2005年重大ニュース

 獄中で、もう自分のことを自分で書くのはやめようと決意したはずなのだが、全然守れていない。というのも、自分で書かないと誰も書いてくれない状況は相変わらずだからである。そうなると、私の言動に関心のある人にすら、まったく活動状況が伝わらなくなってしまう。
 困ったことである。
 そんなわけで、とりあえず私は今年何をやっていたのか振り返ってやろう。年末に「重大ニュース」を発表するのは98年以来である。

 その前に、去年(2004年)のことについても少し触れておこう。
 獄中で細部まで構想したまったく新しい革命のビジョン(ファシズム)を携えて福岡刑務所を満期出所したのが04年5月5日のことであった。「子供の日」に釈放というのは、なんだかバカにされているような気がしてならなかった。
 6月までは鹿児島(隼人町)の実家にいたが、7月から、熊本の支援者宅での居候生活が始まった。
 出所直後は頻繁に福岡へ出向き、私の新しいビジョンについて熱く語ったりしたが、どうも反応が悪く、なんだか空回りの感が強かった。
 久しぶりのシャバでの活動は、なかなか軌道に乗らないのだった。
 友人の友人がごくフツーの犯罪者として鹿児島で逮捕されるという事態が6月に持ち上がって、少しでも刑を軽くしてやるために動き回った。微罪で長期投獄されるような私にそんなことができるのかと思われるかもしれないが、私自身のケースはほとんど「わざと」刑を重くしたようなものである。どうすれば刑を軽くできるかが分かっているからこそ、わざと刑を重くすることだってできたのである。この友人の友人のケースでは、かなり減刑に貢献できたと思う。
 獄中で構想した新刊については、予想以上に時間がかかった。8月か9月には刊行するつもりでいた『最低ですかーっ! 外山恒一語録』は、年末の刊行となった。ちなみにこの本に関しては、経費を抑えるために、本文レイアウトを全部自分でやった(それもあってちょっと素人くさい版面にもなっているが)。
 04年後半は、これら友人の友人救援と新刊準備の活動以外は、ひたすら読書の日々で、書くべきことはそんなにない。

 さていよいよ今年2005年の「重大ニュース」である。

   『最低ですかーっ!』売れ行きサイテー

 奥付は04年末だが、事実上今年1月に出た新刊は、またもやまったく売れなかった。たぶん2百冊くらいしか売れていない。
 とにかく1冊でもいいから、1万部以上売れる本を書けば、もう革命は成ったも同然という作戦があるのだが。
 しかしこの本は、ファシズムに到達するまでの私の思想や運動の変遷をざっと押さえるにはとてもよくできているので、今後、使い道はなくもないだろう。今回は初めての自費出版だし、つまり出版社側の都合で絶版になることもないのだから。

   ホームページ再開

 新刊の刊行に合わせて、1月に個人サイトを再開した。当初は単に「外山恒一のホームページ」だったが、6月に「ファシズムへの誘惑」とタイトルを変え、現在では友人の協力を得てブログ形式に衣替えされている。
 ちょっと思うところあって、来年前半中に、さらに大幅リニューアルをやるつもり。

   文芸批評家・スガ秀実氏との交流

 裁判中に少しメールのやりとりがあったスガ氏に新著を送ったところ丁寧な返信をいただいた。以来、交流が続いている。
 前々から気になる存在だったのだが、交流が始まってみて初めてちゃんとスガ氏の本を読み、かなり強い影響を受けている。とくに全共闘運動あるいは新左翼運動を肯定的に論じた大著『革命的な、あまりに革命的な』は、この方面の著作としては笠井潔『テロルの現象学』以来といってもいい私にとっての収穫。もっとも全共闘をリアルタイムで経験していない後続世代で、この本をちゃんと理解できる人間が私以外にそんなにいるとも思えないが。
 近年のスガ氏のアクチュアルな発言と、近年の私の主張とを比較すると、ほとんど用語が違っているだけという感じがする。
 今年2回の上京時と、スガ氏が所用で福岡に来た時には実際に会って(噂の「カラオケ」を含む。スガ氏は尾崎など熱唱)ディープな交流も実現。
 それにしても現在、私の言動をいくらかでも気にかけてくれている人は、斯界にはスガ氏と、あとは鈴木邦男氏がいるくらいだなあ。

   獄中自伝を徐々に蔵出し

 「自分のことを自分で書く最後の作業」のつもりで実は獄中で自伝を書いていた。ムソリーニもヒトラーも、獄中で自伝を書いているし、ファシストの基本のような気がしてつい。懲罰中、隠し持ったシャーペンの芯で隠し持った便箋に、細かい字でびっしり書き綴ったその「現物」は、目にする者すべてに衝撃を与えている。
 これを何らかの形で発表することを考えて、テキスト入力の作業を始めた。
 実際には途中で挫折した未完成原稿なのだが、内容的には、自伝というよりも80年代論、90年代論で、自分の活動歴についてはざっと触れる程度にして、これまで断片的にしか言及してこなかった同時代のさまざまの現象について、かなり本格的に論じている。獄中で執筆した部分はすでに入力を終わり、現在、続きを書いている(と云いたいところだが夏以降またストップしてしまっている)。今のところ限られた数人にしか読んでもらっていないが、評判はいいので、いずれ完成させる。

