我々団の10余年
-方針転換の裏事情-

2020.1.1 外山恒一


 「九州ファシスト党〈我々団〉」の結成は2003年である。
 ただしそれはこの段階では、福岡刑務所の独房にいた私の脳内に存在していたにすぎない。04年5月5日、ほぼ丸2年におよぶ獄中生活を仮釈放ナシの満期で終えて出所し、すぐさま党建設に取りかかった。実質的な起点はここになるだろう。
 私は完全に楽天的だった。
 なにしろ今の世の中は間違ってるに決まっているのに、じゃあどういう世の中に改造すればよいのかというビジョンを提出しえている者は他にいないと確信していたからである。もちろん共産主義の古い夢にしがみついている者はなお多少いるが、悪あがきでしかないことは当人たち以外には明白だ。アナキストたちは“永遠の反体制”であることに開き直ってしまっている。右翼は感情論でしか動いてない。現存の体制の細部についてあれこれ改良案は提示されているが、文字どおりあくまで「改良」案であって、まったく新しい体制を構想する「革命」のビジョンは皆無と云ってよい。
 そこに「ファシズム」である。
 意表をつく提案だ。しかも、私がオリジナルにヒネりだした突拍子もないトンデモ理論ではなく、歴史上に確固として存在し、複数の国で十数年(ドイツ)どころか数十年(イタリア)にわたって革命政権を支えたこともある由緒ある政治思想である。戦後、戦勝国であるアメリカとソ連の双方によって撒き散らされた誹謗中傷を疑い、先入観を捨てて実際のところファシズムとはどういう革命思想だったのか、調べてみただけのことである。共産主義と違って、内部から腐敗して崩壊したのではなく、単に戦争で負けてムリヤリ歴史の舞台から追放され、長いこと公正な審判にも付されず、再興の模索など論外のように見なされてきた思想である。
 だが私が04年以降に発表したさまざまのファシズム論を読めば分かるとおり、ファシズムは極めて常識的な革命思想である。ニーチェ、ハイデガー、ソレル、カール・シュミット、北一輝、石原莞爾、三島由紀夫……(さらに、もともと教養のない私は、のち07年に千坂恭二氏と出会って以降その存在を知るユンガーなど)、ファシズムの圏域にも“マトモな思想家”は大勢いる。
 つまりファシズムは、単に“盲点”だっただけなのである。
 こんな社会は根底から引っくり返す以外にないと確信しつつ、有効な“革命の理論”が存在しないためにクスブっている人々はたくさんいるはずで、「ファシズムってのがあります」という私の提起は、怒濤の勢いで日本じゅうに浸透していくはずだと確信していた。

 が、どうもうまく行かない。
 我々団のサイトは刑務所を出た04年のうちには開設し(「活動年譜」では長らくサイト開設を05年1月としていたが、改めて確認すると、04年末の新著刊行を念頭に、それに少し先駆けて開設していたことが判明した)、現在の我々団サイトにある“重要論文2篇”(「戦争は遠いアフガンやイラクではなく、他ならぬこの日本国内で起きている」および「まったく新しい左右対立-イデオロギーX-」)はその時に公開した(というより04年5月の出所後まもなく書いた)ものだし、「わが『転向』」「ファシズム断想」などもサイト開設後すぐに(05年2月頃)公開している。“重要論文2篇”は04年末に福岡の版元から出した『最低ですかーっ! -外山恒一語録-』の巻末にも全文掲載した。
 だがどうも、私には発信力がなさすぎたのである。90年代初頭から02年の下獄までの私の10余年は、左翼運動の世界で徹底的に孤立していく過程だった。獄中で画期的な革命のビジョンを得て現世に舞い戻ったところで、私の言動に注目する者はすでにほとんどいなかったのだ。もちろん『最低ですかーっ!』の売れ行きもサイテーだった。
