はランダムに、あるいは興味あるテーマごとに少人数にグループ分けして、ひたすら語り合います。夜は宿舎で、また時間無制限で自由に語り合います。教師がいないから、当然酒を飲む奴もいます。進学校の生徒が大半なので、少数派ではありますが喫煙者もいます。とにかくあらゆるどうでもいい規制をとっ払ったところで、数日間ひたすら熱く語り合う、そういうイベントです。参加人数は、私たちの頃で百名に届かないくらい。私たちより数歳上の代まではもう少し多かったようです。エリアはもう全国各地から来ます。中心メンバーが実行委員会を作って、案内状を全国数千校にランダムに発送するんですが、大半の高校では途中に当局の検閲がありますから、実際に生徒の手に渡らずじまいになって、だから比較的生徒を放任している進学校、エリート校に参加者が片寄りがちではあるんですが」
 ----外山さんもそれに参加されたんですか?
 「沢村に誘われて、八八年の夏に参加しました。これはもう、ほんとに衝撃的な経験で、沢村と初めて会った時以上の衝撃でした。なにしろ九州にいる限りでは、私は同世代の一番の行動派ですよ。まあ沢村と知り合った時点で一度ヘコまされてはいるんですが、実はその沢村も、あれだけマセてたんだから当然ですが、自分自身がこれはもう全国的に見て同世代のトップであると自負してたわけですね。その沢村さえもが、同じこの八八年の春に私より一足先にここに参加して、実は相当にヘコまされていたんです。当時の沢村は、私の目にはもうとんでもないスーパーマンみたいな印象だったんですが、よくよく考えてみると、単に全国の市民運動家と知り合いだというだけで、何か独自の活動を地元で展開しているわけではなかったりします。その点ではむしろ、ショボいながらもナニガシかの行動を伴っている私の方が偉いわけです(笑)。それがこの高校生新聞編集者会議に来てみると、三里塚の成田空港反対闘争に身を投じている高校生はいるわ、反日武装戦線の裁判支援をやってる高校生はいるわ、保坂展人の直近で修行しながら現場で闘ってる生徒会長はいるわで、もちろんさきほど述べたようにそういう参加者はこの八八年段階では少数派になってはいるんですが、それでも何もやってない沢村はヘコまされるしかないわけですよ(笑)。それで沢村も殊勝な気持ちになって、とにかく次の合宿イベントにはそれまでに知り合った多少なりとも行動的な高校生を勧誘する形で盛り上がりに貢献させてください、みたいな謙虚なノリで、その結果として私も誘われたという経緯があります。ああ、云い忘れましたが、このイベントではどこかの学校に帰属していることよりも、同世代であることの方に重きが置かれていて、それで私のようにすでに中退していても、通っていればまだ現役の高校生であるという年齢であれば参加させてもらえるんです」
 ----それで、参加して衝撃を受けた、と。
 「とくに今ちょっと云った、闘う生徒会長と意気投合しましてね、彼も沢村と同じく私の一つ年下なんですが、当時すでにイッパシの毛沢東主義者で、中国への留学経験もあるんですよ。私のとは比較にもならない、高校生とは思えないような高度な政治手腕で、当局と日々闘いながらもさまざまの改革を確実に実現していってるわけです。ただまあ、彼の方からしても、都心育ちの身からは想像もできないような九州の地の果てで展開された私の八方破れの闘争の話は充分面白かったようで、それこそ朝まで語り明かして、“いやあ、とにかくこういうイベントは大事だよ、全国からいろんな同世代が結集して、熱く語り合って。今後も埋もれている仲間をさらに発掘して、全国的なネットワークをいよいよ構築していかなきゃね”みたいなことで盛り上がって、以後、彼と話すと二言目には“全国的なネットワーク、全国的なネットワーク……”ってとり憑かれたみたいに(笑)。で実際それはこの後に実現するんですが、そうやって全国から発掘した仲間のほとんどは、せいぜい数年で地元を離れて“東京の人”になっていくんですね。私にはそれがどうにも納得いかないというか、これじゃ本末転倒じゃないかという思いがあるわけです。“全国的なネットワーク”を実現すればするほど、それが結果として東京一局集中を加速してしまうというのは……。だから私がこれだけ孤立しながらも、今も九州にとどまり続けているのは、別に地元に愛着があるからでもなんでもなくて、私にとってかなり原点でもあるこの高校生新聞編集者会議での熱い出会い、あの夜の、あの気持ちにこだわる意地みたいなものなんですよ。それぐらい興奮する体験だったわけで、もちろん私はイベントが終わるとすぐさま福岡に戻って、いよいよ地元での同志発掘に力を入れた次第です」
