09衆院選・徹底批判

公式ブログより

 以下は、09年8月の衆院選に際して展開した“選挙反対キャンペーン”の一環として、ブログで公開した記事である。
 主に選挙制度批判をテーマとした時評的な記事を、毎日だいたい原稿用紙3枚分ほど書くことを自分に課した。選挙が終わってからも数日続けたが、最後の方はとくに選挙とは関係のないテーマになっている。

  「みんなの党」って…… 2009年08月21日(金)

 「みんなの党」はヒドい。もちろん名前がだ。主義主張はどうでもいい(そんなものどうせあるわけない)。ちなみに英語名は「YourParty」なんだと。うーん、こっちまで脳みそがスカスカになってきそうだ。
 日本の政治から「言葉」が失われて久しい。小泉時代には「ワンフレーズ・ポリティクス」などと云われたが、その「ワンフレーズ」は、背後にそれなりの体系的な政治思想があってそのエッセンスを象徴的に表現する一言、ではなくて、まさに字義どおりの「ワンフレーズ」、雰囲気だけの、ただ大衆をなんとなく心地よくさせるフレーズが、内閣支持率や選挙結果を左右するという「政治」だった。
 「マニフェスト選挙」とやらが定着したなどとも云われているが、各党とも大衆ウケしそうな政策をまず並べ、後づけでテキトーにつじつま合わせの理屈(数値?)でそれらしく装いを施しているにすぎないので、結局どれも似たような「マニフェスト」である。
 冷戦(とその国内版たる55年体制)が終わって、「もはや右とか左とか、イデオロギー対立の時代ではない」などと本気で信じているバカが今だに大多数を占めているようだ。本当にイデオロギー対立がないのなら、政治は大政翼賛会で充分じゃないか。
 90年代以降、新しく登場してきたさまざまの「新党」は、すべて政党の名に値しない。
 「民主党」は民主主義イデオロギーを結集軸に形成されたものではないし、かつての「自由党」も(民主主義に対立する)自由主義イデオロギーを結集軸としたものではなかった。「自由民主党」にも、かつてのように社会主義勢力に対抗する意味で自由主義者と民主主義者とが連帯しているという意識はもはや皆無だろう。共産党と社会民主党がかろうじてそれぞれのイデオロギー(マルクス・レーニン派の社会主義と、それ以外の社会主義)を結集軸とし、古き良き「政党」然としてはいるが、小選挙区制のためにどちらも凋落いちじるしいし、そもそもこの両党すら自らの拠って立つイデオロギーを前面に打ち出すことをしなくなっている(「護憲」は云うまでもなく社会主義とは無関係である)。
 日本新党、新党さきがけ、新生党、新進党、新党日本、国民新党……。党名はもはや単に「新しい」というただそれだけのことをしか主張しないものとなり、今やすでに「民主党」をはじめ、本来ならイデオロギーを表現しているはずの党名すらその内実を伴わない。
 現在、真に重要な対立軸はおそらく、「非政治」と「政治」との間、つまり「イデオロギーの終焉という無自覚なイデオロギー」とさまざまの「イデオロギー」との間にある。
 自民党が勝とうが民主党が勝とうが、議会政治そのものがもはや政治的に死んでいる。
 いっそ、社民党・共産党それに公明党も含めて全政党が「大連立」してくれた方が分かりやすいというものだ。その場合、もちろん党名は「みんなの党」でいいよ。

  百パー全国区なら選挙に行ってやってもよい 2009年08月22日(土)

 二大政党制をほんとに「いい」と思っている人がどれくらいいるんだろうか。マスコミが「いい」と云っているから、やはりほとんどの人はそれを真に受けているのだろうか。
 云うまでもなく、そんなもの「悪い」に決まっている。
 比較的健全な(?)二大政党制は、穏健な保守政党と穏健な革新政党によって構成されることになるのだろうが、その時点でもう過激な保守派と過激な革新派は議会政治から排除されてしまう。伝統的な保革対立とは別の位相にあるエコロジストも排除される。
 イギリスやアメリカに典型的な「穏健な保革対立」の二大政党制は、まあ成り行きで形成されてきたものだ。ところが日本の二大政党制は、意図的に強引に作られてきた。とにかく二大政党制にすることが目標とされ、だから本当にもう単に「二大政党」なだけで、そこには必然性のカケラもなく、実際、自民党と民主党の間に本質的な違いなんか何もないじゃないか。
 そもそも英米型の二大政党制からしてかなり特殊なもので、たいていの先進国は多党制だ。しかもイギリスでは第三党の「自由民主党」が得票数では二大政党に迫りつつあり、単に小選挙区制のために三大政党化を阻まれているだけだし(それでも現時点で1割の議席を獲得している)、アメリカだって前々回の大統領選ではエコロジストの候補が善戦して民主党の票を食い、それで共和党のブッシュが当選してしまうという現象があったように、今や“本家”すら怪しくなっているのだ。
 選挙制度そのものが、誰かさんがスルドく指摘したように、もともと“多数派のお祭りにすぎないっ!”のに、過半数の得票がなければ当選できない小選挙区制では、少数派の声はますます議会政治に反映されなくなる。
 常識的に考えても、少なくとも「五大政党制」ぐらいであってくれなきゃおかしい。つまり保守党(伝統主義・ナショナリズム)、自由党(市場原理主義)、民主党(穏健な平等主義)、社会主義政党(過激な平等主義)、エコロジー政党の五つだ。選挙結果によって、たまに連立政権の組み合わせを変えなきゃならなくなり、それで政府の施策が変わる。そういうシステムでいいじゃないか。
 もちろん、小選挙区制をやめて、中選挙区制に戻すなり完全比例代表制にするなりして、「健全な五、六大政党制」になったからといって、私は投票には行かない。その程度の選択肢では、私のような極端な少数派にはまだ充分でないからだ。
 そうだな。完全な全国区制なら投票してもいいかな。有権者約1億人のうち、10万人ぐらいに支持されれば当選する選挙制度なら、私はかつての赤尾敏や東郷健のような“真っ当な泡沫候補”に投票しに行くし(又吉イエスやマック何とかには入れないよ)、それが“死票”にならないかもと期待もできる。
 私だって当選しかねないもんなあ。

  せめて参議院は制限選挙制に! 2009年08月23日(日)