   街頭ライブ本格再開

 04年末あたりから熊本の繁華街で小遣い稼ぎ程度に時折やっていたのだが、5月の上京資金作りのために本格的に再開。その後も、6月の「どくんご」ツアー随行資金、7月以降は選挙資金(供託金)を貯めなきゃいけないなど、結局もうやめるつもりだったストリート・ミュージシャン生活に逆戻り。
 長期投獄のため当初はかつての感覚を取り戻すのに苦労したが、現在ではすっかり元のベテラン職人に。

   久々の上京

 たぶん2001年秋に「劇団どくんご」の千秋楽を観に行って以来だと思うからほぼ4年ぶりである。
 その「どくんご」が今年やはり4年ぶりの全国ツアーをおこなうとのことで、初日公演を観るために5月16日、上京。1週間ほど滞在し、ついでに首都圏のかつての友人・知人らを訪ね、毎日交流三昧。
 東京の本家「だめ連」界隈では予想どおり私の本はまったく読まれていないが、実は旧「法政の貧乏くささを守る会」界隈には意外に愛読者が多いことが判明したのは収穫。ちょっと元気が出た。

   劇団「どくんご」九州ツアーに随行

 6月は「どくんご」の九州4ケ所公演について回った。劇団側にはうっとーしかったかもしれないが、芝居終了後の打ち上げで各地に人脈を作ることと、将来的には我がファシスト党でも党員によるテント劇団を結成することも考えているので、建て込みやバラシ、そして移動生活を一度ざっと経験してみるというのが主な目的。4年前は裁判の真っ最中で、ほとんど建て・バラシは手伝えなかったし。
 6月11日が熊本県水俣市、16、17日が宮崎県綾町、19日?21日が宮崎市、25、26日が鹿児島市公演。移動が私だけ原付で別々になる以外はほぼ劇団員と生活を共にし、ハードだが楽しい毎日だった(私の方は)。

   熊本撤退

 前記のとおり出所直後の04年7月から熊本市内の支援者宅に居候の身だったのだが、いろいろあって急遽撤退することに。
 食・住が完全に保障され、ひたすら勉学に打ち込むことができたのはいいが、やはり他人ん家だし、支援者のみならずその家族とも同居だったので、例えば熊本で誰か仲間を見つけたとしても福岡時代のように家に連れ込んで濃厚に「オルグ」したり、「交流会」のようなものを自宅開催したりすることはもちろん、連絡先住所を公開してビラをまいたりすることもできなかったので、この熊本での1年間、具体的な活動は停滞してしまった。とにかく獄中に引き続き勉強はした、理論的進展はあった、ということでまったく無意味ではなかったと思いたい。
 7月末にふたたび鹿児島県隼人町の実家での生活が始まる。

   「劇団あたまごなし」結成

 「どくんご」のテントで知り合った暗黒舞踏的なパフォーマー・花上直人氏の公演がたまたま移住直後の鹿児島でおこなわれたので観に行った。
 来場者のほとんどは鹿児島でのテント芝居の打ち上げでよく見かけるメンツだったが、この日の公演を主催した元演劇人の居酒屋店長が、打ち上げの席で盛り上がった勢いで、地元鹿児島にテント劇団を新たに立ち上げることを宣言。いきなり脚本を執筆するよう命じられてしまった。
 劇団員も徐々に集まり、曲折を経て秋に劇団名を「劇団あたまごなし」、公演タイトルを「アリババが40人の盗賊」とすることが決まった。
 主宰の居酒屋店長との交流はほとんど連日となり、またそれに伴ってそこの常連客を中心に鹿児島での友人・知人もやたらと増大。12月上旬にはついに人生初の「合コン」まで体験した。
 肝心の脚本は遅々として進まず現段階でまだ半分ほどだが、本番は4月に迫っている。

   「おとなの文芸部」軌道に乗らず

 九州のインテリな若者を手っとり早く組織するための文芸サークル「おとなの文芸部」は、禁煙キャンペーン粉砕を掲げる「タバコ解放同盟」とともに、我がファシズム運動の初期の実践としてすでに獄中で着想していたもので、出所以来たびたび呼びかけているのだが、いずれもどうもうまく立ち上がらない。とりあえずデッチ上げ的に8月半ば、複数の偽名を使ってほとんど全部私が書いた文芸同人誌『熱病』を作製してみたが、やはり活動は軌道に乗らず。このへんは来年に持ち越し。