 ----そろそろ最初の著作、『ぼくの高校退学宣言』が徳間書店から刊行される時期でしょう。
 「それが八九年の一月ですから、地元での主にビラまき活動と並行して、原稿も書き進めていたんでしょうね。なにしろ次々にいろんな出会いがあって楽しかったから、逆にあまり細かいことは覚えていないんですよね」
 ----たしか大検を受けようとしていたとか……。
 「一応、受けはしたんです。合格もしましたよ。ところが今はどうか知りませんが、当時の大検は受験してから合格通知が来るまで三ケ月くらいタイムラグがあるんです。その間にどんどん身の周りが賑やかになっていくわけでしょ、そっちの方が面白すぎて。受験勉強なんてほんとにエネルギーの無駄な浪費というか、はっきり云って“雑事”じゃないですか。そのまま大学受験のことはすっかり忘れてしまって……今に至る(笑)」
 ----実際、同世代との面白い出会いが次々にあったわけですね。
 「それにはまた事情があって。この高校生新聞編集者会議が、私が参加した直後の八八年末に分裂しちゃうんです。つまり実行委員会が、ということですが。さきほども述べたように、もともと高校全共闘の残党みたいな人たちが始めたイベントなんですが、世代交代を経てそういう色はだんだん薄くなってきてたんです。先に挙げたような、とんでもなく行動的な参加者というのは、全体の中ではほんの一握りです。むしろそういう古代の遺物みたいな連中は排除して、なんかつまり“アブなくない”感じで、楽しい交流サロン路線に純化していきたいという連中が、実行委員会の多数派を握ってしまうわけですね。それで沢村ら二、三人が組織を割って出て、逆に政治性を全面に押し出した“全国高校生会議”というのを新しく立ち上げようという展開になるんです。せっかくすでに存在している組織を割って、というのには私は乗り気になれませんでしたが、私なんか当時もうほんの下っ端ですから、発言力なんかないです(笑)。分裂が避けられないとなると、志向性としては沢村たち少数派と一緒ですからね。翌八九年三月に、新聞系とは分裂して開催することになった“全国高校生会議”の、五名の実行委員会の一人に私も加わることになるわけです。で、沢村には中学時代から築き上げてきた、全国の市民運動の現場とのパイプがありますよね。これがフル活用されます。つまり、連絡をとっては、“そちらの運動に高校生は参加してませんか?”と訊いてまわって、一人でもいるとなれば案内状を送るわけです。さらに沢村が、すでに高校を中退してますから時間のあり余ってる私に、“もっと仲間を発掘するために、二人で全国行脚をやらないか”と持ちかけてきたんです。八八年の年末から八九年の年頭にかけて、つまり沢村の冬休みに合わせてそれをやりました」
 ----具体的にはどのように……?
 「まあ実際には、沢村がすでにコンタクトだけはとっている同志候補に、直接会いに行くというもので、純粋にゼロからの同志発掘ではなかったんですけれども。まず福岡で私が集めた仲間たちと沢村を引き合わせるでしょ。そのために沢村がいったん福岡まで来るわけです。その後は、二人して東へ東へと……。何度もしつこく云いますが、当時の十代にはちょっと社会派な気分は蔓延してたんですよ。意識して探さなければ見当たらないけど、いざ動いてみると意外にあちこちにそういう十代の活動家とか運動体があったんです。たいていは反管理教育か反原発の運動でしたが、私たちが実際に訪ねたのは、下関、大阪、京都、名古屋、岡崎、浜松、そして東京、千葉でした。東京まで行っちゃうと、実行委員会のミーティングに合流しちゃうので、北の方までは足を伸ばせませんでしたが、そっちも沢村が一応、電話や手紙でコンタクトはとり続けてましたから」
 ----しかし沢村さんも高校生だし、外山さんもあまりバイトとかしてたわけでもないですよね。交通費とかどうしたんですか?