 参議院は「良識の府」である(べきだ)と云われる。
 そもそも参議院というのは戦前の貴族院で、衆議院議員が男子普通選挙によって選ばれるのに対し、貴族院はその名のとおり、皇族・華族や天皇に指名された有識者などから成り、もちろん選挙などなかった。
 アメリカ様はこれを廃止して一院制にしようとなさったが、抵抗があったため、衆議院と同様に選挙で議員を選ぶことを条件に、参議院と改称しての存続をお認めになった。
 戦前の衆議院と貴族院は同格で、衆議院で可決されたことも、貴族院で否決されれば成立しなかった。つまり政府は、絶対に認めるわけにはいかないことは、議会で可決させないことができたのである。たしかにそれは「よくないこと」に違いない。
 戦後の参議院は、衆議院に対してむしろ「格下」である。衆議院の過半数で可決したものを参議院の過半数で否決しても、衆議院で再度、より多数(3分の2以上)で可決すれば通る。つまりせいぜい、重大な案件が安易にすんなり決められてしまうことへの「歯止め」の役割を期待されているにすぎない。
 それはそれで、意味のあることだとは思う。もし本当に、参議院が「良識の府」であるならば、である。
 現実には政府の議会操縦装置として機能した貴族院だが、本来の理想としては、衆愚政治へと堕落する危険性を常にはらむ普通選挙の民主議会に対し、いわゆる「ノブレス・オブリージュ(高貴なる者の責任感)」を持った人々で構成される(はずの)貴族院が一定の歯止めとなる、との趣旨であったはずだ。
 といって、単に世襲である皇族・華族が必ずしも良識派であるわけではないし、天皇が選ぶ有識者といっても実は政府が天皇に選ばせていたのだから、ろくなものではない。
 戦後の参議院も、普通選挙で選ぶのなら議員の顔ぶれは衆議院と何の変わりもなくなるのであって、衆愚政治への「歯止め」にはならない。実際、現状を見よ。
 だから参議院廃止論なんかも出てくるわけだが、ちょっと待てと思う。
 たしかに現在の参議院には何の存在意義もない。戦前の貴族院だってろくでもない。
 では参議院選挙に関しては、選挙権を免許制にしてはどうか。義務教育レベルの(要は公立高校の受験問題的な)社会科のテストで高得点の者にのみ選挙権を与える。運転免許制度が機能しているのだから、物理的に難しいということはないはずだ。
 自民党と共産党の違いも分からない連中まで含めての選挙で選ばれた衆議院の議会構成と、「ちょっとした有識者」による選挙で選ばれた参議院のそれとは、かなり違ってくるだろう。で、参議院で否決された案件は衆議院でより多数で再可決しなければ成立しないとすれば、まさに「良識の府」としての参議院の存在意義は回復されるのではないか。

  選挙結果妄想 2009年08月24日(月)

 さまざまの世論調査で、今回の衆院選では民主党圧勝の見通しだそうだ。
 まあ、いいんじゃないかと思う。
 アサハカなネット右翼の諸君などは、民主党政権になると日本は北朝鮮の属国にでもなるかのような危機感を抱いているようだが、そんなわけないじゃん。自民党も民主党も大して変わりゃしないんだから、そんなに心配することはない。
 どっちかというと私は、民主党政権の誕生を望んでいる。
 それはもちろん、私が民主党を支持しているというわけではなくて、「どーせ選挙じゃ何も変わらないんだよ!」ということを、広く国民の皆様に思い知っていただきたいからである。議会政治・選挙制度というものに、もっと深く、徹底的に絶望してもらいたい。
 もういっそ、民主党400議席とかになってくれないかなあ。自民党5議席とか。社民党より少なくなっちゃうの。
 いやいやそれはあり得ない話ではないぞ。まあ実際は300を超えるかどうかってところなんだろうけど、野党転落に絶望した自民党議員どもが、当選後に次々と民主党にくら替えして、どんどん議席減らして。
 さすがにそれはプライドが許さないか。だったら「みんなの党」でもいいや。「みんなの党」がどんどん議席増やして、民主党としても別に本音では「大連立」で問題ないわけだけど、しかし自民党とくっつくわけにはいかないから、やっぱり次々と「みんなの党」にくら替えすることでお茶を濁す。で、最終的には「みんなの党」が450議席ぐらいに拡大して、圧倒的多数与党になる。もう日本国民は恥ずかしくて諸外国に顔向けできないね。
 もう絶対選挙なんか行くもんかって風潮が拡がって、次の選挙では組織票しか投じられなくて、公明党と共産党の二大政党制に……(あと幸福実現党が3議席ぐらい)。
 いっそそうなればいいのに。
 しかしそんな妄想はともかく、唯一、民主党の「高速道路無料化」だけは是非実現してほしい。かなり頻繁に高速を使う日々を送っている私だが、ETCはつけていない。ETCを買わせようってのが明らかに警察利権だから、シャクにさわって頑固に拒絶しているのだ。かといって高い料金を払っても、結局それも警察利権なので、もうほんとに腹わた煮えくりかえっている。
 自民党に比べて民主党を相対的に支持できるとしたらそれぐらいだ。もちろんその程度のことで私はわざわざ投票所に足を運んだりはしない。警察利権に腹は立つが、革命政権樹立の暁に、腐敗分子どもを徹底的に迫害すればいいだけの話だ。
 「完全なる全国区」選挙だったら、今回は東京11区から立候補しているらしい「フリーウェイ・クラブ」の和合秀典氏に投票するけどね。彼の主張はまったくもって正当だよ。真っ当な圧倒的少数派として断固支持する。

  期日前投票 2009年08月25日(火)