 仕方なく、私は都知事選に出ることにした。“89年革命”以来の堂に入った私の“面白主義”をもってすれば、出さえすれば都知事選で注目を集めるなど、たやすいことである。
 都知事選でまんまと知名度は獲得した。もちろん真の目的は、都知事選を機に私に興味を持った者が私の名前で検索をかけるなどして、当時のサイト「ファシズムへの誘惑」(URLは現在のこのサイトと同じで、05年10月に開設した)に行き着くことである。大多数が私の“面白主義”を表面的に受け取って単に面白がるだけのミーハーな愚民であることも容易に予測できたが、私が書いた文章をマジメに読む者も多少はいるに違いないこともミジンも疑わなかった(具体的には、インテリ界にもう少し期待していたのである。サイトを見れば文筆の才能は明白なのだし、すぐにそれなりの大手版元の編集者などから何か書いてくれという話が複数きて、それが政見放送に続く“二の矢、三の矢”となり、つまり都知事選で火がついた“外山ブーム”は一過性のものには終わらず、まずは“気鋭の論客”としてそこそこ安定した地位を確保することになるだろう、というのが私の計算だった)。
 しかし……。

 あの都知事選からもう10年以上になる。正確には13年が過ぎようとしている。
 04年に出所してから07年に都知事選に出るまでの約3年間は、私が1人で空回りしてクスブっていただけなので、「九州ファシスト党〈我々団〉」の本格的なスタートは07年だと云ってもよかろう。
 都知事選でまんまと知名度を獲得し、インテリ界や出版界は私が見下していた以上にFランだったので“二の矢、三の矢”は放てなかったが、私のファシズム論に目を通す者の数自体は、それ以前とは比較にならないぐらい増えた。
 だが党勢はまったく拡大していない。都知事選でいよいよ突破口が開けたと思ったのに、13年間もただ足踏みを続けているだけである。

 もちろん私の“人徳”に問題があることは確かである。自分がそんなに悪い人間であるとは思わないが(考えようによっては極悪人であるような気もしているが)、少なくとも“人の上に立つ”器ではないことはよく自覚している。私はもともと、典型的な“青白いインテリ”キャラにすぎず、さまざまのパフォーマンスの才能も、かなりムリして努力した結果であって(しかも唯一確かな文筆の才能を加工的に延長させただけのもので)、本来の資質ではない。組織において私は“ナンバー2、ナンバー3”的な、トップを支える幾人かの補佐役の1人、というのがせいぜいのところである。トップに向いてるのは、松本哉や金友隆幸のような“親分”キャラ、“兄貴分”キャラであって、私のような“脆弱なインテリ”キャラではない。松本君や金友君にもう少し知性があってファシズムをちゃんと理解するか、私にもう少し“親分、兄貴分”の資質があればいいのだが、天は二物を与えずとはよく云ったものだ。
 愚痴っても仕方がないし、とにかく私のファシズム論が多少なりとも浸透すれば、私の書いたものを理解できる程度には知性のある者が集まってくるはずで、その中には私よりずっと“親分、兄貴分”な資質を持った者もあろうから、そういう者に党首の座は譲って、私はその補佐役なり、頑張って身につけたパフォーマンス能力を活かした広告塔なり、ふさわしい役回りに移行するつもりだった(だから「“臨時”総統」を自称したのである)。
 が、都知事選から13年を経た現在も全然そうなってはいないこと、云うまでもない。

 そろそろ内情を明かしてしまってもよかろう。九州ファシスト党、ほんとにダメダメなのである。この13年間、ろくな奴が寄ってこない。
 2015年夏にはついに堪忍袋の緒が切れて“除名”してしまった、活動家名・嶋明ことtwitterアカウント「@project_AS」というゴミクズ野郎をまず槍玉に挙げよう。
