2005年に考えたこと

 2005年はあまりまとまった文章を書いていない。
 いろいろ考えたことはあって、それら思いつくたびにメモはとっているので、今回はそれらを抜き書きしよう。なお、たぶん2004年のメモもかなり混じっている。

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 連帯を求めて連帯を恐れず
 (かつて全共闘のスローガンに「連帯を求めて孤立を恐れず」というのがあった。これを文字って「孤立を求めて連帯を恐れず」というスローガンを掲げる例を私は数多く目にし、その挫折っぽいところや、ニヒリズムっぽいところがイヤだなあと常々感じていた。「孤立」は求めるものではない。私が孤立しているのは孤立を求めた結果ではないように。そんなわけで私は、「連帯を求めて連帯を恐れず」という新たな文字りを提起したい。連帯は求めなければならない。しかし私は、全共闘的な「連帯」の悲惨な末路をも知っている。そんなニュアンスが込められている。などとわざわざ説明しなければいけないのか)

 スクラップ・アンド・スクラップ!

 ファシストは心理学や社会学を必要としない。
 ファシストが必要とするのは文学と歴史学である。

 自由の敵に自由を許すな、と叫んだ時、人はファシズムのとば口に立っているのだとの意見に私はかつて賛同した。ファシストとなった今、確信をもって私は云う。自由の敵に自由を許すな!

 私は今も故郷に住みつづけている。
 いつか故郷を地獄に変えてやるために。

 たとえ全人類がぼくを頑固だと云おうとも断じてぼくは頑固ではない!

 日本は神の国である。
 もっともたいていの国は自国をそうみなしている。

 今回の戦争は、最終的な決着がつくまで永遠に続く。
 最終的な決着とは、全世界がスターリニズムで覆いつくされるか、逆にファシズムで覆いつくされることである。
 もちろん、膠着状態におちいって、両者の冷戦構造が常態化することはあり得る。ただしその冷戦構造下では、前の冷戦下のように、どちらにもくみしない「第三の道」はありえない。
 全世界全人民が、スターリニズムとファシズムの陣営にまっぷたつに分けられ、相争うことになる。
 反戦運動はありえない。
 すべての者は、スターリニズムにつくのか、ファシズムにつくのかという最終的な選択を迫られる。

 スターリニズムはグローバリズムであり、世界の一極化である。
 ファシズムは世界の多極化である。

 ファシズムの社会システムは単純明快である。
 政治は、一部の特権者のみが担う。特権者は、大多数の一般国民の生活の安定(パンと見世物の安定供給)のために政治をおこなう。同時に、このシステムそのものの破壊をもくろむ者を一般国民ではなく国内の敵とみなし、徹底的に弾圧する。

 対戦国の指導者が犯罪者扱いされるのは、その戦争が本質的に革命戦争であるためだ。現在おこなわれているのは共産主義革命戦争であり、左翼反戦派はここがまったく分かっていない。左翼こそブッシュを支持すべきで、じっさい、結果的には支持している。

 ファシスト政権が腐敗しないのは、それが常に戦時体制だからである。腐敗したとたん、戦争に負けてしまい、つまりファシスト政権は消滅してしまう。

 ファシストは、認識において共産主義者であり、実践において反共主義者である。

 マルクス主義に関してはそれが現実にいかに無惨をさらけだしても、くりかえしその救出のための批判的再検討が試みられてきたが、ファシズムに関してはたった一度の(しかも外在的な)失敗だけで全否定されている。

 ユーモアのある全体主義がファシズム。
 ユーモアのない全体主義がスターリニズム。

 イラク反戦は、表層的に盛り上がり、次々と逮捕者を出すラジカルな闘争に見えようとも、しょせんは80年代の反核運動と同質の、後退期の無意味な運動。

 全共闘の限界は、実存的ロマン主義を左翼の枠内で模索せざるをえなかった時代的制約にある。
 もうファシズムが「解禁」されてもよいはずだ。

 アメリカが例外的にファシズム的(自由主義的)であったのは、それがそもそも故郷喪失者によって建てられた国だから。

 政治運動の存在しないところで小説や詩や音楽や芝居をやっても無意味じゃないか。

 「80年代フェミニズム」という云い方もやはりおかしい。
 少なくとも80年代後半はウーマンリブ的なものが主流だった。
 ただしそれは70年代ウーマンリブの美点をすべて喪失した、学級委員的、PTA的、矯風会的、風紀委員的ウーマンリブ。
 アグネス論争を典型に、フェミニズムがこうした悪質なウーマンリブと親和的であることもはっきりと露呈した。
 フェミニズムは、ウーマンリブから良いところをすべて抜いて、学問的装飾をほどこしたものにすぎない。