 選挙公報が届いた。
 比例九州ブロックの候補者たちの顔写真がバーッと載ってて、福岡4区からも重複立候補している民主党候補の顔がヒドい。ものすごく悪そうな、引きつった笑顔というか、いやむしろ「うすら笑い」のようなものを浮かべている。しかも上から目線でこっちを小馬鹿にした感じの。実際は「いい人」なのかもしれないが、なんでよりによってこの写真を選ぶかなあ、というぐらいすごい。試しにネットで検索して出てくる写真はそんなにヒドくはないんだが。
 ヒドい顔といえば、鹿児島の実家周辺でよく見かける、同4区の自民党候補のポスターの顔写真もヒドい。やはりかなり無理のある笑顔で、邪悪な感じがする。これまた実際は「いい人」なのかもしれないけれども、どうせイメージ選挙なんだから、写真はちゃんと選ぼうよ。で、彼もまた比例区に重複立候補していて、載ってる写真はその見慣れた悪人顔なんだが、件の民主党候補の顔写真は輪をかけて凶悪で、爆笑してしまった。
 とまあ、そんな話はどうでもいいのである。
 自分も立候補したことがあるから分かるのだが、選挙公報に載せる原稿は、告示日より後(たしか翌日か翌々日ぐらい)に選管に提出する。考えてみれば当たり前である。告示日当日にいきなり立候補を決意して届け出る人もいるかもしれないし、逆に立候補の予定を取りやめる人もいるかもしれないのだから、告示前に提出期限を設定するわけにはいかない。
 だから実際に印刷に回され、できあがり、有権者に配布されるのは、たいてい選挙戦の中盤(選挙期間の短い市議選などではもはや終盤)あたりになる。
 で、私が「おかしい」と思うのは、期日前投票の制度である。
 億歩ゆずって仮に選挙制度に意味があるとしても、ただ投票に行かせりゃいいってもんじゃない。選挙期間中に候補者たちが政見を競い合い、有権者がそれらを吟味して誰に投票するかを決めるというのが、たとえ建前としても選挙制度の趣旨であるはずだ。その建前をブチ壊しにしているのがこの期日前投票制度なのである。
 政見放送の放映も選挙公報の配布も終わらない、いや始まりもしないうちから投票に行ってもいいですよ、ということになれば、公職選挙法で禁じられているはずの「事前運動」をやる以外に、とくに無名の新人候補にはそれらの票を獲得する方法がなくなる。
 実際あの都知事選で、政見放送や選挙公報や選挙ポスターで私の存在を遅ればせながら知って、「しまった!」と思った期日前投票者が、もしかすると百万人ぐらいいたかもしれない。
 そもそも選挙制度そのものがくだらないのだが、その中身もどんどん劣化する一方だ。供託金を高額化して貧乏人から被選挙権を奪い、小選挙区制によって圧倒的少数派のみならず相対的少数派まで国政から排除し、期日前投票制度によって無名の新人候補をますます不利な状況へと追いやる。それでいて投票にだけは行けと云う。
 まったくふざけた国である。

  供託金制度 2009年08月26日(水)

 供託金のしくみについて正確に知っている人は少ない。かく云う私自身、立候補のために調べてみるまで、やはりよく分かっていなかった。
 すでに何度も書いたことだが、もう一度整理する。
 選挙に出るには、立候補を選管に正式に受理してもらうための、まあ手続料のようなものが必要で、これが供託金である。
 まず、何の選挙に出るのかでその額は違う。一番高いのは国政選挙の比例区で、600万円である。国政選挙の小選挙区と都道府県知事選は300万円。もちろん私も都知事選に出た時、300万円を納めたのである。政令指定都市の市長選は240万円、一般の市長選は100万円、町村長選は50万円である。都道府県議選は60万円、政令指定都市の市議選は50万円、一般の市議選では30万円。これまたもちろん私も過去3回、市議選に出た時には毎回30万円を納めたのである。
 知らない人も多かろうが、町村議選には供託金制度はない。タダで出られるのである。今年の春、隣の那珂川町で町議選があったのに、実はうっかり出るのを忘れていた。
 で、これは多くの人が知ってるとおり、供託金というのは、一定の得票をすれば全額返還される。そうでなければ全額没収である。しかし、具体的に何票とればいいのかということは、多くの人が知らないようだ。
 計算式は簡単である。有効投票数÷議席定数÷10。
 つまりまず、実際に投票が終わらないと、何票で供託金が戻るのか分からないということである。棄権票や、白紙などの無効票は計算に入れないわけで、投票の集計が全部終わらないと肝心の「有効投票数」が確定しないのである。
 次に確定した有効投票数を議席定数で割るのだが、これが選挙によって違う。議員の数は市の規模によってマチマチだからだ。過去に私が出た熊本市と鹿児島市の議席定数はいずれも50で、だから最終的には有効投票数÷50÷10、つまり有効投票数の500分の1の得票があれば供託金は奪還できる。実際、奪還した。霧島市の議席定数は34だから本来なら340分の1の得票でいいのだが、私が出たのは合併直後の特殊な選挙で、1回に限り旧7市町ごとの選出とされ、隼人選挙区に12議席が割り当てられた結果、これが120分の1となって、150分の1を得票した私の供託金30万円は没収されてしまった。なんか納得がいかない。
 ところで定数が「1」である選挙も多い。小選挙区制での国政選挙がそうだし、もちろん知事や市町村長も1人だから「1」である。これらの選挙では、つまり有効投票の10分の1を得票しなければならないのだ。共産党の公認候補ですらよく没収されてしまうほどで、私が没収されたのは当たり前である。

 ちなみにこれは日本に特殊な制度であるようだ。アメリカ、ドイツ、イタリアなどには供託金制度そのものがないらしい。イギリスやカナダなどにはあるが、その額は国政選挙でさえ数万円程度。フランスでは過去に2万円ほどの供託金制度が「高い」と批判されて廃止されたのだそうである。
 つくづくこの日本という国がイヤになる。

 参考 日本国憲法第44条 両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める。但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によって差別してはならない。

  政見放送のこと 2009年08月27日(木)