 同アカウントをチラッと覗けば嶋がろくでもないことは分かりやすいぐらい明白なはずだ(と思うが、後述のとおり、お互いにブロックし合っているので今なおそのアカウントが存在するのかどうかは知らない)。私は除名通告に際して、「考え方が違いすぎるので別個に道を模索しよう。君は君のファシズム運動をやればいい。その同志を探すために引き続き我々団の界隈に出入りすることは容認する」とかなり寛大な提案をしたのだが、“嶋流ファシズム運動”を模索するどころか、私への恨み節が綿々と綴られるだけのアカウントになり果て、なんか好意的にやりとりしている数名も嶋と同類のゴミクズ野郎ばかりであることも明白で、こういう奴だから除名したんだよ、と自分の判断の正しさを再確認しつつ、一時期とはいえこんなゴミクズ野郎が我が党の党員であったことが満天下に示されてしまったことを恥ずかしく感じている(云い訳をすると、少なくとも嶋が入党した2011年当時は、我々団は“来る者は拒まず”だったのである)。もちろん現在ではもはや嶋が我々団の界隈に出入りすることを許容するつもりはない。
 嶋を除名したのは、嶋が我が党の党員であることが端的に迷惑だったからである。15年7月、我々団は日常活動として福岡市内での街宣を定期的にやり始めたのだが、その目撃ツイートの発信者に、嶋は盛んにリプライを飛ばした。そんなもん、相手からすれば「気持ちワル!」となるに決まっているのだが、いくら説明しても嶋にはそのことが理解できないようなのである。逆に「せっかくオルグ活動に精を出してるのに何がいけないんですか!」と突っかかってくる始末で、実は前々から“外山恒一”や“我々団”で検索すると引っかかるツイートに嶋はたびたび気持ちの悪いリプライを飛ばしていたので内心困ってはいたのだが、せっかく始めた日常街宣の成果を片っ端から潰していくような振る舞いを看過できずに「やめてくれ」と云い渡したのを機に、ほとんど口論のような展開となって、前から薄々“こいつバカなんじゃないか”と思ってはいたが、想像を遥かに下回っていたことに気づかされて、「除名」を決意した次第である。
 かなり以前から“コイツもしかしたらバカなのでは?”と薄々思っていた理由はいろいろあるが、何よりも第一に、「まったく活動しない」ことである。複数の活動家が同じ目的のもとに各方面への工作を展開するからこその“党”である。ところが、嶋に限らないのだが、我々団の党員たちは私を除いて日常的な活動をおこなっているとは云い難い。それでは“党”ではなく私個人が活動しているのと変わらない。嶋以外の党員はそのことを後ろめたく感じてはいるようだから少しはマシだったのだが、嶋は毎月の党費5千円を納めていることをもって(なお現在では党費制度はない)「活動している」と云い張るのだ。
 嶋は何も分かっていない。「党費を納める」などは“活動”の内に入らない。“カネを出す”などという、シンパのレベルでも可能なことを仮にも“党員”ともあろう者が“活動”だと云い張って恥ずかしくないのか。政治運動において一番偉いのは“現場で動く奴”であって“カネを出す奴”ではない。活動資金が不足しているから仕方なく党員からも党費を徴収しているのであって、本来なら資金は別の何らかの手段で確保し、正規の党員はカネではなく行動で党に貢献してさえいればそれでいいのだ。
 もちろん嶋は、端的に迷惑でしかないツイッターでの“リプライ飛ばし”についても「ちゃんと活動している」ことの根拠に挙げる。“ネット上での活動”は“活動”のうちに入らない、ということも私は党の会議で数年にわたってさんざん云い聞かせてきたのだが、嶋には一向に理解できないらしい。そもそもネット上でやれる限りのことは私が自分でやっている。“ネットアイドル”としてそれなりの地位を獲得している私以上のことを、名目上ただ我々団の党員であるにすぎない嶋ごときにやれると思うところが大いなる勘違いである。