   久々の長距離ヒッチハイク

 「どくんご」は6月の九州4ケ所公演の後、北陸や東北・北海道を回って、9月あたまに東京で千秋楽を迎えた。
 去年の出所直後にたまたま知り合って以来頻繁に交流し、「どくんご」の鹿児島公演も観た鹿児島大学の社会派青年H君と共に、その千秋楽を観に5月に引き続いて上京。
 もともと青春18切符を使う予定だったのだが、H君のバイトの都合で、移動時間を短縮するため急遽ヒッチハイクでの往復に変更。
 実は出所以来、熊本・福岡間、熊本・鹿児島間、鹿児島・福岡間(さらには、何回か原付が故障して隼人町・鹿児島市間なども)といった九州内での短距離ヒッチはちょくちょくやっていたのだが、鹿児島・東京間(約1600キロ)などという長距離ヒッチは入獄以前も長らくやっておらず、たぶん10年ぶりくらい。しかし「ヒッチ8段」の腕前はいささかも衰えてはおらず、1人より当然やりにくい2人組ヒッチながら往路復路とも約20時間で走破。
 むろん東京には10日間ほど滞在し、「だめ連」や「貧乏」界隈を中心にまた交流三昧。鹿児島市すら大都会の範疇である地の果て枕崎市出身のH君の目に東京はどう映ったか。

   オリジナルTシャツを路上販売

 実家に同居している限りなくニートに近いフリーターでデザイナー志望の弟を「更生」させる目的も兼ねて(?)、共同でTシャツ作製用の機械を購入し、それぞれのオリジナル作品を鹿児島市の繁華街で3回ほど路上販売。本職のはずの弟のものは1枚も売れず、私のものが計10枚ほど売れてしまい、却って弟の士気を下げる結果になってしまったのは悲劇だが、「これはやりようによっては新たな活動資金源にできるぞ」と思った。来年以降も何らかの形で引き続き展開することになるだろう。

   角川短歌賞でなかなか健闘

 獄中で詠んだ連作短歌「百回休み」全108首のうち50首を精選して角川短歌賞に応募した。
 10月末に発売された角川書店の『短歌』11月号で選考結果が発表され、それによると応募作624篇のうち編集部による予備選考を通過した33篇には含まれていた。ただし、プロの歌人4名による最終選考の座談会では一言も言及されず。

   霧島市議選に立候補

 「政府転覆の是非」を争点に霧島市議選隼人選挙区から立候補。基礎票は3票(私と弟と父)で、地元には知り合いも一人もいないという状況で、わずか1週間の選挙運動だけで122票を獲得。投票者の150人に一人が「政府転覆」を支持するという考えようによってはとんでもない結果に、政府関係者は現在夜も眠れない(はずである)。
 これもいずれちゃんと詳細をレポートしなければと思いつつ、ついグータラして遅れている。
 以前書いたとおり、ちょっと「味をしめて」しまったので、今後もしばらく選挙に出続けることになると思う。

   ストリート・ミュージシャン容認要求闘争

 鹿児島ではなぜかストリート・ミュージシャンに対する警察の取り締まりが近年強化されていて、11月上旬には一度、交番に連行されてしまう事態にまで発展したので、やむなく闘争開始。
 福岡時代、ギターケースの、「生活費」と大書した貼り紙が私のトレードマークだったが、鹿児島の田舎センスにはこれは受け入れられないと判断し「500円ぐらいくれ」なるプレートを作って使用していた(これでも反感を露わにする田舎者は後を絶たないのだが)。しかし現在では、「道交法違反で逮捕!? 警察のストリート・ミュージシャン弾圧をやめさせる運動資金」と大書したA3の紙を貼っている。活動容認を求める警察宛ての署名用紙と、主張をまとめたビラも置いている。なにぶん「仕事」メインなのでそれらの活動アピールに重点を置けないのがもどかしいが、それでも毎晩数人が自主的に署名していってくれる。また、相変わらず警官は通りかかるたびに演奏中止を強要してくるのだが、それに果敢に抗議する頼もしい市民の皆さんもよく登場する。そういう時にはわざとダラダラ片付けて、警官が市民に抗議される大切な時間を長引かせるように気を遣っている。こうした活動が功を奏しているのか、最近は、とりあえずいったん片付けさえすれば「交番に来い」などの無茶は云われず、警官が去った後また機材を広げて演奏再開できるようになってきた。
 もちろん運動はまだしばらく続ける。

   鹿児島市内にアパート

 実家の隼人町から、「職場」の鹿児島市天文館までは原付で片道1時間かかり、毎日通うのはそれはもう大変で、ついついサボったり、あるいはいちいち帰宅せずネットカフェに連泊したりして余計な出費がかさむので、12月22日、ついに鹿児島市内にアパートを借りた。
 例によって風呂ナシだが、鉄筋の9畳で2万3千円。「9畳」というのは広さもヘンだが、形もヘンで3角形の和室。鹿児島大学の近くで、天文館まで10分で「出勤」できる。
 まもなく劇団の稽古も本格的に始まるし、しばらくはここが行動拠点となる。
 肝心のファシスト党建設にもいよいよ本腰を入れなければ。

 というわけで、06年につづく。