 政見放送についてあれこれ。
 まずどうでもいいことだが「政見放送」であって「政権放送」ではない。ネット上で私のことに言及している人の8割方が間違えているし、YouTubeの動画タイトルも間違ったままである。
 それからやはり多くの人が政見放送はNHKでやるものと思い込んでいるようだが、これも違う。もちろんNHKでもやる。しかし民放でもやるのである。私が出た東京都知事選の場合、NHKとテレビ朝日でそれぞれ2、3回ずつ放映された。バージョンも違う。NHKはNHKで、テレビ朝日はテレビ朝日で、それぞれ撮ったものを流す。
 ちなみにネット上に出回っている私の政見放送、あれはテレビ朝日バージョンである。NHKバージョンもYouTubeにあるが、さんざん視聴されたのはテレビ朝日バージョンの方で、単純にそっちが先に放映されたためだろうが、実は出来もいい。
 NHKバージョンも、基本的にはテレビ朝日バージョンと同じものだが、わずかな違いがある。
 まず冒頭、10秒間ほど黙ってカメラを睨み、そしておもむろに喋り始める。もちろんわざとである。ところがNHKのカメラマンは、私がカメラがすでに回り始めているのに気づいていないのだと早合点して、何度も「キュー」のサインを送ってきた。私はつい、一瞬そちらを見てしまった。
 そしてラスト。テレビ朝日バージョンでは、最後にビートたけし風に首をカクカクさせて終わる。これがNHKバージョンにはない。実は収録自体はNHKが先で、NHKで撮った後にテレビ朝日のスタジオに向かったのだが、その間の空き時間が3、4時間あり、「どうも最後に何かワン・アクション足りない気がする」とカラオケボックスでさらにアイデアを練って、あの首カクカクを思いついたのだ。
 NHKでの収録の時点ですでに30数時間寝ておらず、だからテレビ朝日のスタジオに着いた時にはもう40時間近く寝てなくて、目の下にクマが出来ている。それでさらに迫力を増してもいる。
 テレビ朝日バージョンが先に放映されて出回ったのも、そういうわけだから運がよかったのである。
 ところで政見放送にも、ヘンなルールがたくさんある。
 まず撮り直しがきかない。一度だけリハーサルはあるが、もちろんこれは収録しない。で、いよいよ本番。ここで失敗しても、もう一度だけチャンスがある。つまり1回だけ撮り直しをさせてもらえるのだが、そう決めた時点で最初に撮ったものは消去される。2つのバージョンを比較して、いい方を選ぶということができない。だから私はNHKバージョンの冒頭での失敗を、そのまま放置した。撮り直して、肝心のセリフ部分をトチったら取り返しがつかないからだ。
 そして小道具の持ち込みができない。例えばメッセージ入りのTシャツは着られない。図表などのボードを使うこともできない。とにかくただ喋るしかない。内田裕也氏がアカペラで歌っているのも、おそらくギターの持ち込みができなかったためである。

  公明党の存在自体が憲法違反だと? 2009年08月28日(金)

 アンチ創価学会な人がよく、「公明党の存在自体が憲法違反だ」などと云う。政教分離の原則に反する存在だということだろう。
 もちろんそんなことはない。
 憲法とはあくまで国家権力(政府)の行動を規制するもので、したがって民間団体が何をしようが云おうが、「憲法違反」にはなりようがないのである。自民党だろうが公明党だろうが、政党は私的な集まりであって、つまり民間団体である。宗教団体が自分たちの私的利害を守るために政党を作って、議会に進出したってかまわないのは、資本家たちの私的利害を守るために自民党や民主党があり、労働者たちの私的利害を守るために共産党や社民党があるのと同じことだ。
 憲法で禁止されているのは、今のように公明党が政権の一角を担っているからといって、創価学会を優遇したり、あるいは他の宗教団体をことさらに迫害するような政策を政府がおこなうことである。それさえやらなければ、特定の宗教団体と表裏一体であるような政党が議会進出して、与党となることにも憲法上の問題はない。
 万が一(じゃないかもしれないが、まあ仮に)公明党の最終目標が、創価学会あるいは日蓮宗を日本の国教とすることだったとしても、やはり問題はない。現憲法下でそれはできないが、公明党が圧倒的多数与党となって、そうなるぐらいなら国民の大半ももう創価学会の信者で、まず政教分離をうたった憲法の条文を削除した上でそれをやるのはもちろん憲法違反ではないし、憲法の改定を目指すことが憲法違反でないことも云うまでもない。
 私も創価学会は大嫌いだが、多くのアンチ創価学会な人には単なる「宗教とか政治とかアブなーい」という心性を感じて同調しがたい。公明党の存在自体が憲法違反だというようなアサハカな理屈を聞かされればなおさら、何も分かってないくせにガタガタ云うなと思う。
 私が創価学会を嫌いなのは、日蓮宗が嫌いだからである。
 たまに公言しているが、私はノンセクト・ラジカルの仏教徒である。ブッダ個人の思想は素晴らしい。ところがそれがインドから中国・朝鮮を経て日本に入ってきた時には、ブッダの思想とはほとんど何の関係もないデタラメな迷信宗教と化していた。平安時代までの日本仏教はすべてそうである。鎌倉時代に一種の宗教改革がおこなわれて、親鸞や道元など、たまたまではあるが元のブッダの思想に近い仏教思想家が登場して、急速に勢力を拡大した。で、これに危機感を持ち、「本来の仏教」(と彼が思い込んでいる平安時代までの迷信まみれのインチキ仏教)に返れと主張したのが日蓮なのである。アホとしか思えない。
 が、ほとんどファシストであった石原莞爾先輩など、それなりに優秀な人が日蓮宗の熱烈な信者だったりして、実は私の方がアサハカなのだろうかと時折思いつつ、少なくとも今のところ私はアンチ日蓮宗でアンチ創価学会なのである。
 「宗教とかアブなーい」という愚民どもと一緒にされたくない。

  正しい投票指南 2009年08月29日(土)