 “党”の構成員がやらなければならないのは、さまざまの運動の現場に顔を出して運動を積極的に担い、人民の信頼を得ることである。ところが嶋に限らず、ウチの党員はこれをほとんどやらない。嶋に至っては「どうしてそんなことをやらなきゃいけないのか意味が分からない」などと云う。「除名」を決意するに至る議論の過程で唖然としたのだが、例えば原発問題で電力会社前で抗議行動をやる意味が分からないと云うのである。嶋が云うには、我々は革命党であり、つまり政府になり代わることを志しているのであって、電力会社になり代わろうというわけではないのだから、電力会社を攻撃しても無意味なのだそうだ。これにはさすがの私もどう反論していいのか分からなかった。「じゃあ例えば水俣病の問題でよくチッソ前で抗議活動がおこなわれたけれども、あれも無意味なのか?」と訊いてみると、そうだと云う。いよいよ薄々思っていた以上に、こちらの想像を遥かに凌駕してこいつはバカであるらしいと確信したのはこの時である。
 さらに私は嶋に、「君らが何もやらないのにどうやって党勢が拡大するのか見当もつかないが、仮に何かの奇跡で我が党が総勢数千人の規模になったとして、どんな運動をやるべきだというイメージを持っているのか?」と訊いてみた。嶋は「原発のある佐賀県玄海町に全員で住民登録して町政を乗っ取り、原発を止めます」と即座に答えた。嶋自身、その後ツイッターで、「そう云ってやったら外山は何も云い返せなかった」と得意げである。あまりのバカ回答に呆れて絶句したんだということが分からないらしい。今でも何と云ってこのアイデアが徹頭徹尾お話にならないことを説明すればいいのか分からない。まずどこから突っ込んでいいものやら見当もつかない。
 何も活動しない上に逆効果で迷惑なオルグ活動に走り始めた時点でだいぶ除名する方向に心が傾いてはいたが、議論にもならない議論を続けているうちに、むしろもっと早く除名すべきだったと後悔した。
 1度こういう議論というか口論になり、その場にいなかった党員も招集して数日後に再度同じ議論をしてみせ、「こいつとは一緒にやっていけないのは明らかなので除名する」という私の決断を伝えた。2度目の議論は念のために録音を残してある。除名は除名だが、嶋が嶋なりに独自のファシズム運動を開始するなら心情的には応援するし、ウチの交流会などに顔を出して“嶋ファシスト党”のオルグをしてもかまわない、という寛大な対応を云い渡しもしたのだが、実際、嶋にそんな甲斐性があるとはまったく期待してはいなかったし、案の定、嶋はその後もtwitterで私への恨み節をつらねる以外のことはしなかった。鬱陶しいのでブロックしてしまったし、それに対抗して嶋も私をブロックしてきたから、現在どうなっているのかは知らないが、除名後1年ぐらいの嶋の言動はこちらの想像どおりであった。

 嶋に遅れること2年あまり、2017年の暮れに眞壁良輔も除名処分とした。
 福岡のタチの悪い右派系グループに取り込まれ、そっち側の人間となって、SNSなどで党や私に対する誹謗中傷を始めたからである。
 眞壁もまた嶋と同様、我々団が“来る者は拒まず”だった2011年に、嶋より少し早く入党した。眞壁は一応、08年から12年頃にかけて(党本部を開放する形で)存在した半年コースの「革命家養成塾」の卒塾生である。東京から移住して半年あまりを塾生として過ごし、卒塾後に党本部の近隣にアパートを借り、同時に党員となった。いや、眞壁とほぼ同時期に奈良から福岡に移住してきて、党の学習会や交流会に顔を出すようになった嶋のアパートに転がり込んだのだったかもしれない。いずれにせよ嶋と眞壁は以後ずっと長いこと一緒に生活する恰好となり、実を云うとこの“シマカベ・コンビ”が以後の私にとって常に頭痛の種だったのである。