 「実は当初はキセル、つまりJRの不正乗車でと計画してたんですね。しかしあまりにもリスクが大きいと。そこで福岡を出る時に、試しにヒッチハイクに挑戦してみたんですよ。そしたらこれが実に簡単にうまく行って……。だからその後、この全国高校生会議で知り合った同志たちは、互いに全国各地を盛んにヒッチハイクで行き来するようになって、濃密な交流も加速する結果をもたらしたんです。当時はいわゆるバブルの最盛期ですが……」
 ----若者はいつの時代にも貧乏ですからね。
 「そう、私たち十代にはバブルなんか何の関係もないんです。だからこのヒッチハイクという新たな交通手段の発見は、本当に革命的なことでした。だって所持金五百円で東京に向かうとか、私なんか頻繁にありましたもん」
 ----しかし普段の生活はどうしてたんですか?
 「それがよく覚えてないんですよ。働いた記憶はほとんどないんですが……。一週間とか十日とかの超短期バイトは何度かやりましたよ。一日だけの、例えば交通量調査のバイトとかも。東京にいる時は、山谷や高田馬場のいわゆる寄せ場なんかにもごく稀にですが行きました。しかしそれにしてもほんとに稀にですからね、どうやって食っていたのか、自分でも不思議なくらいです」
 ----『ぼくの高校退学宣言』の印税とかもあったでしょう。
 「ああ、それは福岡に拠点としてアパートを借りた時に、敷金礼金とかで大半は使い果たしました。本が出たのが八九年の一月で、DPクラブの拠点開設が二月です。たしか印税を前借りして……。本をきっかけに、雑誌への寄稿依頼とか、テレビ・ラジオへの出演とか、あるいは集会にパネリストとして呼ばれるとか、ちょっとした臨時収入は時々あったので、それで食いつないでいたのかもしれません」
 ----本が出る前と出た後では、地元での活動にも変化があったでしょう。
 「それはもちろんそうですね。印税で拠点を開設できたのも大きかったし、特に地元ではかなり売れましたから、中高生の読者からの手紙もたくさん来たんです。彼らはそのまま拠点に出入りする常連メンバーになって……だから本の出版をきっかけに、一挙に賑やかな感じにはなりましたよね」
 ----ちなみに拠点というのはどのような……?
 「ごく普通のアパートですよ。1DKで、福岡ですから当然フロもトイレもついて家賃が三万五千円くらい。中心街の天神というところから私鉄で五分、その駅からもものすごく近いという恵まれた立地条件で、私は当初、実家のある大野城市から通ってましたが、まもなくズルズルと泊まり込むようになって、まあ自宅兼事務所みたいにしてましたけど。毎日放課後の時間帯になると、読者の中高生たちがワラワラと集まってきて、ダベる。浪人生とか、大学生とか、今で云うフリーターみたいなメンバーも何人かいて、そういう連中で相変わらず朝しょっちゅう高校前ビラまきは続けてましたね。あとは機関誌というか、ミニコミを毎月発行して……当時はもちろんインターネットはないし、携帯すらない、やっと留守番電話とかワープロとかが普及し始めたくらいの時代ですから、今の感覚からすれば活動の方法も原始的ですよ。変わった活動としてけっこう面白かったのは、現役高校生のメンバーから、何月何日に校庭あるいは体育館で風紀検査がありそうだという情報を仕入れて、当日そういう非中高生メンバーが拡声器持参で押しかけて、フェンスの外から“ただちに不当な風紀検査をやめなさい”とか騒いだり……(笑)。地元ではそういう活動を展開してました」
 ----地元では、ということは地元以外での活動もあるわけですね。
 「それはもちろん沢村たちとの全国高校生会議のことです。結局、八九年三月の本番には、全国各地から社会派な中高生たちが八〇名くらい集まって、三泊四日で語り合いました。実行委員会の分裂から、本番までたった三ケ月でしたからね、よくまあそこまでやれたもんだと思いますよ」
 ----形態としては、新聞編集者会議と同じような感じですか?
 「まあそうですね。新聞会議では、昼間の会場は中心メンバーの通ういくつかの高校の中から、そういうことに多少理解のあるところと交渉して、夏休みとか春休みですから校舎を借りて、夜は早稲田にあるキリスト教系の民間施設を宿舎として借りていたんですが、高校生会議の方は、東大教養部構内にあった、駒場寮という学生寮の食堂を借りて、昼も夜もそこで語り合いました」
 ----駒場寮というと、学生運動のメッカですよね。
 「そうですね。東大の駒場寮と京都大学の吉田寮が有名です。駒場寮の方は数年前に取り壊されてしまいましたが、八〇年代も九〇年代も、ずっと左翼系学生運動の重要拠点だったところです。寮食堂は、普段はフツーに営業していたんですが、高校生会議の開催は春休みの時期ですから、食堂も休業してて、それでその建物をまるごと貸してもらえたんです」
 ----そういう、東大の活動家たちとも交流があったんですか?