 今もう土曜日であるから、明日が投票日である。
 少数派の諸君に、しつこく「投票に行くな」のダメ押しをしておこう。
 何度も主張してきたとおり、多数決原理の選挙制度そのものが少数派にとっては単に打倒の対象である。
 私が立候補しているなら、私に投票すべきである。なぜなら、私は選挙制度そのものを否定する主張を前面に押し出しており、そういう候補の得票が多ければ多いほど、選挙制度に支えられた体制側を動揺させることができるからである。もちろん私でなくとも、「選挙全否定」を掲げる候補がいれば投票した方がいいのだが、いない。
 次善の策として、当選がありえないぐらいの極左や極右の政党や候補に投票してもよい。むろん共産党や社民党は極左政党ではない。大衆迎合の、ダメダメのヘタレ左翼政党である。そんなものにいくら票が集まったって、体制はビクともしない。
 たとえ主張が表層的に極左的あるいは極右的であっても、電波系の政党や候補者に投票しても意味がない。今回なら、極右的な主張を掲げている幸福実現党に投票したって、選挙制度そのものへの批判という投票の意味をぼやけさせてしまう。同じように、又吉イエスやマック何とかに投票することにも意味はない。せめてかつての赤尾敏や東郷健のような、オーソドックスな極右もしくは極左の思想を背景とする候補でなければ、いくら票を集めても体制側を動揺させられない。
 したがって維新政党・新風に投票することには一定意味があるのだが、残念ながら今回は候補を立てていない。もっとも新風も「極右」としては(議会政治に希望を持っているらしいところなどが)まだまだ生ぬるいのだが。
 地方議会には一定の勢力のある「虹と緑」的な今ふうの市民派左翼はもちろん極左ではないから、国政選挙に出たとしてもこういう投票行動の対象にはならない。前回の参院選に出ていた「9条ネット」などがこれに近い。護憲だの市民だの云う連中はたとえ出自が極左であっても、すでに転向した日和見分子であって、本質的に体制内少数派であり、票を伸ばしても体制側はビビらない。
 結局、今回は棄権するのが一番正しいのである。投票率が低いことは、体制にとってそれなりの脅威である。90年代半ばに参院選の投票率が50%を切ったために、なりふりかまわぬ投票率アップ・キャンペーンが展開され、選挙制度そのものを自ら否定しかねない期日前投票制度まで導入されたことでもそれは分かる。
 まとめると、最善の策は「選挙全否定を掲げる候補に投票する」、次善の策は「自覚の有無はともかく事実として左右どちらかに議会政治をはみ出している政党や候補に投票する」、そして最後に「棄権する」である。ざっと見たところ、今回は「次善の策」を行使できるのは(「極左」とはちょっと違うが)フリーウェイ・クラブの和合秀典氏が出ている東京11区と、街宣右翼の山下純一氏が出ている鹿児島1区だけで、それ以外の地域で投票に行くのは間違った選択である。

  めざせ投票率50パーセント未満 2009年08月30日(日)

 さていよいよ投開票日である。
 断固として棄権主義者でありつつ、しかし政治的無関心層とは対極にある我々は、開票速報を肴に飲むプチ交流会を今夜予定している。選挙には参加しないが、選挙結果には大いに関心がある。
 そもそも政治なり社会問題なりへの関心が高まれば高まるほど、選挙制度をバカバカしく感じるものである。少しでもよい方向に社会を変革していこうと日々奮闘している人々と、自民党と共産党の違いも分からない無知蒙昧な連中とが「一人一票」として対等に扱われ、しかも後者の方が圧倒的に多数であり、したがって決定権を握っているようなシステムに、何か期待しろという方が無茶である。
 選挙になると必ず、あちこちの大学の学生サークルが、「選挙に行こう」というキャンペーン活動をおこなって、そのことが何か良いことであるかに報道される。今日の『朝日新聞』にもそんな記事があったし、たぶん他の新聞にもあるんだろう。こういう連中が、おそらくは自分では政治的意識が高いつもりでいるのがますます醜悪である。本当に意識の高い学生は右や左の学生運動に身を投じる。億歩ゆずって、せめて「自民党に入れよう」「社民党に入れよう」「新風に入れよう」「共産党に入れよう」と呼びかけて回るならまだしも、ただ「どこでもいいから投票しよう」などというキャンペーンに何か意味があると思うような手合いが、本当の意味で政治的関心が高いはずがない。
 そもそも投票率は7割ぐらいでちょうどいい。
 投票率が9割を超えるような国は例外なくろくでもない圧政国家だし、選挙なんかバカバカしいと思う人間が3割ぐらいいるのは健全なことだ。
 ただし、今回おそらく投票率70%ぐらいだろうと予想されている日本の現状が健全だということではない。なりふりかまわぬ投票率アップ・キャンペーンが展開され、しかも政権交代の可能性が高く通常より投票意欲が高まった上での70%である。「選挙に行こう」スターリニズムのプロパガンダがなく、期日前投票などというメチャクチャな制度もなければ、もはや投票率は50%を切るに違いないことは、90年代半ばのデータから明らかだ。今回のような“歴史的選挙”であっても60%に届かないだろう。表層的にとり繕われているだけで、日本の選挙制度はほとんど死にかけている。
 投票率が30%を切ると、もはや革命情勢である。議会政治の枠外で実力行使をする以外に、社会をよりよい方向に変革する方法がないことが、大衆的に合意されつつあるということだからである。だから体制側は何としてでも投票率を上げようとするし、真の反体制派は選挙ボイコットを呼びかける。
 さまざまのインチキで投票率を実際よりも高く見せかける現在の選挙システムでは、50%を切るぐらいが革命情勢への目安となろう。政権交代が起きてもダメなのだということをこれからの1年ほどで思い知っていただいて、次の国政選挙ではいよいよ「投票率50%未満」を期待したい。

  選挙結果についてあれこれ 2009年08月31日(月)

 投票率は結局69.28%だったそうである。75%ぐらい行くんじゃないかと思っていたので、ちょっと意外ではある。うち2割はインチキきわまりない期日前投票だそうで、つまり本来の投票率は56%ぐらいである。まあ妥当なところだ。
 今回、一番うれしかったのは、有田芳生が(また)落ちたことである。左翼のくせにオウム弾圧のお先棒をかつぎ、現在に至る警察国家化に多大な貢献をしたクソ野郎だ。どうせそのうち当選してしまうのだろうが、とりあえず今回はザマーミロである。
 「注目の選挙区」は、まあ予想されたことではあるが、いずれも残念な結果となった。
 一つは東京11区のフリーウェイクラブ・和合秀典氏。高速道路無料化を民主党なんかに期待せず、もう何年も前から無料通行の実力行使を繰り返し、逮捕までされた闘士である。偉い。素直に尊敬する。ところがこういうそれなりにマトモな人も、バカマスコミは単なる泡沫候補扱いする。マスコミが泡沫候補扱いすると本当に泡沫候補になってしまうのは誰かさんの例もあるとおり。結局、和合氏の得票はたったの2360票で、幸福実現党の候補にさえ及ばず最下位落選。もっともこの選挙区で有田芳生が落ちてるんだから、そこはいいんだが。
 もう一つは鹿児島1区の山下純一氏。街宣右翼である。実は面識もあったりする。私は獄中でヤクザの人々と身近に接して以来、ヤクザに好意的だし、だからいわゆる街宣右翼、任侠右翼にも肯定的である。まあ実際に話してみると議論はまったくかみ合わないんだけど。で、山下氏は1429票で落選。ただしこちらは幸福実現党の候補よりは得票しているのが救い。
 ところでその幸福実現党だが、比例・東京ブロックでの得票は3万5667票。うーん、負けた。ちょっと悔しい。まああれだけカネをかけて人も動員もして、私より少なかったら却って情けなさすぎるけど。
 ちなみに計算してみると幸福実現党の比例での全国の得票合計は45万9387票。維新政党・新風の得票よりも多い(07年参院選での同党過去最多得票で17万0509票)。もちろんこれは、新風に資金力がないからである。潜在的な支持層は幸福実現党よりも新風の方が圧倒的に多かろうから、同じぐらいの広報活動ができれば新風はもっと得票できるはずだということである。もっとも当選ラインは100万票あたりとのことだが。
 同じく比例の全国合計で、公明党は805万4007票、共産党は494万3886票、社民党は300万6160票である。
 革命派として気になるのはやはり共産党の得票で、今回と同じ衆院選に関して小選挙区比例代表並立制となって以降の比例での得票は、96年が726万8743票、00年が671万9016票、03年が458万6172票、05年が491万9817票だったようだ。ちなみに参院選は、98年に819万5078票、01年に432万9210票、04年に436万2573票、07年に440万7932票だそうである。少数派を排除する二大政党化のキャンペーンで90年代いっぱいは票を減らし続けてきたが、01年参院選の432万票を底に、以後は今回の494万票を最大としてその間をうろうろしている感じである。うーん、どうなんだろう。