 革命家養成塾は、08年の開設当初こそ私自身が毎日“9時5時”で塾生たちの修行に付き合い、要はのちの学生向けの「教養強化合宿」と同じようなことを、1週間や10日ではなく半年コースで徹底的にやるものだったが、第1期生5名のうち3名が1、2ヶ月で脱落し、最後まで残った2名も卒塾後しばらくして姿を消してしまったので、労多くして実りゼロというあまりの結果に懲りて、2期目以降は完全な放任教育、“半年間は食住の面倒を見てやるから、その間に塾舎にある本などを読みまくれ”と云ってもちろん多少は“読むべき本”なども指定し、自主性に任せるというもので、“期”というのも形ばかりである。12年までの間に7、8名が入塾し、大半はすぐに書き置きを残して蒸発、東野大地と眞壁だけが残った。東野は09年の秋に入塾して10年の初夏に卒塾、それとほぼ入れ替わりに眞壁が入塾して、11年はじめに卒塾したという時系列となる。
 東野は、まあそもそも性格的に向いているのか、在籍期間中ずっと勤勉に読書に打ち込んでいた。ところが眞壁はまったく勉強しない。ただ毎日ゴロゴロして、珍しく何か読んでいると思えば塾舎にはないはずの“涼宮ハルヒ”だったりする。「ちゃんと励め」と時々云うのだが、反省したふうにマトモな文献を手にとってみせているのは1日、2日ぐらいのものである。そのくせ交流会などの席では聞いたふうなイッパシのことを云う。もちろん私の受け売りをしているだけだ。また困った奴を引き受けてしまったぞと途方に暮れたが、“来る者は拒まず”だったので、卒塾後に入党したいというから仕方なく党員にした。
 それでも眞壁は嶋よりは多少はマシではあった。結局は何もしないのだが、嶋とは違って、何かしなきゃいけないと常に焦っているようではあった。もちろんまったく勉強していない眞壁にそもそも何もできるはずはないし、もっと云えば、何かしなきゃいけないと常に焦っているふうを見せることで、結局は何もしていないことを見逃してもらおうという魂胆にも感じられた。
 私の側も一応は働きかけもした。眞壁はもともと東京では演劇をやっていたから、福岡の演劇シーンに出入りするよう、ほぼ“命じた”こともある。それでも眞壁は動かない。演劇人なんかクソで、出入りするだけ無駄だと云うのである。そんなことは私にも分かっている。いまどき演劇であれ音楽であれ現代美術であれ、ろくな奴がやっていないと私も知っている。しかしそれはその世界の大多数の話で、ごく少数はマトモな奴も紛れ込んでいるに違いないこともまた確かなのだ。少なくとも眞壁よりマシな奴は掃いて捨てるほどいるだろう。そもそも私はこれに前後して九州の演劇シーンに亀井純太郎という逸材を発見するし、さらに後には音楽シーンのボギー氏などとも意気投合することになる。出入りしてみてから云えというのだ。
 じゃあ間接的に出入りしろという提案もした。客として行け、と。山本・東野・眞壁の3人で月に1回ぐらい福岡の若手劇団の芝居を観て、3人で感想を述べ合って、レポートにまとめて批評サイトを作って公開しろ、と。それなりの水準の文章が書けるのは東野だけだろうが、眞壁にだって口頭でなら多少は東野が参考にできそうなこと(自身の役者経験に基づく演技評など)も云えるだろう。福岡には、のちに読書会や交流会によく参加してくれるようになる薙野信喜氏という辛口の劇評家がいて、書いてることはおおむね正しいと私には思われるのだが、年齢が上すぎて(全共闘世代よりちょっと上)、若い演劇人たちにはほとんど“老害”扱いされてしまっている。そこへこの当時20代半ばの東野や眞壁ら若い批評家グループが登場して厳しい批評活動を展開すれば、福岡の“クソ”演劇人たちも「またうるさいジイさんが何か云ってるよ」と逃げることはできないだろう。そんな形で福岡の文化シーンに我が党の存在を可視化させろ、と。