 「そういうわけでもないんですが、そもそも東大には新聞編集者会議のOBなんかもいたりするわけですし、交渉しやすかったんじゃないですか。もちろん、実際に開催する過程で、ノンセクト系の活動家数名とはいくらか交流する結果にもなるわけですが、実は我々もかなり増長してまして、なにしろまあ私個人はともかくとしても、他の中心メンバーは、全国水準からして同世代では抜きん出た活動家なわけですよね。東大の伝統的かつルーティンな学生運動なんかより、いよいよ形を顕しつつある自分たちの運動の方がよっぽどすごい、みたいな感覚で、あんまり彼らの運動には興味がありませんでしたよね(笑)。実際、この本番から知り合うメンバーも含めて、全国高校生会議の運動を中心的に担った仲間は、ほとんどみんなその後も大学に行かなかったんですよ。おいおい話しますが、当初の“反管理教育”的なノリから、急速に“反学校”的なノリ、つまりそもそも学校制度そのものが悪い、“管理教育”であるかないかなんてのは程度の話にすぎないんで、“管理教育”を改めさせようというのはむしろ学校制度の延命に力を貸すようなものだ、むしろ大挙して学校をやめる、周りにもやめるよう呼びかける、そういう運動こそ正しい路線だ、という感覚が共有されるようになって、だからもう大学生なんてのはそんな簡単なことにも気づかずにいる可哀想な人、あるいはバカな人たちに見えて、必然的に大学の学生運動なんかにはまったく興味を持てなくなっていったんです」
 ----それは自分たちがドロップアウトしてしまったことからくる一種のヒガミのような気もするんですが……。
 「今の状況で云うとそう聞こえるでしょうが、当時はどんどん運動が拡大して、気分的に高揚してますから、けっこう本気でそういう感覚になってたんですよ。実際、この時期のドロップアウトは、今と違ってかなり前向きなものでしたから。私たちみたいに、政治的な運動に参入していく場合だけじゃなくて、当時はバンド・ブームの最盛期でもあるわけで、決められたレールの上で時間を浪費していてはむしろ時代に乗り遅れてしまう、早くドロップアウトしないとそれだけ損をするという感じは、私たちだけに特殊なものではなかったように思うんです。よく云われることですが、“フリーター”という言葉も、そもそもは何か解放的な、新しい生き方の選択のようなイメージで、ちょうどこの頃に使われ始めるわけですし。でまあ話を戻すと、形態としては高校生会議も新聞編集者会議もほとんど大差ないんですが、まず東大駒場寮という会場そのものが何やら不穏な感じでもありますし、それ以上に違うのは、やっぱり実際に集まったメンツですよね。路線が過激であるか穏健であるかの開きは実は参加者の間にもかなりあったんですが、それでも大半は反原発なり反管理教育なり、なんらかの社会的・政治的な運動に関わっている中高生なわけです。そもそもわずか一、二年前まで私自身がそうであったように、みなそれぞれの地元では、多かれ少なかれ孤立した少数派の気分を抱えざるを得ない、本当に話したいことを周囲の同世代ととことん話し合えないという鬱屈を抱えざるを得ない状況があって、それが今後は全国各地に同志がいて、それぞれの場で闘っているんだとリアルに感じられるようになるというのは、展望がこう一気に拡大していくような感じです。革命は近いと(笑)」
 ----高揚する感じはなんとなく分かります。
 「それで……」
 ----あの……外山さん……。
 「ん?」
 ----インタビュアーとしてちょっと心配になってきたんですが……。
 「何がですか?」
 ----今なさっている話は、二〇〇七年現在から見て、もう二十年近くも前のことですよね。
 「八九年三月の話だから、まあそういうことになりますですね」
 ----内容が面白くないわけではないので、このまま続けてもいいっちゃあいいんですが、本題である選挙の話にたどり着くまでに、この調子だとあと何時間かかることやら、とちょっと心配になってきまして……。
 「しかし物事の説明には順序というものがあって……」
 ----それはそうなんですが、でもここまでの話も、この後しばらくの、まあ外山さんの反管理教育運動時代の話というのは全部、読もうと思えばこれまでの他の著作で詳しく読めるわけですよね。
 「まあそうなんですけどね」
 ----だったらもう、外山さんがとりあえず政治的に目覚めた経緯とか、活動の原点である反管理教育運動の世界に入っていく経緯とかはだいたい語ってもらえたんで、この運動のその後の展開に関心のある読者のみなさんには、他の著作に直接あたってもらうとして、いっそまあそれでもわずか二年ばかりですが、外山さんの反管理教育運動時代が終わる九一年半ばまで一気に飛ばしてもらえませんか?