  保坂家の放蕩息子として 2009年09月01日(火)

 保坂展人が落選した。
 80年代に全国に拡大した反管理教育運動の創始者であり、むろんこの私も多大な影響を受け、というか要は保坂の真似をするところから私の革命家人生は始まったようなものである。
 私が保坂の運動を知ったのは88年のことで、実はその時点ですでに保坂はラジカルからリベラルに転向しており、したがってそのことに気づくまでの、ごく駆け出しの頃の短期間を除いて、私は一貫して保坂に批判的なスタンスを取り続けてきた。現在では私はさらに「ファシスト」に転じているし、公式サイトのあれこれの文章を読んでもらえば分かるように、社民党みたいなのが一番の敵だとまで考えているから、なおさら「社民党議員・保坂」に対しては否定的である。
 が、一方で私は今なお、「保坂チルドレン」の一人であることを否定しないし、もっと云えば私こそは保坂の唯一正統な後継者であると自負してさえいる。むろん、リベラル転向前のラジカルな保坂路線の、という意味である。喜納昌吉と意気投合するなど、もともとセンス的にぬるい面はあったにせよ、保坂がいよいよダメになるのは80年代半ば、「土井たか子を支える会」に、保坂と同じく80年代前半の若い社会運動の優秀なリーダーの一人であった辻元清美や、こちらはそもそもどーでもいいフェミ系弁護士の福島瑞穂らと共に結集して、議会政治の世界の住人となってからである。そうなる前の保坂なら、90年に当時の私たち“反管理教育運動最左派”を自任する小集団が展開した「子どもの権利条約」批判もよく理解できたことだろう。
 そんなわけで私は「ダメになってからの保坂」しかリアルタイムでは知らない。それでも私の原点には「保坂体験」があるし、若い社会運動の一時代を築いた先輩としてずっと尊敬の念を抱き続けてもいる。もはやまったく支持できないし、かつての仲間(山本夜羽音とか)がその後も保坂の選挙運動を手伝っているのを目の当たりにするとケッとも思うが、しかし「革命家としては終わった人」の「余生」としては、保坂の現在もまあ、温かい目で見てはいたつもりだ。
 だから今回の落選を本当に残念に思う。
 もっとも過去に二度もヘンな当選の仕方をした人である。一度目は小選挙区で供託金を没収されながら比例で復活当選して、問題視されて以後そんなことが起きないようにと法改「正」を招いた。二度目は前回の衆院選で、自民党が勝ちすぎて比例の名簿掲載者が足りなくなり、代わりに社民党の保坂が当選した。そんな愉快なエピソードを聞くたびに、やはり保坂は今なお「革命の神様」に愛されているのだなと楽しい気分になった。
 今回だって分からない。当選した対立候補の石原伸晃が急死でもすれば、保坂が繰り上げ当選である。社民党がもう1議席増やそうが、石原伸晃がいなくなろうが、どうせ大勢には何の影響もないんだから、いっそそうなればいいのに。
 ま、究極的にはどーでもいいんですけどね。

  犯罪者の人権 2009年09月02日(水)

 「犯罪者の人権こそが最も尊重されるべきだ」などと云うと、多くの人が「なんという極論か」と感じるだろう。だが、これは極論でもなんでもない、ただの「正論」である。
 例えば私が仮にAさんという人を殺したとする。この時、私はAさんの人権を侵害したことになるだろうか。
 「なる」と思う人は、そもそも人権とは何かということが根本的に分かっていない。
 人権とは、国家権力と個人との間にのみ発生する問題である。諸個人の人権を侵害する(可能性がある)のは国家権力のみであり、一民間人にすぎない私が何をやろうが、他の個人の人権を侵害することは原理的にできない。人権という概念の定義上、そうなのである。
 近代の国家権力は、諸個人の人権を最大限に尊重しなければならない。逆に云うと、国家権力は、諸個人の人権を最小限にしか侵害してはならないということでもある。例えば近代国家は諸個人の「職業選択の自由」を認めながら、一方で医師になるには国家資格を必要とし、つまり誰もが自由に医師になる権利を侵害しているわけだが、これには合理的な理由があり、だからこの人権侵害は「最小限」のものとして容認されるように、容認されるべきだし実際に容認されている最小限の人権侵害の例は他にいくらでも挙げられよう。
 犯罪者に対する人権侵害も同じだ。身柄を拘束されることをはじめ、犯罪者は国家権力によってさまざまの人権を侵害されるが、それ自体は国家資格を持たない人が医師になれないのと同様、合理的で容認されるべき人権侵害である。ただし、あらゆる人権侵害のうち、犯罪者に対しておこなわれるそれが最も大きくなるがゆえに、あらゆる人権の中で犯罪者の人権が最も尊重されるべきなのである。
 もっと分かりやすく云えば、犯罪者の人権さえもが最大限に尊重されている国では、他の一般の諸個人の人権はさらに最大限に尊重されているはずだということだ。
 犯罪者の人権が侵害されるのは当たり前なのである。他の誰よりも、犯罪者の人権は国家権力によって侵害される。だからこそその合法的な最大限の人権侵害がどの程度に抑えられているかということが、その国の人権状況を測るバロメーターとなるのである。
 先進国の中では(人権問題を中国や北朝鮮などの野蛮な後進国と比較しても無意味だろう)、間違いなくわが国のそれが最悪である。「加害者の人権ばかり尊重して云々」という人が多いが、何の根拠もないデマである(そう云う人の多くが「それに比べて被害者の人権は云々」と続けるわけだが、云うまでもなく「被害者の人権」なんてものはない。被害者は少なくとも第一義的には国家権力と対立関係にはないからである。「被害者の人権」などと口にすることそれ自体が、ほとんどの場合、その人が人権の概念をまったく理解していないことをさらけ出している)。
 裁判員制度批判をするつもりで書き始めたのだが、長くなってきたのでそれはまた別の機会に。