 ファシズムの肝は「我々は我々(仲間)である」ということの強い自覚であり、その根拠は(徹底的には)問わない。

 私が反グローバリズムに転じることができたのはファシズムを発見した時である。
 ファシズムという「もうひとつの可能性」が見失われている時、ナショナリズムに同意できないのであれば、グローバリズムを追求するしかないではないか。
 そもそも左翼思想はグローバリズムである。私は90年代の左翼が、何の理論的弥縫策も講ずることなく反グローバリズムの大合唱をおこなうその単なる御都合主義に猛烈な嫌悪感を抱くとともに、現実のグローバリズムの明白な否定面に脅かされていた。
 そもそも何かにつけては西欧を引き合いに出し、日本の「後進性」や「民度の低さ」を嘆き、「グローバル・スタンダード」を痛切に希求していたのは私たち左翼だったはず。

 私には問題提起の才能はあるが、交渉の才能がない。
 「90年」の過程を、それを経験せず通過してしまったことも大きい。

 ファシストは、なぜ自らをファシストでないと主張してはならないか。
 歴史に関してウソを云い始めたら、ファシストの革命性は失われる。
 因果関係を歪曲、結果として歴史を消滅させてはならない。

 別個に進んで別個に撃て。
 ファシストのインターナショナリズム。あるいは、「ファシスト・インターナショナル」のスローガン。

 女性が差別されているという把握はウソ。
 性差別は存在し、分野によって男女いずれが差別されているかは違う。
 離婚訴訟や異性への単純暴力の処罰などについては、明白に伝統的に男が差別されている。失敗しても女なら許されるのもその類例。

 小林よしのりは「俗情との結託」ではなく俗情そのもの。
 私とスガ氏の当初の小林批判のポイントの差異。

 笠井潔の認識・原理的思考と、スガ秀実の実践・現状分析。
 それぞれ半面ずつ正しく、互いに補うべき。

 1942年もしくは1938年に、江戸幕府がいかに横暴だったかを紋切り型に作品化する社会派劇団の話。進行中の戦争にはまったく切り結べず、トンチンカンな反応をする。当人たちは、時代状況に敏感なつもりでいる。同時代のさまざまな出来事に、「またかつての幕藩体制(あるいは軟弱外交)が復活しようとしている」と危機感を抱いている。「維新を知らない世代」であることの強調がひとつの紋切り型となっている。
 (いまどき「反戦」をテーマにする劇団を嘲笑するモチーフで思いついた設定)

 ファシズムは俗流ニーチェ主義との批判への反批判。
 @俗流で何が悪い、権威主義者め。
 Aハイデガーを見よ、彼にもニーチェが分かっていなかったというのか?

 私はだれからも愛されていないことに気づいた。
 そして私はだれも愛していないことに気づいた。

 芸術とは何か。芸術の目的とは何か。
 新しいノリとコトバを具現化(「もはや新しさの追求は古い」的ヒネリも含めて)。
 綱領的なコトバ(制度)が切り捨ててゆくものを形あらしめ、擁護する。
 ユートピアを想像的に獲得する。
 先進的な層が漠然と、無意識に感受していることを形あらしめる。それによって見えなかったものを形あらしめる。
 違和感を可視化する。
 私には世界がこう見えるという表明。「私には」が重要。
 政治的・綱領的あるいは論理的なコトバは、認識の共有という目的にかなうことが絶対条件。芸術のコトバ・表現は、認識の共有を目的とするが、それが果たされるかどうかは二の次。この私の認識が過不足なく表現されていることが第一。政治的なコトバは、共有されることが第一。逆に、認識の共有を目的としていない芸術表現は論外。

 マイケル・ムーアを持ち上げる左翼。
 小林よしのりの経験から何も学ばず。

 思想的には連合赤軍よりも<狼>の方がより重要。
 ポスコロ、カルスタの連中は<狼>をどう考えているのか。

 カルスタ。軽いスターリニズムの略。