 「えっ!? だって今話してる段階ではまだ私、マルクス主義にも目覚めてなくて、それ以前の素朴な戦後民主主義者ですよ。九一年まで飛んじゃったら、もうそのマルクス主義すら放棄して、とんでもない異端派の極左活動家になってますよ」
 ----ですからその経緯もすべて、例えば『注目すべき人物』あたりを読んでもらった方がずっと詳細にご自身で書かれているじゃないですか。
 「そりゃそうだけどしかし……」
 ----だって今の時点ですでに今回の予定分量の三分の一ぐらい使っちゃってると思うんです。
 「え、そうなの?」
 ----そうなんです。ですからここは……。
 「そういうことなら仕方がないか。なにしろ私の半生は波瀾万丈ですからね、ちゃんと理解してうためには確かに単行本三冊ぶんくらい語り倒さなきゃならなくなります」
 ----とりあえず参考までに、外山さんの今のところ一番新しい著作である二〇〇五年末刊行の『最低ですかーっ!』から、年譜を引用して掲げておきます。すでにちょっと話してもらった八九年一月から、九一年五月までのぶんを、多少改稿する形になりますが……。

  1989年

 1月 『ぼくの高校退学宣言』(徳間書店)で単行本デビュー。
 2月 福岡市南区にDPクラブの「事務所兼たまり場」開設。1DKのアパート。メンバーも、出版を機に一挙に拡大。
  この頃、入門書を1冊読んでマルクス主義者となる。
 3月 東大駒場寮食堂で第1回全国高校生会議。高校生新聞編集者会議から最左派が分裂、社会派な高校生を全国各地から発掘して80余名を結集させた3泊4日の合宿イベント。実行委員の一人として企画段階から関わる。
 8月 福岡市天神の街頭で初めてギター弾き語り。ブルーハーツのコピーー中心。この年12月頃には日常的に街頭に出没しはじめ、福岡のいわゆる「ストリート・ミュージシャン」第1号に。
 10月 DPクラブ分裂事件。アパートに入りびたるだけでまったく活動を担わない大多数のメンバーと、主宰者・外山との反目が高じて。80年代の若い社会運動シーンでは、同様の現象が全国的に普遍的に繰り返し経験された。

  1990年
 3月 第2回全国高校生会議(参加者80余名)。
 4月 久留米市立南筑高校に新1年生として入学。分裂による活動停滞を打破するための「潜入」。校内で盛んに「活動」し、レポートをDPクラブの機関誌に偽名で投稿、事情を知らない中高生読者を鼓舞する。当初の目的は達せられなかったが、2年間のさまざまな活動を経た視点で改めて「学校」という特殊空間を観察する機会となり、外山の学校論のレベルは飛躍的に高まった。
 6月 『ハイスクール「不良品」宣言』(駒草出版)。89年2月〜90年3月頃のDPクラブ活動報告集。
 7月 神戸高塚高校で「校門圧死事件」。全国高校生会議の同志2名と共に「それでも起ち上がらない生徒」を攻撃する「不謹慎」なビラを現場で配布。この行動を機に、DPクラブ残党および高校生会議の一部(以下「一派」)が急激に先鋭化し、外山はそのイデオローグとしてめざましい活躍。
 8月 神戸の高校生集会を「粉砕」。多くの参加者が暗黙の前提としているあらゆるテーゼを疑い、一参加者の立場で盛んに論争を挑むのだが、それだけで主催者側の意図する予定調和の集会は完全に破綻、野次と怒号が渦巻く大混乱に。一派の同志たちとともに同様の行動を全国各地のあらゆる「反管理教育」市民運動、とくに当時盛り上がり始めていた「子どもの権利条約」批准促進運動の集会等で展開し、その大半をやはり「粉砕」、「運動の破壊者」として憎悪され、恐れられる。
 9月 <秋の嵐>の一部と連帯関係に。「反天皇制全国個人共闘」を掲げ、「最後の過激派」と呼ばれた首都圏の異端的左翼青年グループ。
 11月 『校門を閉めたのは教師か?』(駒草出版)。『ふざけるな!校則』の著者・はやしたけし氏との共著の体裁だが、事実上、事件をめぐる一派の活動レポート。
  1991年