  人権も法律も国家権力の側の問題 2009年09月03日(木)

 「人権を侵害できるのは国家権力だけであって、民間人が他人の人権を侵害することは原理的に不可能である」という前回の話がよく分からない人は多いだろう。
 例えばA誌に、Bさんに関する事実無根の誹謗中傷記事が掲載され、BさんがA誌を名誉毀損で訴えたとしよう。Bさんが雇った弁護士は、訴状に「A誌はBの人権を侵害した」というふうに書くだろう。が、むろんA誌は国家権力ではないので、A誌が何をしようと誰の人権も侵害したことにはならない。
 正確には、国家権力がA誌の不正義な行為を放置することは、国家権力がBさんの人権を侵害することになる、ということである。いちいち正確な云い回しをするのは煩雑になるので、弁護士がもし「A誌はBの人権を侵害した」と書くとしても、それは便宜的にそうしているだけだ。
 もっとも近年あらゆる領域の日本人の知性は劣化しているので、法曹が人権という概念を必ずしも理解しているとは限らず、単に無自覚にそう書いてしまう弁護士も今や大勢いるような気もする。法律とは何かということさえまったく分かっていない法曹だっていっぱいいるからなあ。
 別のところでも書いたが、法律を守らなければならないのは徹頭徹尾、国家権力の側であって、だから民間人に「遵法精神」などというワケの分からないものを要求する物云いは、たとえそいつが法律の専門家ヅラしていたとしても、まったく素人同然なのである。
 ヘタに勉強した奴にかぎって、「憲法は国民が国家に対してする命令であり、法律は国家が国民に対してする命令である」なんて妄説をしたり顔で説き始めたりする。バカバカしい。
 例えば刑法の殺人罪の条文を見てみるがよい。「人を殺してはいけない」とは一言も書いていない。「人を殺した者に国家権力はこう対処する(何年以上の懲役もしくは死刑という刑罰を科す)」と書かれている。だからこの条文を守ったり破ったりすることができるのは、国家権力の側だけである。
 憲法も法律も、国家が(より打倒されにくい存在であるために)国家自身に対してする命令であると考えなければ論理的に破綻する。「万人が万人に対して狼である」ような状態を脱するために人々が意思一致して国家権力の登場を要請したようないわゆる「社会契約」なんてものは事後的に作られたフィクションでしかなく、あらゆる国家権力はその出発点において単なるヤクザだからである。しかしあんまりヒドいことをすれば打倒されるので、より打倒されにくい運営方針の試行錯誤があり、その積み重ねの上で、近代の国家権力は、国民全員に「基本的人権」なるものがあると想定し、それを最大限尊重するという方針を採用することが常識的になったという、ただそれだけのことである。
 物事を論理的に突き詰めて考える能力があれば、法律とか人権とかについてことさらに勉強しなくても、私と同じ結論にしか至らないはずである。

  さっすがスガ氏 2009年09月04日(金)

 『en-taxi』誌でのスガ秀実の連載「タイム・スリップの断崖で」は毎号熟読しているのだが、掲載誌が季刊なので刊行のタイミングがよく分からず(もちろん決まった刊行月があるのだが、「毎週何曜」とか「毎月末」とかと違って生活のリズムと合わない)、気がついたらとっくの昔に最新号が出ている、ということが多い。今回もそうで、たぶん6月末に出ていたものを、昨日やっと入手して読んだ。
 するとスガ連載ではまず裁判員制度について(もちろん批判的に)触れてあり、その関連で「フィクションとしての社会契約説」への言及もあって、なんか私が昨日ここに書いたことをその低レベルな受け売りのように思った人もあるかもしれないと焦った。
 しかしさっすがスガ氏はうまいこと分析してくれる。
 もともと近代においては、国家権力と諸個人との間に市民社会という緩衝地帯が存在していた。社会契約によって国家に自らの権利を譲渡した諸個人は、選挙などの間接的な方法以外では国家権力に関与せず、企業や労働組合やさまざまの自治的組織といった「(国家と諸個人との)中間団体」がせめぎ合う市民社会の成員であることをとおして、国家権力にこれまた間接的に関与してきた。が、「『一九六八年』と『ネオリベラリズム』という左右双方からの圧力」によってそれら「中間団体」が解体され、したがって市民社会という緩衝地帯そのものが消失することによって、諸個人が国家権力に直接関与するしくみが求められ、裁判員制度もその一つである。しかしこれはホッブズ的な社会契約説からすれば、諸個人が国家に譲渡したはずの諸権利を取り戻すという意味で、社会契約以前の「万人が万人に対して狼」である自然状態(戦争状態)への後退であるはずだ。という話。
 で、それをふまえた上で、昨今の左派の諸運動はどうもこの「失われた市民社会」の回復を要求するという性質を持っており、しかしそれは「一九六八年」の意義や必然性を理解しないアナクロニズムであって、本来もくろまれるべきは、露呈した「戦争状態」に対応する「戦争機械」(というのがまた一般向けには解説が必要な現代思想用語なんだが)として自らを形成していくことではないのか、という左派批判が展開されている。
 いやもうまったくそのとおりですね。私のヘタクソな要約で興味を持たれた諸君にはぜひ原文にあたってもらいたい。
 それにしてもスガ秀実と笠井潔は、私の見るかぎりではほとんど同じことを云っているのに、どうもお互いソリが合わないらしい。表面的には両者の最大の違いは吉本隆明に対する評価で、前者は否定的で後者は肯定的な立場ではあるが、しかし笠井は吉本を自分が解釈したいように解釈しているだけで、そこから導き出される笠井自身の立場はスガのそれとほとんど変わらない。笠井言説の圧倒的な影響下で形成された私の全共闘イメージも、スガ言説によってますます強化されるばかりで、とくに齟齬はないし。