 もちろん私の提案は無視された。無視ではないのだが、その場ではやりましょうと云って結局やらないのだから無視と同じである。それが一度や二度ではない。はっきり云って、山本と東野もダメなのだが、この場合は眞壁がやる気になれば他の2人も仕方なく付き合ったはずである。
 「我々団TV」というのを提案して、眞壁に司会を任せもした。これについては珍しく眞壁は毎週甲斐甲斐しく放送を続けた。しかし大失敗であった。そもそもまったく勉強していない眞壁に務まる仕事ではない。藤村修氏や本山貴春氏といった福岡の立派な右翼活動家・思想家をゲストに呼ぶのだが、面白いとすれば藤村氏や本山氏の話が面白いのであって、眞壁は「はあ、はあ」と相槌を打つか、せいぜい私や千坂氏の受け売りをするだけである。なんだ、我々団とはこの程度のものか、と「我々団TV」を観て幻滅したという人も多いだろう。実際、眞壁と会って話した党外のヒトカドの面々の眞壁評は、「つい何か一言云ってやりたい気分にさせる奴」なのである。
 で、最終的に福岡のしょーもない右派グループに眞壁が取り込まれていったのも、私がさんざん、「右でも左でも文化方面でも何でもいいから、とにかく“党外”の連中とつながりを作れ」と口をすっぱくして云い続けたためではある。眞壁なりに少しでもそれに応えようとして、そのグループに接触したのではあろう。正確に云えば、眞壁が自分で見つけてきたグループではない。そんな甲斐性は眞壁にはない。そこのリーダー格の人間は、もともと我が党の周辺にいて、交流会などにもよく顔を出していた。あまりスジの良くない人間だと思って(べつに“裏社会”の人間だとかいう意味ではない。単に品性下劣なのだ。子宮頸癌ワクチン問題に取り組むグループを主宰していたが、当事者の女性たちのルックスについて、もちろん当人たちのいないところで、あれこれ論評し合っているようなレベルである)、まあ“来る者は拒まず”だから出入り禁止などにはしないとしても、私はうわべの付き合いにとどめていたのだが(もちろん現在では出入り禁止だ)、眞壁は深入りしてしまったわけだ。深入りするなと云ったのだが、「あちこち出入りしろと云ったのは外山さんじゃないですか」と却って反発されてしまった。そのうち、「我々団なんか抜けてウチに入れ」と唆されたようだ。

 嶋は論外だし、眞壁も嶋よりちょっとマシな程度で論外線の向こう側だが、残る山本桜子と東野大地も正直ダメダメである。
 両名とも優秀な芸術家ではある。日本のFラン芸術シーンにおいては、両名が抜きんでてトップクラスの人間であるだろうことを私は疑わない。さすが我が党の党員である。しかしそれは表現者として、あるいは理論家として優秀だというだけであって、活動家としては話にならない。何がナットランかといって、「他人と関わるのが億劫」な奴に活動家が務まるわけがない。
 山本と東野が11年9月に創刊し、現在まで5号が出ている『メインストリーム』という雑誌は、現在は芸術シーンがFランなのでまったく話題になっていないとしても、もし百年後にそれが少しはマシなものになっているとすれば、この時代を代表する美術批評メディアとして年表にも太字で載っているだろう。が、話題になっていない理由はFラン芸術シーンのせいばかりではない。彼ら自身が、広める努力をしていないのだ。
 福岡にも一応、現代美術シーンめいたものはある。それなりに大きなFラン芸大(九大芸術学部など)もある。しかし彼らは、それらに入っていって自らの存在をアピールすることをしない。彼らの存在が多少は知られているのは、ほぼ東京のそのシーンの一部においてだけで、“九州”ファシスト党の党員の活動が東京で広まっても、党勢拡大のためにはほとんど意味がないだろう。そもそも東京(や京都)にはあらゆる分野に極少数派が群れ集うシーンが存在しており、そこで単に受け入れられたところで状況を変革するための一歩にはならないのだ。