 1月 日本縦断ヒッチハイク敢行。
 3月 第3回全国高校生会議(参加者40名前後)。
 4月 久留米市立南筑高校を自主退学。校門圧死事件以降そもそもあまり通学しておらず。
 5月 DPクラブ解散。度重なる集会「粉砕」闘争などで孤立無援となって。この頃、橋爪大三郎や竹田青嗣の著作を読み遅まきながらいわゆる「ポストモダン思想」に目覚め、笠井潔の著作が決定的契機となりマルクス主義を放棄。

 ----こんなもんでだいたい分かるでしょ。
 「おおよそ分かるでしょうが、それでも細かいニュアンスはまったく伝わらないと思いますよ」
 ----だからその辺は他の著作を読んでもらうと。今後の話の展開上必要なことはその都度補足してください。とりあえず外山さんとしては、やっぱり『注目すべき人物』を読んでもらうのが一番いいですか?」
 「あれが一番よくまとまっていますからね。九一年五月のDPクラブ解散までの私の全活動について詳細に書いたものです。定価二千八百円とちょっと高いですが、図書館に入れてもらうもよし、なんとかしてください。まあCDだと思えば買えない値段でもないですけど。ちなみに版元はジャパンマシニスト社というところで、ネット書店のアマゾンとかからでも購入できます」
 ----そういうことでよろしくと。で、続きなんですが、この九一年五月のDPクラブ解散以後の活動については、まとまった形ではこれまで書いていませんよね。
 「そうですね。断片的に、例えば九二年四月二五日から同八月二日までの約三ケ月間の詳細な日記、なんてものも単行本になってますし、何かあった時にその事件だけについて書いた短いレポートみたいなものなんかをまとめて一冊にしてたりもしますが、それらは要するに“点”だけですから、私の活動史を一つの流れとして整理したものとなると、ないでしょうね」
 ----となると他の著作をあたってくれとも云えませんから、ここからはまた順を追ってお話ししてもらうことにしましょう。ただ、分量の問題もありますから、以後はなるべく簡潔にお願いします。
 「分かりました」
 ----まずこのDPクラブ解散直後の状況ですよね。具体的にはどういう生活をなさってたんですか?
 「食いぶちとしては街頭ライブですね。引用された年譜中にも二冊の著作を刊行したことがありますが、どちらもまったく売れてないですから、印税も事実上もらってませんし、文筆収入はほぼ途絶えてるわけです。まあ本当に困った時なんかはこの駒草出版の社長に電話して数万円せびったりとか、そういうのはありますが。街頭ライブというのは、私が“街頭演説”とかの連想でいつのまにかまるで普通名詞みたいに使うようになってた造語で、要はいわゆるストリート・ミュージシャン活動のことですよ。繁華街の路上で、ギターで弾き語りをやるアレですが、私の感覚では、“路上”とかまして“ストリート”なんて言葉はなんだかこっ恥ずかしくて使えなかったんですね。ビート・ジェネレーションじゃあるまいし、みたいな。それはともかく当時、つまり九〇年前後ですが、まだ福岡にはストリート・ミュージシャンが他に一人もいなくて、たまたまちょっとしたきっかけがあって始めたことだったんですが、珍しがられて、ただブルーハーツを歌ってるだけなんだけれども、人が結構寄ってくるんですよ。まもなくそれで投げ銭が入ることに気づいて、以後は次第にそれが“仕事”化していきます。『ぼくの高校退学宣言』の印税や、それに伴う雑誌その他での文筆収入はせいぜい八九年いっぱいくらいで途絶えてしまって、それと入れ替わりに、この街頭ライブでの投げ銭というのが私の主要な収入源になってくるわけです。だから九〇年に入ってからの、DPクラブの運動の最盛期には、ほぼそれで食ってたことになりますね。ギターさえあればどこでもやれる仕事なんで、だから全国各地の集会に出没したりできたんです(笑)」

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