  犯罪は減ってるのに厳罰化、という論法 2009年09月05日(土)

 今さらながら先月22日に熊本でおこなわれた森達也氏の講演について思うところを。
 森氏もまた昨今の厳罰化傾向を深く憂慮している。森氏によれば、現時点で厳罰化の傾向が著しいのは先進国では英米と日本だけなのだそうである。しかも、英米では犯罪の増加を受けての厳罰化であるのに対し、日本は、べつに犯罪は増加傾向にないのに厳罰化だけが進むという奇妙な事態になっているという。
 少なくとも日本の治安が今なお良いことは、森氏にかぎらずいろんな人が指摘している。「凶悪事件が多発している」という印象を持つ人が多いだろうが、実際には例えば殺人事件の発生件数は減る一方らしい。そして殺人事件の大半は(今も昔も)近しい血縁関係の中で発生しており、見知らぬ他人に殺されるケースはやはりそんなに多くないという。それなのになぜ事実と逆の認識が一般化しているかといえば、単にマスコミの報道姿勢が変化したためにすぎない。全体の数は減っているのに、1件1件が大きくしかもセンセーショナルに取り上げられるので、世の中とんでもないことになっているかのような錯覚が拡がるのだ。このあたりのことは、例えば浜井浩一・芹沢一也『犯罪不安社会』(光文社新書)などに詳しく書いてある。
 ウィキペディアに載ってる表を見ると、戦後の日本で殺人事件が一番たくさん発生したのは1954年で3000件以上、人口あたりの発生率も同じく54年が最悪である。逆に一番少なかったのは07年までの統計ではまさにその07年で、発生率についても同じである。
 54年といえば高度経済成長以前で、敗戦による混乱も続いており(経済白書の有名なフレーズ「もはや戦後ではない」が56年)、要は日本がまだ貧しかった時代である。発生率で人口10万人中2件(「2人」かな、つまり被害者数が)を下回るのが70年で(ちなみに最悪だった54年は「3.49」)、「1」を下回るのが91年(前年にバブルは崩壊したが、まだ不況でもない頃)。つまり生活が豊かになるほど犯罪は減る、という分っかりやすい話である。その後はずっと「1」の前後で微増微減を繰り返しており、前述のとおり07年が「0.94」で一番低い。
 で、「治安は悪化してない(むしろ逆である)のに、マスコミが不安を煽った結果、厳罰化に走っている日本の状況はおかしい」という森氏の主張は筋がとおっているわけだが、しかしこういう論法は危険だと一方で感じた。
 というのも、そう遠くない将来、治安はまた事実としても悪化し始めることが容易に予測されるからである。「豊かな時代」はもうとっくに終わっている。経済状況はヒドいのに犯罪が少ないのは、いわゆる「ロスジェネ」世代の貧困層、低賃金の若年労働者やニートや引きこもりの多くが、まだ親の収入や貯蓄に依存でき、いよいよ切羽つまっていないからである。もちろん、この状況はあと数年しかもたないだろう。
 犯罪が再び増加傾向に転じると、森氏のような論法は説得力を失ってしまう。

  そして無数の麻生を! 2009年09月06日(日)

 云うまでもなく、私は大麻解放論者である。
 過去(10年以上前)には時々吸っていた時期もある。現在はやっていない。2、3年前に誘われた時には断った。そうそう捕まりはしないだろうが、万が一ということもある。必ず革命をやりとげる決意をした以上、小さいことで捕まるのは避けたい(一昨年、軽微な交通違反で捕まった時には、どうせ1、2ヶ月で出られると分かっていたから、国家権力をからかうパフォーマンスの機会として利用したまでだ)。
 ともかく経験上からも、大麻には中毒性はないと感じるし、また健康への悪影響も、あるとしても酒やタバコ以下だといろんな人が論じている。ということを裁判で述べた被告が、裁判官から「バカ」呼ばわりされたというニュースが春ごろあった。革命ってのはこのテの「権力を持ったバカ」どもを次々と血祭りに上げていくことであるが、まあそれはどうでもよろしい。
 最近、どこそこで大麻畑が発見された、というニュースが多い。
 で、思うんだが、大麻の種子を所持していることは別に犯罪ではないらしい。鳥の餌などに含まれており、規制が難しいからとのことである。しかし、栽培するのは犯罪らしい。正確には、大麻栽培免許というのがあり、だから無免許で大麻を栽培することが犯罪とされている。
 しかし大麻の種子をそこらへんに「捨てる」ことはどうなんだろう。
 大麻というのは育ちやすいと聞く。全然世話をしなくても、勝手にどんどん成長するらしい。
 「収穫」しようとするから捕まるのではないか。種さえまけば勝手に育つんなら、そこらへんの公園とか土手とかに手当たり次第にバラまいて、そのまま放置するという「運動」が可能な気がする。もちろん、いったんバラまいた場所には戻らない。「どーなってるかなあ」などと様子を見に行ったりしない。気になっても、ガマンする。結果を確かめに行くぐらいなら、新しく別の場所にバラまきに行く。
 これもやっぱり犯罪になるんだろうか。種を所持していること自体は犯罪ではないわけだし、その「所有権」を放棄すること自体もまた犯罪ではなかろう。空き缶なんかと違って自然に還るものだし、もともと自然界に存在するものなのだから、そこらへんに捨てて悪いということもあるまい。
 問題は、「栽培」とは何かということだな。世話はしないのだし、「収穫」する意思もないのだとしたら、それは「栽培」ということになるんだろうか。
 大麻があちこちに生えてたらと想像するとオカしい。実際、「麻生」なんて地名が各地に残っているように、もともとはそこらへんに普通に生えてたものらしい。
 私は単に思いつきを云ってるだけで、実際には大麻の種子をそこらへんに「捨てる」こともまた犯罪とされているのかもしれない。詳しいことは調べてないし、メンドくさいので調べる気もない。「教唆した」なんてことになると困るので、もし実行に移す場合には自分でちゃんと調べてからにしてもらいたい。