 要するに『メインストリーム』編集部コンビはいわゆる“コミュ障”なのだが、活動家である以上はそれを克服して、アウェーにどんどん出張っていって、自らの活動をアピールして、同志やせめて支持者を獲得する努力をしなければならない。私だって最初からコミュ力が高かったわけではない。とくに20代のうちはヒドいもんだった。しかし見知らぬ仲間との出会いを求めて、あちこち出かけていくことをやめたことはない。そもそも失敗をさんざん繰り返さないことにはコミュ力なんか高くならない。失敗して、次は上手くやろうと反省して、しかしまた別の失敗をして……ということを繰り返さなければ、活動家としての成長のステップが始まらない。
 しかも嶋や眞壁と違って、山本と東野には、うまくアピールできれば充分に一定の者を感服させうるだけの内実があるのだ。しかし彼らはその努力をしない。東野に至っては近年とくに、千坂恭二氏の悪い影響を受けて、「今はむしろ何も有意味なことをなし得ない、隠遁しながら志気を維持する以外にない時代だ」などと何もしないことを正当化しているフシさえある。千坂氏がそれを云っていいのは、60年代、70年代にさんざん“やらかしてきた”実績のある人間だからであって、まだ何もやっていない人間がその口真似をしても怠惰の云い訳にしかならない。

 そんなわけで、せっかく1人から(一時は)5人になったのに、1人でやっているのと何も変わらない。このままではあと50年続けても同じだろう。根本的に方針を改めなければ、と決意してから実はもう3年ぐらい経つ。
 別のところで明らかにしたように、「九州ファシスト党〈我々団〉」は、「九州」を抜いて「ファシスト党〈我々団〉」となる。つまりこれまでとは違って党員は九州居住の義務を負わず、活動エリアは全国とする。また前述のとおり“月額5000円”の党費の徴収もやめた。
 これまで他の4人に云いまくってきたような「“何か”やれ」ではなく、党員が何をしなければならないのかは具体的に指示をする。これも別途書いた
 “部下”の批判ばかりして、おまえは東浩紀か。そういうおまえはこの10数年間、党勢拡大のために何をやってきたんだ、という批判は当然あるだろう。私の華麗な活動歴からすれば、私が何もやっていないなどと云うのは、(彼らの活動に参加する以外のことは“活動”とは認めない)野間易通カルトのパヨク連中ぐらいだろうが、いろいろやってきたとはいえ、それらが“党勢拡大”に結びついているかと云えば、恥ずかしながら結びついてはいない。
 それにはそれなりの理由があって……という云い訳もまた別途書いたが、要点だけ述べると、我々団に関して云えば党勢拡大は実は簡単に可能なのだ。結局のところ、“外山恒一”を宣伝すればいいだけの話だからだ。しかし何せ私自身がその外山恒一なので、要するにイヤらしくならないように自分の宣伝をするのは難しいのである。現に私は、他人の宣伝ならさんざんやってきたし、それなりの成果を上げてきた。九州各地どころか全国各地の怪しげなスポットを探訪しては「劇団どくんご」の宣伝をしまくり、かなりの人数を「どくんご」の観客として組織した。しかし、つまりそれと同じように、あちこちに出張って行って“外山恒一”を宣伝し、マジメな関心を示してきた者を糾合していけばそれが自動的に党勢拡大につながるのだが、それをその外山恒一本人がやるのは難しいわけで、他の党員にやってもらうしかないのである。

 今回とにかく、急に方針を転換したことについて、あれこれ勘繰る向きも出てくるだろうから、身内の恥をさらすような形にはなってしまったが、内情を正直に打ち明けてみた。